黄帝を苦しめた中国最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師

中国には様々な神獣たちと共に様々な能力を持った神がいると信じられています。これらの神獣や神様たちは特に有史前の神話時代には様々な戦いに参加したという言い伝えが残っており、天地を巻き込んだ大戦争として描かれています。様々な神の中でも天候を操る神様は一目置かれており、戦いのカギを握る重要な役割を演じました。

今回ご紹介するのは、天候を操る二柱である風伯と雨師です。その名の通り、風伯は風神で雨師は雨神です。風伯は風神で雨師は雨神ですので両者がタッグを組むと台風クラスの災害が起きてしまい一国を滅ぼしかねない恐ろしい存在になってしまうのです。そしてその悪夢が起こったのが黄帝と蚩尤の一大決戦である涿鹿(たくろく)の戦いです。両神はこの戦いに揃って参戦し、黄帝軍を追い詰めました。この窮地を救ったのが黄帝側についたキョンシーの祖先とも言われる旱魃という日照りの女神です。しかし、雨を止めるのは一筋縄ではいかなかったようで、雨師の降らせている雨を止めたはいいが加減ができなかったのか戦後長期にわたって涿鹿一体に雨が降らなくなり乾燥した大地となってしまいました。

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風伯も雨師も天候を操れるという恐ろしい神様です。天候は人々の生活に密接に結びついているので人々から恐れ敬われる存在です。今回はこの風伯と雨師について見ていきましょう(っ´∀`)っ

蚩尤と黄帝、涿鹿の戦いに関しては以下をご覧ください!

蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

涿鹿の戦いに関しては以下をご覧ください!

神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末

  • 風伯飛廉 ふうはくひれん feng1bo2fei1lian2 フォンボーフェイリェン

風伯飛廉は古代中国の伝説中の神怪で蚩尤(しゆう)の同門の弟弟子でもあります。容貌は奇怪で鹿のように長い胴体一面のヒョウ柄があり、孔雀のような頭で、その頭には奇妙な鋭い角があり、蛇のような尻尾を持っていました。そして、蚩尤と共に真道人になるために祁山で修行を積みました。風伯は八風を掌握し五運の気候に通じている風神です。

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道教では風伯を白髪の老人として描写しており、左手に車輪を持ち、右手に持った扇を円形に広げている姿として描写されており、風伯方天君と称されます。雨師も老人として描かれており、陳天君と呼ばれています。

  • 風伯像の成立

中国では風神と雨神の形成は比較的早く、《周礼》の《大宗伯》編では、”祭事を執り行うときには、司中、司命、風伯、雨師を任命した。”とあります。中国の最も初期の風神は箕星(きせい)あるいは箕伯(きはく)と呼ばれました。《風俗通義》では、”風師は箕星である。風を起こせるので箕伯と称した。”とあります。

風伯は名を飛廉(ひれん)といいました。飛廉はある時代には蜚廉とも呼ばれており、その形状は非常に奇妙なものだったと言います。高誘は注釈として”蜚廉は獣名で長い毛を持ち翼があった。”と書いています。王逸は注釈で、”飛廉は風伯なり。”と書いており、洪興祖は注釈で”応昭が言うには飛廉は神禽で風を起こすことができ、晋灼が言うには飛廉は鹿の胴体で頭は雀の如く角と蛇の尻尾がありヒョウ柄であった。”と言及しています。




《水経注》では風神は人間が変貌したものとして書かれています。すなわち、”飛廉は殷の家臣で紂王のために善く尽くした。周の武王が紂王を破ると飛廉は殉国して自殺してしまった。天帝は飛廉の忠誠にいたく感動し飛廉を石棺に入れて埋めることで、飛廉を風神と成した。”とあります。殷滅亡は3000年くらい前ですが、黄帝の時代は4500年くらい前ですので、殷末期の飛廉という人物と風神と結びつき、古来の奇怪な風貌の風伯という風神が人としての人格を持つようになった一端であると推測されます。その後、風神の名は風伯として定着します。

漢代以降では、道教の影響で飛廉と箕伯が次第に合わさってい、より人間的な性質を帯びていきます。最終的には道教の白髪の老翁で左手に車輪、右手に扇子を持った姿になっていきました。

風伯は八風を掌握し五運の気候に通じています。風は天候の大事な要素で、生命が育まれます。《風俗通義》の《祀典》には、”風伯は雷を鳴らし、封を持って潤し、万物を育て、人々の生活になくてはならない。王者は風伯を祀り報いるべきだ。”と記載されています。

唐代以降では、風伯の主要な能力は雷神と合わさり、雨神の力を借りて万物を成長させるとみなされ、歴代の君主により祀られました。しかし、強い風が自然災害を起こし、台風などにより家屋を損傷させるとともに人々を傷つけ時には命を奪うことから、風伯は古くから凶神ともみなされていました。《淮南子・本経訓》では、高誘が注釈の中で、狂暴で民に害をなしている風伯を、弓の名手である羿(げい)が民を護るために青邱の澤で倒した、という故事を残していることからも伺えます。

  • 風伯の修行と能力

《歴代神仙通鑑》の第二巻には蜚廉の様子が描かれています。すなわち、”蜚廉は修行中に対面の山の上の大きな石の上に現れ、風雨が起こるたびに燕のように飛び立った。晴れるといつもいる場所に引きこもり、静かになって注意深く観察しだす。ある日の夜半に、突然大きな石が動き出し瞬く間に布袋に似た足のない物体に変化した。二つの口で深呼吸し、天に向かって噴出した。狂風を起こし、砂を飛ばし石を走らせ、その様子は燕のように大風の中を飛んでいた。蜚廉は敏捷であり、五運気候に通じ、八風を操ることで風母と触れ合うことができた。この中で蜚廉は風母から風を起こし操る奇術を習得した。蜚廉は今に至るまで永州祁陽還にある風伯山にいる。風伯山は伝説で言う当年山である、”とあります。

風伯は蚩尤と同門で共に修行しています。この縁で黄帝と蚩尤との戦いには蚩尤陣営に参加しています。修行では風を操るすべを身に着けており、風と共に空を飛べる記述もあります。最終的には風母から奇術を伝授されており、操風の最上位術を身に着けたと思われます。上昇気流を起こせば水分が凝結しやすくなりますので雨が降りやすくなります。つまり、風伯が雨の降りやすい気象を作り出すことで、雨師が存分にその能力を発揮できるので、風伯と雨師は理想的なコンビとなるのです。

蚩尤と黄帝の戦いは黄帝側の勝利で終わりますが、兄弟子の蚩尤亡き後は風伯は黄帝陣営に帰順しています。また、黄帝が巡幸する際には、黄帝の通る道の障害物を取り除き、あらかじめ綺麗にしておくという責任を与えられており、雷神が雷で道を切り開き、雨師が水で流し、風伯が風で地面を掃くことで黄帝が安全に通れるように道を整えることもその仕事でした。

風伯も雨師も剣術はあまり強く無いようで、黄帝よりも弱いです。山海経には戦神刑天が黄帝を倒すため、単身黄帝の宮殿へ乗り込んできた記述があります。もともと刑天は炎帝の大臣でしたが自身が帝位に就きたかったため黄帝打倒を掲げました。しかし、賛同者がいなかったため一人で黄帝を倒す決意をしました。

斧と盾を携えて宮殿へ乗り込んだ時、黄帝の周囲には涿鹿(たくろく)の戦い以降、黄帝に帰順し大臣となっていた風伯、雨師達がいました。いずれも歴戦の猛者達です。刑天に驚きつつも剣を抜いて刑天に襲い掛かります。

しかし、風伯、雨師、その他が束になってかかっても刑天に一蹴されました。刑天は黄帝に立ちはだかります。黄帝は宝剣を抜き上段に構え、刑天が間合いに入った瞬間に頭部めがけて打ち下ろしました。刑天はこの一撃を躱すことができずに頭を割られて死んでしまいました。つまり、剣の腕前は黄帝>刑天>>>風伯、雨師となります。風伯も雨師も戦略レベルでは極めて高い能力を発揮しますが、一個人の戦闘ではあまり役に立たないということでしょう。実際剣の戦いに雨を降らせても屋内なら関係がありませんし(;´∀`)

  • のまとめ

風伯は当初は他の神獣たちのように様々な動物の切り合わせで作られていました。名前もたくさんあり、風伯は様々な人物たちが合わさって作られたと想像できます。また、風神という性質から道教の信仰の対象となり、人格化が進んでいきました。最終的には白髪の老人として描かれています。もともと道教は神農氏や黄帝が始祖と言われているので、その黄帝と縁がある風伯が道教に取り入れられることは当然の結果といえます。

出典:baidu

  • 雨師萍翳 うしへいえい yu3shi1ping2yi4 ユーシピンイィ

風伯の次にご紹介するのが雨師です。雨師は古くは萍翳(へいえい)、玄冥(げんめい)とも言いました。また、龍であったり、商羊であったり、赤松子であったり、様々な言い伝えがあります。雨師は古代中国神話中で雨を司る神で、道教の神でもあり、風伯と共に蚩尤に助力し、黄帝を追い詰めました。日本では風神と雷神コンビが有名ですが、中国では風神と雨神のコンビです。

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ちなみに玄冥は玄武の初期の名前でした。玄武は亀甲占いから発展したこともあるので、占いの際に冥界に行き先祖の神託を受けて帰り、その結果が甲羅の割れ方にあらわれると考えられていました。そのため、玄冥と言われました。

玄武については以下をご覧ください!

玄武:亀甲占いから生まれ玄冥となりさらに発展し真武大帝となった四象

古代中国の伝説中では雨師はよく風伯と一緒に登場しています。これは両者とももともとは黄帝の家臣であったためです。《韓非子・十過》では、”黄帝と鬼神が泰山へ登る時、蚩尤が前におり、風伯が予め道を掃き、雨師が道を整えた。”とあります。(韓非子は敗れた蚩尤が黄帝に帰順して生きていた前提で書いています。)しかし、黄帝が蚩尤と鉾を交えると、風伯と雨師は共に蚩尤側につき黄帝と相対しました。

広く認識されている雨師像は、ひげを蓄えてある壮年で左手に皿状の盂を持っており、右手は水が流れ出しているようであり、陳天君と呼ばれています。

  • 雨師の由来

中国では雨神の起源は古く、《周礼》の《大宗伯》編では、”司中、司命、風師、雨師を祀った。”とあります。東漢の蔡邕は、”雨師神は畢星である。天にあってよく雨を降らす。”と書いています。畢星は二十八宿中で西方の七宿の一つです。この星座を以て雨神と成します。漢代の王逸は、”蓱(へい)、萍翳(へいえい)は雨師の名なり。”と書いています。《風俗通義》は、”春秋左氏伝説で、共工の子で、玄冥師と成す。”とあります。《三教源流捜神大全》では、”神鳥を以て雨師と成す。雨師は商羊である。商羊は神鳥で、足が一つで大きくなったり小さくなったり出来、ひとたび吸えば大海が枯れてしまった。雨師は神である。”とあります。《列仙伝》では、”神農時代の雨師は狂った蛮人で一条の赤龍に変化することができた。風雨とともにあり原始天尊に雨師に封じられて、霜雨を司るようになった。”とあります。

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雨師と龍王は同様に雨を降らすことを務めとしていますが、これは雨を降らす能力を持った神が複数いることになります。雨を降らすということは人々の生死にかかわる大変重要な能力ですので、古代中国において雨師は崇高な神でした。人々は雨を求めて雨師を祀り、秦代や漢代には国家の祀典となっていました。しかし、唐や宋代以降には仏教から龍王崇拝が現れたため、龍が雨師の地位にとって代わりました。

雨師は様々な書物に記載が見られるように、雨を降らせるため古代から重要な神様でした。様々な名前で呼ばれており、風伯と同様に様々な人物が合わさって作られたと推測されます。




雨師は師という名の神で、《風俗通義》の《祀典》には、”師の雷は万里を震わし、風も同様である。太山に至り、天下に雨を降らし、雷風で異となし、その徳は高かった。故に雨独は師と称した。風雨は大地を潤すため、人々にとって功がある。王者は祀を以て雨師に報いるなり。”とあります。

  • 赤松子伝説

雨師は神話中の雨を司る神で、屏翳、号屏、玄冥とも呼ばれていました。彼らは赤松子の事を表しており、”赤誦子”を書いていました。伝説によれば赤松子は炎帝神農氏の時の雨乞いをする雨師のことです。《捜神記》には、”赤松子、神農時の雨師なり。氷玉散という妙薬を飲んで、以て神農に仕え、火に入っても焼けることはなかった。崑崙山に至り西王母の石室中で修練を行い、風雨を司った。”とあります。この赤松子先生は風雨を起こすことができ、そのため炎帝神農氏の雨を降らす雨師として仕えていました。その後、西王母から不死の妙薬を得ると火に入っても燃えず、風雨を見に纏っていました。

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炎帝の時代にひどい干ばつが起こり何か月も雨が降りませんでした。田畑の農作物は枯れ果て山は渇きで崩れ落ち、あたりには砂が降り積もって家畜もみな渇きで死んでしまいました。

炎帝が老境に入り頭髪も白髪になったころでした。ある日奇妙な放浪の徒に会いました。上には草を纏い、下には動物の皮を巻いており手には柳の小枝を持っていました。放浪の徒は炎帝に、”私は赤松子と申します。崑崙山の西王母の石室中で何年も修行を行いました。赤道の人は飛龍に化けることができますが、私もまた赤虬(せききゅう:虬は角のある小さな龍のこと)に化けることができ、雨を降らすことができます。”と言いました。

炎帝はこれを聞いて心底喜び、赤松子にすぐに実行に移させました。赤松子は”氷玉散”という粉末を飲み込むとたちまち一条の赤龍に変わり天に昇りました。すると天はみるみる厚い雲で覆われて、激しい雨が大地に降り注ぎました。この雨で枯れかけていた作物が息を吹き返しました。これには炎帝も大喜びで赤松子を雨師に封じ、雨に関する国事を取り仕切らせました。

炎帝が仙になり皇帝となると、九黎族の首領であった蚩尤はこれを不服とし反乱を起こしました。赤松子は蚩尤側についたため炎帝の元を去ってしまいました。炎帝と蚩尤の戦いは蚩尤側の勝利で終わり、炎帝の領土は占領されてしまいます。炎帝は当時一大勢力を築き上げていた部族連合の長である黄帝に助けを求めたことで、黄帝と蚩尤の大戦争が勃発します。長期にわたる死闘の末、両者の最終決戦である涿鹿(たくろく)の戦いが始まりました。

涿鹿(たくろく)の戦いでは赤松子は一条の虬龍に化け、風伯飛廉は小鹿に化けて大規模な術を発動させました。その刹那、空は暗くなり石は転がり砂は飛び、暴雨凶風が巻き起こり、巨大な竜巻が発生しました。黄帝と部下達は混沌の中方角が判らず戦いどころではありません。蚩尤はこの機に乗じて侵攻を開始し、黄帝軍の兵士を着実に倒していきました。この風伯と雨師の暴風雨作戦は蚩尤側の必勝パターンとなり、九回戦って九連勝を収めました。黄帝側は成すすべもなく泰山まで撤退しました。

黄帝は泰山で群臣たちと三日三晩策を練りました。そこで風后が指南車と牛皮鼓を考案しました。指南車は二層になっており、全部で二十八個のギアと指をさしている木人形がついていました。このため指南車をどの方向に動かしても木人形が常に同じ方向を指し示します。牛皮鼓は全部で八十面あり、一斉に叩くとその音は辺りに鳴り響き3800里先まで聞こえたと言います。黄帝側は蚩尤の必勝の策を破るべく対策を立てて蚩尤との決戦に舞い戻ります。

蚩尤は飛廉と赤松子に風と雨を召還さるとあたりは霧に包まれました。黄帝側は指南車を使い常に方向を把握することで自分たちの位置を見失わずに戦いました。そして切り札の牛皮鼓を打ち鳴らすとその巨大な音で大地は揺れ、石は割れがけ崩れが起き、飛廉と赤松子は驚き魂魄は散り散りに飛んで行ってしまいました。

赤松子と飛廉の必勝の策が破られると蚩尤はすぐさま退却を開始しました。黄帝は追撃を開始し、涿鹿の野で蚩尤を追い詰め遂に蚩尤を倒しました。赤松子と飛廉は捕らえられ、後に黄帝に降伏しました。黄帝は赤松子を雨師に、飛廉を風伯に封じると、赤松子も飛廉も改心して後に民衆のために尽くしました。




五帝時代以降も風伯と雨師は民衆に祀られ続け、国家の祭事ともなり、風伯と雨師は穏やかな天候と五穀豊穣、平安をもたらす神様として信仰されました。これによりもともと奇怪な風貌であった風伯と雨師は子供を伴いひげを蓄えた高潔な官人として描かれ、風と雨の象徴となりました。

出典:baidu

今回は風伯と雨師のお話です。どちらももともとは鳳凰や麒麟、四象などと同じく様々な動物のパーツの組み合わせからなりました。このため、大昔は他の神獣と同様な扱いをされてたのではないかと推測します。しかし、風も雨も天候は昔から生きるために大切なものです。雨乞いなどからもわかるように、特に雨神は信仰の対象になりやすいため、その地位は向上していったことでしょう。

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時代が変わり道教が一般社会の中に浸透していくと、風伯も雨師も人格化が進んでいき、人々に信仰される存在になりました。もともと道教の始まりは炎帝神農氏や黄帝の時代にさかのぼります。神農氏は農業のみではなく医学の神でもあります。それは神農氏が丹という不死の妙薬を作る練丹術を行っていたことが一端にあります。道教ではこの丹を作ることを奥義の一つとしています。風伯も雨師もこの道教の始祖たちと同じ時代に生きており関わり合いもあったため、道教の信仰に取り入れられるのは自然の流れです。道教では人格を与えられて人間の見た目になりました。そして現在では風伯は風神、雨師は雨神として信仰されています。

伝説中では両者ともその能力は高く、風や雨を扱わせれば最高レベルの能力を持っていました。もともとは凶神ですので、古代の人々は風伯や雨師に恐れを抱いていたことでしょう。そして、風伯と雨師は相性がいいため、コンビで現れてその術の効果は倍増し、風伯、雨師ともども上位の神様として信仰されています。

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