舜(しゅん shun4 シュン)
帝舜は紀元前2277年から紀元前2178年の間に生きた帝王であると言われています。舜の姓は姚で氏は嬀、名を重華と言い、中国部落連盟の首領で虞国を建国しました。後世ではその功績を称え、五帝に列せられており、帝舜や虞舜、舜帝などという尊称で呼ばれています。
《史記・五帝本紀》には、”天下の徳は虞帝より始まる。”とあります。この虞帝とは舜の事を示しています。《尚書・堯典》には、堯が自分の二人の娘を堯に嫁がせた、とあります。これらの書物には皆舜が理を以って政を行い国を治め広く徳を示したため、人民は舜に従い世は平和であったことが書かれています。
舜は黄帝の系譜の一人であり、黄帝の孫の顓頊から六世の子孫にあたります。しかし、顓頊の子で舜の五世代先祖の窮蝉からは平民となっており、小さいころから父親の瞽叟の後妻とその子供から迫害を受け苦しみましたが、父母を敬い母違いの弟を実の弟として接しました。民百姓はこのような舜を見てほめたたえました。
黄帝に関しては以下をご覧ください!
顓頊に関しては以下をご覧ください!
堯に関しては以下をご覧ください!
また、舜は重明鳥の生まれ変わりだと言う説もあります。
重明鳥に関しては以下をご覧ください!
- 若いころの舜
舜は姚墟で生まれました。舜の家は清貧でしたので肉体労働を行い、経歴は不遇でした。歴山で田畑を耕して働き、雷澤で漁をしていました。黄河の河岸で陶器を作り、寿丘で日用雑貨を作りました。大きくなって舜の徳の高さはさらに広まり、民衆の間で人気となりました。
舜が歴山で田を耕していると、当地の人々は田の境界線で争わず互いに譲り合いました。人々は皆舜の近くに住みたいと思い、一年で集落ができ、二年で邑に、三年で都になったと言います。
当時の帝であった堯の時代も長くなり、継承人を欲したので四岳がて舜を推挙しました。そこで、堯は舜を後継者としてふさわしいように、自分の二人の娘を舜に嫁がせ、九名の男を舜の左右に侍らせました。また、舜に五典の責任者とし、百官を管理させ、迎賓礼儀に責任を持たせました。このため舜は皆を治めて政務を執り行いました。
- 舜の仕官
舜が堯に仕官したとき、よく思わなかった人物がいました。それは父親の瞽叟と腹違いの弟の象でした。彼らは舜を殺して財産を奪い取ってしまおうとしました。瞽叟は舜に屋根の修理をさせ、下から火をつけて燃やしてしまいました。すると舜は二つの笠を翼にして飛び降り難を逃れました。その後、瞽叟は舜に井戸を掘らせました。
井戸が十分に深くなった時に瞽叟と象は上から土で埋めてしまい、舜は生き埋めになってしまいました。舜は父親たちの殺意を事前に察知しており、井戸に横道を掘っていました。舜はこの横道を使い地上に抜け出しました。瞽叟と象の陰謀はさらに陰謀を重ねますが、最終的には舜の変わらない忠孝に感動し、心を入れ替えました。
その後、堯はは舜を政に加え、百官を管理させ、賓客をもてなさせました。舜は政を整然と行い、人を使って様々な改革を行いました。舜は堯が登用しなかった八元や八愷などの賢者を登用し、八元を土地の管理に、八愷を教育担当に任命しました。
- 四凶の追放
四凶、即ち帝鴻氏の不才の子である渾敦(こんとん、混沌とも)、少皞氏の不才の子である窮奇(きゅうき)、顓頊氏の不才の子である檮杌(とうこつ)、縉雲氏の不才の子である饕餮(とうてつ)という悪名高く堯も手を焼いていた者たちを、舜は四凶族として辺境の蛮地に追放し、中原に平和をもたらしました。
もともとは帝たちの不才の息子たちで、手に負えない存在であった者たちを舜が制圧したという話ですが、ここから想像がふくらみ後世にはこの四凶は世にも恐ろしい怪物となっていきます。
四凶に関しては以下をご覧ください!
四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神
- 四罪の実施
司馬遷の《史記第一巻・五帝本紀第一》中には四罪について以下のように書いています。”驩兜は共工を進言した、堯は最初は不可と言った工師として試してみた。しかし、思った通り共工は放蕩だった。四岳は鴻水を治めるために鯀を推挙した。しかし、堯はこれも不可と言った。岳は引き下がらず強く頼んだので、堯はこれを試してみたが、やはり無功だった。このため百姓は不便な思いをしてしまった。三苗は淮というところにいて荊州は時折反乱を起こしていた。舜が戻ると帝である堯にこれらの対策を任せてほしいと言い、共工を幽州に流して、北狄となり、驩兜を崇山に追放し南蛮と、三苗は三衛に遷し、西戎と、鯀は羽山で処刑してしまい、東夷とそれぞれなった。四罪を実行して天下は皆舜に服従した。”と書かれています。
四罪は四凶と似ていますが、四凶と異なる点はもともとは無能な家臣や厄介な部族を指していたことです。共工(きょうこう)、三苗(さんびょう)、鯀(こん)、驩兜(かんとう)はそれぞれの罪により舜により断罪されてしまいました。これにより、世の秩序は保たれて舜の時代は大いに発展したと言い、司馬遷も世の徳は舜から始まった、と書いています。
四罪に関しては以下をご覧ください!
四罪(共工、鯀、三苗、驩兜):古代中国神話中の悪行を尽くし舜に断罪されてしまった悪神達
- 舜の政治
堯の死後、舜は政治上で最も大切な改革を断行しました。大禹を始めとして皋陶、契、棄、伯夷、夔、龍、垂、益など有能な人材を登用しそれぞれの職責を明確にしました。すなわち、舜は禹を司空に任命して治水を行わせ、棄を后稷に命じて農業を担当させ、契を司徒に命じて教育を推進させ、皋陶を士に命じ、刑法を司らせました。垂を共工に命じ、百工を管理させ、益を虞に命じ山林を管理させ、伯夷を秩宗に命じ礼儀を担当させ、夔を楽官に命じ音楽とその教育を担当させ、龍を納言に命じ、命令発布に責任を負わせ、意見を収集させました。
さらに、三年ごとに政績を考察し、三度の結果で昇進あるいは罷免を決定します。このように実績を重視するという政策を打ち出したことは新しい手法でした。これらの人材の中で治水を成功させた大禹の成績が顕著であり、”四海の内皆大禹の功を戴く。”と称されました。
舜が老年になると、自分の息子である商均が不肖であったため、治水で功のあった大禹を後継者に据えました。言い伝えによると、舜はあ堯の死後在位39年で南方の巡守を行っている最中に蒼梧の野で崩御し、江南九疑山に葬られ、その地は零陵と称されました。
大禹に関しては以下をご覧ください!
- 舜と儒教の関係
儒教は春秋戦国時代に孔子が興した学問の一派でしたが、その後に宗教となりました。儒家は舜に対して特別な意義を持っており、それは舜の親に忠孝を尽くした点を重視しているためです。儒教では舜の人格を儒家論理の見本としました。
孟子は孔子後の儒学を継承発展させました。孟子は舜の孝行を最大限賛辞し舜を見習い努力するように説きました。この儒教の影響もあり、中国文化では古くから舜の影響を強く受け続けてきました。
出典:baidu
下のリンクをクリックすると中国の神獣や妖怪をまとめたページへ移動します。