旱魃(かんばつ han4ba2 ハンバー)
旱魃は中国神話中の女神であり干ばつを引き起こします。干ばつの語源ともなっている日照りの女神の意味もあります。さらには旱魃は映画などでおなじみのキョンシーの始祖とも言われており、非常にミステリアスな女神なのです。この様に旱魃は中国神話中の神々の中で神と妖怪の二面性を持っている唯一の神でもありますので、災いをもたらす事もあれば利益をもたらすこともあります。
この二面性のため書物には天女で非常に美しいという記述もあれば、妖怪で非常に醜いという記述もあります。また、旱魃の容姿は時代を追うごとにだんだんと醜くなっていくのですが、これは旱魃の妖怪としてのキャラクターが次第に固定されていった結果であると言えます。
神話時代では旱魃は黄帝(こうてい)と蚩尤(しゆう)との一大決戦である涿鹿(たくろく)の戦いにおいて黄帝側について蚩尤側の風伯(ふうはく)と雨師(うし)の風神と雨神、さらには蚩尤軍の主力と言っても差支えのない巨人族の夸父(こほ)を倒すなど比類なき戦功を上げています。
黄帝と蚩尤に関しては以下をご覧ください!
旱魃抜きでは風伯と雨師の術を破れずに黄帝軍は敗北していた可能性が非常に高く、またこの戦いで力を使い果たすまで戦ったので、応龍と共に旱魃は黄帝には協力を惜しみませんでした。
応龍に関しては以下をご覧ください!
応龍(應龍):不死身の帝王である兵神蚩尤を討ち取った中国最強の龍
涿鹿(たくろく)の戦いに関しては以下をご覧ください!
神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末
- 旱魃の外見
先秦から漢代の旱魃は天女の代表のような容姿をしていました。その特徴は青い衣を羽織っている女性です。ある時期には旱魃は神と妖怪の二面性を持っていました。漢代の中後期から明代の初期に、天女の容姿の旱魃は次第に小鬼の容姿に変わっていきました。これは、秦代に盛んに行われていた自然崇拝が漢代に至り次第に衰退していったたことに関係します。旱魃の持っていた神性は次第に人々から否定され、さらに女性の容姿も疑問視された結果、だんだんと邪悪な容姿に変わっていきました。
中国民間伝説では、宋の真宗の時、旱魃が怪を作り塩池の水を枯らしました。真宗は張天師に助けを求め、天師は関羽を派遣して降伏させようとしました。関羽は苦戦しつつも七日間戦い抜き、やっとの思いで妖魔を降伏させました。真宗はその神力に感動し、関羽を”義勇武安王”に封じました。その日は農歴の五月十三日だったので、後の民は五月十三日に関帝廟会を催すようになり、関羽に顕霊と逐魔消害を祈願しました。この日は時雨が広い地域で降るので、この日を雨節とも称します。
五月十三日は必ずと言っていいほど雨が降るので、いわゆる”大旱不過五月十三日(大干ばつは五月十三日を過ぎず)”と言って、干ばつがあっても五月十三日に雨が降って終わるという意味になります。もしも雨が降らなければ、それは関羽の試練とされます。
張天師と関羽の話を少し書くと、張天師は三国志にも出てくる五斗米道の創始者でキョンシーの額に貼るお札の基礎を完成させた人物です。こちらも三国志に出てくる漢中の張魯は張天師の孫で三代目の張天師を襲名しています。関羽は三国志の桃園の誓いで有名で並ぶもののない武勇と義侠心を誇り劉備の蜀成立に不可欠な人材でした。この関羽は死後に道教で神様として祀られたために張天師とのつながりが出来、上に書いたような物語が生み出されました。関羽は中国系のお店ではよく関帝として祀られていますし、横浜などの中華街でも見られます。
また、別の話になりますが、雨節は黄帝の生まれた日とも言われており、竹醉日とも言われています。
話が脱線してしまいましたが、明代中期以降、小鬼の容姿となってしまった旱魃は次第にキョンシーの形へと変わっていき、最終的にはキョンシーの容姿となってしまいました。また、清の末期には、旱魃が犼(こう)に変わってしまった説も出現しています。旱魃がキョンシーの四大始祖の一人とされる所以は歴史を通したこの形状に変化にもあります。
キョンシー、そして旱魃とキョンシーとの関係については以下をご覧ください!
- 妖怪として描かれる旱魃
山東で過去に毎年旱魃に見舞われている時代がありました。新しく埋めた死体が旱魃になり、その旱魃を墓を暴いて打ちのめす習慣が普遍的にあった時代です。例えば以下のような記載もあります。
《大清律例・賊盗・發塚》には、”清嘉慶九年(1804年)、高密は長期間干ばつに襲われ雨が降らなかった。ある人が、年初に病を発して亡くなった村人の李憲徳の墓の土が湿っていることに気が付いた。李憲徳が死んだあと旱魃に変わったと疑われた。村人達は李家の阻止を振り切り墓を掘り起こし棺を開けた。李憲徳の死体がいまだに腐敗していないことを見て、旱魃になっていることをさらに確信するに至った。言うまでもなく、この死体は火葬した。李家は墓を掘り起こした者たちを訴えた。この案件は前例がなく、最終的な判決は”墓を掘り起こし棺を開け死体を見た。”という罪であった。この判決を持ってこの事件は終了した。”とあります。
旱魃は伝説中では旱害をもたらす怪物で、農村地域では死後百日の内に死人が変化すると認識されていました。旱魃になってしまった死体は腐敗せずに墓の上には草は育たず、水がにじみ、旱魃鬼は夜間に家の中に水を運ぶと言います。旱魃を焼くと再び雨が降ると言います。魯中一体の農村部には旱魃を焼く風習がなんと1960年代まで残っていました。
- 旱魃の対処
中国の古い昔には、子供の尿と黒犬の血が旱魃対策として用いられました。これら二つは古代の降妖避邪のためになくてはならないアイテムでした。明清代にはキョンシーを旱魃と重ね合わせる観念が非常に流行しました。このため、旱魃を叩きのめすことや旱魃を燃やすことで雨を求める風習が出来ました。
- 書物中に見られる旱魃
《明史》には、”干ばつが起こるごとに人々は新しい墓を暴き死体を掘り起こした。残った死体を打旱骨樁した。”という記述があります。死体が旱魃に変わったと思い、旱魃を退治するわけです。しかし、明王朝にはこの風習は禁止されました。しかし、清の時代に至りこの風習は盛んになり打旱骨樁はさらに発展して焚焼屍骨となりました。つまり、死体を掘り起こして焼いてしまうということです。
《説文》には”魃、旱鬼也。”とあります。
《詩経》の孔疎は《神異経》を引用して、”南方に人有り、背丈はニ三尺で、裸で頭のてっぺんに目がついていた。風の如く走り、名を魃と言った。大干ばつを見て千里は干からびた。別名旱母とも言った。”
《子不語》の第一巻の《旱魃》の中には、”猿のような見た目で髪を分け、一足で歩いた。”とあります。
袁枚の《続子不語》には、”屍が旱魃に変わり、再度変わって犼となった。”とあります。
紀暁嵐の《閲微草堂筆記》第七巻には、旱魃は虐を成した、とあります。《山海経》には、女魃の記述があります。近年では旱魃と言えばキョンシーを連想し、墓を掘り起こして焼き、雨を求めます。
出典:baidu
山海経などでは旱魃は天女として女性の人格を与えられています。しかし、人間の死者が旱魃に変わったため干ばつを引き起こしたのだと考えられるようになり、人々から忌み嫌われる存在になってしまいました。
ちなみに旱魃が直接キョンシーになった場合の階級はやはり第八級の金仙級の法力を持つ不化骨でしょうか((;゚Д゚))
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