商湯:夏王朝を滅ぼして商王朝(殷)を建国した商王朝初代の帝

商湯(しょうとう shang1tang1 シャンタン )

商湯は成湯とも呼ばれており、商王朝の開祖で初代君主です。商湯は紀元前1670年から1587年にかけて生きたとされ、姓は子で名を履と言い、またの名を天乙と言いました。周王朝時代の遺跡である殷墟の甲骨文字には成、唐、大乙と書かれており、宗周の甲骨文字と西周に金文では成唐と称しています。河南の商丘で生まれ、湯は契の十四代目の子孫であり、父は主癸と言いました。この系譜中には商人の語源ともなった王亥がいます。

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王亥:商国の始祖でもあり、商人の祖でもある人物

商湯の系譜

黄帝ー少昊ー蟜極ー帝嚳ー契ー昭明ー相土ー昌若ー曹圉ー冥ー王亥ー上甲微…主癸ー商湯…紂王

夏王朝は実在が議論されている古代中国の王朝です。大禹により建国され、帝位がそれまでの禅譲制から世襲制となった中国で初めての王朝とも言われています。それ以前は帝位は徳のある人物に引き継がれていましたが、夏王朝から帝の子へと帝位が引き継がれるようになりました。

大禹に関しては以下をご覧ください!

禹:黄河の治水を成功させた大英雄で夏王朝の建立者

商湯はもともと夏王朝の方国の一つである商国の君主でした。伊尹や仲虺と言った名臣の補佐の下、近隣の葛国(現在の河南省寧陵)を滅ぼし、後に夏王朝の方国であった韋(河南省滑県)、顧(河南省范県)、昆吾(河南省許昌)など十一の国を制圧し商国は天下に並ぶもの無き強国へ成長しました。その後湯誓を記し、夏桀と鳴条(河南省封丘東)で戦い最終的に夏王朝を滅ぼしました。三千の諸侯に会し、湯は諸侯たちに天子に推挙され、都を亳(河南省商丘谷熟鎮西南)に定め国名を商として商王朝の開国の祖となりました。




商湯は夏王朝の滅亡の経緯を教訓とし湯誥を記し、その臣に民に尽くし勤労することを要求し、さもなければ極刑に処すとしました。亡国の民となった夏民は夏社に留め、子孫をその地に封じました。湯は寛容を以て民を治めることを旨として、その在位期間には階級の矛盾などが緩和され政権は安定し、国力は日増しに強くなったと言います。

商湯は商国の君主として十七年、商朝を建国して以降は在位十二年を経ました。湯二十九年に百歳で崩御し、廟号は太祖とされ武王と諡されました。その長子の太丁が早逝した為、次子の外丙が帝位を継承しました。葬られた場所は六か所あると言われ、最も有力な場所は現在の河南省商丘北面です。

山海経の大荒西経には商湯が夏王朝を滅ぼす様子が以下のように描かれております。”大荒の中に常陽山があり、太陽と月が沈む場所であった。…頭部のない人がおり、手には矛と盾を持って立っており、名を夏耕屍と言った。以前に成湯が章山で夏桀を討伐し、夏耕屍を夏桀の前で斬り殺した。夏耕屍は起き上がり、頭部がないことに気が付き、その罪下から逃れるために闇雲に逃げて巫山へ去った。”とあります。

山海経大荒西経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,16 大荒経大荒西経編

商湯の祖先は帝嚳までさかのぼります。帝嚳の子に契がいました。(契の兄弟には帝堯などがいます。)契の母親である簡狄が入浴していると、忽然黒い鳥、即ち玄鳥が現れて数個の卵を産みました。簡狄がその卵を食べると妊娠し契が生まれたと言います。これは古代では、”天命を持った玄鳥、降りて契を産む。”の伝説です。この契が商湯の祖先です。

帝嚳に関しては以下をご覧ください!

帝嚳:神話時代の名君として名高い五帝の一

帝堯に関しては以下をご覧ください!

堯:お酒や囲碁を発明したという聖人で五帝の一

  • 商国の統治

主癸の死後、その子供であった湯が商侯を継承し、商丘に都を作りました。商国は始祖契から始まり、湯の代になるまでには八回も遷都をしています。商湯が商侯となった時には夏王朝は桀が統治していました。しかし、桀は驕り淫らであり、佞臣を重用し暴虐無道であり民百姓からは搾取を行い憎悪が高まり国勢は衰えていました。




夏桀に関しては以下をご覧ください!

夏桀:夏王朝の最後の帝で中国史上有名な暴君

商湯は夏王朝を滅ぼす準備として夏桀十五年、商国の都を商丘から亳へと移しています。湯は亳に新都を作り、穀物を備蓄し人馬を集め軍隊を訓練しました。もともと商国は夏王朝より”得専征伐”と言い、征伐する権利を得ていました。このため夏王朝の承認を得ずとも出兵することが出来たと言います。このため、戦争の準備は着々と進行しました。

しかし、商湯の時代には商国は七十里ほどしかない小国であるため、強大な夏王朝に対抗するために夏王朝の勢力を削減する策を取りました。商湯はまずは商国の隣国であった葛国をに侵攻し、これを滅ぼしてしまいました。葛国は夏桀の耳目と言うべき国で、商湯の最初の標的になりました。

  • 賢才の任用

商湯には仲虺と伊尹という有能な部下がいました。仲虺は支配階級で奴隷主、一方の伊尹は奴隷の身分であったと言われています。伊尹は少年時代に流浪生活を送っており大きくなって料理人となりました。両者とも才気あふれていました。

諸侯たちは夏桀の民衆を顧みない暴虐を見て離反者が続出し夏王朝の滅亡も時間の問題であると思われました。そのような状況で彼らは人々を苦痛から解放したいと思うようになり、仕えるべき君主を探していました。そして彼らがその能力を託せる人物として商湯の下へ身を寄せました。商湯は両者の才を高く評価し、左右相として夏王朝打倒のための重責を担わせました。

湯は才のある人物を見抜き登用した人物としても知られています。その代表的な二人が商湯の左相である仲虺と右相である伊尹でした。この両名の経歴は全く異なっており、仲虺は奴隷主の支配階級で先祖は代々夏王朝で官員をしていました。一方の伊尹は奴隷で、少年のころから流浪の生活をしており、商湯の妻子の奴隷となりました。

商湯は仲虺と伊尹の補佐を得てまず国内を安定させるために農耕、牧畜を整備しました。さらに、商と友好のある諸侯や方国との団結を強めました。そして夏王朝から離反した諸侯たちを次々に吸収していき一大勢力を築きました。

  • 湯が伊尹と会う

商湯は伊尹に会いに行くときに、彭氏の息子に車を引かせました。途中、彭氏の息子が商湯に聞きました。”どこへ行こうとしているのですか?”すると商湯は、”伊尹に会いに行くのだ。”と答えました。彭氏の息子は、”伊尹は奴隷の身分です。あなたがわざわざ出向く必要はなく、伊尹を呼びつければよろしいではないですか。”と言いました。




商湯は、”これはそのような問題ではない。もしここに飲めば耳が非常に敏感になり目は更に明瞭になるという薬があったとすると私は必ず飲もうとするであろう。商国に対する伊尹はまさにこの薬なのだ。お前は私のためを思って言っているのか?”そういうと彭氏的の息子は立ち去り、車を引かせることはなかったと言います。

  • 夏桀、湯を釈放する。

夏桀二十三年に、商湯は夏桀に捕らえられてしまいました。伊尹と仲虺は夏桀が湯を監禁してしまったことを知り、この窮地に多くの珍しい宝、美女を集めて夏桀へと送り湯の釈放を請願しました。夏桀は貪欲で好色でしたので商が送ってきた宝や美女を見て非常に喜び、湯を釈放して商へと返しました。

夏桀が湯を捕らえたことは国中に恐怖を巻き起こし、諸侯たちは商へやってきて夏王朝を滅ぼすように願いました。湯が釈放されて商へと帰った後に、湯は囚われていた時の苦痛を思い出して夏を滅ぼすことをより一層心に誓ったと言います。

  • 葛国を攻め滅ぼす

葛国は商国の国都であった亳の西にあったと言われている方国です。葛伯は夏桀に忠実であり、この葛伯が湯の夏桀討伐の妨げになる上に、商国の情報を夏桀へと報告してしまうのではないと懸念しました。

葛伯の政治は夏桀同様の圧政であり、民衆は非常に苦しい思いをしていました。衣食ともに不足しており、この窮状を見かねて国境付近の商国の人々は食料を送りました。しかし、葛伯はこの救援物資を奪い取った上に商人を殺すと威圧してしました。

ある日、商国の一人の子供が葛国へと食料を持っていくとこの子は葛伯の手下に殺されてしまいました。商湯はこれを聞き、葛国を敵とみなすようになりました。もはや援助はせずに代わりに兵を送り葛伯を殺してしまいました。葛伯の不仁のため葛国の人民は湯が葛伯を殺しても恨まず、むしろ進んで商国へ帰順しました。

湯が葛を滅ぼしたことは、諸侯中でも反対する者はいませんでした。さらい葛伯の不仁を責め、殺されたことは自ら招いたことであると考えました。ある方国の人民達は夏桀の暴虐を恨み、商湯が夏を征伐し、夏王朝の圧政から解放してくれるように望みました。さらに別の方国では自ら湯に帰順したといいます。

これにより湯は諸侯の盟主となり、国王の権力を行使しました。商湯は葛国の討伐から始め、少しずつ夏王朝の勢力を削いでい最終的には夏王朝を倒してしまいました。

  • 商、昆吾国を滅ぼす。

湯は伊尹の建議を聞き入れ、夏朝への朝貢を停止することで夏桀の実力を試そうとしました。この話が夏都に伝わると桀は九夷の師を召して商を攻めさせました。商湯は桀がまだ九夷族の兵を動員できることをみて、夏の勢力はまだ強大であることを知りました。商湯は時期が早いと悟り、すぐに桀の下へ謝罪へ向かい、服従の意を示し再び朝貢する約束をしました。そして時期を待ち、一年後にその時期が訪れました。




夏桀は商を討伐しないように停戦を指示していましたが、一年後昆吾の夏伯が兵を率いて商へと進攻しました。この時再び九夷族に出兵を要求しましたが、九夷族の首領たちは桀のあまりの横暴さに耐えかねて離反してしまいました。これにより桀の勢力は大幅に弱まりました。伊尹は昆吾の死をも厭わない夏桀への忠誠を見て湯に兵を率い昆吾を迎撃するように願いました。一戦交え昆吾軍は大敗し、さらなる戦いで夏伯を殺し昆吾は滅亡し、昆吾の土地と人民は商に属すようになりました。

  • 兵を興し夏を討伐する

夏桀賢臣、関龍逢は桀のあまりの横暴さにたびたび諫めましたが、桀の逆鱗に触れ関龍逢は処刑されてしまいました。太史令の終古は卜占の凶兆の結果を見て嘆き、結果を桀に送りましたが桀は一顧だにしませんでした。終古は商国へと亡命し、商湯はこれに大喜びし、これこそ商湯が待ち望んだ時機であると思い夏を滅ぼすための準備を始めました。

紀元前1666年に商湯は景亳(現在の河南省商丘市)にて、夏桀の罪状を読み上げ商湯は正式に挙兵し夏へと進軍しました。湯と仲虺、伊尹は七十輌の戦車と五千人の歩兵から成る軍でした。夏桀も兵を集め迎撃へ向かいました。夏商両軍は鳴条の野で対立し、大規模な戦いへと発展しました。

戦いの開始の前、湯は士気を鼓舞するために商軍と援軍の諸侯、方国の軍隊に向かい一篇の夏討伐の誓詞を読み上げました。いわゆる湯誓です。商軍の士気は非常に高く、夏軍と決死の一戦を望んでいました。両軍は丸一日戦い、激しい雷雨の中でも商軍は雷雨を避けずに勇敢に戦いました。夏軍は敗退を始め、夏桀は兵を立て直すことはもはや不可能であるとみるや、五百の敗残兵と共に東へと逃げ、三㚇(現在の山東定陶北)へと到りました。

三㚇は夏王朝の方国の一つで三㚇伯は夏桀が敗走してきたことを知ると直ちに夏桀を保護し、兵を集めて湯に決戦を挑みました。湯と伊尹は夏桀が三㚇に保護されたているのを見て三㚇を攻め、成耳(現在の山東省汶上北)で交戦し三㚇軍を打ち破り三㚇伯を処刑し、湯は夏桀を南巢の亭山に追放してしまいました。商朝が建国された三年目に夏桀は亭山で憤死してしまいました。

湯と伊尹は夏王朝の残存勢力を徹底的に掃討するために軍を西へ進めました。韋、顧、昆吾、三㚇などの方国は夏王朝に忠誠が高かったので商湯により滅ぼされ、その後商軍は大した抵抗もなく夏の都である斟を占領しました。夏朝の重臣たちは皆商湯に臣下となる意を示しました。湯と伊尹は夏朝の臣民を鎮めた後祭天の義式を挙行し、夏桀を討伐したのはその罪の重さによる天の医師であることを示しました。ここに夏王朝は滅びました。

  • 商朝の建立

湯は二十年にも及ぶ戦争を経て夏王朝を滅亡させ、夏朝末期に混乱していた中原を統一しました。その影響を及ぼした地域は黄河の下流域を加え、夏王朝よりも広大であったと言われています。

湯は夏を滅ぼした後に奠を商王朝の領土の基盤としました。商湯が武力を以て夏を滅ぼしたことから国王を打ち破ることは定説となりました。中国歴代の王朝は王朝交代の時い皆この先例の通り武力で倒されており、これより商湯革命と呼ばれています。

史記の殷本紀によると、湯は朝廷に参内した諸侯皆に礼を以てもてなし、湯は自分も諸侯の位にいて謙譲を表現した。諸侯は敬服し、湯は天子の位に就いた、書かれています。さらに三千諸侯の下で湯は天子の位に就き、天に報告し商王朝を建立したと言います。

湯が商王朝を建国すると、内政に力を入れ、生産を奨励し、民は安心して暮らしたと言います。統治領域を広げ、黄河上流の部族や氐人、羌人なども来朝し朝貢し帰服したと言われています。

出典:baidu

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