后稷:

后稷(こうしょく hou4ji4 ホウジィ)

后稷は山海経では天帝である帝俊の子として描かれています。后稷は稷山(現在の山西省稷山県)で生まれ、稷王と称されました。后稷は姫姓であり名を棄と言い母は姜嫄で后稷は堯舜時代に農業の官職についていたと考えられています。帝俊は帝嚳と同一であると考えられていますので、后稷は帝嚳の息子とされています。

后稷という漢字は后は帝王を表し稷は穀物を表しますので、農業と関係があることが名前から推測されます。また、姫姓は黄帝(黄帝の本名は姫軒轅(きけんえん)と言います。)と同じ姓ですので、黄帝(こうてい)の系譜であることが分かります。黄帝の子孫は様々な国の祖先となりましたが、后稷は周王朝の始祖として有名です。

后稷は少年時代に麻や大豆などをよく栽培していたと言います。成人した後には農民たちに農業技術を教えました。后稷は堯に古邰城(現在の陕西省武功県)に封じられ、死後には西南黒水の間の都広野に葬られました。后稷は様々な食物を栽培して収穫していたという言い伝えより、その実像は堯舜時代の農官で百姓に農業を教え五穀と麦を栽培し始めた人物であると考えられています。

  • 后稷の出生

伝説ではある日、母親の姜嫄が散歩していると巨人の足跡を見つけました。その大きさは人間のものとは考えられず、姜嫄はなぜかその足跡を踏んでみたいと言う強い欲求を感じました。そして巨人の足跡の親指辺りを踏んでみるとなんと子供を身ごもってしまったのです。

十か月後には一人の子供を生みましたが姜嫄はその子が妖怪だと思い子供を裏路地に放り投げてしまいました。しかし、その子の周りには不思議な出来事が起こり始め、牛や馬はその子を避けて通り決して踏みませんでした。そこで姜嫄はその子を山中に置き去りにしようとしましたが誰も出来ませんでした。最後にその子を氷の張った河の上に置くと、突然一羽の大鳥が現れ自分の羽毛の中にその子を入れて温めました。

姜嫄はこれを見て神の指示であると思い赤ちゃんを抱きかかえて家に帰り育てました。そして産まれたときに捨てようとしたことに因み名を棄としました。

  • 后稷の功績

《詩経・大雅・生民》には、”后稷は子供の頃麻や大豆を植え、成人してからは穀物を善く植え育て、民に育て方を教えた。堯はこれを聞き農師と為し天下は利を得て、功績を残した。棄は邰に封じられ后稷と号し、別姓は姫氏であった。”とあります。このように后稷は農業において多大な功績を残しました。

《詩経・大雅・生民》にはさらに穀物の収穫、脱穀、加工して祭祀用の豆器に入れ天に捧げる方法などについても記されており、后稷が堯舜時代に農作業を効率化させさらに収穫物は上帝や先祖に捧げられるようになりました。

  • 后稷の家族構成

后稷の高祖父は黄帝(こうてい)で、曽祖父は玄嚻、祖父は蟜極、父は帝嚳(ていこく)で生母は姜嫄であるとされています。黄帝は中原一帯を初めて統一したと言われている偉大なる帝で、黄帝以降も黄帝の系譜が代々帝として即位してきました。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

帝嚳に関しては以下をご覧ください!

后稷の家系の中で特筆する人物は黄帝の他に父親の帝嚳がいます。帝嚳は徳を以って国を治め聖人として名高い帝です。そして帝嚳の息子たちには帝摯や帝堯がいます。つまり后稷の兄弟達です。帝摯は暗愚でしたが、その母である常儀は九個の月を生みさらに神話中の大英雄である后羿の妻となる嫦娥も生んでおり中国神話に精彩を与えています。帝堯は名君として名高く帝堯の時代は帝舜と共に堯舜時代と呼ばれています。

帝摯に関しては以下をご覧ください!

帝堯に関しては以下をご覧ください!

帝舜に関しては以下をご覧ください!

常儀に関しては以下をご覧ください!

嫦娥に関しては以下をご覧ください!

帝摯の失政は次の帝である帝堯により取り戻されました。帝堯は偉大なる帝として神話中でも確固たる地位を築いています。もう一人の兄弟である契は商王朝(殷)の祖先となったと言われています。一方の后稷は周王朝の祖先と言われていますので人物関係の面白さと言いますか、商王朝と後に商王朝を滅ぼすことになる周王朝の先祖は何と同じ帝嚳であったのです。このように神話中のエリート家系に生まれたのがこの后稷でした。

出典:baidu

今回は后稷のお話でした。后稷の稷という漢字は穀物という意味があります。似たような名前に社稷(しゃしょく)という神様がいますが、この名称は転じて国家を意味するようになりました。

社稷に関して詳しくは以下のページをご確認ください。

当時農業は社会生活の生活の基本でありました。農業に関する神様や天候に関する神様が多いのは安定して食料を得たいと言う人々の欲求により作り出されたからです。農業に関していえば、農耕を始めた人物は神農氏であると言われています。しかし、神農氏は五穀の内の二種類しか栽培していませんでした。農業として五穀が栽培され始めるのは黄帝時代からです。后稷は黄帝の子孫ですのでこの時代にはすでに五穀がありました。

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