力牧、風后、常先、大鴻:黄帝の中原統一を支え黄帝の支配体制を固めた四賢臣

中国が石器時代を経て文明社会への過渡期に、その時代を象徴する黄帝という伝説の帝がいたと言います。黄帝は農業生産力を向上させ、周囲の反乱を鎮圧して中原一帯に散在していた部落を初めて統一したと言われている人物です。この業績から、中国人文の祖とも言われていますが、その黄帝の偉業を支えたのが今回ご紹介する力牧、風后、常先、大鴻の四賢臣です。

司馬遷の《史記・五帝本紀》には、”黄帝は風后、力牧、常先、大鴻を挙げ以って民を治める”とあり、その貢献を称えています。今回はこの黄帝直属の部下の四名をご紹介いたします。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

力牧(りょくぼく li4mu4 リームゥ)

力牧は古代中国の神話中に出てくる英雄で道家の前身です。力牧と風后、太昊は黄帝に尽くし、多大なる功績をあげて黄帝の大臣となりました。

言い伝えによると、力牧はもともとは畜牧氏族の首領で黄帝に請われて大将になりました。この時力牧という名に変えたと言います。力牧は牧という姓の始祖でもあります。力牧は弓術に秀でており、力が強かったので非常に強力な弓を引くことができたと言います。黄帝は力牧を丞相に任じました。

力牧の後代に、一部は力姓に、残りは牧姓に分かれてしまったと言います。この話によると、力姓と牧姓は本来は同一で両姓とも力牧が祖先となります。

  • 黄帝の力牧登用

黄帝が蚩尤(しゆう)と戦っているとき、敗戦に次ぐ敗戦で危機に瀕していました。蚩尤軍は屈強で蚩尤の兄弟を始めとして命知らずの猛者たちが揃っており、この軍勢を相手に勝利するためには有能な人材が必要不可欠でした。

蚩尤に関しては以下をご覧ください!

蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神

黄帝はある日奇妙な夢を見ました。夢の中では大風が吹いて地上の土や垢を拭い去っていました。別の夢では一人の千鈞の力を持っている人物が強弩を引き、千万頭の羊を牧しているという内容でした。

黄帝は夢から覚めると奇妙に感じ長く考えた末に悟りました。”風は号令の象徴で、執政者である。また、垢という字から土を取り除くと后となる。従って、これは風という姓と后という名の人物の事を指していて、その人物に国政を行わせるということだ。そして同様に千鈞の弩は力のある者の象徴で、千万頭の羊を牧していたことから民衆を導くことができる。即ち力という姓と牧という名の人物の事である。”と。

このあと、黄帝は部下風后と力牧を捜索させ、夢の通り風后と力牧を見つけることが出来ました。黄帝は力牧を黄帝軍の将軍に任命しました。力牧は黄帝の期待に応え、蚩尤と戦った涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の中で多大なる戦功を上げて蚩尤に勝利しました。

  • 車の発明

力牧はただ軍を率いただけではなく、発明により古代中国社会に多大なる貢献をしました。その発明品とは車です。




車は荷台などに車輪を設置して作られますが、重いものを運ぶ際には無くてはならない道具です。車輪は最初は石で作られていましたが、それが木製になり、その後鉄製となり、遊牧生活にとっても必需品となりました。

この発明により人々の労力は大幅に軽減され、各分野の生産性を向上させました。そして車は兵器にも応用され、戦車の創造へと繋がります。

出典:baidu

風后(ふうこう feng1hou4 フォンホウ)

風后は古代中国神話中の黄帝の臣下です。風后には二つの説があり、一つは風后とは即ち風伯であるというものです。后とは后羿などのように首領や君などの呼称でもあります。風は風姓で即ち風姓の部落の首領の意味になります。風后は天文を伝え、風雨の予測を司っていた官職だったのではないかと推測できます。

風伯と雨師に関しては以下をご覧ください!

黄帝を苦しめた中国最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師

もう一つの説は、風后は山西解州人で、海隅の地で生まれ、農業を行い《易》に精通し、天道に明るく慎ましやかに隠遁生活を楽しんでいた、という内容です。

また、風后が黄帝に登用されたという話は、力牧と同様に黄帝の夢に暗示されたことに由来しています。黄帝が風后を暗示する夢を見た後に、風后を探し出して重用します。

風后の発明したと言われているものに握奇陣があります。八陣兵図などとも言いますが、中国の神話も含めて最古の陣形です。三国志に出てくるかの有名な諸葛亮が用いたと言われている八陣図の源流はこの風后にありました。

風后のこの軍師としての活躍により、涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)で蚩尤を打ち破り、黄帝を中原の覇者へと押し上げます。涿鹿の戦いには風伯や雨師、夸父や旱魃、応龍など神や神獣も参戦しており、非常に激しい戦いが繰り広げられました。風伯と雨師が霧や大嵐を起こして黄帝軍の足止めをします。そして蚩尤は魑魅魍魎軍団を率いて容赦なく黄帝軍に襲い掛かります。黄帝は敗北し泰山まで撤退しました。

涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)に関しては以下をご覧ください!

神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末

夸父に関しては以下をご覧ください!

夸父:弱きを助け悪を挫く太陽に立ち向かった伝説の巨人

応龍に関しては以下をご覧ください!

応龍(應龍):兵神蚩尤を討ち取った中国最強の龍

この時窮地を救ったのが風后でした。風后は指南車といい、常に同じ向きを指し続ける車を発明して霧の中でも方角を見失わないようにしました。これにより、黄帝軍は霧の中でも迷わずに戦うことが出来ました。その後、風伯と雨師の霧と大雨の術は女神旱魃により破られます。さらに応龍がこの時の雨水を畜水しており、一気に放出したので蚩尤軍は壊滅的な打撃を受け、最終的に黄帝軍が勝利を収めました。この戦いの最中に、蚩尤は風という単語を聞いただけで恐れをなすようになったと言います。

旱魃に関しては以下をご覧ください!

旱魃:美しい女性から恐ろしいキョンシーにまで変わってしまった悲劇の天女

敗北した蚩尤は捕らえられ首を斬られ、首と胴体は別々の場所に葬られました。蚩尤が首を斬られた地方は解州と呼ばれ、その村の人々は蚩尤の子孫だと言われるようになり蚩尤村と名付けられました。現在では従善村と言います。黄帝は列侯衆官を設置した際に、その功績により風后を三公の主としました。

黄帝は中原の道路を整備して黄河中流域一帯を制圧しました。しかし、程なくして風后が歳のため体を壊し慢性的な病にかかってしまいました。黄帝は風后のために名医に診察させ、名薬を探し出しましたが効果はありませんでした。風后の死後、黄帝と大臣たちは嘆き悲しみました。

風后の功績を忘れないために、黄帝は自ら墓地を選び、黄河の北側の趙村に埋葬しました。後世の人々は趙村を風后の墓という意味の風后陵と改名しました。風后陵は現在では山西省西南にある芮城の風后渡の事を指します。

出典:baidu

常先(じょうせん chang2xian1 チャンシエン)

常先は黄帝の大臣であり、数々の狩猟工具を発明したことでも有名です。ある日、常先は一等の野牛を捕らえ、皮を剥いでその皮を木の切り株の上に置きました。切り株の内部は空洞で両腕で抱えられるくらいの太さでした。時間が経つと常先は皮の事をすっかり忘れてしまいました。皮は渇き段々と縮まり切り株の表面を塞ぐように締め付けました。

ある日、王亥が馬を駆けていた時、賈斉という若者が木の切り株を覆っている野牛の皮を見つけました。その皮を叩いてみるとよく響く音が出ました。今度は少し強く叩いてみたところ音はさらに大きくなり、賈斉は面白くなって二本の木の棒を見つけてきて続けざまに強くたたきました。すると辺りには雷が鳴ったような音が響き渡り、近くにいた王亥の馬がその音に驚き、王亥を残して走り去ってしまいました。

王亥は何事かと思い音のする方へと言ってみると、賈斉が何かを叩いているのを見つけました。賈斉に何をしているのかを尋ねていたちょうどその時、常先がやってきました。そして賈斉と王亥の両者から話を聞き、何が起こったのかを悟りました。

この出来事により、賈斉が乾燥させた野牛の皮で作った太鼓をたたいた最初の人物となりました。

  • 玄女が夢で托す

黄帝と蚩尤とが雌雄を決した涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の前、玉黄大帝は黄帝の元に九天玄女を遣わして《兵書》を送りました。その時、玄女は大きな木の下で常先が寝ているのを見つけました。もう一度見ると、常先が太鼓に合う皮が無く思い悩んでいたことを知りました。玄女は常先を起こして話をしたかったのですが、天女が凡夫と話をすることは禁じられていたため、あることを夢に托しました。

その夢の内容は、東海に流坡山という山があり、山中に怪獣がおり、形状は牛のようであるが角はなく足は一本しかない。平素はあまり活動しないが、一度出現すると海洋上には風は吹かあないが雨が降り出す。二つの眼は光を放っており、太陽と月と同様に光り、怒って吼えると雷の音よりもさらに大きな声を出す。その怪獣の名は夔牛(きぎゅう)という。

夔牛に関しては以下をご覧ください!

夔:伝説によるとこの世のどこかにあと一匹存在する一本足の牛

さらに、雷澤に一匹の雷獣がおり、毎日憂慮なく過ごしており、仰向けに寝そべることが好きであった。爪で腹をつつき楽を成し、腹を叩けば巨大な雷が起こった。

そして九天玄女は、”夔牛の皮で太鼓を造り、その太鼓を雷獣の骨で造ったバチで叩くと地は動き山を揺るがす威力を得ることができる。”と言いました。

常先は目覚めると、夢の出来事を黄帝に話しました。黄帝はこれを聞くと応龍と大鴻と水泳が得意な者たちを派遣して海に入りその怪獣を捕まえるように命じました。程なくして夔牛と雷獣は捕らえられました。そして50日かけて常先の設計した通りの80面の夔牛の太鼓を、160本の雷獣の骨のバチが完成しました。

涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の際に、80面の太鼓を伏兵させ、蚩尤が突撃してきた際に一斉に打ち鳴らしました。不意打ちを受けた蚩尤軍の兵士たちは交戦する前にその大きな音で倒れてしまい、大混乱に陥りました。




その機を逃さず黄帝は太鼓の合図で総攻撃を開始して、蚩尤を涿鹿の野で打ち破りました。この戦い以降、太鼓は戦争において必須の道具となり戦鼓と呼ばれました。

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大鴻(たいこう da4hong2 ダーホン)

大鴻は《史記・五帝本紀》に、”黄帝の大臣で、風后、力牧、常先と共に黄帝を補佐した。鬼臾区(神話時代の医師)は大鴻と号した。死後は雍に葬られ、故に鴻塚という。”とあります。

《史記・封禅書》にも、”鬼臾区は大鴻と号し、黄帝の大臣也。”と書いてあります。同様の記述は《史記・孝武本紀》にも見られ、”鬼臾区は大鴻と号し、死後に雍に葬られ、故に鴻塚これ也。”とあります。

伝説では、大鴻は具茨山で黄帝の軍隊を訓練し、後世の人々は大鴻が練兵を行った峰を大鴻山と呼び、兵の駐屯地を大鴻寨と呼びました。この場所は今の浅井郷の大鴻寨村と大鴻寨山と言われています。

出典:baidu

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