河伯:黄河を統べ河伯娶婦と言う悪しき風習の元凶となってしまった水神

河伯(かはく he2bo2 ホーボー)

河伯は中国神話中に出てくる黄河の水神です。名は馮夷または氷夷と言います。《抱朴子・釋鬼偏》には、河に生き溺れ死んだ人を天帝が河伯に任命し河川の管理をさせたと言います。《九歌・河伯》には、河伯は風流瀟洒なプレイボーイとして描かれています。

  • 古籍中に見られる望洋興嘆の話

伝えられるところによると、神話時代に黄河の中に河伯と呼ばれる神がいました。河伯は黄河の岸に立っており、西から押し寄せ渦巻き東へと流れ去る波を見ながら興奮して、”黄河は本当に大きく、この世に比肩する河など無い。則ち私は最も大きな河の神なのだ。”と言いました。




これを聞いたある人物が神に向かって、”あなたの話は間違っています。黄河の東には北海と呼ばれる場所があり、その場所は黄河よりもさらに大きいです。”と言いました。河伯が”そんな話は信じない。北海が黄河よりも大きいわけがないではないか?”と言うと、ある人物は、”一条の黄河ではなく、数条の黄河が流れこんだとしても北海を満たすことなどできません。奇怪があれば北海へ行き、実際に見てみると私の言ったことが本当の事であるとわかります。”と頑なに北海の方が大きいと言い張りました。

河伯は北海を見たことがないので信じるはずがありません。秋になり連日雨が降り、大小の川ができて黄河へと流れ込んだために黄河の水面はさらに広大になり、対岸の牛などはっきり見えない程両岸は遠く離れてしまいました。この光景に河伯は得意になり、天下で最も壮大な景色がここにあると確信し北海など取るに足りない存在だと思ったために北海を見に行いくことにしました。

河伯が黄河の流れに乗って河口までやってくると突然眼前に北海の海神若が満面の笑みで河伯の前に現れ歓迎しました。河伯は水平線が伸びている北海の余りの大きさに圧倒され北海若に、”俗に道理を知っても誰も自分に当てはめて考えない、と言うがこれはまさに自分の事であった。今日無限に広がる広大な北海をこの目で見なかったらいまだに黄河がこの世で最も大きいと思い込んでいたであろう。そうしたら北海を知っている人間から永遠に笑いものになってしまうところであった。”と言ったと言います。

この故事は《庄子・秋水》に記載されています。この故事より”望洋興嘆”という成語が生まれており、余りの力量の違いに呆然としてしまうことの例えとして用いられています。

  • 河伯と西門豹

神話時代には黄河は常に氾濫を起こして民衆に禍をもたらしていました。これは黄河の神である河伯が暴虐であるからであり、神話では英雄后羿(こうげい)にその左目を射られてしまったと言います。その予測不能な様子から、古には”河伯娶婦”という悪俗があり女性を河の神である河伯に生贄として捧げることで安息を祈願したと言います。

春秋の時期には孔子の弟子であった子羽が河伯に持っていた白璧を狙われたと言う話が残っています。ある時、子羽が白璧を身に着けて黄河を渡りました。河伯はこの白璧を手に入れようと思い陽侯を派遣して大波を起こし、さらに二条の蛟龍(こうりゅう)に命じて子羽の乗る船を襲わせました。子羽は左手で璧を守り、右手で剣を操りこの蛟を殺してしまいました。




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蛟龍、虬龍、燭龍、蟠龍、窫窳など様々な龍たち:中国の神獣、四象、霊獣特集

河を渡り切ったとき、子羽は璧に嫌気が差し河の中に投げ込んでしまいました。これに河伯は面白がって璧を子羽の手の上に投げ返しました。子羽はこの状況に璧を石に投げつけて割ってしまい、袖を振り行ってしまいました。

戦国時代になると后魏国に西門豹が現れました。この時代はまは河伯娶婦という風習があり多くの人々が犠牲となっていました。西門豹はこの風習を否定し知恵を以ってこの悪俗を根絶し、さらには人々を率いて治水を行い水害を終息させました。

西門豹は県令として鄴県(今の河北省臨漳県付近)に派遣されました。西門豹はこの一帯には人が少なく閑散としていることを目にしました。近くにいた百姓にどういうことか尋ねると、白い髭を生やした老人は、”河伯娶婦が盛んになったことが原因でここの住民は財産が尽きてしまったのです。”と答えました。

西門豹はどういうことか聞き返すとその老人は、”鄴県の三老は毎年百姓たちに重税を課して財産を無理やり徴収してしまうのです。この額は数百万銭にも及びその中のたった二十万銭だけを河伯娶婦に使用するだけで、祝巫と共に余った金銭を懐に入れてしまっています。河伯娶婦の時期になると女巫は各家々に行き美しい少女を探し出して、”この娘は河伯娶婦にふさわしい”と言います。するとすぐに娘を連れていき全身を洗われ新調した絹の着物を着せて彼女を一人で住まわせて沐浴させて清められます。そして河岸に彼女のために部屋が作られて赤や黄色の帳が張られます。その部屋の中では彼女のために牛肉と酒が振舞われます。十日と少し過ぎると皆が部屋を飾り立てて少女を上座に座らせ、その部屋を河へと浮かべて流してしまいます。最初は水に浮かんでいますが数十里漂うと水中に沈んでしまいます。このため、美しい少女のいる家では大巫祝の河伯娶婦を恐れて娘を遠くへと逃がしてしまうのです。このため、この街には次第に人がいなくなり貧困は加速しています。この習慣はもうずいぶん長い間行われているのです。さらに悪いことに百姓たちの間では河伯娶婦を疑うと大洪水に見舞われて、疑った百姓たちは皆溺れ死ぬと信じられているのです。”と涙ながらに語りました。

西門豹は、”河伯娶媳婦の時期になり三老、巫祝、父老が河岸へ娘を送る際には私に教えてください。私もその娘を見送りに行かなければなりません。”といいました。その場にいた人たちは皆、”わかりました。”と答えました。

河伯娶媳婦の日になると西門豹は河岸に行き長老たちと会いました。三老、官員、金持ち権力者、地方の父老たちは皆この地に集まっていました。さらに百姓たちも二、三千人集まりざわついていました。その女巫は七十歳程の老婆で、絹の単衣を着た女弟子が十人ほど老巫の後ろに座っていました。

西門豹は、”河伯の媳婦は出てきなさい、私が綺麗かどうか見てやる。”と言うと人々はすぐにその娘を西門豹の面前へと連れてきました。そして巫婆と女弟子三人を河の中へと投げ込んでしまいました。西門豹は、”巫婆、弟子、皆女である。状況をはっきりと説明できないので、三老に私の代りに状況を説明しに行ってほしい。”と言い終わると三老も河の中へ放り込んでしまいました。

西門豹は筆を挿し腰を曲げて恭しく河岸で待っていました。長老や周囲の人々は慌てて恐れました。西門豹、”巫婆、三老は皆帰ってこない、どうしたのであろうか?”と言うと、さらに官員に様子を見に行かせようとしました。これらの人々は皆地面で頭を叩き流血して顔からは血の気が引いてしまっていました。西門豹は再び、”よし、もう少し彼らを待とう。”と言い、さらに時間が経過した後に、”官員は起き上がってきた、河伯が客人を留め置くのを待つには長すぎる。皆はこの場を離れて家に帰るがいい。”と言うと鄴県の官吏と百姓たちは非常に恐れてこれ以降は河伯娶媳婦を行うことはなくなったと言います。

西門豹は百姓たちを使って十二本の水路を作り灌漑のために黄河の水を引いて田畑を潤しました。この労働に百姓たちは疲れ切ってしまいました。西門豹は、”今は苦しい時だが、将来にあなたたちの子供や孫が享受できる財産をしっかりと残しましょう。”と言いました。その後、鄴県の水は農村に豊富に供給され便利になり百姓たちの生活は豊かになったと言います。

  • 河童と河伯

日本では河童が有名ですが、この河童はその見た目から戦国時代にポルトガルから来たキリスト教の宣教師であると言われています。しかし、この河童の原形は戦国時代以前にもあり、河伯がモデルになっているのではないかという説もあります。

河童の伝説は古代中国にもあり、黄河流域にいたと言われ古くは”水虎”や”河伯”と呼ばれていました。河伯が日本に伝わり河童となり次第に日本の妖怪として定着していきました。

日本で有名な河童伝説は、戦国時代の熊本城藩主であった加藤清正が河童一族を引き連れた九千坊を退治したと言う話です。

出典:baidu

今回は黄河の神様である河伯についてでした。河伯と似たような神様に雨神の雨師(うし)や風神の風伯(ふうはく)などがおります。雷神には雷公(らいこう)がいます。雨師や風伯は中国神話史上最大の涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)に参加し、雷公は伏羲(ふっき)という三皇の筆頭である神様の父親であると言う伝説があるためこれらの神様は結構有名ですが、黄河の神様という申し分のない地位にいるにもかかわらず大きな出来事に参加しているわけでもないことも相まってか河伯の知名度はいまいち低い気がします。

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伏羲:中国神話はここから始まった!三皇の首で八卦を創造した中国最初の王

黄河と言えば大禹の治水が有名ですが、この話には河伯はほとんど出てきません。黄河の治水を行うのに黄河の神様と大禹との戦争なり協力関係なりの話がないと言うことに違和感を覚えました。大禹の黄河の治水工事の際に暴れていたのは水神共工(きょうこう)とその部下の相柳などです。淮水の治水では西遊記の孫悟空のモデルとも言われている無支祁(むしき)が暴れていましたがこれらの物語中に河伯の名前は見ることができません。

共工に関しては以下をご覧ください!

共工:治水で民に尽くしそして山をも真っ二つに割ってしまう狂戦士

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相柳と浮遊:共工の忠実なしもべで洪水を起こす凶悪無比の悪神たち

無支祁に関しては以下をご覧ください!

無支祁:西遊記の孫悟空のモデルとも言われている獰猛な猿の水怪

河伯は山海経にも記述がみられ、大荒東経には、”困民国という国があり、そこに住む人々の姓は勾で、黄米を食物としていた。王亥という人物がおり、両手で一羽の鳥を掴み鳥の頭を食べていた。王亥は肥った牛の一群を有易族人の所で飼っており、水神河伯の所であった。有易族人は王亥を殺し、その肥った牛を没収した。河伯は心を痛め、王亥の子孫たちが有易族人からこっそり逃げ出すことを助け、野獣が出ない地方で国家を建立した。彼らは今は野獣の肉を食べ、国の名前は揺民国と言った。”とあります。大荒東経注の河伯は水神ですが、黄河の神としては描かれていません。このことから山海経が書かれた漢代頃まで河伯はただの水神で黄河の神様ではなかったのではないか、とも推測されます。

大荒東経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,14 大荒経大荒東経編

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