黄帝(こうてい huang2di4 ホアンディ)黄帝の伝説と歴史
黄帝は五帝の筆頭として中国で尊敬を集めています。中国神話史上で最も功績があった人物はと言えば戦神である蚩尤(しゆう)を倒したこの黄帝の名が真っ先に挙げられるかもしれません。中国について知るにはまずは黄帝を知る必要があります。なぜなら、中国の歴史書である司馬遷の史記は五帝本紀から始まっており、五帝本紀はこの黄帝から始まっているからです。史記に照らし合わせると、黄帝は中国の歴史の始まりとされています。実在したかどうかは謎ですが、司馬遷の漢の時代には黄帝の伝説が数多く残されていました。
古い中国の神話中では三皇五帝が有名です。この黄帝は五帝(三皇の場合もあり)の一人として数えられており、これらの王たちが活躍したと言われている時代は紀元前3000年から2000年頃です。この時代は神獣や霊獣を交えた様々な大きな戦いがおこったとされており、神話の形成には日本の古事記などと同様に様々な部族同士の衝突が起こったのではないかと考えられています。
古い中国の遺跡に殷墟(いんきょ)がありますが、殷墟は商の時代の遺跡であるとされています。商は紀元前1000年頃に滅びましたが、商の時代の末期には太公望や聞仲、妲己などが出てくる封神演義などの有名な物語もあります。この時代が中国で確認できる最古の時代です。三皇五帝はこれ以前に様々な戦いを繰り返すつつ古代中国の土台を築き上げたと伝えられています。
黄帝とは?
黄帝は五帝の中でも逸話が多く様々な伝説が残っています。黄帝は紀元前2717年に生まれて紀元前2599年に亡くなったとされ、古の華夏部族連盟の首領で五帝の筆頭でもあり中国の人文の祖とも言われるように様々な発明を行ったと伝えられています。
黄帝は少典と附宝との間に生まれた子で、本姓は公孫と言いましたが八大性の一つである姫に改姓し姫軒轅(き・けんえん)と称しました。軒轅の丘に住み軒轅氏と号し有熊に都を建設したので有熊氏とも称されました。また、黄帝を帝鴻氏と称す人もいました。公孫軒轅という記述も見かけます。有熊は河南省にあったと言われており、父の少典がその領主でした。少典はもともとは伏羲(ふっき)や女媧(じょか)と言った三皇たちの直系の子孫です。
黄帝の妃は嫘祖(れいそ)と言い、蚕から糸を紡ぎ絹を発明したと言われています。
嫘祖については以下をご覧ください!
黄帝には土徳が強く現れていたと言い、土は五行では黄色という色と中央という方角に属していますので、黄帝と言われるようになりました。黄帝は華夏の部族を統一するとともに、東夷を征服しさらに強大で凶暴な蚩尤(しゆう)率いる九黎族をも統一するという偉業を成し遂げました。このときの戦いには様々な神獣たちが参戦しています。勝敗のカギを握っていたのが応龍と旱魃でした。中国七不思議のひとつですがこの日照りの女神である旱魃はその後キョンシーになったとも言われています。
蚩尤については以下をご覧ください!
応龍については以下をご覧ください!
応龍とは黄帝の戦神蚩尤を倒した中国神話最強の翼龍で龍の最終進化形態です。
旱魃については以下をご覧ください!
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キョンシーについては以下をご覧下さい!
黄帝の在位期間には衣冠制を開始するとともに舟や車、音律の制定、医学の発展など多岐に渡る分野が発展を遂げました。土徳とは司馬遷の史記の五帝本紀に出てくる五徳の内の一つです。他にも火徳や水徳などがあります。火徳は道教の祖と言われている神農氏(しんのうし)に強く現れていたと言い、炎帝(えんてい)とも言われています。炎帝という称号は代々受け継がれており、八代三百八十年に渡って存続していたと言われています。黄帝時代の炎帝は榆罔(ゆもう)といいました。
神農氏は不老不死の妙薬である丹(たん)を作る錬丹術(れんたんじゅつ)を行っていたと言います。道教ではこの丹を作ることが秘技とされています。錬丹術は西洋の錬金術ともども現代科学から考えるとトンデモ理論になってしまいますが、錬金術同様科学の発展には少なからず寄与しました。
この神農氏は道教の祖と言われています。丹ですが、道教の秘薬という意味の他に赤という意味があり、朱色の原料である硫化水銀(辰砂)を指しています。日本では丹のことを”に”とも言います。丹羽長秀の”に”です。丹羽さんは赤い羽根という意味の苗字になりますね( ´∀`) 硫化水銀は熱して還元させることで水銀単体として取り出せます。
HgS + O2 -> Hg + SO2
道教ではこの水銀が錬丹術の重要な材料となっており、青龍に例えられています。この還元反応の際には二酸化硫黄が発生しますが、こちらは朱雀に例えられています。
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史記の五帝本紀には、”神霊の加護を持って生まれ、生まれてすぐにしゃべることができ鋭敏で、大きくなるにつれて優しさを覚え、聡明な人物に成長した。軒轅の時代には神農氏の治世が衰退し、諸侯は互いに争い、民百姓を虐げ、炎帝自身も他国を侵略していた。このため、多くの諸侯は軒轅に助けを求め、諸侯は武器を持って自ら事態の収拾に乗り出した。この中で蚩尤が最も凶暴で倒すことができなかった。軒轅は用兵に長けており勇敢で武芸百般に通じていた。炎帝とは阪泉之野で戦い、三度の激戦の末、ついにその志を全うした。”とあります。
蚩尤
多くの歴史書に記載されているように、黄帝の天下統一の後、中原は安定し、様々な産業が発展し、豊かな文明が築き上げられたといいます。このため、黄帝は中華人文の祖として尊ばれています。黄帝は軒轅之丘に住み、都を有熊に定め、漢の時代には新鄭北関の軒轅之丘の前に軒轅を祀る祠が建てられています。
軒轅は太陰暦の三月三日に生まれました。有熊氏の王として即位したのは紀元前2697年で、その時20歳でした。このことから軒轅は紀元前2717年生まれと推測されています。道家はこの年を道歴(道教で用いる暦)元年としました。軒轅が生まれたのちに様々な不思議な出来事がおこったと言われています。軒轅は生まれてすぐに喋れたと言い、15歳の時には知らないことがないという秀才ぶりです。紀元前2697年、弱冠20歳で即位後、有熊氏の勢力は急激に増しました。姫水から東に向かって勢力を拡大していく過程で神農氏が行っていた農業を継承したために生産性が拡大しました。農業の生産高が増えると国力が増し、さらなる発展を遂げることができ急速に勢力を増していった一因となりました。そして、この間に黄帝は軒冕(けんべん:昔の身分の高い人が乗る車と冠のこと)を発明しておりこのため軒轅という名前になりました。ちなみに轅(ながえ)は昔の牛車などを引くための二本の棒のことです。
その後、蚩尤との死闘、炎帝との対立を経て泰山で封禅の儀を行い黄帝と呼ばれるようになりました。そして仙人たちに道教の教えを請い、道を究めるための鍛錬を行いました。その後、鼎を発明後に龍が訪れて共に天界へと行き、天帝に謁見したと言います。この故事は乗龍昇天と言い、黄帝が崩御した際の故事となっています。
神話としての黄帝
黄帝はもともと四つの面を持つ雷神であるとも言われており、もともとは神様でした。黄帝の系譜は怪力乱神を語らず、の儒教や王侯貴族たちの都合で擬人化されて、春秋戦国時代に人間としての黄帝の系譜が出来て、各王族たちがその系譜に組み込まれていきました。つまり、自分達王族の血筋の正当性を古代に求めたわけです。
司馬遷の史記、五帝本紀には黄帝を始め、顓頊や嚳など皆人間として描かれています。これらの帝王もまた神様でした。
黄帝はもともとは荒ぶる神であり、大自然の脅威を体現し、その脅威を収めるために巫術的、つまりシャーマニズム的な信仰が行われてきた存在です。巫術とは、目に見えない力を自然や神に及ぼして働きかけることで、雨乞いなどが巫術の例です。そもそも黄帝の原型は雷神であったという説もあります。
突っ込んで書くと、黄帝が擬人化された時点でそれは神話としての意味を失います。なぜなら神として国家的な祭祀がなされないからです。本質的には神話には祭祀が必要で、祭祀の行われない神話は枯れた神話などと呼ばれます。この考えに基づくと、春秋戦国自体を経て漢に到ると枯れた神話が多くなりました。実際に神の祭祀を盛んに行っていたのが商王朝や周王朝であり、漢代以降は神としてではなく、偉大な帝や祖先として散発的な祭祀が行われるのみになりました。ただ、民間や辺境の少数民族の間では脈々と祭祀が行われてきた神話は多くありますので、完全に枯れてしまったという訳ではありません。
道教では黄帝は神として取り込まれていますが、道教は民間信仰であり道教では黄帝は仙人の要素を帯びた話が多く創られています。仙人ぽい話が出て来たら、ああ、道教か…と思って間違いないです。
つまり、簡単に言っただけで黄帝には本来の神としての姿、儒教などによる人としての姿、道教による仙人の姿があり、陰陽五行説もありますので、様々な解釈を多角的に見ながら理解しなければならないことが黄帝のみならず、中国神話の理解を難しくしている要因です。
もっと突っ込んで言うと、手を加えられていない神話本来の姿を描き出す際に、最も信頼できる文献が奇書と言われている山海経で、儒教などの影響を受けない生の神話が書かれています。不思議な神々の姿を多く見れるので、面白いですよ( ´∀` ) その他にも亀甲文字など、商王朝時代の文字を解読することでも神話の情報が得られてます。
山海経を読んでみたい方は翻訳がありますので、以下のページからどうぞ
黄帝の華夏統一
炎帝治世の後期には中原(長江と黄河に挟まれた肥沃な地域)の部族たちは互いに争い終わることのない戦乱の世となっていました。この時代に黄帝は即位し、炎帝に従わない部族を次々と打ち破り帰属させていきました。そして混沌としていた中原の諸侯たちは最終的には炎帝、黄帝、蚩尤という三つの大きな集団に収束していきました。黄帝は中原を勢力下におさめており、炎帝は太行山から西方を、蚩尤は東方の九黎族の首領でした。炎帝と蚩尤は黄河下流地域の帰属をめぐって争い、炎帝は敗北して黄帝に援軍を求めました。
黄帝は蚩尤と三年間で九度矛を交えましたどの戦いでも決着はつきませんでした。最終決戦では黄帝は兵力を涿鹿(たくろく)に集結させ、炎帝、黄帝連合の総大将として采配を振るい、風后と力牧の補佐の元ついに蚩尤を討ち取りました。そして黄帝は中原の部族統一を成し遂げたのです。
中原地域
その後、涿鹿に都を建てました。戦後黄帝は蚩尤の領土であった九黎に進軍した後に、天下の諸侯たちを集めて泰山で封禅の儀を行いました。すると、突然空に大きな黄色いミミズやケラが現れました。このため黄帝の土徳を以て王と称し、五行で土は黄色なので黄帝と呼ばれました。ちなみに韓非子の説によれば蚩尤は殺されずに黄帝の配下になっていて封禅の儀に参列しています。
封禅の儀については以下をご覧ください!
封禅:中国の神話時代から行われてきた封禅の儀とは一体どんな儀式?
黄帝の政治
黄帝は天下を平定後、国家的な職官制度を制定しました。中央職官名には雲が付き、宗族管理官を青雲、軍事の管理は縉雲と称しました。また、左右大監を設置して各部族の管理にあたらせました。風后、力牧、常先、大鴻といった重臣たちは各大臣に任命されました。さらに黄帝は山川の鬼神を祀るとともに、神蓍から推測することで暦を定めました。
軒轅黄帝の功績の一つに”芸五種”があります。芸は園芸などに使用されている通り種植という意味があり、五種とは黍(きび)、粟(あわ)、豆、麦、米の五穀です。伝説によると神農氏は黍と粟のみを植えましたが、黄帝はこれに加えて大豆や麦、米の生産を推進したため当時の農業を大いに発展させたといいます。
中国の前史時代には農耕を行う集落は小河川沿いに形成されていたという特徴があります。このことは初期の農業に必要な水は河川に依存していたことを反映しています。最も古い井戸がある河姆渡遺跡を炭素年代測定で調べると5700年前に存在していたことが判りました。この遺跡周辺は比較的水位の高い長江下流デルタの沼沢地帯で、深く掘らなくても容易に水が得られましたのでこの地域で井戸が作られたことは驚くことではありません。一方で黄河流域の水位の低い地域では井戸を掘ることは難しくなります。しかし、5000年から4000年前の黄河流域の遺跡を調べるとどの遺跡にも井戸があったことが判っています。このことから当時の生活には井戸は欠かせない存在であったことが判ります。河南の洛陽の矬李遺跡と同じく河南湯陰の白営遺跡で見つかった古井戸は今から四千年以上前の黄帝の時代と同時期のものです。井戸の形成はすなわち農業生産性の拡大や村社会の形成を意味しますので、黄帝の時代には技術の進歩と相まって農業生産高や部族規模は徐々に拡大していったと推測されます。この農業の発展がその後の中国の発展の基盤となり、多用な中国文化が創出されていきます。
乗龍昇天
黄帝は晩年に鼎(かなえ)を発明しました。最初の鼎を鍛造し終えると突然空から一条の大きな龍が飛んできました。この龍の眼光は勇ましく身体は金色の光に包まれていました。黄帝と大臣たちはみんな驚き佇んでいると、龍はゆっくりと黄帝に近づき、近づくにつれて眼光は柔和になりました。黄帝のそばまで来ると龍は黄帝に言いました。”天帝はあなたが中国の発展に多大なる寄与をしていることを喜んでいます。このためあなたを天帝に謁見させるために私を遣わしたのです。”これを聞いて黄帝は理解し頷いた後に龍の背中にまたがりました。そして群臣に向かって”天帝が謁見を望んでおられる。皆の者、達者でな。”と言いました。すると群臣は”陛下、私もお供させてください!”と口々に叫び、黄帝と共に行くために龍の背中に乗ろうとしました。しかし、龍が体をひねると群臣たちは振り落とされてしまい、床に落ちてしまいました。黄帝を乗せた金龍は宙に浮き黄帝と共に空へと飛んでいきました。飛行速度は速く瞬く間に雲中に消えていきました。
群臣たちはなすすべもなく天を見つめました。一人の大臣が天を見て”誰もが天へ行けるわけではない、黄帝のような偉大な人物だからこそ行けたのだ。あなたたちにその資格はあるのか!”と言いました。その後、黄帝が昇天した地を鼎湖と呼ぶようになりました。龍が黄帝を連れて鼎湖を去ったことは”龍去鼎湖”といい、黄帝がこの世を去ったことを意味しています。
天帝については以下をご覧ください!
様々な黄帝の発明
黄帝の在位期間は長く、この間国は繁栄を極め、政治は安定し、文化は進歩し、文字や音楽、数の数え方、宮室、舟車、衣装、指南車など様々な発明品が作られました。これらの発明品は堯、舜、禹、皋陶、伯益、湯など黄帝の末裔たちにも受け継がれました。このため、黄帝は中国の祖として奉られています。中国の歴史書には、炎帝の後中国の部族を統一した後に暦を制定したり、農民たちに五穀の育て方を教えたり、文字を振興し、楽器を作り、医学をも発展させました。
指南車
さらに十干に十二支を加えることで干支を作りこれは農暦として今でも使用されています。十干は甲乙丙…で十二支は子丑寅…です。日本では今年は子年、来年は丑年というように十二支のみで年を表し12年後に同じ年になりますが、実際の干支では十干もついているので60年先にならないと同じ組み合わせは現れません。この暦は甲子(十干の甲と十二支の子)から始まり乙丑、丙寅となり、一周60年です。60歳、数え年61歳を還暦と呼ぶのはこの歴が一周するからです。干支は10種、十二支は12種あり、組み合わせは120種になりますが、甲と子の組み合わせから並べていくと60種で一周して元の甲と子の組み合わせになってしまうので60種しかありません。ちなみに辛亥革命などの名称にはその年の干支がつけられています。
国の政治体制においても様々な制度を作っています。八家を一井とし、三井を一隣とし、三隣を一朋とし、三朋を一里とし、五里を一邑とし、十邑を都とし、十都を一師とし、十師を州として全国は九州に分けられました。単純に計算すると、8×3×3×3×5×10×10×10×9=972万戸あったことになります。一家が5人で構成されていると仮定すると4860万人の人口がいたことになります。4500年前の中原一帯の総人口であると考えると少し多いような気もしますが近からず遠からずの数字に感じます。
その他、官司職を設置し、左右大監を置き、三公、三少、四輔、四史、六相、九徳など国家を維持運営するための官位を定めました。
以下が黄帝の即位中の主な発明です。
数学:黄帝配下の隷首が数の数え方を作るとともに、度量衡(重さの統一)を定めた。
軍隊:戦法の使用。風后の握奇陣(あっきじん)といった陣形など。
音楽:伶倫が竹で簫管を作り五音十二律を定めた。これは現代でも使用されている。
衣服:最初の妃である嫘が養蚕を始め、絹の衣服が作られるようになった。
医薬:岐伯と共に病理について調べ、黄帝内経を作った。
文字:倉頡が文字を制定し、六書の法を示した。六書とは漢字を作る際の象形、つまり形や会意のことで、2つの漢字や部首などを組み合わせて新たな漢字を作り出すことなど。
鋳鼎:鼎を作り、さらに中原を九州に分けた。
井戸:井戸を作った。
その他:舟、車、弓矢、家の作りなどなどその他多数
発明品が沢山ありすぎますが、この時代の前後に発明されたものは全て黄帝の業績となってしまっているためだと推測されます。つまり、俺の発明は俺のモノ、お前の発明も俺のモノというジャイアン理論に根差しているためだと思います。そして、これらの発明は後の中国発展のための土台となっています。
涿鹿(たくろく)の戦い
蚩尤が率いる部族連盟の生産力は炎帝の華夏に比べて高く、良質な武器を生産している上に兵士たちは勇猛果敢でした。そのため、”銅頭鉄額”や”威震天下”などという武名が轟いていました。炎帝は抗う方法もなく惨敗し、蚩尤の大群の来襲で領土を占拠されてしまいました。華夏連盟の共同体としての原則である相互援助の原則にのっとって連盟の一員である黄帝に援軍を要請しました。このことが涿鹿の戦いへとつながります。涿鹿の戦いの戦場はどこであったかはいまだにわかっていません。《逸周書》では”中冀”、つまり冀州中部の冀省、魯省、豫省の三省の境界辺りといった河北内で行われたとされています。
黄帝が即位した時期には蚩尤には兄弟が81人おり神の末裔であると称していました。兄弟81人全員が獣身人面で勇猛果敢で、五穀を食べずにただ河原の石を食べていました。黄帝の命令には従わず民を虐げ、無実の者を殺害していた上に、槍や大弩など様々な武器を製造して黄帝に敵対しました。当時は石器時代の終わりですが、蚩尤一団は鉄器を鋳造する術を持っていたのです。硬く様々な形状に加工しやすい金属製の武器は、黒曜石などの石製の武器よりも使いやすく高い攻撃力が得られました。冀州の戦いでは、黄帝側が蚩尤側の武器鋳造施設を奪い取ることで、冶金技術を手に入れて黄帝は蚩尤と同等の武器を得ることになります。
黄帝は民意を集め各地の諸侯たちを従えて蚩尤討伐を開始しました。しかし黄帝と蚩尤の力は拮抗しており戦いは膠着状態に陥りました。十五年経っても蚩尤を打ち破ることができず、出兵と撤退を繰り返していました。黄帝は日々悩み、蚩尤を討伐するための有能な補佐を渇望しました。ある夜、黄帝は大風が吹いて大地の垢が舞い上がる夢を見ました。そして、ある夜今度は千鈞(じん:1鈞=30斤)もの巨大な弩を持って数万もの羊の群れを駆っている人の夢を見ました。目が覚めると不思議に思い、この夢に隠された意味を考えました。風は主君のために号令を発することで、垢は天下を浄化させる、つまり姓が風で名が后という人物を意味しているのではないか?そして千鈞という大きくて重い弩は遠くに至るという希望であり、数万匹の羊の群れを駆るのは牧人の仕事である、従って姓が力で名前が牧という人物を意味しているのではないか?という結論に至りました。そこで黄帝は部下に風后と力牧という人物を捜索させ、ついに海隅で風后、澤辺で力牧という人物を見つけ出しました。そして風后を相に、力牧を将に任命して蚩尤討伐を再開しました。
風后
力牧
風后、力牧に関しては以下をご覧ください!
力牧、風后、常先、大鴻:黄帝の中原統一を支え黄帝の支配体制を固めた四賢臣
黄帝と蚩尤との最終決戦は冀州の野で行われました。このときの戦いの様子を《山海経・大荒北経》中ではこのように描写されています。”黄帝の陣中に青い衣を着た人物がいた。名を黄帝女魃と言った。蚩尤は兵に黄帝の攻撃を命じ、黄帝は応龍に冀州の野でこれを迎撃させた。応龍は水を蓄え、蚩尤は風伯と雨師に大風雨を起こしてもらった。黄帝側の女神である魃はこの雨を止め、ついに蚩尤を打ち取った。しかし、魃は天に帰ることができなかったので、この地に雨が降らなくなった。”
風伯と雨師については以下をご覧ください!
涿鹿郊外で両軍は大規模な戦闘を開始しました。蚩尤は深い霧を発生させたため三日三晩霧が晴れず、黄帝の配下の兵士たちは方角が判らずに立ち往生してしまいました。そこで風后に命じて常に特定の方角を指し続ける指南車を作らせました。時を同じくして西王母は九天玄女を派遣して三宮秘略五音権謀の書を与えました。これにより黄帝側は奇門遁甲(古い占いの一種)が使えるようになりました。
西王母については以下をご覧ください!
戦いでは両陣営とも巫術を用い、自然の力を使って戦いを有利展開しようとしました。戦いの終盤は、冀州方面が主戦場でした。蚩尤は魑魅魍魎を率いて戦い、風伯、雨師に助力を要請し、戦場一体に大雨を降らせることで黄帝陣営に大混乱を引き起こさせました。この大風雨で劣勢に立たされた黄帝は日照りの女神である旱魃に請い雨を止めてもらうことでこの窮地を脱します。さらに黄帝は翼のある龍である応龍を召還してこの雨水を蓄えさせて、蚩尤陣営に一気に放水して蚩尤軍を壊滅させました。
魑魅魍魎とは様々な妖怪たちの総称です。伝えられるところによると美女を食べるといいます。外見は大抵背が高く、赤色で尖った耳と頭に長い角を持っていることが特徴です。民間に伝わる伝承では、荒野や山の奥深く、古木の多くある森林など人がいない場所に住んでいると言われています。遠くへ行く人や夜道で偶然出会う妖怪が魑魅魍魎です。魑魅魍魎は全て木や石、禽や獣が変化してしまった妖怪です。
魑魅魍魎については以下をご覧ください!
旱魃により雨が止み、空が突然晴れたので蚩尤軍は驚き、黄帝軍はこの隙に乗じて黄帝自ら大軍を率いて蚩尤陣営に攻め入り、そのまま蚩尤軍を圧倒してついには応龍が蚩尤を倒し勝利を収めました。蚩尤は不死身でしたので何度斬っても生き返ってしまいました。そこで蚩尤が生き返らないように身体を四つに斬って四方へと埋葬しました。
勝利したのはいいのですが、戦後処理も困難を極めました。この戦いの立役者である旱魃と応龍は力を使い果たし、天上に帰ることができなくなりました。天上には雨を降らす能力を持った神がいなくなったために大地には大干ばつが続くことになります。
また、この涿鹿の戦いには夔牛 ( きぎゅう )に乗った雷神も蚩尤側で参戦していたという説もあります。
夔牛については以下をご覧ください!
涿鹿の戦いに関しては以下をご覧ください!
神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末
山海経によると、蚩尤を倒し太平の世がやってきたのですが最後まで黄帝に抵抗した神がいました。それが刑天です。刑天はもともと炎帝の大臣でした。刑天は炎帝や誇父の巨人族などに黄帝打倒を呼びかけましたが、だれ一人応じるものがいなかったので失望して斧と盾をとり黄帝に戦いを挑むべく単身黄帝の中央天庭に乗り込みました。突然刑天が現れ、一同驚きましたが歴戦の猛者達です。すぐさま刑天に襲い掛かります。最初に立ち向かったのが黄帝の大臣となっていた風伯と雨師の風神、雨神コンビと天神陸吾です。刑天は何とこれらの神々を一蹴して黄帝の前に立ちはだかりました。黄帝は宝剣を持ち構え、刑天の頭部めがけて打ち込み刑天を倒したと言います。
誇父については以下をご覧ください!
陸吾関しては以下をご覧ください!
阪泉の戦い
炎帝榆罔は領土的野心を持っており、たびたび周辺諸国を侵略していました。たまりかねた諸侯は黄帝に助けを求めます。黄帝は炎帝に不満を持つ諸侯たちを吸収して一大勢力を築きました。そして、諸侯たちの先頭に立ち炎帝に挑み、黄帝と炎帝の間で戦いが起こりました。戦いは三度行われ、最終決戦が阪泉の戦いです。
この戦いで黄帝は、熊、羆(ひぐま)、狼、豹(ひょう)、貙(てん)、虎の名を冠した六部隊を展開し、阪泉の野で炎帝と対峙しました。六部隊ともその部隊名の由来となっている動物を旗印にしており、黄帝は各六部隊の大将に大纛旗を与えました。伝説ではこれらの部隊は神獣部隊であり、阪泉の戦いは中国古代史で初めて戦争に神獣が参戦した戦いでもあります。さらに鷲、鷹、鳶(とび)、ヤマドリも参戦しており、合計10柱の神獣が参戦したことになります。
黄帝は城に居り防御を固めていました。戦いの序盤、炎帝は黄帝の防御が整っていない状況を利用してその名の通り火を用いて火攻めを行いました。周囲には濃い煙が立ち込めて日の光をさえぎりました。この窮地を救ったのがまたもや応龍です。水で火を消すことで黄帝軍は攻勢に転じ、退却する炎帝を追って阪泉の谷まで追撃しました。この戦いで黄帝は部下たちに炎帝は傷つけずに生かして捕らえるように命じています。阪泉河谷中で、七面大旗が立ち、星斗七旗戦法が展開されました。炎帝は火計の失敗後、星斗七旗戦法に抗することができずに敗北の一途をたどり、陣内に引きこもってしまいました。
黄帝は炎帝の先進的な医薬と農耕技術に関して炎帝を慕っていましたので、炎帝と手を携えて共に文明国家を築いていく道を選択したいと思っていました。黄帝は練兵を行い、様々な陣法を創出しその様子を炎帝の兵士たちに見せつけました。練兵は三年もの間行われ、各部隊の戦闘力は増強されたために、炎帝は崖で障壁を作りより防御を固めて状況を見守りました。しかし、黄帝の練兵はただの目くらましで、実は水面下で炎帝の陣の背面からトンネルを掘っていたのです。そしてある日、炎帝の本陣までトンネルがつながり、黄帝の兵士たちが静かにトンネルから出てきて炎帝に襲い掛かり、炎帝を生け捕りにすることに成功しました。大将を生け捕りにされたために、阪泉の戦いは終結します。
仙人授道
幾多の死闘を経て訪れたある日、黄帝は洛水で大臣たちと風景を楽しんでいました。すると一羽の大きな鳥が口に絵をくわえて現れ、その絵を地面に落としました。皇帝たちは急いでその絵を受け取り、再びその鳥を見ました。その鳥の形状は鶴に似ておりカラスの頭と燕の嘴、亀の首に龍の体、広げた翼に魚の尾、さらに五色を備えていました。絵の中には慎徳、仁義、仁智の六文字が書かれていました。黄帝はこれまでその鳥を見たことが無かったので天老に聞きました。天老は黄帝に、”この種の鳥は雄を鳳と、雌を凰と言います。早朝に鳴くと日が昇り、日中に鳴くとめでたく、夕方に鳴くと豊かになり、夜間に鳴くと末永く健康である。鳳凰が現れることは天下安寧の証であり、おめでたい兆しです。”と答えました。
鳳凰については以下をご覧ください!
その後、黄帝は夢の中で二条の龍が黄河の中から出てきて白く模様のある絵を献上する夢を見ました。黄帝はどういう意味か分からず天老に聞きました。天老は、”これは河図洛書の前兆です。”と答えました。そして天老達と河洛に行き、壁を水中に落とし、生贄を捧げました。すると最初の三日は深い霧が立ち込めました。その後には七日間大雨が降り続きました。すると黄龍が絵を携えて河から出てきたので、黄帝は跪いて出迎えました。絵は五色で彩られており、白に青い葉と朱色の模様があり、まさに河図洛書でした。この出来事以降、黄帝は天下を巡幸し、泰山で封禅の儀を行いました。また、中国各地を巡幸中に有名な神獣である白澤に出会ったとも伝えられています。
ある時黄帝は、広成子という仙人が崆峒山にいると聞き、広成子に教えを乞うために彼の元を訪れました。広成子は、”あなたが天下を治めるようになって世は栄華を極めています。私と何について話し合いたいのですか?”と言いました。これを聞いて黄帝は質問できずに引き返し、小さな小屋を建て、小屋の中に机と椅子を置き、愚かな質問をしたと三か月一人で反省しました。そして再び広成子の元を訪れました。その時広成子は頭を南に向けて身を横たえていました。黄帝は彼の近くに行き跪いて、長生きをするにはどうすればいいかと尋ねました。広成子は起き上がり、”いい質問です。”と言い至道之精を説いた後に《自然経》を授けました。
広成子に関しては以下をご覧ください!
広成子:封神演義にも出てくる黄帝の師であり崑崙山十二金仙の筆頭
黄帝は広成子に道を尋ねた後、王屋山に登り丹経を得ました。また、玄女や素女に養生の法を尋ねました。
その後縉雲堂に戻り修練を重ね、首山銅を訪れ、荊山で九鼎を鋳造しました。この九つの鼎を作り終えると龍が現れ黄帝を天界に連れて行きました。上で書いた乗龍昇天です。この出来事は黄帝が死去したことを表しています。また、鼎を鋳造した際に、黄帝は中原を九つの州に分けました。そしてこの九つの鼎は後の皇帝たちの権力の象徴となり継承されていきました。
道教中の黄帝
黄帝は古い伝説中の帝王ですが、道教では大昔の仙人として奉られています。その原型は華夏族の首領であり、中国発展の基礎を築き上げた偉大な人物として語り継がれています。もちろん歴史的に多分に脚色されて今の黄帝像が出来上がりました。黄帝は様々な発明を行ったとも言われており、帝王のみではなく仙人のイメージも付与されています。
張陵が五斗米道を創立し、老子を教祖に抱くとともに、黄帝を古仙人として尊びました。この後、道教の本には黄帝の仙人としての故事が多分に脚色されていきます。黄帝が名山を歴訪し、広成子に道について問うた故事や黄帝最後の乗龍昇天などです。
五斗米道は三国志に出てくる漢中の張魯が有名です。この五斗米道はキョンシーの額に貼るお札の図形、いわゆる符箓(フールゥ)を考案し使用していたことでも有名です。初代の張陵は張天師とも呼ばれ、後の教主も張天師の尊称で呼ばれました。お札は張天師のものが最も効果が高いと信じられており、お札自体も文字の配置など細かく取り決められています。ちなみに張魯は張陵の孫で五斗米道の三代目です。五斗米道は脈々と続き、今でも存在しています。調べてみると現教主は65代目のようです。
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大昔には古仙を奉るために一つの地域に黄帝もしくは軒轅の廟が建てられていました。様々な地方に黄帝廟は有り、もちろん道教の施設中にも黄帝殿や軒轅祠などがあります。四川の青城山の三皇殿には伏羲、神農、黄帝が祀られています。
初期の道教中での黄帝は雷神でした。その後には最も尊いとされる中央の天帝になりました。また、中国南方の少数民族である苗族に伝わる古い歌の中には、苗族の祖先は”格蚩耶老”、すなわち蚩尤でありそのライバルであった雷公と一致します。おそらく黄帝は風伯などと同様に神農氏の諸侯の一人で、雷の巫術を担っていたと考えられます。
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道教には黄帝に関する様々な経書があります。すなわち、黄帝九鼎神丹経、黄帝内経、龍虎経、陽符経などです。真霊位業図中には、道教中での神仙の序列が記されており、黄帝は星圃真人軒轅呈帝と称され、序列第三位となっています。
出典:baidu
今回はユンケル黄帝液などでおなじみの黄帝のご紹介でした。黄帝自体は日本ではユンケルくらいの認識しかなくなじみは薄いですが、中国では中国の礎を築いた偉大な王として有名です。黄帝は神話時代に生き、様々な神獣たちに出会っていますし、戦いでも召還して使役していました。神話を信じるのならば、この神話時代には神獣や魑魅魍魎たちがそこかしこをうろついていたことでしょう。
黄帝は戦争に強く中原一帯を統一するとともに農業生産性を向上させ、良い政治を行い、様々な発明を行い、文明を二歩も三歩も発展させた上に仙人の道までも究めたというまさにあり得ないくらい完璧な存在です。今となってはこの人物がいたのかどうかすらよくわかりませんが、神話の下敷きとなった部族間の勢力争いで、各部族はトーナメント戦のごとく戦い、勝ち残った部族の長が黄帝のモデルとなったと思います。
この時代は石器から金属の使用へと切り替わった時期です。金属を用いることで木の加工も容易になったことでしょう。その結果、様々な道具が作られたことは想像に難くありません。発明自体は様々な人が別々に行ったのだと思いますが、もはや誰だかわからないのでとりあえず名前がわかる黄帝とその部下たちの手柄になってしまったのだ、ということでしょう。
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皇・帝と蚩尤の国
獲物のマンモスを追って、北の湖を東と南に向った黄人が、チベットや南のインドルートで来た人々と、環境風土の異なる黄河の荒れ地や、列島山内丸山に辿り着き、中国ではそれぞれ黍・クリ・小麦・稲・船・馬等の文明を持ち合い、新たな生活を求め、南船北馬と融合していたが、新たに起こる気候の変動や人口の増加は、人々の間に抗争を生じさせ、中国は黄河文明を形成する中で、国の存在が必要となり、統治の方法が部落連合的国家の泰山の皇、人を越える超能力者で、天の力を聞き天子を称し統治し、赤子を守る黄帝、有力部族国の独裁者で諸国を支配したい、蚩尤の間で戦争が起こり、天命を受けた天子を称する黄帝が、涿鹿野の戦で勝利し、黄河治水を行った夏と呼ばれる国ができ、有史の時代に入ってきた。
その後殷(いん)が貝貨の商で国を治め、商による貧富の差で、冨者の悪しき酒地肉林の世となると、天命政治に戻そうと周が殷を討つが、周の諸侯が覇権(はけん)を争い春秋戦国の世となり、覇権を求め国々は戦い、ようやく秦が天下を取り、皇や帝、蚩尤の統治方法を取る、秦始皇帝が生まれ法定政治となったが、革命を称する人民の反撃に合い、漢に政権が変わった。としてキンデルに搭載しました。