史記五帝本紀を読もう!司馬遷の五帝本紀を翻訳してみた

史記の五帝本紀を現代語訳にしてみました。

五帝本紀は漢代に書かれた中国の歴史書である史記の一巻です。史記では中国の歴史はこの話から始まったとされています。

史記は司馬遷によって書かれました。五帝本紀の内容は中国の神話時代にいたとされている伝説の帝達のことでとりわけ優れた五人を取り上げています。




五帝本紀は現実主義者の司馬遷らしからぬ実在が疑われている伝説の帝の存在について書いています。伝説と現実のはざまで悩む司馬遷の苦悩が伺えます。しかし、さすがに司馬遷と言いますか、歴史書らしく五帝を神として書かずに人間として描いています。

実際に五帝の時代は何年前かと言いますと黄帝の時代で紀元前2500年ごろであるとされています。五帝本紀は舜で終わりますが、舜の後継を禹と言い、いまだ実在が議論されている中国初の国家である夏王朝の建国者です。夏王朝は湯により滅ぼされて湯により商王朝が建国されてたとされています。

五帝本紀第一:黄帝(こうてい)編

黄帝は少典の子であった。姓を公孫、名を軒轅と言った。

生まれたときから神霊であり幼いころからよくしゃべり、賢く明敏で大きくなると温厚であり、成人すると聡明であった。

軒轅の時代には神農氏の勢力は衰えていた。諸侯は互いに争い領地を奪いあい、百姓に暴虐であった。しかし、神農氏はこれを鎮めることが出来なかった。このため軒轅は戦闘を学び不享(来朝しないこと)を征した。諸侯たちは軒轅の下へ来て賓従した。

※神農氏は初代炎帝で軒轅の時代は八代目である榆罔(ゆもう)が炎帝として即位していました。

この頃蚩尤が最も暴虐で手が付けられなかった。炎帝は諸侯の領地に侵攻しようとしたので諸侯たちは軒轅に臣従した。軒轅は徳を修めて兵を振るい、五気(五行)を治め、五種の穀物を栽培し、万民を慈しみ、四方を測り、熊、羆、貔、貅、貙、虎に戦いを教え、炎帝と阪泉の野で戦った。三度戦ってついにその志を全うした。

※おそらく熊、羆、貔、貅、貙、虎をそれぞれトーテムとして持っていた部族のことを表していると思われます。ここで出てくる炎帝とは神農氏ではなくその子孫の榆罔のことです。

蚩尤が氾濫を起こし帝の命令に従わなかった。このため黄帝は諸侯を集めて涿鹿の野で蚩尤と戦い、遂に蚩尤を殺した。諸侯たちは軒轅を讃えて天子とした。神農氏の治世に変わり黄帝の治世となった。




天下に従わない者がいれば黄帝はこれを征し、平定した後には撤退した。山を切り開いて道を作り、決して安寧に生活しようとはしなかった。東は海に到り、丸山に登り、岱宗に及んだ。西は空桐に到り、鶏頭に登った。南は江に到り、熊、湘に登った。北は葷粥(くんいくで匈奴のこと)を追い符を釜山に合わせて(割符を用いて意思を確認した)涿鹿に都を建設した。

定住はせずに常に様々な場所に移り住み、師兵を衛兵とした。官名は雲の名をつけ、雲師とした。左右の大監を置き、万国を監視させた。万国の関係は改善し、鬼神と山川を祭る封禅の儀を行ったのは黄帝が最多であった。

宝鼎(ほうてい)を作らせ、筴(細い竹の棒を使った占い)で出た吉日にその宝鼎を受け取った。風后、力牧、常先、大鴻を挙げて民を治めさせた。天地の紀、幽明(陰陽)の占、死生、そして安危の儀式に従った。

百穀草木を育て、鳥獣蟲蛾を徳を以て感化し、日月星辰水波土石金玉を広く行き渡らせ、心力耳目をよく使って仕事に励み、土徳が顕れていたので黄帝と称した。

黄帝には二十五人の子がいたが、姓を賜ったのは十四人であった。黄帝は軒轅の丘に居を構え、西陵氏の娘である嫘祖を娶った。嫘祖は黄帝の正妃であり二人の子を産んだ。この子たちはその後両者とも天下に有った。一人は玄囂であり、青陽となった。青陽は降って江水に住んだ。もう一人を昌意と言い、降って若水に住んだ。昌意は昌僕と言う蜀山氏の娘を娶り、高陽を産んだ。高陽には聖徳があった。黄帝が崩御すると橋山に葬られた。黄帝の孫で昌意の子である高陽が帝位に就き、帝顓頊となった。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

五帝本紀第一:顓頊(せんぎょく)編

帝顓頊高陽は黄帝の孫であり昌意の子である。

静淵で謀を巡らし、万事に通じ物事を知っていた。穀物を育むことで地に通じ、時を載せて天を象り、神に依りて義を制定した。気を治めて民に教え、潔誠で祭祀を行った。

北は幽陵、南は交阯、西は流沙、東は蟠木まで勢力を及ぼした。動植物、大小の神々。月日の照らすところ、従わない者はいなかった。

帝顓頊は子供を儲け、窮蝉(きゅうせん)と言った。




顓頊が崩御すると玄囂の孫である高辛が即位し、帝嚳となった。

帝顓頊に関しては以下をご覧ください!

顓頊:黄帝の孫で中国古代の国家である華夏王朝の始祖。

系譜:黄帝ー昌意ー高陽(顓頊)

五帝本紀第一:高辛(こうしん)編

帝嚳高辛は黄帝の曾孫であった。高辛の父は蟜極(きょうきょく)と言い、蟜極の父は玄囂(げんごう)と言い、玄囂の父は黄帝であった。

玄囂も蟜極も位を得ることが出来なかったが、高辛は帝位に就くことが出来た。高辛は顓頊の族子であった。

高辛は生まれながらに神霊であり、生まれたときに自分の名を言ったと言いう。広く施しを与えて利をもたらしたが、自身はその利益を要求することはなかった。聡で遠きを知り、明で微を察した。天の義に従い民の急を知り、仁で威厳があり、恵で信があった。身を修めて天下は従った。大地の恵みを収穫し大切に用い、万民に教え導いた。日月の運行を調べてその動きを理解した。鬼神に目を向けてこれを敬った。その色は盛んでその徳は非常に高かった。黄道を起こすときには時に適っており、その服は士と同じであった。帝嚳は天下に公平であり、日と月が照らす場所、風や雨がある場所で服従しない者はいなかった。

帝嚳は陳鋒氏(ちんほう)の娘を娶り、放勛(ほうくん)を産んだ。娵訾氏(しゅしし)の娘を娶り、執(し)を産んだ。帝嚳が崩御すると執が帝に即位した。帝執は暗愚であった。帝執が崩御するとその弟の放勳が即位し帝堯となった。

帝嚳に関しては以下をご覧ください!

帝嚳:神話時代の名君として名高い五帝の一

系譜:黄帝ー玄囂ー蟜極ー高辛(嚳)

五帝本紀第一:帝堯(ていぎょう)編

帝堯となった放勳の仁は天のようであり、その知は神のようであった。民は太陽のように親しみ、雨をもたらす雲のように望んだ。富んでも驕ることなく貴くなっても侮ることはなかった。

黄色の冠をかぶり質素な祭祀用の服を着て、紅色の車で白馬に乗った。人が従うような徳があり、九族と親しくした。九族の関係は良好で、諸氏を登用した。諸氏は自分達を理解して万国を和合した。

羲と和に命じて昊天に従って日月星辰を観察することで暦を作り、民に時を授けさせた。羲氏と和氏に分け羲仲に命じて郁夷に暮らし、暘谷と言った。日の出を導き、春の農耕を開始から順序だてた。昼と夜の長さが同じで、南方の鳥の星座が見える時期を中春とした。民たちはその時期に農耕に出て鳥獣たちは繁殖を行った。重ねて羲叔に命じて南方の交趾に暮らした。

南方も同様に耕作の日程を定め、敬って行った。昼が長く大火の星が現れた火を夏至とした。この時期にはその民は皆働き、鳥獣の羽毛や体毛は生え変わった。さらに和仲に命じて西土に暮らし、昧谷と言った。敬って日の入りを導き、西成の耕作の日程を定めた。昼と夜の長さが同じで、虚宿星が真南に見える日を中秋とした。その民は収穫を終えており平安で、鳥獣の羽毛や体毛は美しく整っている。さらに和叔に命じて北方に暮らし、幽都と言った。備蓄を分けて明らかにした。夜が長く、昴が真南に見える日を冬至とした。その民は暖を取り、鳥獣は生え変わった羽毛で暖まった。一年は三百六十六日で潤月を加えて暦を整えた。信にて百官を整えて、民衆は皆栄えた。




堯は言った。「このことに従うことが出来る者は誰だ。」放斉は答えた。「嗣子の丹朱は物事に明るいです。」堯は、「いや、私は丹朱は凶悪だと思う。用いることはできない。」と言った。堯は重ねて、「誰かいないか。」と言うと、驩兜が、「共工はこれまで功があるので用いるのがいいのではないでしょうか。」と言った。しかし、堯は不服でこういった。「共工は口先ではいいことを言っているが内心では邪である。恭順しているようであるが天を侮っているので不可である。」さらに、「ああ、四嶽、洪水が天にあふれ、山を包み丘に登っているのだ。民は憂いているのでこれを治めることのできる者はいないであろうか。」

すると皆が、「それなら鯀がいいでしょう。」と言った。堯は、「鯀はこれまで命に背き一族の名誉を貶めたので不可である。」と言った。そこで嶽は、「まずは試しに登用してみてはいかがでしょうか、駄目ならば解雇すればいいでしょう。」堯は嶽に従い鯀を登用した。しかし、九年経っても洪水は治まらなかった。

堯は、「ああ、四嶽、朕の在位七十年であなたはよく朕の命を聞いてくれたので朕の位を継ぎなさい。」これに嶽は答えて、「私はの徳は卑しいので帝位を辱めてしまいます。」と言った。堯は、「貴戚や遠縁の者など全て挙げよ。」と言った。衆皆堯に、「妻のいない者が民間にいます。虞舜という名です。」と言った。堯は、「そうだ、朕も聞いたことがある。その者はどういう者だ。」嶽は、「目の見えない者の息子です。父親は頑固で母親は口やかましく、弟は傲慢です。しかし、孝を以て和らげて熱意を以て抑えているのでこれまで悪事を働いたことはありません。」これを聞いて堯は、「虞舜を試してみよう。」と言った。そして堯は虞舜に自分の二人の娘を娶らせ、その徳を二女に見させた。舜は二女を嬀汭にある自分の家で婦の礼を尽くした。この対応に堯は舜を認めた。

そして舜は五典を慎和させ、五典によく従った。百官に加えられると政務を順調に行い、四門に賓させると四門は威厳があり諸侯や遠方の賓客は皆敬った。堯は舜に山林川澤に入らせると、暴風雷雨でも舜は迷うことはなかった。これにより堯は舜を聖とし、舜を召して言った。”あなたは熟慮を重ね、三年間の業績は素晴らしいので帝位に就きなさい。”と言うと、舜は他に徳のあるものに譲り喜ばなかった。正月の一日に舜は堯が帝の責務を終えたことを文祖から受けた。文祖は堯の大祖であった。この時帝堯は老いており、舜に命じて天子の政を行わせ、天命を観た。

舜は璿璣玉衡(古代の天象を計測する機器)を用いて七政(太陽と月、金星、木星、水星、火星、土星)を整えた。遂に上帝を祭り、六宗を祭り、山川を望み、羣神を祭った。五瑞を治め、吉月日を選び、四嶽・諸侯を見て瑞を返した。二月に東へと行き、岱宗では生贄を捧げ、山川を一つずつ望んだ。遂に東方の君長を見て時月を合わせ、日を正し、律度量衡を統一し、五礼を修め、五玉、三帛、二生、一死を献上物とし、五器の如く、終えればまた復した。

五月には南へ行き、八月には西へ行き、十一月には北へ行った。皆初めのようであった。帰りには先祖の廟へと立ち寄り特牛の礼を用いた。五年に一度行幸し、諸侯は四年に一度訪朝した。諸侯たちは政治の報告を行い、その功を確かめ、功績により車服を下賜した。十有二州を始めて川を決した。典刑により刑を定め、五刑でも減刑し流罪で許す場合もあり、鞭を官への刑罰とし、打撃を教官への刑罰とし、罰金で罪を償わせ、故意ではない過ちは赦し、罪を重ねる者は処刑した。慎み敬い、刑罰を負う者が少なくなったことか。

驩兜は共工を進めたが、堯は不可であると言った。しかし、工師として試してみたが共工は淫辟であった。四嶽は鯀を鴻水の治水工事に推挙し、堯は不可だと言うも嶽がどうしてもと頼むのでこれを試したが役に立たず百姓たちは不便な思いをした。三苗は江・淮・荊州でたびたび反乱を起こした。舜が帰ってくると帝に、共工を幽陵に流刑にすることを請い、以って北狄へと変え、驩兜を崇山へ追放し、以って南蛮に変え、三苗を三危に遷して、以って西戎へと変え、鯀を羽山に幽閉し、以って東戎変え、四罪を行い天下は皆従った。




堯が即位して七十年で舜を得た。さらに二十年で老いた。舜に天子の政を代行させ、これを天に薦めた。堯が帝位を退いて凡そ二十八年後に崩御した。百姓の悲哀は父母を失った時のようであった。三年間はどこも楽を行うことはなく、堯を想った。堯は実子である丹朱が不出来であることを知っており、天下を授けるに足る人物ではないと思った。そして天下は舜に授けられた。舜に授けると天下はその利を得て丹朱は病み、丹朱に授けると天下は病み丹朱がその利を得た。堯は、「天下を病ませてまで一人が利益を得ることはあってはならない。」と言った。このようにして舜に天下が授けられた。

堯が崩御し三年の喪に服し、舜は丹朱に気を使って南河の南に住み丹朱を避けた。諸侯で朝廷に参内する者は丹朱ではなく舜の下へと赴き、訴訟があれば丹朱ではなく舜の下へと赴き、歌を歌う者は丹朱ではなく舜をその歌で讃えた。舜は、「天命であろう。」と言い、喪が明けると天子の都へと行き天子の位に就き、帝舜となった。

帝堯に関しては以下をご覧ください!

堯:お酒や囲碁を発明したという聖人で五帝の一

四嶽に関しては以下をご覧ください!

四嶽:古代に生き堯、舜に仕えた有能の士

四罪に関しては以下をご覧ください!

四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達

系譜:系譜:黄帝ー玄囂ー蟜極ー高辛(嚳)ー堯

五帝本紀第一:帝舜(しゅん)編

虞舜は名を重華と言った。重華の父は瞽叟(こそう)と言い、瞽叟の父は橋牛、橋牛の父は句望、句望の父は敬康、敬康の父は窮蝉、窮蝉の父は帝顓頊、顓頊の父は昌意と言った。これが舜までの七代である。窮蝉から帝舜に到るまで皆力はなく庶民として暮らしていた。

舜の父である瞽叟は目が見えず、舜の母が亡くなると瞽叟は更に妻を娶り象を産むが、象は傲慢であった。瞽叟は後妻とその子を愛し、舜を殺そうと欲した。舜は殺されそうなときには避けて逃げ、父親に殺人の罪を犯させないようにした。一方で小さな過ちは甘んじて罪を受けた。父親と後妻と弟に篤謹に従い、決して逆らうことはなかった。

舜は冀州の人であった。舜は歴山で耕作し、雷澤で漁をし、黄河のほとりで陶器を作り、壽丘で日用品を作り、負夏で売って利益を得た。舜の父瞽叟は頑固で、母はひねくれており、弟象は傲慢であり、皆舜を殺そうとした。舜は従順で子のとしての道を失わなかった。兄弟は考え慈しみ、殺そうとしても殺すことはできなかった。舜を求めたときには舜はいつも傍らにいた。

舜はニ十歳で孝の名声が聞こえだした。三十歳の時には帝堯が用いるべきかどうか聞いた。四嶽は虞舜を推薦して、「用いるべきです。」と言った。これにより堯が自分の二人の娘を舜の妻とし、その内を観察させ、自分の九人の息子を与えさせその外を観察した。舜は媯汭におり内行をますます謹んだ。堯の二人の娘は高貴な身分であることを驕らず舜の家族に接し、その姿は婦道であった。堯の九人の息子は皆ますます舜に篤くなった。舜は歴山で耕し、歴山の人は皆畔を譲った。雷澤で漁をすると、雷澤の上では皆漁の場所を譲った。河濱で陶器を作ると河濱の器には粗悪なものは無くなった。一年で住んでいる場所には集落ができ、二年で邑になり、三年で都となった。

堯は舜に絺衣と琴を下賜し、舜のために倉庫を築き牛羊を与えた。瞽叟はまだ舜を殺そうと思っており、舜を倉に登らせて塗らせた。その時瞽叟は下から火をつけ倉を燃やしてしまった。舜は二つの笠を使って飛ぶようにして下へ降り死ななかった。その後、瞽叟は舜に井戸を掘らせた。この時舜は密かに脱出用の穴を作っていた。舜はすでに深く入り、瞽叟は象と一緒に土で井戸を埋めてしまった。舜は脱出用の穴から外に出てそのまま去った。瞽叟と象は喜び、舜が死んだと思った。象は、「これは象が謀ったことだ。」と言った。象とその父母は舜の財産を分けようとして言った。「舜の妻である堯の二人の娘と琴は象がもらった。牛羊と倉は父母がもらうと言い。」象は舜の宮居で止まり、その琴を弾いた。舜が行って之を見た。象は驚き喜ばずに、「自分は舜を思い心が晴れなかった。」と言った。舜は、「然り、私もそうだ。」と言った。舜はまた瞽叟に仕え弟を愛した。ここにおいて堯は舜を五典百官に試み、皆治まった。




昔、高陽氏に八人の才のある子がいた。世はその利を得て八愷と言った。高辛氏に八人の才のある子がいた。世に言う八元である。この十六族が世の美徳を為し、堯の世になってもその名は堕ちなかった。堯は推挙はしなかった。舜は八愷を推挙して土地を治めさせ、何事お行う際にも時勢に適っていた。八元を推挙し五経を四方に教えた。父義、母慈、兄友、弟恭、子孝にして内は平穏で外は成った。

昔帝鴻氏に不才の子があった。義を覆い隠し賊を庇い悪事を好んで行った。天下はこれを渾沌(こんとん)と言った。少皞氏に不才の子があった。信を毀わし忠を悪くし、悪言を崇めて飾り立てた。天下はこれを窮奇と言った。顓頊氏に不才の子があった。教えても理解出来なかった。話をすることも知らなかった。天下はこれを檮杌(とうこつ)と言った。この三族に世は憂い、堯の時代に到った。堯はこれらを去らせることはできなかった。縉雲氏に不才の子があった。飲食をむさぼり財貨をむさぼった。天下はこれを饕餮(とうてつ)と言った。天下は饕餮を悪として三凶に比した。舜は四門に賓し、四凶族を流して四裔に追放し、以って螭魅を防いだ。この後四門を開けて賢人を迎え入れ、凶人がいなくなったことを伝えた。

舜は大きな山の麓へ入り、烈風雷雨でも迷わなかった。堯はすなわち舜は天かを授けるに足ると知った。堯は老い、舜に天子の政、巡狩を行わせた。舜が推挙されて二十年、堯は摂政させた。摂政して八年で堯は崩御した。三年の喪が明けると、丹朱に譲った。しかし天下は舜の下に帰ってきた。禹、皋陶、契、后稷、伯夷、夔、龍、倕、益、彭祖は堯の時に皆推挙されたがまだ職はなかった。ここにおいて舜は文祖に到り、四嶽に謀り、四門を開き四方の耳目に明通した。帝の徳を論じ、厚い徳を行い、佞人を遠ざけ、即ち蛮夷を兵を率いて屈服させるように十二牧に命じた。

舜は四嶽に言った。「功を明らかにし堯の業績を美しくする者がいたら官に居り事を相させよう。」四嶽は皆言った。「伯禹が司空と為り帝の功績を美しくするでしょう。」舜は言った。「そうだ。禹よお前は水土を平らにしなさい。そしてこれに励むように。」禹は稽首の礼をとり、稷、契と皋陶に譲った。舜は言った。「それでは行きなさい。」舜は言った。「棄よ、民衆が飢えている。后稷に任官するので百穀の種を撒きなさい。」舜は言った。「契よ、百姓は親しまず、五品に従わず。お前は司徒となり敬って五教を敷き寛大でいなさい。」舜は言った。「皋陶よ、蛮夷は夏民族を乱し賊となって内外で乱を起こしている。お前は士を作り、五刑は服があり、五服には三就があり、五流には度があり五度には三居がある。この刑罰には信を以て当たりなさい。」舜は言った。「誰か工に適している人物はいないか。」皆言った。「垂がよいでしょう。」それで垂を共工に任命した。舜は言った。「誰か原野から湿地までの草木鳥獣を管理するのに適している人物はいないか。」皆言った。「益がいいでしょう。」それで益を朕虞に任命した。益は稽首の礼をとり諸臣、朱虎、熊羆に譲った。舜は言った。「行くがよい。そして調和させなさい。」遂に朱虎と熊羆を補佐とした。

舜は言った。「ああ、四嶽よ、朕が三礼を司る者はいないだろうか。」皆が言った。「伯夷がいいでしょう。」舜は言った。「ああ、伯夷、お前を秩宗に任官する。早朝から深夜まで敬い心を清く持ちなさい。」秩宗は夔、龍に譲った。舜は言った。「そうだ。」夔を典楽に任官し、穉子達に教えた。舜は、「正直であり温和で、寛大で栗であれ。簡で驕ることのないように。」詩は意を言い、歌は言を長じ、聲は永きに依り、律は聲と和す。八音はよく打ち解け、倫を相奪せず、神人以って和す。夔は言った。「石を強弱をつけて叩くと百獣が舞います。」舜は言った。「龍よ、朕は讒説を絶ち、大衆に疑いを持たせることを恐れるのだ。お前を納言に任官する。早朝から深夜まで朕の命を出し入れしこれを信としなさい。」舜は言った。「ああ、女二十二人を敬い、この時に天事を相せ。」三歳で功を一考し、三考して官位を上げ下げした。遠近の衆は咸興を功した。未だに従わない三苗を遠方へと流した。

この二十二人は功績があった。皐陶は大理となり平らにし、民衆はその実をえた。伯夷は礼を司り、上下咸譲った。垂は工師となり百工に功をもたらした。益は虞となり山澤を開いた。棄は稷となり収穫時期になると百穀が実った。契は司徒となり百姓は親和した。龍は賓客となり遠方からも来訪があった。十二牧が九州へ行くと背く者はいなかった。ただ禹の功を大とした。九山を抜き九澤を通し、九河を決し、九州を定めた。各々はその職を以って来貢し、その本分を失わず。四方五千里、荒服に到り、南は交阯、北は発、西は戎、折枝、渠廋、氐羌、北は山戎、發、息慎、東は長、鳥夷を撫し四海の内に帝舜の功を戴いた。これにおいて禹は九招の楽を興し、異物を致し、鳳凰が来翔した。天下の明徳皆虞舜より始まった。

舜はニ十歳でその孝が聞こえ、三十歳で堯に推挙され、五十歳で天子の行事を行った。五十八歳の時に堯が崩御し、六十一歳で帝位を継承し、それから三十九年、南に巡狩したときに蒼梧の野で崩御し江南の九疑に葬られた。この地は零陵と呼ばれるようになった。舜は帝位を継ぐと天子旗を戴き父瞽叟に会った。舜は畏れ敬い謹んで子の道を歩んだ。弟の象を諸侯に封じた。舜の子の商均は不肖であったため、舜は後継者として禹を推挙した。十七年で崩御すると人々は三年間喪に服した。禹も舜が堯の子に帝位を譲った時と同様に舜の子に譲った。諸侯たちはこれに従った。その後、禹は帝位を継承した。堯の子丹朱、舜の子商均皆に領土を与え、先帝を敬った。天子の服を着て礼楽を奏で、賓客は天子に謁見した。天子が臣としないのは、敢えて専らにしないことを示したのだ。




黄帝から舜、禹に到るまで皆同姓であった。しかし、国号を別にしてその明徳を明らかにした。故に黄帝は有熊と為し、帝顓頊は高陽と為し、帝嚳は高辛と為し、帝堯は陶唐となし、帝舜は有虞と為し、帝禹は夏后と為した。また、氏も別にし、禹の姓を姒氏とした。契は商国と為し、姓は子氏とした。棄は周を為し、姓は姫氏とした。

禹は夏王朝の建国者で、契は商国の創始者であり、子孫の商湯が夏王朝を滅ぼして商王朝を建国しています。また、商王朝は周によって滅ぼされており、その創始者が棄でした。

帝舜に関しては以下をご覧ください!

舜:五帝に数えられる古代中国の名君で意地悪な親にも忠孝を尽くした帝

禹に関しては以下をご覧ください!

禹:黄河の治水を成功させた大英雄で夏王朝の建立者

后稷に関しては以下をご覧ください!

后稷:帝嚳の息子で農業の発展に尽くした人物

四凶に関しては以下をご覧ください!

四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神

系譜:黄帝ー昌意ー高陽(顓頊)ー窮蝉ー敬康ー望父ー橋牛ー瞽叟ー虞舜

太史公は言った。「学者の多くは五帝のことをますます言っている。そのため、書経では堯ただ一人を記した。また百家は黄帝を言い、その文は洗練されていない。薦紳や先生はこの件を説明しようとしなかった。孔子の伝える宰予問五帝徳や帝繋姓も儒者は伝えていない。私はかつて西に行き空峒へ至り、北は涿鹿を過ぎ、東は海へ至り、南では江淮に浮かんだ。この旅で様々な長老から話を聞くと皆往々にして黄帝、堯、舜の話をしていたために、かつて存在した可能性について考えるようになった。これを総じて原形となった人物はいたのではないかと思った。春秋、国語、を見ると五帝徳、帝繋姓を明らかにした。思うに深く考えなかったのだ。その表見するところは皆虚ではない。書は欠けていてその間があったが、散逸しているのは時々他説に見られる。思いを深く学び心その意を知るものでは無ければ浅見寡聞のために語ることは難しいのである。私は論次を並べ、その内容が最も正しいと思う説を選び、この説を書くことで本紀書の首とした。」

出典:baidu

司馬遷の史記、五帝本紀を翻訳してみました。五帝と言っても堯と舜の話が七割以上占められており、この二者が重要な存在であることが分かります。帝舜はその高い徳と家族に対する忠孝から、孔子の儒教で最も見習うべき人物とされています。

舜の後継者は禹ですが、禹は黄河の治水を行い、民の憂いを取り除いた功績と共に中国初の王朝とされる夏王朝を建国します。この話は史記の夏本紀に記されています。この夏王朝までは伝説とされており、実在を怪しまれていますが近年の発掘でも同年代の大規模な集落跡などが見つかっていますので、その国を建国した人物が禹であるのかどうかの違いだけで国自体は存在していた可能は非常に高いです。

禹の夏王朝は商国の商湯により滅ぼされて商王朝が建国されます。日本では殷と言った方がなじみがあるかもしれません。この殷は西周により滅ぼされ、春秋戦国時代を経て秦の始皇帝により中国初の統一王朝が作られます。

一方で五帝の前はどうなっていたのかと言いますと、女媧による天地創造が行われ、女媧の兄の伏羲と共にこの世が作られていきました。そして神農氏の登場し農業を発明し、薬草から薬を作り、次第に文明が発達していったと言われます。しかし、世はまだ生産性が低く、混沌としていました。そんな中に秩序をもたらし文明を飛躍させたのが五帝の首の黄帝でした。以降は黄帝の系譜による統治が行われています。

史記は紀元前91頃に完成したと言われる漢代に書かれた有名な中国の歴史書です。史記を書くときに、著者の司馬遷は五帝本紀を書くことをためらっていたと言われています。それは神話中の五帝など実在したわけがない、と考えたからです。もっともな指摘ですが、司馬遷の尊敬すべき点は自分の足で各地を回り現地調査を行ったことにあります。この実地調査により五帝伝説のある地には共通した風習や伝承などがあり、五帝はいなかったにせよ五帝のモデルとなった人物出来事はあったのではないかと思うようになり五帝本紀を記したと言います。

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