禹:古代中国で歴史上初めて黄河の治水を成功させた大英雄で夏王朝の建国者

禹(う yu3 ユィ)中国の歴史はここから始まった

禹は姓を姒(じ)、名を文命、字を密と言います。中国の古代神話から中国史上初の王朝成立にかけての立役者であり、夏后氏の首領から夏王朝の君主となり大禹や禹帝などとも呼ばれています。この禹の存在を前後して神話と歴史が分けられると言っても過言ではありません。

禹が建国した夏王朝はまだ実在が確定していませんが、様々な遺跡の発掘結果から実在した可能性が非常に高いとされています。

禹は黄帝(こうてい)の玄孫で顓頊(せんぎょく)の孫と言われており、黄帝の血筋にあたります。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

顓頊に関しては以下をご覧ください!

顓頊:黄帝の孫で中国古代の国家である華夏王朝の始祖。

父の名は鯀(こん)といい堯帝(ぎょうてい)から于崇に封じられ、伯爵となりました。これにより崇伯鯀や崇伯と称されます。その母は有莘氏(ゆうしんし)の女で脩己(しゅうき)と言いました。禹は長年氾濫に苦しめられてきた黄河の治水を見事に成功させることで舜から帝位を継承されました。諸侯の見守る中で禹王として正式に即位し陽城を都として国号を夏としました。

一説によると、都になったのは平陽であり、安邑または晋陽にあったと言われています。これに並んで堯帝(ぎょうてい)の息子である丹朱(たんしゅ)を于唐に封じ、舜帝(しゅんてい)の息子の商均(しょうきん)を于虞に封じました。丹朱も商均も帝位を継ぐ資格があったにもかかわらず不肖の息子たちであったために帝位を禹に奪われてしまいました。

鯀に関しては以下をご覧ください!

四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達




禹は夏王朝の第一位の天子であり、これにより後世の人々は禹を夏禹と称しました。禹はその政治から同時代の舜帝や堯帝と並んで聖帝と称されておりますが、この中でも卓越した業績を残しています。中でも治水は最も有名であり、これにより洪水に悩まされずに民が安心して農業を営めるようになりました。さらに中原一帯を九州に分け、それぞれの州を象徴する鼎(かなえ)を鋳造させたと言います。後世の人々は禹を大禹と称え、禹の死後は会稽山(浙江省の紹興市の南にある山)に葬られました。会稽山には今でも禹廟や禹陵、禹祠などがあります。歴史が流れても歴代の帝王たちは大勢この会稽山にやってきて禹を祀っています。

  • 禹の生まれたときの環境と幼少期

諸説ありますが、禹は黄帝(こうてい)の玄孫であり顓頊(せんぎょく)の孫でした。出生地はよくわかっていませんが、一説によると汶山石紐地区や石拗などです。母は辛氏の出で名を女志と言いまたは脩己とも言いました。禹の父親は顓頊の息子で鯀(こん)と言い、幼少期に父親に連れられて中原にやってきました。父は堯(ぎょう)帝により于崇に封じられました。堯帝の時代中原ではたびたび洪水が起こり多大なる被害が出ていました。堯帝は鯀に治水を命じ鯀は治水工事を始めました。鯀の治水法は河の両岸に堤防を築くというものでしたが、次第に水位が増していき九年経っても治水工事は終わっていませんでした。鯀の後は息子の禹が司空に任命されて治水工事を引き継ぎました。

  • 禹の治水工事

禹は即座に益和と后稷とともに百姓の前で協力を求めるとともに、河を視察して鯀が失敗した原因について検討しました。禹は父親の失敗を教訓とし、河の水の流れをよくして水の通りを良くする方法を採用して九つのバイパスとなる河を作り水の流れを分散させました。

治水の期間中、禹は手に測量器を持ち山々を越えて河の測量を行いました。また、禹は治水工事に携わる人々をと共に各地へ赴き山を開いて堤を作り、水をうまく海まで流せるように各所に適切な工事を施していきました。この治水工事に禹は休まずに全身全霊で打ち込みました。

禹は自分に協力してくれている民百姓たちと共に食事を食べ共に野営をしました。自宅に行っても様子を見るだけで家には入らず、毎日泥まみれになりながら水の通りを良くするための工事を行いました。工事が完了したのは開始から13年後でした。この治水工事により黄河の氾濫による中原一帯への水害は取り除かれました。この治水工事により人々は禹に感謝の意を込めて大禹と尊称するようになりました。

この治水工事で中原を走り回った禹は中原一帯の地形や習慣、風俗、物産等に詳しくなりました。そして、天下を九つの州に分けてそれぞれの州の朝貢物を制定しました。

  • 神話中の禹の治水工事

神話中では様々な神々が禹の治水を助けており、様々な神獣が出てきて非常に面白い内容となっています。治水の主役を成す神獣が応龍です。応龍は翼のある龍で雨神であり、非常に高い畜水能力を持っていることも特徴です。

応龍に関しては以下をご覧ください!

応龍(應龍):兵神蚩尤を討ち取った中国最強の龍

父親である鯀の意志を受け継ぎ禹が治水を開始した時には共工が相柳と浮遊を従えて河を氾濫させていました。共工は水神で相柳も浮遊も水に関する邪神でした。禹は最初は平身低頭に自分たちの邪魔をしないようにお願いしましたが、相手が悪く全く聞く耳を持っていませんでした。そこで軍事力で共工達を排除しました。




治水工事は父親の鯀が土塁を積み上げて堤防を作るというやり方で失敗してしまったので、その失敗を生かして土塁のみではなく河幅を広げて流れる水の量を増やすという方法を取りいれました。さらに流れが急になる湾曲した箇所には溢れそうになった水を逃がす支流を作り水量を調整しました。

応龍はもともと天界で暮らしていましたが、黄帝と蚩尤が戦った涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)で黄帝側について敵将蚩尤を討ち取るという大戦果を挙げています。しかし、この時力を使い果たしたため、天界に帰ることが出来ずに南方で蟄居していました。そこに禹が訪ねていき禹から並々ならぬ治水に対する思いを聞いて協力を約束しました。

蚩尤に関しては以下をご覧ください!

蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神

涿鹿の戦いに関しては以下をご覧ください!

神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末

応龍が治水工事現場に行くと、その強大な尾で大地を掃き、大きな支流を作り上げました。さらに伏羲や河伯なども身を粉にして大禹を助けました。さらに神亀の貢献についても記述がみられており、玄武の事を指しているのではないかという説もあります。

これにより難しかった工事が完了し、見事に黄河の治水に成功したのでした。その後人々は禹を自分たちの王とし、夏王朝が建国されました。

  • 禹の即位

《孟子・万章上》には、”禹は舜の子を陽城で避ける。”とあり、《古本竹書紀年》には、”禹は陽城に住んだ。”と、《史記・夏本記》にも、”禹は舜の子商均を陽城で辞して避ける。”とあります。帝舜の在位三十三年で天子の位を正式に禹に譲りました。十七年後、舜は南巡中に逝去しました。三年の喪が明けると禹は夏の地の小さな城である陽城を避けて帝位を舜の子商均に譲りました。しかし、天下の諸侯は皆商均から離れ、禹に恭順しました。

諸侯の見守る中で禹は正式に即位し、陽城を居城にして国号を夏にしました。その後丹朱を唐に、商均を虞にそれぞれ封じました。歴を夏歴に改訂し、寅の月を正月に定めました。《説苑》には、大禹に関して以下のように記述されています。”入り口の階段が三段しかないような小さな宮室で、飲食は貧しく、衣裳も粗末なものであった。”

  • 禹の最後

禹の在位十年で会稽に至った後に逝去しました。皇甫謐は禹の享年を百歳前後と見積もっています。禹の亡き後はその息子である啓が夏王朝の天子の位を継承しました。

  • 後世の評価

禹は中国の古い時代に多大なる貢献をした偉大な人物として語り継がれています。最も大きな功績は治水工事の異業ですが、この他にも当時はそれぞれの部落ごとに分かれていた社会を束ねて国家という形態を作り出したことにもあります。禹の夏王朝成立後は中国の歴史は帝王とその国家を中心に語られていくことになります。

  • 三過家門而不入

禹は塗山氏の女嬌と結婚してすぐに妻子と離れ治水に没頭しました。その後は家の門の前に行き、妻子の立てる声、赤ちゃんの泣き声などを聞いても治水のことが頭から離れず、そのまま家の門から立ち去り再び治水の現場に戻っていきました。これを三度繰り返したとき、母親に抱きかかえられていた子供が禹を見ると覚えたてのお父さん、という言葉を叫び手を伸ばしました。しかし、禹は妻子に向けて手を振り自分の姿を見せただけで家に中に入ることはなく、再び治水現場へと向かいました。

禹の息子は啓と言い、その誕生には別の不思議な逸話もあります。それは、禹が、妻を同行して黄河の治水を行っていました。禹は、水を通そうとして、ある山を掘ろうとしましたが、その山があまりにも険しかったため、熊の姿に変わり、その鋭い爪で猛烈に土をかき分けました。その姿を偶然にも妻に見られ、妻は怯えて逃げ出しました。禹は誤解を解こうと追いかけましたが、熊の姿のままで追いかけたため、妻は止まるどころか逃げ続け、遂には嵩山に到り、そこで岩になってしまいました。それを見て禹は、岩に向かって、私の子供を返せ、と叫びました。その時妻は妊娠していたのです。すると、岩から赤ちゃんが出てきました。この赤ちゃんが啓でした。

  • 塗山の会

夏王朝が建国された後、大禹は陽城の東南の塗山に諸侯を招き、自分の過失について検討しました。この時の塗山の会は中国の夏王朝建国の象徴となるでき事と言われています。塗山の会の日に大禹は法服を着て手には黒い玉でできた札を持って台の上に立ち、諸侯を自分たちの国土の方角になるように二面に分けました。諸侯たちは大禹に対して頭を地まで近づけて行う稽首(けいしゅ)の礼を行い、大禹もまた台の上から稽首で返答しました。




礼を行った後、夏禹は大声でこう言いました。”私の徳は低く、皆様が服するに足りません。皆様をお呼びしてこの大会を行うことは、皆様に規律や責務など私に知ってほしいことや直して欲しいことなどをお伺いするためです。私は身を粉にして治水を行いましたがまだまだ微力であったと言わざるを得ません。常日頃より最も恐れている戒めは驕りです。先代の帝たちはよく私にこう言いました。汝が偉ぶらなければ天下に汝と争うものはなく、汝が征伐しなければ天下に汝と功を争うものはない。もし私に驕りや傲慢さ自惚れなどが有ったらどうか皆様私にお知らせください。さもなければ私に不仁を教えてください。皆様に対して私はよく耳を洗い謹んでお聞きいたします。”

言い終わると諸侯たちは皆禹が天命を受けていることを理解し、大禹のこの謙虚な態度を見て重ねて敬意を払うようになり、これまで持っていた大禹への疑念が消え去りました。この出来事が史書に記載されている”禹が塗山で諸侯に会い、玉帛(ぎょくはく:贈り物などに用いた玉と絹)を執る者が万国である。”の出来事です。

  • 九鼎鋳造の伝説

塗山大会の後、諸侯たちが敬意を表するために陽城に青銅を献じに来ました。その後、九州から献上される銅は年を追うごとに多くなったため、大禹は黄帝軒轅が鋳造した鼎に倣い塗山大会を記念して各諸侯が献上した青銅を使って大きな鼎を鋳造しました。鼎は九州ごとに全部で九つ完成し、それぞれ冀州鼎、兖州鼎、青州鼎、徐州鼎、揚州鼎、荊州鼎、豫州鼎、梁州鼎、雍州鼎と言い、鼎上には各州の山川名物、禽異獣が彫られていました。九鼎は九州を平定した象徴であり、その中で豫州鼎が中央の大鼎でした。

九鼎は夏王朝の都である陽城に集められ、大禹が九州の主となったことを示し、これにより天下は統一されました。これ以降九鼎は代々受け継がれて王権と国家統一の象徴とされました。

  • 祭祀

夏王朝が滅びた後、商の湯王により夏王室の姒姓であった貴族を杞国に封じ、禹など夏王朝の先祖を祭りました。周の武王が商を滅ぼし王となった後、禹の後裔の東楼公を杞の地に封じて祭祀を継続させました。この大禹王の祭祀は国家の祭祀となりました。

紀元前210年には秦の始皇帝が会稽で禹を祀りました。西暦960年には宋の太祖が禹陵の保護を命じるとともに、正式に国家の祭典として禹を祀るようになりました。明や清の時代になっても禹は祀られ続けて、この時代には儀式と制度が最も発展しています。また、清の康熙帝と乾隆帝は、会稽があったと言われている紹興に赴いて禹を祀っています。

道教中では禹は水官大帝とされており、十月十五日の下元節に生まれたとされています。

  • 禹王碑

禹王碑は湖南省の長沙の岳麓山麓にあります。山間にある蒼紫色の石壁の上の蟒蛇洞南面にたたずんでおり、碑文には大禹が父親である鯀の治水を引きつぎ、”七年聞楽不聴、三過家門不入”の美談や洪水を見事に治めた治水の功績が刻まれています。

禹王碑は高さ1.7メートル、幅1.4メートルあり、碑文は9行で行ごとに9字の計77字、残りの4字は末行のスペースとなっています。その文字の形状は蝌蚪(おたまじゃくし)のように見えますが、甲骨文や鐘鼎文や蝌蚪文や大篆などとも異なります。しいて言えば道家の符录(キョンシーの額に貼るお札など)が近く、道教の道士が書いて彫った可能性が考えられています。

出典:baidu

黄河は大河の代名詞ともいえる河川で、この黄河の治水工事を行うことは並大抵のことではありません。

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