神異経を読もう!神異経を翻訳してみた。

神異経は中国の古代神話を編纂した古書で一巻、四十七条からなります。内容は山海経に似ていますが、山海経よりもかなり短いです。また、山海経よりもファンタジーの要素が強く見られます。

神異経は東荒経、東南荒経、南荒経、西南荒経、西荒経、西北荒経、北荒経、東北荒経、中荒経の九章からなります。題名も山海経に似ています。

神異経は以前は漢東方朔撰と言いました。書物中には多くの神話が書かれており、東王公、窮奇、崑崙天柱、扶桑山玉鶏などが記載されている価値ある神話資料となっています。

山海経の概要に関しては以下をご覧ください!

山海経:中国の妖怪はここから来ている!妖怪のネタ帳として有名な山海経

山海経のその他の翻訳に関しては以下をご覧ください!

山海経翻訳まとめページ

神異経の成立時期は東漢末年に服虔が《左伝》に注釈を加えており、この注釈中に神異経が引用されています。則ち神異経は東漢末年以前に書かれたことになります。神異経の作者は神異経の旧名である漢東方朔撰にも使用されている漢代の東方朔(とうほうさく)であるとされています。

  • 東荒経

東荒山中には大石室があり、東王公が住んでいた。身長は一丈で頭髪は真っ白で、人の体をしていたが頭部は鳥で虎の尾を持っていた。黒熊を載せ左右を顧み望み、常に玉女と投壺遊びをしていた。一投ごとに千二百矯で、入ったが出ない者を天は嘆き、矯が出たが外して入らない者を天は笑った。

東方に人がいた。男は皆朱の衣を着て縞の帯を巻き、冠をかぶっていた。女は皆彩衣を着て男女とも可愛らしく、常に恭しく座りお互いに傷つけず、お互いを褒め合い貶めることはなかった。苦しんでいる人があれば、命を以てこれを救った。名を善人といった。別名を敬と言い、美とも言い、妄言を言わず笑った。一見すると痴のようであった。(俗に言う善人は痴の如きとはこのことを言う。)

東方荒の外に豫章(樟木)があり九州に広がっていた。その高さは千丈、周囲百丈、根の高さは三百丈で枝があり帳のように広がっていた。その上には玄狐(黒い狐)や黒猿が住んでいた。枝は一州に広がり南北に伸びており西南を向いていた。九力士がおり斧を持って戦い以て九州の吉凶を占った。斬って勝利するとその州は福となり、敗者の州には疫病が発生した。長年勝てない者の州は滅亡した。(九州とは黄帝もしくは顓頊が中原を九つの州に分けたことに由来しています。日本の九州ではありません。)

東方に桑樹があり高さ十丈で自分を支えるように伸びていた。その葉は長さ一丈、幅六、七尺でその上には蚕がいた。その繭は長さ三尺あり、その繭から糸を紡げば一斤の絹を得ることが出来た。椹(さわら)があった。長さ三尺五寸で周囲は同じくらいであった。

東方に樹があり高さは百丈で枝葉は全て支え合っていた。葉は長さ一丈で幅は六尺であった。樹の名は梨と言い柤梨のようで、その樹は特に大きかった。種子の直径は三尺ほどあった。割ってみるとその中には瓜綿は少なく、さらに瓜綿は絹のように白かった。瓜綿を湯に入れて飲むと地仙になることが出来、衣服は永遠に朽ちず、物を食べる必要がなくなり、水や火を恐れなくなるという。

東方に樹があり、高さ五十丈で葉は八尺で名を桃と言った。その実は三尺二寸でその種を茹でて食べると寿命が延びると言う。種子の中身を食べると咳が治ると言う。

東海の外荒海中に山があり炎が燃え上がり切り立っており、謎に包まれていた。海水の激しい波がその上に打ちつけ、炎はついたり消えたりするが尽きず、昼夜問わず続いていた。それはまるで鼎から沸騰してこぼれ落ちるようであった。

大荒の東極、鬼府山に到り、腕は沃椒山、足の巨洋海中から海日を戴き昇った。扶桑山の上には玉鶏がおり、王鶏が鳴けばすなわち金鶏も鳴き、金鶏が鳴けばすなわち石鶏も鳴き、石鶏が鳴けばすなわち天下の鶏が鳴き、全てが鳴くと潮水が応じた。

東海の滄浪洲に強木が生えていた。洲人の多くはこれを用いて舟と楫(かじ)を作った。その上で多くは珠玉で遊び、無くなると負けであった。その木は一寸四方で百斤以上を支えることが出来き、縦石でこれを固定していた。

東方荒に木があり、名を栗と言った。殻があり三尺三寸であった。殻にはとげがあり一丈余りで実の大きさは三尺ほどあった。殻は黄色でその味は甘くこれを多く食べると人を短期にし喉を乾かせるという。

東方裔外に建山があり、その上には橘柚が多くあった。

  • 東南荒経

東南方に人がおり、天下を隈なく走ることが出来た。その身長は七丈あり、腹の周囲はその身長と同じであった。鷄父魌頭を頭に載せ、紅色の衣服を着て縞の帯を巻き、赤蛇を額に巻き尾と頭を合わせていた。水を飲まずに飯も食わず、早朝に三千の悪鬼を呑み込み、暮には三百呑んだ。この人間は鬼を食料とし、露で飲み物を作った。名を尺廓と言い、またの名を食邪と言った。道士は呑邪鬼と呼んでおり、別名を赤黄父とも言った。今の世で言う黄父鬼であった。

東南大荒の中に邪木という木があり高さ三千丈で、太さは十余圍で七、八尺あった。その枝や幹は上を向いており雲の下部まで達し、まっすぐで動かなかった。その葉は甘瓜のようであった。二百年で葉が落ち尽くし花を咲かせた。華は甘瓜のようであった。再び二百年かけて花が落ち尽くすと子房が膨らみだす。やがて果実をつけると三年で成熟する。成熟した後は大きくもならずかといって小さくもならない。果実の形状は寒瓜のようであり、冬瓜に似ている。果実の長さは七、八寸で周囲は四、五寸であった。花は果実の頂上から再び咲き、その花からもさらに果実が出来、さらに長期間かけて成熟した。この果実はもしも取り去らなかったら、万世変わらず。もしも果実のみを取り去ったら実は再生するが、この場合も成熟には長い時間を必要とする。再び二年かけて花が咲くと再び実を結ぶ。その果実は甘瓜の瓤(うりわた)のようで味は甘くその実を食べると全身のうるおい光沢を帯びるという。多く食べることはできず、食べ過ぎると酔ってしまい、半日は目が覚めない。この木は特別に高く、普通の人間であれば摘み取ることはできないが、この木の下に住んでいる多羅人はこれを得ることが出来る。またの名を無葉と言うが、これはいまだかつてその葉を見た人間がいなかったからであった。またの名を綺驕と言った。それは人々はその木に葉が無いことを見たために綺驕と呼んだ。

東南隅大荒の中、樸父がいた。夫婦共に千里の高さがあり、腹の周囲は自分を支えていた。天が初めて作られたとき、その夫婦を使って百川を開いたが怠け者であった。これを咎め、東南に並び立たせた。男女とも陰部を露わにしていた。飲まず食わず、寒さ暑さも畏れず、ただ雨露だけを飲んだ。黄河が澄むのを待ち、再びその夫婦を使い百川を護り導かせた。古の者が初めて立ち、この人が河を開き導いたが、河はある所は深くある所は浅く、ある所は広くある所は狭く、故に禹により治水がなされ、水が正常に流れるようになった。天はその夫婦を責めこれを立たせ、黄河を清くした者は即ち河と海との間に分水路を作ると水は自ら清くなった。(分水路は応龍が尾で地面を掃くことで作られました。)

禹に関しては以下をご覧ください!

禹:黄河の治水を成功させた大英雄で夏王朝の建立者

応龍に関しては以下をご覧ください!

応龍(應龍):不死身の帝王である蚩尤を討ち取った中国最強の龍

東南海中に烜洲があった。洲には温湖があり、鰩魚がいた。長さは八尺でこれを食べると暑さに適するようになり、風や寒さを避けるという。北方に石湖があった。その水は常に赤かった。

東南に石井があり、その四方は百丈であった。上には二つの石の闕(望楼)があり、東南面には侠がおり、上面には熊がうずくまっていた。闕には地戸と書いてあった。

  • 南荒経

南方に犬がいた。人面で鳥の嘴を持ち翼があった。手足と翼を使い進み、海中の魚を食べた。翼があったが飛ぶことはできず、兜と言った。書には兜を崇山に追放したとある。別名を驩兜と言った。人に非常に悪を為し、風雨を恐れず禽獣を殺してしまった。

驩兜に関しては以下をご覧ください!

四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達

南方の人がおり、体長二、三尺で福は身に着けておらず目は頭のてっぺんにあった。風の如く走り、名を魃と言った。現れるとその国は大干ばつに見舞われた。別名を格子と言った。民衆の中で偶然これに会い厠中に投げ込むと即ち死に、旱災は消えた。詩には、旱魃が害をなしている。生け捕りにしてこれを殺すと禍は去り福が来る、とある。

旱魃に関しては以下をご覧ください!

旱魃:美しい女性から恐ろしいキョンシーにまで変わってしまった悲劇の天女

南荒外に火山があり、その中に不尽の木が生えていた。昼も夜も火が燃えており、暴風でも燃え上がらず、豪雨でも消えることはなかった。

南方大荒の中に樹があり、名を柤稼柩と言った。柤は柤梨、稼は株稼、柩は親昵であった。三千歳で花を咲かせ、九千歳で実を結んだ。その蕾は紫色でその実は赤かった。高さは百丈もしくは千丈であった。自分を支えるように東西南北に枝が伸びており、枝はそれぞれ五十丈ほどあり、葉の長さは七尺、幅は五尺、色は青緑であり、木の皮は桂樹のようで樹液は甘草の如く味は飴であった。実は長さ九尺ほどあり、周囲は同じくらいであった。種は無く、竹刀で切ると蜜が凝縮していた。実を食べた後再び見ると実は元に戻っていたという。(再び見て実が熟していた者は一万二千歳まで寿命が延びるという説もあります。)

南方大荒に樹があり、名を如何と言った。三百歳で花を咲かせ、九百歳で実を結んだ。華の色は朱で、その実は黄色であった。高さ五十丈、枝は蓋のように広がっていた。葉は長さ一丈出幅二尺であった。菅苧に似ており色は青く、厚さは五分で厚朴(こうぼく)のようで衣服の材料としても使用でき、九つの実を結ぶ。実の味は甘く、種があり形状は棗のようであった。朱氏は五尺ほどあり。周囲もまた五尺ほどであった。金属の刃を使って切ると酸っぱく、芦で作った刃で切ると辛かった。それを食べると、天には昇れないが不老長寿であるという地仙になり、水火を恐れずに兵の刃も恐れないという。

南方大荒の中に涕竹という竹があった。高さ数百丈で周囲三丈六尺、厚さ八、九寸であり舟の材料として使用することが出来た。そのたけのこは大変美味しく煮て食べると悪瘡の治療に良い。

南方の山中に甘蔗(かんしょ:サトウキビ)の林があった。その高さ百丈で周囲は三尺八寸であった。一節一節は長くなかったが汁が多く甘さは蜜のようであった。噛んで出た汁を舐めると人に恵みを湧きださせるという。蛔虫の駆除にも効果がある。人の腹にいる蛔虫の形状はミミズのようであり、これは消化中の穀物を養分にする虫である。多くは人を傷つけ、少量の穀物は消化が難しい。この甘蔗は蛔虫の多くを滅することが出来、蛔虫が増加することは少ない。この甘蔗はこのようなものであった。

不尽木火中に鼠がおり、重さ千斤で毛の長さは二尺余り、細く絹のようであった。火の中にいたので赤く、時々外に出た。すると毛は白く水をかけると死んでしまった。その毛を取り紡いで布にすると汚れても火にくべると白く綺麗になったという。(火鼠の事を言っていると思われます。)

南方にいる蚊の翼の下に蜚虫がいた。目が良いものはこれを見ることが出来た。毎日卵を九個産んだ。常にはおらず卵がかえり九子が生まれた。蜚は去り蚊は遂には知らず。人を食う者と百獣がいた。食者は言虫を知っており、小食人は去らなかった。この虫は細く短いことに因み細蠛と言った。陳章と斉の桓公が話していた小虫がこの虫であった。この虫は常に春に生まれ、夏には鹿の耳の中で成長した。名を嬰愧と言い、細くて小さかった。

南方に獣がいた。鹿の胴体に猪の頭部でよく人に五穀を求めた。名を損獣と言った。人がその肉を割いても病気にはならず。肉は再生した。その肉は鮓(塩漬け)にもでき、大変美味しい。咋肉は腐らず呑もうとしても入らなかった。肉は尽きなかったのでまた初めのように鮓を作り、美しく元どおりになり、名を不尽鮓と言った。

南荒の外に火山があり、長さ四十里で幅五十里あった。その中の至る所に不烬の木が生えており、その中には火鼠が生きていた。

火鼠に関しては以下をご覧ください!

鼠の妖怪もいっぱいいる中国の鼠の妖怪特集:獐鼠、火鼠、驢鼠

南方に銀山があり、長さ五十里で高さ百余丈であり悉く白銀であった。

  • 西南荒経

西南大荒中に人がいた。体長は一丈で腹の周囲は九尺で、足には亀蛇を踏み、朱鳥を戴き、右手は青龍にのせ左手は白虎にのせていた。河と海の大きさを知り、山石の数を知り、天下鳥獣の言語を知り、百穀の可食を知り、百草木の塩苦を知っており、名を聖と言い、別名を哲、または賢、または無不達と言った。拝む者にを神智にした。この人物は天下の聖人で、別名を先通と言った。

西南方に人がいた。体には毛が多く頭上には猪を載せていた。財を積むことを好み、人や穀物は食べなかった。強者は老弱者から奪い、大人数を恐れ単独を襲った。名を饕餮と言った。春秋で言う饕餮は縉雲氏の不才の子である。別名を貪惏と言い、強奪とも言い、凌弱とも言った。この国の人は皆饕餮のようであった。

饕餮に関しては以下をご覧ください!

四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神

西南荒中に訛獣がおり、その形状は兎のようであり、人面でよくしゃべった。常に人を欺き、東と言うと西であり、悪いというと善であった。その肉は美味しく食べると真実が言えなくなるという。名を誕と言った。

  • 西荒経

崑崙山の西に獣がおり、その形状は犬のようであった。毛は長く四足で羆に似ているが目は見えず、進もうとしても足が開かなかった。二つの耳はあるが聞こえず、人が通っていることは分かった。腹はあるが五臓はなく、腸は巻いておらず食物は腸をそのまま通過した。徳のある人が入れば行って牴触し、凶人がいれば行ってこれに憑依する。自然にそうであり、名を渾沌と言った。春秋で言う渾沌は帝鴻氏の不才の子である。空虚無為で常にその尾を咬んでおり、回転して天を仰ぎ笑った。

渾沌に関しては以下をご覧ください!

四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神

西荒中に獣がいた。外見は虎のようで犬の毛があり、毛の長さは2尺で、人の顔をしており、足は虎で、口や牙は豚で、尾の長さは1丈8尺あった。荒中を撹乱し、名を檮杌と言った。別名を傲狠と言い、または難訓とも言う。春秋で言う顓頊氏の不才の子の檮杌はこれである。

檮杌に関しては以下をご覧ください!

四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神

顓頊に関しては以下をご覧ください!

玄帝顓頊:中国史上初の国家である夏王朝につながる礎を築いた偉大なる帝

西荒中に人がおり、顔も目も手足も皆人形で、腋の下に翼があったが飛べなかった。饕餮であり、淫逸で理は無く名を苗民と言う。春秋で言う三苗で、書に言う三苗を三危に流すである。

三苗に関しては以下をご覧ください!

四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達

西荒中に人がいた。大きさは人くらいで破れた衣を纏い、手には虎の爪があった。名を獏と言った。一人でいる人間を伺い、いつも人の脳を食べた。さらに巻かれた舌は一丈余りあり、人が先にその声を聞いて焼けた大石をその舌に投げると則ち気絶して死んでしまい、そうでなければ人の脳を食べた。(傲因とも言います。)

西方日官城の外に山があった。その長さは十里余りで幅は二、三里で高さは百丈余りあり、全ては黄金でできていた。その色は特別に美しく泥や砂などは混じっていなかった。草木は生えなかった。山上には金人がおり、高さは五丈ほどで全身は純金でできていた。名を金犀と言った。山に入り一丈ほど下に銀があり、さらに一丈ほど下には錫があった。さらに一丈下には鉛があり、さらに一丈下には丹陽銅があった。丹陽銅は金のようで鍛錬すると鑲嵌塗飾器具の原料となった。淮南子にある”丹陽銅の中に餌を混ぜると金に変わる。”とありこれと同一であると言う。

淮南子に関しては以下をご覧ください!

淮南子:不思議な生き物についても書かれている西漢時代の思想書

西荒中にいる獣は虎のようで毛の長さは三尺で人面虎足で牙は一丈八尺であった。人を食べ獣と戦っても退却はせず生きるか死ぬかであった。荒中の人はこれを網で捕らえようとしたがずる賢いため前もって知った。名を倒寿と言った。

西方の深い山中に人のような人がおり、身長は尺余りで裸で蝦や蟹を捕っていた。性格は人を畏れず、人を見て近寄り、人が日暮れに熾す火に寄り蝦や蟹を炙った。人がいないと塩を盗みその塩で蝦蟹を食べた。名を山臊と言った。その声は自分の名を言っているようであった。人が竹でたき火をしている時、竹が爆ぜると山臊は皆驚き畏れた。これを犯すと人に発熱と悪寒をさせた。これは人形であるけれど変化しており鬼魅の類である。今ある山の中には皆これがいる。

山臊に関しては以下をご覧ください!

山臊:焚火に寄ってきて捕まえた蟹を焼いて食べだす山の妖怪

西海水上に人がおり、白馬に乗り朱色の鬣があり白い衣に黒い冠を載せ、十二童子を従えて西海海上を馬を馳せ、飛ぶが如く風の如く、名を河伯使者と言った。ある時岸に上がり、馬の跡が及ぶ所まで水がやってきた。その国には雨水があふれ、暮れには河で囲まれた。

河伯に関しては以下をご覧ください!

河伯:黄河を統べ河伯娶婦と言う悪しき風習の元凶となってしまった水神

西海の外に鵠国があった。男女は皆七寸で、人に対して自然で礼儀正しかった。経書を好み跪拝の礼を知り、三百歳まで生きるという。飛ぶように進み、日に千里を行き、百物は誰もこの人々を傷つけなかった。この人々は海鵠を恐れ、海鵠を過ぎると飲み込まれたが、三百年ほど生きた。この人々は海鵠の腹の中にいても死なず、海鵠も一日に千里を飛んだという。(陳章と斉の桓公が話していた小人はこの人々のことである。)

西方に山があり蛇がいた。頭と尾の大きさは偏っており、身体には五色あった。人がその身体を触る際に、尾から頭部へと触ると打たれ、頭部から尾へと触ると咬みつかれ、その中間を触ると頭部と尾で同時に打たれた。名を率然と言った。(この種の蛇は会稽付近の常山上に最も多くいた。古の孫子兵法で言う、”三軍の形勢は率然の如きである。”という率然とはこの蛇のことである。)

  • 西北荒経

西北に獣がいた。形状は虎のようであり翼を持ち飛ぶことが出来た。人の言語を知り人の争い声を聞くとたちまち正直者を食べ、忠信を聞くとたちまちその鼻を食べた。悪逆不善を聞くとたちまち獣を殺してこれを与えた。名を窮奇と言い、また諸禽獣を食べた。

窮奇に関しては以下をご覧ください!

四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神

西北荒に人がおり、人面朱髪で、蛇身で人の手足があり五穀と禽獣を食べた。貪悪愚頑で名を共工と言った。書にある共工を幽州へ流すである。幽州は北裔である。また西北と言うと方向は近く、皆西裔の族である。

共工に関しては以下をご覧ください!

四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達

西北荒中に玉饋酒があり、酒泉から注がれていた。酒池の幅は一丈、深さは三丈あり、酒は美しく肉のようで、透き通っており鏡のようであった。酒池上には玉石酒杯と玉石の盤があり、一杯の酒を注ぐと池の中から一杯湧き出し、酒池と上天寿命は同じであり涸れることはなかった。石の脇には干し肉があり、味は獐鹿(のろじか)の干し肉のようであった。この酒を飲むと人の生死は無くなるという。遺灑と言った。その干し肉は追複と言い、一片食べると一片戻るという。

西北荒中に二つの金の闕(望楼)があり、高さ百丈で金闕銀盤で、周囲は五十丈であった。二つの闕は百丈離れており、上には明月珠があり、直径三丈で二千里を照らしていた。中には金の階段があり、西北から両闕中に入ることが出来、名を天門と言った。

西北荒中に小人がいた。高さは一寸しかなかった。彼らの国君は紅の衣を身に着けていた。頭には黒い冠を被り、馬のひく大きな車に乗っており十分厳粛であった。人が偶然にも車に乗る小人国の皇帝に出会い、彼をつまみ上げて食べるとその味は辛く、その後はどんな物も恐れず、並びに各種の物の名前を記憶でき、さらに人の腹の中にいる三虫を殺すことが出来たという。三虫が死ぬので仙薬として服用できる。

また、西北海外に人がおり、長さ二千里で両足の中間は千里あり腹の周囲は千六百里であった。一日に天酒を五斗呑んだ。五穀魚肉を食べず、ただ天酒を飲むだけであった。山海の間を遊ぶことを好み、百姓を傷つけなかった。万物を干さず、天地と同時に生まれ、名を無路の人と言った。別名を仁、または信、または神と言った。

  • 北荒経

北方荒中に棗林があった。高さ五十丈で、数里に渡り枝が張りめぐらされていた。疾風でもその木を傾けることはできず、雷もその木を傷つけることが出来なかった。その果実は長さが六、七寸で周囲はその長さを越えていた。成熟した果実は朱紅色であった。陽に晒して乾燥させても縮まず、気味は潤沢であり通常の棗と大差はなかった。食べると体が休まり気に良いという。方士の書にあるものはこれである。赤松子は、”北方の大棗の味は特殊で鋭気を養いまた体を安んじることが出来る。”と言った。北方荒中に石湖があり、周囲千里あった。湖岸には五丈余りの厚さの氷があり長期間凍結したままであった。ただ夏至の前後の六十日だけ解けたという。湖には横公魚がおり、体長七、八尺で鯉のようで紅色、昼間は水中で生活していたが夜になると人に変わるという。尖ったもので刺しても刺さらず、沸騰した湯で煮ても死ななかった。しかし、二つの烏梅果で煮ると煮え死ぬという。その魚を食べると邪病に効果がある。その湖には凹凸が無く、平常で波はたたなかった。

赤松子に関しては以下をご覧ください!(赤松子は雨師の事であるとも言われています。)

黄帝を苦しめた中国最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師

北方では厚い氷が万里四方を覆っていた。この氷の厚さは百丈あった。溪鼠の一種がおり、氷の下の土の中で生活していた。その外見は鼠で植物を食べて生きていた。重さは千斤あり、捕まえて肉脯(干し肉)を作ることが出来るが、食べた後には全身が発熱した。鼠の毛の長さは八尺ほどあり、布団を作ることができ、その上に寝そべると冷たく感じる。その鼠の皮は太鼓にも使え、その音は千里に響いた。その尾は鼠を呼ぶことが出来、尾がある所はどこでも鼠が集まっていた。(今の江南鼠は植物を食べて災いを為すが、これもこの類である。)

北海に大鳥がいた。その高さは千里であった。頭には”天”の字があり、胸の前には”侯”の字があった。左の腕には”鷖”とあり、右の腕には”勒”と会った。頭は真東を向き、海の中央に到ると魚を捕って食べた。羽をのばして飛翔すると、羽毛がこすれて雷と大風の様子と同じであった。

  • 東北荒経

東北荒中に木があり高さ四十丈で葉の長さは五尺、広さ三寸で名を栗と言った。その実の直径は三尺二寸で、その殻は赤く、その肉は黄白色で味は甘く、食べると人を短気にして喉を乾かせるという。

  • 中荒経

崑崙の山に銅の柱があった。その高さは天に届き、いわゆる天柱であった。周囲は三千里で削ってできたようであった。下には家屋があり、周囲は百丈で仙人九府がこれを治めていた。上には大鳥がおり、名を希有と言った。南を向いていた。伸ばした左の翼は東王公を覆い、右の翼は西王母を覆っていた。背の上には所々羽が無く一万九千里あった。西王母は羽の上に登り東王公に会った。故に《柱銘》には、”銅柱その高さは天に届き、周囲は削ったようで見た目は美しかった。”とあった。《鳥銘》には、”稀有と言う鳥がおり、煌々としていた。鳴かず食わず、東は東王公を覆い、西は西王母を覆っていた。王母が東に行きたいときには、登って背を通り行った。”とあった。

希有に関しては以下をご覧ください!

鵬:巨大すぎる鳥だがもともとは魚というカオスな神鳥

九府玉童玉女は天地と同じ時間休み、男女は夫婦とはならず、仙道となった。この男女の名は玉人と言った。

東方に宮があり、青石で壁を作り、高さは三仞で左右の望楼は高さは百尺であった。五色を使用して画かれた絵があり、門には銀榜(門の上にある宮殿名などを書いている板)があり、青石碧がちりばめられており、”天地長男の宮”と書いてあった。西方に宮があった。白石で壁を作り、五色黒黄で門には金榜があり銀がちりばめられており、天地少女の宮と書いてあった。中央に宮があり金で壁を作り、門には金榜があり銀がちりばめられており、天皇の宮と書いてあった。南方に宮があり赤石で壁を作り、赤銅で門闕を作り、銀榜があり天地少男の宮と書いてあった。西北に宮があり、黄銅で壁を作り、地皇の宮と書いてあった。

東方の裔外に東明山があり、青石で壁を作っていた。西方の裔外に大夏山があり、金で壁を作っていた。南方の裔外に岡明山があり、赤石で壁を作っていた。西南裔外に老寿山があり、黄銅で壁を作っていた。東南の裔外に闠清山があり、青石で壁を作っていた、西北の裔外に西明山があり、白石で壁を作っていた。皆宮があった。東北に鬼星石室があり、三百戸が一つの門を共有しており、門榜には鬼門と書いてあった。西南の銅関夾の門榜には人往門と書いてあった。東北の銅関夾の門榜には人来門と書いてあった。

南方に獣がいた。角や足の大きさや形状は水牛のようであった。毛皮は黒く漆のようで、鉄を食べ水を飲んだ。糞は兵器となり、その鋭さは鋼のようであった。名を噛鐵と言った。

鬼門は昼間には開かず、暮れに到ると即ち人の言葉があり、青火色があった。

西南大荒に馬がおり、その大きさ二丈で鬣は膝まであった。尾は地についており、蹄は丹踠のようで握ることが出来た。日に千里を行き日中に到ると血の汗をかいていた。乗るものは絮(真綿)を以って頭に纏い、風病を避けたが、彼国人は纏わなかった。(汗血馬のことだと思われます。)

北方の獣がおり、その形状は獅子のようであった。人を食べ、人を吹くと即ち病となった。名を㺊と言った。恒に人の村里の近くにおり、人家に入り百姓を苦しめた。天帝はこれを北方荒中に移動させた。

西方の深い山奥に獣がいた。顔も目も手足も毛の色も猿のようであった。体の大きさは驢馬ほどあり、高木をよく 皆雌で雄はいなかった。名を綢と言った。人に従い三度交わると子ができ、大きな道で男を無理やり引きずったという。塚の上で盗んだ果実や五穀を食べ、さらに三度交わると十か月後に子が生まれた。

不孝鳥、形状は人のようで犬の毛で歯があり、豚牙で額の上には紋様があり、不孝とあった。口の下にも紋様があり不慈とあった。背の上にも紋様があり、不道とあった。左の脇には文があり、愛夫とあった。右の脇にも紋様があり、憐婦とあった。故に天はこの異を立て、忠孝を顕にして与えた。

  • どの経か不明

八荒の中に毛人がいた。体長七、八尺で皆人形であった。体にも頭にも毛があり、猿のように見えた。毛の長さは一尺程でふわふわしていた。人を見ると目を閉じ、口を開いて舌を突き出し、上唇で顔の上部を覆い、下唇は胸の上部を覆った。人を食べるのを好んだ。彼らの間ではよく舌と鼻をお互いに引き合う遊びが行われていた。もし一方の下が伸びないと、相手はすぐに去った。この毛人は髯公と言い、髯麗とも言った。また、髯狎とも言った。幼少の髯公はよく人を驚かせた。

崑崙山の上には柰(カラナシ)があり、冬に種をつけ碧色で須玉井水でこれを洗うと食べることが出来た。

刀味核は南荒中に生えていた。形状は木で高さは五十丈、実は棗のようであり長さ五尺であった。金刀でこれを割ると則ち甘く、若竹刀でこれを割ると則ち飴であり、木刀で割ると則ち酸っぱく、芦刀で割ると則ち辛かった。これを食べると地仙になり水火白刃を恐れなくなるという。

出典:wiki

今回は神異経を翻訳してみました。全文揃っているサイトが見つからずにさらに太平広記の内容や引用などが混じっていると思われます。

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中国の神獣妖怪のまとめページ

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