堯(ぎょう yao2 ヤオ)
堯は紀元前2377年から2259年にかけて生きたと言われている帝です。姓を伊耆と、号を放勲と言い、丹陵人だと言われています。堯は古代中国の部落連盟の首領で五帝の一柱として祀られています。堯の父親は帝嚳(こく)であり、母は陳鋒氏です、十三歳で陶(現在の山東省菏沢平陽)に封じられました。十五歳で兄の帝摯の補佐をし、唐地(現在の山西太原)に改封され、陶唐氏と号しました。
ニ十歳で堯は摯に代わり天子になり、平陽を都に定めました。堯が即位して七十年後に舜を得て、その二十年後に老いた堯は舜に帝位を譲り、その二十八年後に死去しました。亡骸は谷林(山東省菏沢市鄄城県境内)に葬られました。
堯は羲和に命じて暦を制定させ、四つの季節で一年と成し、百姓に農業の時期を知らせるとともに、春分、秋分、夏至、冬至を測定しました。さらに、堯は諫言の鼓を設置して天下の百姓にその言を尽くさせ、誹謗の木を立て、天下の百姓に自分の過ちを指摘させました。そのため、帝堯の徳は高くなり、人民の心は帝堯に傾いていきました。
- 堯の誕生
伝説上の古の帝に嚳(こく)がいました。嚳の第三番目の妻の名は慶都(けいと)といい、慶都は伊耆侯(史記に記載されている陳鋒氏)の娘でした。慶都は結婚後も実家にとどまっており、ある年の正月に伊耆侯は慶都を伴い小舟で遊覧していました。三河の上で正午に突然一陣の突風が吹きました。そして大風で吹き上げられた空気はは空に紅色の雲を作り出し、小舟の上に突然竜巻を発生させました。そして、その旋風の中に一条の赤龍が舞うように飛んでいました。しかし、その恐ろしい光景にも慶都は動じなかったので、赤龍は微笑みました。
その晩に風は止み雲も散り、赤龍の姿は消えてしまいました。二日目に船で帰る途中再び大風が巻き起こり紅雲が起こり、あの赤龍が現れました。ただ身体は小さく、長さは一丈ほどしかありませんでした。赤龍は人に危害を加えなかったため、見た目に反して恐怖は感じませんでした。
その晩に慶都は床に就きましたが眠れませんでした。慶都は両眼を閉じうつらうつらしだした頃に陰風が吹き慶都の上に赤龍が現れました。その時慶都は眠ってしまいました。目が覚めると魚のようなにおいの水しぶきが残されており、慶都の側には水しぶきで描かれた一人の紅色の人の像がありました。顔は上は鋭く下は豊満で、八彩眉(聖人に見られる眉の形)、長い頭髪で天祐を受ける、と書かれていました。その後、慶都は妊娠しました。慶都は丹陵(現在の順平県伊耆山)で、妊娠してから十四か月で赤ちゃんを産みました。
慶都は赤ちゃんを見てみると、あの時の絵と全く同じであることに気が付きました。帝嚳は慶都が赤ちゃんを産んだことに喜びましたが、ちょうど赤ちゃんが生まれた日に母がこの世を去りました。帝嚳は孝行息子でしたので、母親の逝去のために大粒の涙を流しましたが、心中は赤ちゃんの誕生もあり複雑でした。
嚳は母親の死後三年喪に服し、慶都とその子供のことも顧みませんでした。慶都は赤ちゃんと共に実家に住み、十歳になると父親の元へと呼ばれました。この子供が後の堯です。このため、帝堯の子供の頃は外祖父家の姓である伊耆氏の姓を名乗っていました。その後に陶唐氏を名乗りました。
- 治理水患
堯の時代には中国に大洪水が起こったとされています。これは沢山の神話に大洪水の話が見られていることに起因しています。洪水が起こったのは黄河流域です。広大な黄河が洪水を起こしたので、被害は尋常でないことは容易に想像できます。実際に神話中では激しい洪水の様子が神の怒りなどの形で見ることができます。
最近の研究では、この洪水が実際に起こった事を示す証拠が見つかっており、神話時代の出来事の中には事実が伝えられてきたことを物語っております。この荒れ狂う河を見事に治めた人物は英雄として語り継がれつことになります。堯の時代には鯀(こん)や共工(きょうこう)などこの黄河の治水工事を行った英雄たちの話が語られています。そして、見事に治水工事に成功したのが鯀の息子の禹(う)でした。禹は治水の功績により堯の二代目後に帝位に就きました。
鯀に関しては以下をご覧ください!
四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達
共工に関しては以下をご覧ください!
水神共工:治水で民に尽くしそして山をも真っ二つに割ってしまう狂戦士
禹に関しては以下をご覧ください!
- 暦の制定
《尚書・堯典》には、堯は羲氏に命じて日月星辰の運行状況による暦の制定を命じました。その後、天下に頒布し農業生産に役立たせました。堯は羲仲を暘谷と呼ばれる東方の海浜に住まわせ、日の出の状況を観察させ、昼と夜の時間が同じ日を春分にしました。
また、堯は羲叔を明都という地方に住まわせ、太陽が北から南に傾きを変える様子を観察させ、昼間の最も長い日を夏至としました。さらに、和仲を西方の昧谷と呼ばれる地方に住まわせ、日が落ちる様子を観察させ、昼と夜の時間が同じ日を秋分にしました。最後に和叔を北方の幽都に住まわせ、太陽が南から北へ傾きを変える様子を観察させ、昼の一番短い日を冬至としました。
二分、二至が確定した後、堯は366日を一年とし、三年ごとに潤月を置くことで、潤月で歴法と式の関係を調整しました。この暦により、毎年の農業に適する日が誤差なく正確にわかるようになりました。このため、堯帝の時代には農耕文化は大きく発展することになりました。
- 酒の発明
伝説では堯は龍の化身でしたので、霊気には特に敏感でした。このため、堯は近くに溜まっている霊気を吸い込んだので、民は皆安住を求めて堯の住む所へと移り住みました。並びに地の霊気を借りて農業を発展させましたので、百姓たちは安心して仕事が出来ました。天に感謝をし、未来の福を祈り、堯は最上質の穀物を選び出し水に漬け、精製しました。この水は澄んでおり清香幽長で、天を敬い百姓たちに分けて共に安寧を祈りました。百姓たちは堯に感謝の気持ちを感じ、その水を”華堯”と呼びました。この伝説が穀物を発酵させて醸造したお酒の始まりとされています。
- 勤倹聴諫
堯の治世後期には堯の生活は非常に質素でした。茅草屋に住み、野菜のスープを飲み、葛藤を折って作った粗末な衣服を纏っていました。よく百姓の意見に耳を傾け、宮門の前に人針の”欲諫の鼓”を設置し、堯自身もしくは国家に意見や建議のある者は皆、いつでも鼓を打ち鳴らすことができます。堯がその音を聞くと、すぐに接見し真摯にその意見を聞きました。
また、民衆が容易に朝廷を探し出すことができるように堯は交通の要衝に”誹謗の木”を設置しました。これは一本の木柱を地面に埋めたもので、そのそばに看守を置き民が看守に朝廷に対して容易に意見を言えるようにしました。意見を聞いた看守はその人物が朝廷に行きたいと言えば手引きをしたと言います。このように様々な民衆の意見を聞き、政治を良くしたため百姓の苦痛は非常に和らいだと言います。
- 囲碁の創造
言い伝えによると、古代の堯の都である平陽は、部族間の協和がもたらされた後に、農耕生産と人々の生活が豊かになり繁栄した時期でした。しかし、この繁栄にもかかわらず、堯はある一つの事に憂慮していました。それは堯の子の丹朱が成長して十数歳になっても仕事をせずに派手に遊んでいました。
事あるごとに仲間を集めて悪事を働いていたので、帝堯は何とかして堯に善の心を持たせるために、丹朱に学ばせようとしました。しかし、丹朱は面白くなく、堯は怒って”お前は学ぼうとしないなら石子棋を学びなさい。学び終えたら非常に役に立つ。”と言い、矢を取り出し平らな石の上に縦横縦列ずつの格子を描き、山積みの石を持ってきて半分を丹朱に渡して、これまで自分が軍をどのように率いて戦ったのかを石を使って示し、その戦略もあわせて説明しました。丹朱はこの時途中で投げ出さなかったと言います。
その後、丹朱は熱心に棋を学び、外には遊びに行かず、棋に打ち込みました。帝堯は散宜氏に対して、”石子棋には民を治めることや軍隊、河川の道理が深く含まれている。丹朱が本当にその極意を掴んだのであれば、それらの道理は明らかに理解できているので私の帝位を譲り受けることは自然である。”と言いました。
しかし、丹朱は棋を深く学ばないうちに棋が人を縛り付けて自由を奪っていると思うようになり、以前の悪い癖が出てきました。そして、仲間を集めては終日遊びまわりさらには父の帝位を簒奪しよういう計画すら立ていました。
このため、散宜氏は心を深く病み、大病を患い死んでしまいました。帝堯は十分に傷心し、丹朱を南方へと追いやり二度と会いたくありませんでした。そして帝位は舜に譲りました。舜も帝堯の子の様子を見て、石子棋を用いて自分の子の商均に教えました。その後、陶器で作られた石子棋用の板が作らるようになり、史書は”堯が囲棋を発明し、丹朱に教えた。”と記しています。
舜に関しては以下をご覧ください!
舜:五帝に数えられる古代中国の名君で意地悪な親にも忠孝を尽くした帝
- 訪納賢能
堯の功臣は九人いたとも十一人いたとも言われていますが、どの人物も才能あふれる賢臣だったといいます。堯は才能を野に埋もれさせておくことを恐れたため、辺りには未登用の賢人はいませんでした。そのため、堯はたびたび僻地へと赴き賢人を求めて、政治をおろそかにしてまでも賢人を探したと言います。
ある時、堯は善巻、披衣、方回、許由という四名の名士の話を聞き会いに行きました。特に善巻は義を重んじ利を軽んじ、富貴に無欲な有名な賢人でした。堯は徳の高さでは善巻には及ばず、そのような賢徳の人と知合いたいと思い、驕ることなく下座に立ち恭しく頭を下げて善巻に教えを求めました。
すると善巻は、”私は宇宙の中に生まれ冬には皮衣を夏には葛布をまとい、春に種をまき秋に収穫し、日が出ると働き日が落ちると休み、心が満たされて満足しています。その私が今さら天下に何をしようというのですか。あなたは私の心を全く理解していません。”と言いました。
その後善巻はこの北方の地を離れて南方の現在の江蘇省宜興県の洞窟に隠居したといいます。
- 堯の後継者虞舜
堯は人々のためには帝位を世襲せず、徳の高い人物に禅譲することが最も良いと考えて、帝位を虞舜に全焼しました。堯の在位70年になると、後継者を選ぶ必要が出てきました。当初は自分の息子である丹朱に譲りたいと考えていましたが、丹朱の日頃からの行いに手を焼いていたたために不可としました。そこで、四岳と相談し、彼らの推薦を受けました。四岳は舜を推薦し、舜は徳が高く孝行息子であり、自分をぞんざいに扱ってきた父親や腹違いの弟に対しても誠意をもって接し、改心させました。堯は舜が帝位を継ぐにふさわしいかどうかを見るために舜を観察し、その後決定を下そうと考えました。
堯は自分の二人の娘である娥皇と女英を舜に嫁がせて、二人の娘に対する接し方から舜の徳行を見て政治を行う能力があるかどうかを確認しようと思いました。舜と娥皇、女英は沩水河のそばに住み、堯の誠実さに二人の娘の心は傾いていきました。堯は舜に徳の教育を行わせ、舜は臣民に”五典”を以って指導しました。五典とは即ち、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝の美徳の事であり、この五典に従い行動することを説いたのです。臣民はみな舜の教えに耳を傾け、五典の行いを実践しました。
堯は舜に百官を統治させ、政務処理にあたらせました。百官は皆舜の指揮に服従し、仕事ははかどりもめごとも起こらず理路整然と職務が遂行されました。堯はまた舜を四門に居させ、四方から謁見に来る諸侯たちの接待も行わせました。舜と諸侯たちは大いに親交を深めたと言います。遠方からくる諸侯の賓客は皆舜に敬服しました。最後に、堯は舜に山麓の森林で大自然の試験を受けさせました。舜は暴風雷雨の中、方向を迷わず行くべき道を進み、その判断力の高さを示しました。
三年間の様々な試験を経て、堯は舜こそが自分の後を継ぐにふさわしいと確信し、遂に舜に帝位を譲ることを決めました。堯は正月一日、太廟で禅位の典礼を行い、舜が天子の位に就きました。
堯は退位してから二十八年後にこの世を去り、その時の人々の様子は、”百姓は嘆き悲しみ、父母の喪に服すようであった。三年間、四方で祭りなどは無く、堯を想った。”と人々の堯に対する愛情の深さが伝えられています。
出典:baidu
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