四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達

四罪 (しざい si4zui4 スーズイ)

四罪は四凶と同様に古代中国で恐れられた悪神たちです。共工(きょうこう)、三苗(さんびょう)、鯀(こん)、驩兜(かんとう)の四柱を指しています。四罪は堯(ぎょう)や舜(しゅん)の時代に大暴れしており、舜によって流刑に処せられています。この時共工は幽州へ流され、驩兜は崇山へ放逐され、三苗は三危に、そして鯀は羽山で処刑されました。

中国の神話は女媧(じょか)の天地創造から始まります。この時代には女娲の他に伏羲(ふっき)などもいました。いわゆる三皇の時代です。女媧が天地や動物、人などを作り出したのです。しかし、この時代の文明はまだまだ未発達で、人々は狩猟採集生活を送っていました。この時代を変えたのが神農氏です。神農氏はその名の通り農業の神様で、農業を発明しそして発展させました。神農氏の子孫は代々炎帝を名乗っていました。

農業の発明により食料の生産高が上がるにつれて人口も増加していき、強い軍隊が組織されていったことは容易に想像できます。そして中原一帯に散らばっていた部族たちは衝突合併を起こし、最終的には黄帝、炎帝、蚩尤をそれぞれ盟主と仰ぐ三つの部落連盟に収束し、戦いを繰り広げました。

この戦いの最終勝者は黄帝で、戦後は顓頊(せんぎょく)や堯(ぎょう)、舜(しゅん)など黄帝の系譜による中原の統治が続きました。いわゆる五帝の時代です。四罪はこの流れの中で堯や舜と関わり合いが深く、舜によって断罪されたため四罪と呼ばれています。

堯や舜以降は禹により夏王朝が建国されたと言われています。ここまでは当時の記録がないため実在は不明ですが、この時代に起こったとされる黄河の氾濫による大洪水は実際に起こった出来事であったという研究結果があり、夏王朝実在の信憑性を高める研究結果となっています。因みのその後が商、即ち殷であり殷の時代の記録は甲骨文字として記録が残されています。

四罪は史記や尚書などの古書の中に記載が見られ、五帝の内で舜との関係が深く、舜はこの四罪を平定したことが大きな功績となっています。大抵の書物では人として描かれており、当時帝に対して反乱を起こした部族及びその長を指していると考えるのが自然であると考えられます。しかし、《山海経》には四罪のみではなく四凶も人ではなくすべて魔もしくは悪神として描かれています。




四罪と共に有名な悪神に饕餮や窮奇といった四凶がいますが、こちらは帝のダメ息子たちが恐ろしい悪神に変わっています。

四凶については以下をご覧ください!

四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神

  • 史記に記載されている内容

かの有名な司馬遷の《史記第一巻・五帝本紀第一》中には、”驩兜は共工を進言し、堯は不可と言ったが工師として試してみた。共工は放蕩であった。四岳は鴻水を治めるのに鯀を推挙したが堯は不可と成した。岳は強く頼みこれを試したが、無功であった。故に百姓は不便であった。三苗は淮にあり荊州はたびたび反乱を起こした。舜が帰ると帝である堯に言いて請い、共工を幽州に流し、以って北狄となり、驩兜は崇山に追放し南蛮となり、三苗を三衛に遷し、西戎となり、鯀を羽山で処刑し、東夷となった。四罪をして天下は皆服従した。”とあり、神話時代の悪人たちについて記しています。

共工(きょうこう gong4gong1 ゴンゴン)

共工は中国の有名な神話である共工怒触不周山の主人公であるため、四罪の中でもひときわ知名度が高いのではないかと思います。この神話中で共工は相柳と浮遊という凶悪な僕を引き連れて大暴れした挙句に、頭突きで天の柱である不周山を折ってしまい、天地を傾けこの世の中を無茶苦茶にしてしまいました。その後天地は女娲により修復されました。こちらも有名な中国神話の女媧補天です。

女媧については以下をご覧ください!

女媧:中国神話における創造神で人を始めとして様々な動物を作り出した女神

共工の見た目は古い書物に記載された内容によると人身蛇面、朱髪です。

基本的に中国の神話中の人物や生き物は人身龍面など様々な生き物のパーツをつなぎ合わせて作り出されています。日本でもなじみが深い龍や鳳凰、麒麟なども様々な動物のパーツの組み合わせからなっています。

柱を折った話も神話初期の頃の火神祝融との戦いの時であったり、黄帝の孫の顓頊との帝位争いであったり時代をまたいだ戦いの伝説があります。これは共工のモデルとなった部族が歴史を通して反乱を起こしたことに由来しているという可能性があり、その部族が長期間存在していたことが考えられます。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

顓頊に関しては以下をご覧ください!

顓頊:黄帝の孫で中国古代の国家である華夏王朝の始祖。

また、《尚書・堯典》には、共工は堯の水官であり、堯は共工の事を、共工は話し上手であり、怠けられないような仕事をすることは好まず、表面上は敬っていたが実際は無法無天であった、と評しています。古代神話中では、共工は水神とされていますが、この書物によれば水を管理する水官でした。




《山海経・海内経》には、”炎帝の妻、赤水の子の訞が炎居を生み、炎居は節並を生み、節並は戦器を生み、戦器が祝融を生んだ。祝融は江水に降り共工を生んだ。”とあります。この中では共工は炎帝から数えて五代目の子孫であるということになり、さらに火神祝融の子であることになります。この他にも《左伝・昭公十七年》や《淮南子・本経訓》などにも共工の記述が見られています。

山海経に関しては以下をご覧ください!

山海経:中国の妖怪はここから来ている!妖怪のネタ帳として有名な山海経

共工は、善と悪の両極端の見方をされており、悪としては戦いに敗れた腹いせに天を支えていた柱を折ってしまい天地を滅茶苦茶にしたという、中国の四大神話にも数えられている共工怒触不周山伝説があります。この時戦った相手は祝融や顓頊など諸説ありますが、顓頊は黄帝の正当な系譜ですので、儒教的に言えば帝に逆らった大罪人となり悪人のレッテルを貼られることになります。基本的に帝王は絶対の善なのでそれに反抗した場合は絶対の悪になります。滅茶苦茶になった天地は創造神である女媧によって修復され、こちらも女媧補天という中国の有名な神話となっています。




一方で共工は治水工事を行うことで民に尽くしたという伝説も残っており水神として奉られています。この功績を重く見て三皇に数えられている場合もあります。中国では儒教の影響もあって善と悪をはっきりと分ける傾向がありますので、善と悪のどちらの評価もある共工は珍しい存在であると言えます。

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水神共工:治水で民に尽くしそして山をも真っ二つに割ってしまう狂戦士

相柳と浮遊に関しては以下をご覧ください!

相柳と浮遊:共工の忠実なしもべで洪水を起こす凶悪無比の悪神たち

鯀(こん gun3 グン)

鯀は中国古代神話に出てくる人物であり、顓頊(せんぎょく)の子であり禹(う)の父親です。鯀と禹の親子はそれぞれ黄河の治水工事を行いました。父親の鯀は治水に成功しませんでした。この治水失敗の責任を取らされて死罪が言い渡されました。一方の息子の禹は治水工事を見事に成功させてこの功績により偉大なる帝王の第一歩を踏み出しました。

また、鯀は悪としても描かれており、驩兜(かんとう)、三苗(さんびょう)、共工(きょうこう)と並んで四罪と称されています。鯀は紀元前2029年に亡くなったと伝えられています。

  • 治水工事

五帝の時代、地上に突然大洪水が発生しました。この洪水の原因は諸説あり、共工が手下たちを引き連れて大暴れした為であるや、天帝が地上の人々を懲らしめるために故意に起こしたなどが伝えられています。共工が引き起こした説は、女媧時代の共工頭(怒)触不周山の故事とも合致します。

この時代に起こったとされる伝説の大洪水ですが、最近の研究で黄河から洪水の痕跡が見つかり実際に起こった出来事であった可能性が高まっています。その後の研究に注目したいです。

洪水のために地上の人々の生活は困窮を極めました。さらに、当時の堯帝も手の施しようがなくこう言いました。”洪水は地を満たし、山々をも覆ってしまった。民たちは恐れ生活もままならず、誰かこの窮地を治めることができないであろうか。”すると皆口をそろえて鯀ならばなんとかできるでしょうと言いました。

しかし、堯帝は鯀が命令を聞かずに暴れていることを理由に同意しませんでした。その名声は非常に悪いものだったからです。《左伝》には鯀の事が、”訓を教えることが出来ず、話も出来ず、言は頑固で、家にいれば喚き散らし、徳とは程遠く傲慢で常に暴れていた。”とあります。《史記・五帝本紀》には堯は最初は鯀の登用を拒否していましたが、臣下の進言を聞き入れて試してみた、と書かれています。

鯀は治水を行いましたが失敗し、罪を被ってしまいました。鯀の治水方法は河の両岸に土を盛る方法でしたが、水の勢いが強すぎて失敗してしまいました。その後、息子の禹が河の水の迂廻路を作る方法で治水に成功しました。この時の禹の治水工事では応龍が尻尾で迂廻路を作っています。

応龍に関しては以下をご覧ください!

応龍(應龍):兵神蚩尤を討ち取った中国最強の龍

  • 神話中の神として描かれている鯀

神話中では、鯀は后羿と同様に堯の臣下ではなく天上の神として書かれています。彼らは人間を助けるために下界へと降りました。ただし羿と異なる点は羿が天帝の許可の元に下界へと降りたことに対して鯀は許可なく勝手に下界へと降りたことです。鯀が下界に下りる際に、天帝が所有していた宝貝を一つ盗んでいきました。その宝貝は息壌という名前の土であり、生きている神土でした。鯀はこの息壌を使って治水を行おうと考えていたのです。

《山海経・海内経》には、”鯀は帝の息壌を盗み、帝命を待たず、帝は祝融に命じて羽郊で殺した。”や”息壌者、自分自身で成長する土と言い、故に水を埋めることができる也。”と記載されています。この話には息壌を使用することで洪水を治めることができたのかどうかという結果は書かれていません。しかし、その結果にかかわらず民衆の印象中には鯀の用いた方法は間違っておりこのため失敗を責められて殺されたのではないかという考えがありましたが、屈原の天問中には、鯀の治水は一端は成功したがそれと同時に天帝の知る所となり鯀は殺され息壌は回収されたため、最終的に失敗したという回答が出されています。天問は詩集である《楚辞》の中の篇名の一つです。

《国語・晋語八》には、”昔鯀が帝命に従わずに于羽山で処刑された。黄熊となり于羽淵に入った。”とあります。《左伝・昭公七年》にも、”昔堯が鯀を于羽山で処刑した。その神が黄熊になり于羽淵に入った。”とあります。

鯀の死後、死体は三年腐らず、祝融が死体を切ってみると禹が出てきました。さらに鯀の死体は黄龍に変わり飛び去りました。一説によると黄熊とも言われています。黄熊はすでに絶滅してしまった可能性がある熊に似た動物を指しているのではないかとも言われていますが、山海経によると脚が三本あるという記述がみられます。

  • 鯀という人物について

鯀は治水工事に失敗してしまいましたが、この失敗は決して無駄ではなくしっかりと息子である禹に引き継がれていました。また、失敗したと言え、それは鯀が無能であったからではなく黄河があまりにも大きすぎ、治水を行うには当時の技術が低すぎたことが最大の要因です。

鯀は堤防を築くという方法のみを用いましたが、禹はこれに加えて河幅を広げることで水の流量を増やす方法を取り入れることで治水に成功しています。鯀は失敗した英雄ですが、今では鯀は民の幸福のために自分の命を惜しまずに尽くしたと評価される場合もあります。一方で鯀は治水の経験から土塁を築くことを城郭に応用して城壁を発明した創始者と言われています。

出典:baidu

三苗(さんびょう san1miao2 サンミャオ)

三苗は一個人というよりも黄帝から堯、舜、禹に至る間に出てくる部族名を指していると思われています。三苗はまたは有苗、苗民とも呼ばれています。主な居住域は洞庭湖(湖南省北部)と彭蠡湖(今でいう江西鄱陽湖)の間、長江中流北部一帯に住んでいたと言われており、今現在も湖南省付近一帯に住んでいる苗族の祖先であるという説も根強くあります。梁啓超は、三苗の苗は蛮のことであり、堯舜時代には三苗と称し、春秋時代には蛮と称した、という見解を示しています。

三苗は長い歴史を持っており、古くは黄帝時代に蚩尤を盟主とした九黎部落連盟に属していました。漢や魏の時代の学者たちの多くは三苗を蚩尤が率いた九黎部落の後裔であるとするこの説を支持していました。蚩尤(しゆう)が黄帝(こうてい)に敗れた後に九黎(きゅうり)が滅んだ後、三苗の勢力があった黄河流域を放棄して長江流域へと移り住み苗夷民族の国家を創立した、とされています。

その後、時代は移り堯の時代には三苗は反乱を起こし、堯は征圧のために兵を送り丹水(今の丹江)で戦いこれを打ち破りました。三苗はこの時代には堯の部落連盟に加盟していた可能性があります。

蚩尤に関しては以下をご覧ください!

蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神

舜代に堯が部落連盟の首領になって以降三苗は不服であり、舜は平定するために遠征しましたが三苗と戦うことも臣従させることもできませんでした。禹の時代になっても三苗は不服であり、禹と三苗は七十日に及ぶ大規模な戦いを繰り広げました。この戦いで三苗は大敗し、これ以降三苗の勢力は衰えていきます。これ以降、三苗は神話上から姿を消してしまいました。

周の軍師である太公望の《六韜》には、”堯が丹水の浦で苗を征伐した。”と記載されており、《呂氏春秋・召類》には、”堯が丹水で戦い以て南蛮を征服する。”とあります。三苗は時代をまたいで九黎説と南方の少数民族説があり、この二つの説は同一の民族を指しているのではないかというとも考えられますが、現在では黄帝時代について記載されている三苗は北方に住んでおり、後世に言われている南方の少数民族とは無関係であったのではないかという考えが主流になっています。

また、長江以南の江西省境内には、漢代から唐代以来、”危”を姓とする家が数多くあります。東漢の王符所の《潜夫論》には、”危氏、三苗の後裔”と書かれていますので、三苗の後裔である危姓が南方の地域に数多くみられるということからこの地域の人々が史書に記されている三苗の子孫ではないかという説も主張されていますが、確たる証拠はなく論争が続いています。

苗族に関しては以下をご覧ください!

胡蝶媽媽と妹榜妹留:神秘的な民族、苗族のご先祖様のお話

出典:baidu

驩兜(かんとう huan1dou1 フアンドウ)

驩兜は歓兜や驩頭とも書き、中国伝説中の三苗族の首領であり、共工(きょうこう)や鯀(こん)と共に反乱を起こしたため、舜により崇山に追放されたと言います。ある文献では三苗の首領の驩兜を堯の家臣とし、諸侯の一人と扱っています。三苗は不服であったため、多くの反乱を起こしました。そして三苗の一部の人たちは西北の三危山に追放され、その首領の驩兜は崇山に追放されたというものです。

《辞源》には、”崇山は湖南大庸県の西南にあり、天門山と連なっている。伝説の舜が驩兜を追放したという崇山はすなわちここである。”とあります。この山の頂には今もなお驩兜の墓や廟などの古い遺跡があり多くの伝説が語り継がれています。

  • 驩兜の起源

驩兜は中原地帯に起源を持っており、かつては各部落の連合である炎黄部落連盟と華夏連盟に加入していました。これは《世本》や《大戴礼記》、《史記》、《山海経》などに記載が見られています。また、書物により様々な名前があり、驩頭、丹朱、鵬吺など九つの名前が見られます。

強引なこじつけのようにも聞こえますが、驩兜は黄帝の直系であり苗族の祖先であるという説もあります。すなわち、黄帝が昌意を生み、昌意は顓頊を生み、顓頊が観兜を生み、観兜が苗民を生み、観兜は黄帝の曾孫となります。苗語によれば、観兜は故郷の意味となり北方の故郷を意味しているといいます。苗族にしてみると、北方にすんでいた驩兜率いる三苗、即ち苗族の祖先が戦争に敗れて南方に落ち延びたことを示しているということです。

苗族は湖南省など南方の山岳地帯に古くから住んでいる少数民族です。山間に作られた段々畑は壮大で非常に有名です。彼らは自分たちのルーツが九黎や黄帝にあるとしており、九黎の盟主であった蚩尤を祀っています。もちろん直接的な記録がなく神話の形で残されている情報を基にしていますので、否定する学者は多いですが苗族の祖先は九黎族ではない根拠もないため論争となっています。

  • 伝説中の驩兜の戦い

黄帝が蚩尤を破った涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の後、東夷の各部落が融合しての2つの大きな集団作られました。そして今から約4500年前に三苗という一つの連盟が形成されました。その場所は南に苗蛮が活動している地域に面しており、驩兜を盟主としました。驩兜は三苗族の中で修蛇(しゅうだ)をトーテム(動物などの図柄を象徴的に信奉すること)としている部落の首領でした。この驩兜率いる三苗を堯が攻めました。いわゆる丹水の戦いです。

この戦いの目的は丹水流域の発展を促し堯の部落連盟に属する部落の安全を守るためでした。戦いの結果は、”堯が丹水の浦で戦い以って南蛮を服し、舜は苗民を退け、その風習を変えた。”とあります。丹水とはすなわち丹江の事であると言われています。

4500年くらい前は新石器時代末期でありまだ国家の形態がなく村単位の各部落が連合して部落連盟を形成していたとされます。狩猟採集生活から徐々に農業が発展し、金属製の道具や武器を使用するようになりました。炎帝や黄帝、蚩尤はこれらの部落連盟を率いた首領です。黄帝の部落連盟は華夏、蚩尤の部落連盟は九黎と言われています。この部落連盟同士の衝突が起こり、最終勝者が黄帝でした。その後黄帝の系譜は中国初の国家と言われている夏王朝の建国に向かっていきます。

この時代には中原と言われる黄河流域の肥沃な平原は農業の発展とともに重要度を増していきました。黄河中流域や関中平原、河東盆地と河南沿河などの広大な地域です。その土地をめぐって姫氏、姜氏などを主とする部落連盟の勢力が拡大されていきました。南の長江流域でも同様に各部落連盟の勢力が拡大されていきますが、中原から見るとこの地方は蛮族であるとみなされていました。三苗は豫州の西南の山地と丹水、漢水、長江中流にかけての一帯に勢力を築いており、苗蛮部落群とも称されました。

伝説中では炎帝は神農氏と号し炎帝という称号は代々受け継がれていきました。黄帝は有熊氏、または軒轅氏と号していました。炎帝と黄帝は部落連盟の首領であり、二つの部落連盟は中原で勢力を拡大していき有力な軍事集団となっていきました。東夷でも闘争を繰り返すことで部落連盟が大きくなり、鳥のトーテムを持つ少昊鳳姓の部落が首領になりました。しかし、蚩尤率いる部落連盟である九黎の台頭により少昊の部落は衰えを見せます。

蚩尤の九黎と炎帝黄帝連合の華夏部落は激しく激突を起こします。三苗は苗蛮とも言い、涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の前の主要な代表は伏羲女媧氏でした。三苗の部落連盟には大きな三つの部落があり、南蛮系以外の部落の首領を驩兜と言いました。この驩兜が中原の利権をめぐり争っている際に舜に崇山に放逐されました。

別な説は、堯の子である丹朱の後裔であるという説です。堯が舜に帝位を譲る準備の最中に、丹朱が三苗から兵を借りて自分の父親である帝舜と丹水の浦で戦いました。この戦いに丹朱は敗れ、三苗と丹朱の兵は南方にある湖南の貴州一帯に追いやられました。三苗は五虐の刑を発明、発達させて北のもともとあった領土を取り返すことを誓いました。五虐の刑とは刺青を入れたり鼻をそいだりする残酷な五種の刑罰の事です。

出典:baidu

四罪はもともとは罪を犯したり反乱を起こした部族の首領を指していたと思われますが、時代と共に帝王たちと対立する存在として恐れられる存在になっていったのだと推測されます。

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