帝嚳:神話時代の名君として名高い五帝の一

帝嚳(ていこく di4ku4 ディクゥ)

帝嚳は姫姓であり名は俊(夋とも)で姫俊(きしゅん)と言います。または高辛(河南省商丘市睢陽区高辛鎮)で生まれましたので高辛氏と称しました。黄帝(こうてい)の曾孫であり、古代の部落連盟の首領で五帝の一人として数えられています。山海経に出てくる天帝帝俊の原型とされています。

神話を離れて現実の信仰中で見ると、帝嚳は元々は夔と言う一柱の神様でしたが次第に帝俊と帝嚳、帝夋、帝舜に分かれました。さらに高辛氏とも結びついていますのでかなり複雑な関係を持っている帝です。

帝嚳の祖父は黄帝と螺祖(らそ)の長子で玄嚻と言い、父親は蟜極と言いました。伝説では帝嚳は母親が巨人の足跡を踏んで妊娠して生まれたと言います。帝嚳は幼少より聡明で勉強を好み徳は高く、嚳が五歳の時に辛侯に封じられ十五歳で叔父である帝顓頊(せんぎょく)の補佐をしました。帝顓頊の死後、三十歳であった嚳は帝位に就き、亳を都に定め木徳を以て帝と為し高辛氏と号しました。帝嚳の在位は70年で105歳で天寿を全うしました。民百姓から深く愛され、死後には故郷の辛に葬られ、帝嚳陵が建てられました。

帝嚳の後を継いだのは長子の帝摯でしたが暗愚であったため在位九年で弟の堯に帝位を禅譲しています。




春秋戦国時代の後、帝嚳は三皇五帝の内の第三位の帝王に列せられました。帝嚳の前には炎、黄がおり、後ろは啓、堯、舜がいます。帝嚳は夏王朝を築いたと言われている華夏民族の始祖であり、商、周両王朝の先祖であるとされています。これは帝堯や帝摯と言った帝嚳の息子の子孫達が国を築いたためです。

  • 亳への遷都

当時は治水技術が未熟でよく河川が氾濫して洪水が発生していたと言います。帝嚳は民衆を洪水の外から守るために洪水の被害の及ばない亳に遷都しました。そして将軍を前線に派遣して犬戎などの外敵となる遊牧民族たちを平定しました。その後、内政に力を注いで民族問題を処理しました。

  • 節気の訂立

帝嚳以前は人々は一年と四季の概念はありましたが、日が出ると働き日が落ちると寝ると言う生活をしていました。農業を行う際にも種まきの時期などは個人の勘と経験によりました。農業の生産高を上げるためには適切な種まきの時期などを知る必要がありますが、嚳は天象を観察して一年を四季節令に分けました。これにより農業が大いに発展したと言います。

  • 知人善任(人を知り善く任せる)

帝嚳は仁愛を以って国を治め、徳は山のように高く生活は質素であったと言います。民衆の苦痛を理解し天下の民は全て平等としました。自然の規則には背かず天地の鬼神を敬い祀り、神霊に民の幸福を祈願しました。その徳が高かったことから民に深く愛されていたと言います。その治世では社会は富み人民は平和に暮らしました。帝嚳はまた人を知り善く任せました。羿の弓術は天下無双であり、帝嚳は羿を射官に任じ、彤弓と蒿矢を下賜しました。羿は期待に応え、白難が謀反を起こした際にこれを平定しました。咸黒、柞卜など楽曲や楽器の制作に長じた者たちを楽官に命じ、九招の楽曲や鼙鼓、笭、管、塤、帘などの新しい楽器を創作しました。

  • 締造盛世

帝嚳の部落は《春秋緯》中の《命歴序》では十世、400年に渡っており、《易緯》の《稽覧図》では350年続いたとあります。帝嚳の時代は古代で言ういわゆる太平盛世でした。嚳の治世の方法は、人に対する博愛、人民への利益還元、誠信を持ち、仁徳で天下を治めました。

帝嚳は特に誠信を大切にし、偉大なる帝となりました。私利私欲は考えずに公正明大で誠信を以って民に接し、善悪の区別をはっきりとして政治を行いました。この結果が先に述べた太平盛世となり争いのない平和な世の中をもたらしました。

  • 後世の評価

司馬遷の史記では、”高辛は生まれたときには神霊で自分の名を言った。自身を顧みずに施しを行った。深淵なる知力を持ち聡明で物事を明敏に察知した。天の意に順じ民の急を知った。仁と威、恵と信、身を修め天下は従った。地の恵みは節に用い、万民に教え導き、日月を歴し迎え送った。鬼神に明るくこれを敬った。その色盛んでその徳は高かった。動くときは時期に沿い、その服は一般の官吏と同じであった。帝嚳の在位中は天下に遍く日月の照らすところ、風雨の至る所服従しないところはなかった。”とあり、司馬遷も最大級の賛辞を書いています。

三国時代の魏の曹操の息子曹植は《帝嚳賛》で、”軒轅を祖とし、玄嚻の子孫で、生まれてすぐにその名を言った。木徳で世を治めた。天地を撫寧し、神聖霊賓、四海に教えを広め、日月に並んで明るかった。”とあります。

  • 鳳凰来朝

鳳凰は中国では古来よりおめでたい神鳥とされており、天下泰平の世をもたらした徳の高い帝の元にその姿を現すと言います。帝嚳は非常に音楽を愛しており、楽師咸黒に九招、六列、六英などの歌曲を作らせ楽垂に命じて鼙鼓、鍾、磐などの楽器を作らせ64名の舞女に五彩の衣装を着せて歌に合わせて舞わせました。音楽が奏でられているときに鳳凰、大翟などの貴い仙鳥が殿堂へ集まり軽やかに舞いだしたと言います。帝嚳の他にも黄帝などの元にも鳳凰は現れたと言います。

  • 嫁女盤瓠(ばんこ)の伝説

高辛氏の王室には一人の老婦が住んでおり、夜に寝散る時に下界に降りた金狗が夢に出てきて托生しました。老婦が目覚めると耳の中に鈍痛があったので名医を召して三寸ほどの奇妙だが美しい金虫を取り出しました。老婦はこの虫を玉盤に入れて飼い、瓠(ひょうたん)の葉で蓋をしていました。その虫は一日に一寸成長し、身長は一丈二尺になり鳳凰の形状に似た犬になったと言います。名を麟狗とし、号を盤瓠としました。体の紋は錦のようで頭には二十四の黄色い斑点がありました。そんな中、犬戎が兵を起こしたため帝嚳は家臣を招集し、番王の首を斬ることができた者は誰でも帝嚳の娘である三公主を妻にすると言いました。




盤瓠が名乗りを上げた後、敵国へ行き番王が酒に酔っている隙にその頭を咬みちぎって戻ってきてその首を献上しました。帝嚳は盤瓠が犬であったことから、結婚など言いださなければよかったと後悔しました。三公主は承諾に背いては成らないと言い、自分たちは嫁ぐと言いました。帝嚳はこれに同意し、盤瓠と三公主は結婚しました。

結婚後、三公主は盤瓠について山へ入り、狩りと耕作の日々を送り、三男一女を儲けました。長子は姓を盤、名を能と言い、次男は姓を藍、名を光輝、三男は姓を雷、名を巨佑とし、女の子を鍾智深に嫁がせました。

これが現代でも福建省の畲族に伝わる言い伝えで、代々歌や口伝などで伝えられてきた始祖盤瓠の伝説です。

  • 姓氏来歴

顓頊は姫俊の聡明多知を聞き、姫俊に自分の補助をさせました。姫俊は、”九の国家が一斉に我々を攻めてきたとき、我々はもし彼らと総力戦を繰り広げると、それぞれの国と戦わないといけないので勝利は難しいでしょう。”と言いました。これに顓頊は”ではどうすればいいのか?”と答えると姫俊は、”九国の敵は皆我々の領地を欲していますので、彼らは互いに協調することはありません。我々は彼らの間に不信感を芽生えさせ互いに争うように仕向ければいいのではないでしょうか?”顓頊は一考し、姫俊の作戦に同意し、九国の敵中に密偵を送り彼らの関係をこじれさせ味方同士を争わせるように仕向けました。これにより顓頊は九国の乱をわずかな労力で平定することが出来ました。

顓頊は姫俊に忍耐があることも見て取り辛と言う地方に封じました。この時この地方には定常的に水害が発生しており百姓たちは別の土地へと移らざるを得ませんでした。移った先でもさらに水害が起こったので百姓たちは再度土地を移りました。このような移動を繰り返していたので百姓たちには安住の地はありませんでした。

高辛氏は解決方法を考え出しました。それは、皆を率いて土を積み上げてこの地域の土地を高くすることでした。しかし、土地を高くする速度よりも水かさの増す速度の方が速かったため土地を高くしても翌日には水没してしまっていると言う有様でした。

夜になっても姫俊は眠れずにいると、遂には玉皇に状況の説明をするために天上へ行きました。玉皇に向かいそしてこう言いました。”天は人を生んだのになぜ故意に人々に難を与え、なぜ人々に安住の地を与えないのですか?”と言いました。玉皇は言い返せず、天神を辛という地方に遣わしその地を水面より上に引き上げさせました。これ以降、ここの百姓たちは再び洪水で家を失うことはなかったと言います。この出来事により、辛という地方は高いと言う意味が付け加えられ高辛と称し、姫俊は高辛氏と称されました。

  • 帝嚳の子孫

帝嚳の子である契の子孫には400もの姓があると言われています。子の后稷のは1000を超えるとも言われており、子の堯は60以上の姓を持ちます。つまり、帝嚳の子孫の苗字は過去に存在したものを含めると1500を超えています。現在でも全中国の300の姓は帝嚳及びその子孫に由来しており、王、劉、周、呉など帝嚳にまつわる姓を持つ人は中国の全人口の43%の人口を占めています。

出典:baidu

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