青龍とは中国神話から伝わり風水でも色んな特徴や意味を持っている龍

四神とは、古来中国の神様を護る、青龍、朱雀、白虎、玄武のことを指します。四神は元々は五帝を守護する役目を持つとされており、黄帝を始めとして顓頊、嚳、堯、舜の五帝のいる中原地帯から東西南北をそれぞれ護っています。今回はこの四神中の青龍(せいりゅう)についてご説明いたします。スピリッチュアル感満載でご利益がありそうな青龍ですが今回も徹底的に調べてまいりました( ´∀`)

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古代中国神話で最も妖怪達に恐れられていた神獣たちは四象とも言われている青龍、白虎、朱雀、玄武の四大神獣です。陰陽五行学説では、東は青を象徴するので、青龍は東方の神で、または”蒼龍”と称します。

白虎に関しては以下をご覧ください!

玄武:亀甲占いから生まれ玄冥となりさらに発展し真武大帝となった四象

朱雀に関しては以下をご覧ください!

白虎:四象で唯一凶性を持ち邪を屠る勇猛な武神

玄武に関しては以下をご覧ください!

朱雀:鳳凰から生まれ邪を焼き尽くす炎をまとった神鳥

龍は古代より中国の象徴でもありました。東方の伝説では、青龍の体は大きな蛇で、首は麒麟、尾は鯉、顔には長い髭があり、角は鹿に似て、指が五本あり、容貌は威圧的な猛々しさを持っています。

他にも九似と言いますが、鹿の角、駱駝の頭、兎の目、蛇の首、蜃の腹、魚の鱗、鷹の爪、虎の掌、牛の耳を合わせて作られているとも言われています。もともとはトーテム信仰に由来していると考えられており、部族と龍の図柄を同一視することでその部族の信仰の対象となっていました。鳳凰や麒麟なども様々な動物のパーツを切り貼りして出来ています。このやり方と五行説を知っていると中国の幻獣や神獣などは簡単に作れてしまいます。動物のパーツを切り貼りした後に黒や青、白などの色を塗ってしまえばいいのです。

ちなみに古代中国では、角のある頭を公龍といいました。二本角のある頭を龍と、一本角のある龍を蛟(こう)といい、角のない龍を螭(ち)といいました。翼のある龍は応龍と言います。

  • 青龍 (せいりゅう 青龙 qing1long2 チンロン)

青龍は中国の伝統文化の中の四象の一つで、五行学説に基づくと、青龍は東方の霊獣です。青龍は五行では木に属し方角は東、向きは左を表し、季節は春に属します。白虎は、西、右、秋。朱雀は南、上、夏。玄武は北、下、冬です。

また、天文においては中国の二十八星座の中で、青龍は東方の七星座(角、亢、氐、房、心、尾、箕)の総称です。または、東方の七星座の総称を蒼龍ともいい、蒼龍の七星座の形状を龍の形状になぞらえており星座の名称も龍の各部位からとっています。即ち、角は龍の角、亢は首、氐は本、即ち首の付け根、房は膀、即ち腹、心は心臓、尾は尾、箕は尾の先端です。

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龍心の部分は”大火”と呼ばれ、晴雨に関連し、青龍は木に属するために、占星術中の木星の年の太歳になります。多くの王朝で、例えば三国志の魏の明帝(曹叡)のように、君主は青龍を自分の年号にしました。

五行学説が盛んになった時代に、青龍の故事はゆっくりと出来始めました。五行家達は陰陽五行に照らし合わせて東西南北中の方角をそれぞれ象徴させ、めいめい色と神獣を割り当てました。それがすなわち青龍、白虎、朱雀、玄武の四霊で、王者の住む王宮を守護します。

五行の他に陰陽説がありますが、こちらは創世神話を持つ女媧の兄である伏羲が考案したと言われており、漢代ごろに陰陽説と五行説が合わさって陰陽五行説になりました。そして道教の発達と共に風水として民間に受け入れられるようになっています。




抱朴子 雑應》は《仙経》を引用し、太上老君の形状を描写しています。すなわち。左には十二青龍、右には二十六白虎、前には二十四朱雀、後ろには七十二玄武がいる。気勢は十分で、威風堂々である、と表現しています。以降、四象が人格化され、号が与えられるようになりました。《北極七元紫延秘訣》 には、青龍は”孟章神君”の名が与えられ、白虎は”監兵神君”、朱雀は”陵光神君”、玄武は”執明神君”とそれぞれ称されました。

程なく、生命を司る玄武(すなわち真武)の性質上、玄武信仰はとりわけ大きくなり、四象を抜け出し、”大帝”として祭られるようになりました。そうなると、もともとは同列であった青龍や白虎も自然と神格化され、神と同列となり道教の寺院の門の守護神として祭られるようになりました。宋朝の《岳陽風土記》には、”老子の祠には二神の像があり、それぞれ青龍と白虎という。”とあります。明の姚宗儀の《常熟私志 舒寺観篇》には、”道教の寺院の二大神、左は青龍孟章神君、右は白虎監兵神君”とあります。

  • 古代の書物中にみられる青龍の記述

《太上黄箓齋儀》の第四十四巻に、青龍は東方の、角宿天門星君、亢宿庭庭星君、氐宿天府星君、房宿天駟星君、心宿天王星君、尾宿天鸡星君、箕宿天律星君の七星座からなる、とあります。《道門通教必用集》第七巻に、東方の龍、精に溢れ、気を吐き、雷のごとき声を発し、八極を飛翔し、四冥を巡り、主の左に立つ。この他、道教の煉丹術語にも用いられており、例えば《雲笈七籖》第七十二巻には《古経》を引用し、四神の丹で青龍とは、東方、甲、乙、木、水銀を象徴し、澄んでおり、かき混ぜても混ざらず、手でつかむこともできず、いかようにも形を変える、これより水銀のことを龍という、とあります。煉丹術には辰砂、すなわち硫化水銀(HgS)が用いられることがありましたが、この硫化水銀を熱すると分解して水銀ができます。この水銀を龍にたとえています。また、熱したときには二酸化硫黄も生成されますが、こちらは朱雀にたとえられています。

煉丹術とは丹を煉る、つまり火で高温に熱して還元させることで水銀を取り出し、この水銀を用いて不老長寿の薬を作り出すことにありました。服用したらもちろん死にます(* ´艸`) なのでよい子の皆は真似しないでくださいね。実際に唐代の皇帝の幾人かは水銀中毒で亡くなっています。これじゃいかんでしょ、ということで体内にあるエネルギーを丹として、お腹の内部の丹田で丹を練る気功が発達しました。




東方青龍、龍に関しての伝説は数多くあります。龍の由来も多くの説があります。ある説では、インドから入ってきた、別の説では中国の星座が変化したもの等あります。インド由来の説の場合は、元は実在の動物で大きなヘビからきたと考えられますが、それ自身は龍の神ではありますがインドでの地位は低いです。五行学説が盛んだった時代、ゆっくりと青龍の故事が広がっていきました。五行家たちは、陰陽五行に東西南北中を配し、それぞれの方角に色で象徴しました。さらに、それぞれの色に神獣、神霊を配置させました。すなわち、東方青色、龍。西方白色、虎。南方朱色、雀。北方黒色、武。中央黄色、龍。です。

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山海経によると、四方の神霊中では、”南方祝融、獣身人面、二頭の龍に乗る。西方蓐收、左耳に蛇がおり、二頭の龍に乗る。東方句芒、体は鳥で人面、二頭の龍に乗る。北方禺彊、手足体は黒く、二頭の龍に乗る。” 面白いことに、山海経中の龍は全て乗り物として出てきます。龍と同類の蛇はというと、誰かに握られているか、操られているか、首に巻きついているかのどれかです。このことから推測されるように、龍と蛇、両者の由来は異なっています。山海経とは奇書の類で、中国の妖怪や神獣などが網羅されている本です。昔は今と違って神様が真剣に奉られていたので、こういった本も真面目に読まれていたようです。

古代の玉佩(ぎょくはい:ヒスイ製の装飾品)には母子螭と呼ばれる大小の双龍が彫られており、龍は中国の高い地位の象徴でした。龍は神の生き物であることから、至高この上なく、皇帝の象徴となりました。さらに、東方の象徴で、色は青、五行中では木に属し、古くは左に青龍、右に白虎と言われました。星座では二十八星座中の東方の七星座、すなわち、角、亢、氐、房、心、尾、箕を表し、また古代の人はこの形状から龍を想像しました。また、陰陽五行で、東の方角と青色の象徴とされ、ゆえに青龍と呼ばれるようになりました。

龍は様々な動物と子を成しており、龍生九子と言われています。龍生九子に関する詳細は以下の記事を参照ください。意外に日本でもなじみのある名前を多く見かけると思います( ´∀`)

龍生九子:中国の神獣、四象、霊獣特集

  • 伝説との関連性
○ 青龍湖伝説

大昔に安丘城北部の聚鳳山付近に、巨大な池がありました。その池の底は見えず干ばつが起こっても決して干上がることはありませんでした。周辺にはヒスイがたくさんあり、あたり一面きらきらと輝いており、池の両岸には多くの奇石がそびえたっていました。険しい崖の上には珍しい花や植物がたくさんあり、つる草が水面へと延びていました。人々はその池を青龍湖と呼びました。伝説では、その湖の底には一頭の巨大な青龍が住んでいると言われていました。聚鳳山の青龍伝説です。




大昔にこの聚鳳山の宝山の上では鳳凰が集まり、滞在していました。このため福を求めて多くの人が宝山に集まりました。このことを東海龍王の王子である青龍が知りました。青龍は雄大な尻尾と、強い法力、善良な心を持っており、吉祥と幸福をもたらす龍として知られていました。青龍は家臣たちがこの鳳凰聚会の場所を話しているのを聞き、底には美しい湖があることも聞きました。青龍は美しい場所だと想像し、そして言いました。鳳凰がいる場所に龍もいるとさらに縁起がいい、自分もそこへ行って住んだらきっといいに違いない。そう考えていたある日、青龍は突然聚鳳山の東部の汶川の河口に二匹の妖怪が現れたことを聞きました。

一匹は独角蛟(蛟なので角が一本ある龍の一種でしょう)で、魚やすっぽんやエビやカニを率いて洪水をおこしあたりの農村や田畑に災害をもたらしていました。もう一匹は泥鰍精(泥鰍はどじょうのこと。名前的には弱そうですね(;´∀`))で、千年かけて道術を極め、常に獲物の血が滴っている口を大きく開けて天に向かって呼吸をし、太陽の光や雨露を遮っており、農民たちはなすすべがありませんでした。また、鳳凰たちも狼狽し、鳳凰聚会は開けなくなってしまいました。

これを聞いて青龍は心の底から怒りを覚えました。彼は父王の前に行き、聚鳳山へ行く許可を求めました。東海龍王は両目を大きく開き、裂けんばかりの大きな口で息子をしかりつけ言いました。”私も老いてしまったので、龍王の王位を譲ろうと思ったのに、王位を受ける志がない上に、鳳凰たちと戯れようなど何と情けないことか。”父王のこの言葉を聞き、自分の行為が間違った意味にとられていることに涙を流し、ひざまずき震える声でいいました。”では、汶川に出現した妖怪たちをあなたが退治してくれるのですか?私は父王から武術を教わりました。必ず倒して見せます。”こう青龍が答えたあと、父王は青龍の心を理解し、ついに息子に聚鳳山へ行く許可を与えました。

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青龍は両親に別れを告げ、波の押し寄せる大海原を後にして濰河に沿って遡上し、汶川河口に到着しましたが、そこで独角蛟と泥鰍精に行く手を阻まれました。独角蛟と泥鰍精は自分たちの縄張りで青龍を迎え討とうとしていました。青龍が単独であることを見て取り、かかってこいと青龍を挑発し始めました。青龍には恐怖はみじんも見られず、妖怪たちに一直線に向かっていきました。この死闘は3日間続き、勝敗はつきませんでした。山河は変わり果て、月や陽の光も届かなくなりました。青龍の妖怪退治に義侠心を見た安丘の老父は、一計を案じ、停戦中の青龍のもとへ行き、2匹を引き離し各個撃破するという計略を提案しました。

計略では、まず泥鰍精をターゲットにしました。泥鰍精は泥の中にもぐることができ、汶川河口の泥の中では神通力が上がります。老父は青龍に、泥鰍精を汶川河口から汶川上流まで引き離し倒す作戦を提案しました。なぜなら、河口から西老山より上流に行くと砂の粒が大きくなり泥がなくなるからです。この場所までおびき出せれば泥鰍精は川底にもぐれなくなるので神通力は弱まります。その地点まで泥鰍精をおびき出す作戦です。




言い伝えによると、魚類はみんな龍になりたがっており、魚が美酒を飲むと龍になれると伝えられています。そこで、東海龍王は景芝美酒を汶川上流に流しました。河口にいる泥鰍精はこの芳香をかぎつけて、むさぼるように汶川を泳ぎ回りました。そのチャンスを逃さず、青龍は上空高く舞い上がり、龍角をとがらせ、鋭い爪を開いて泥鰍精に襲い掛かりました。泥鰍精は美酒を飲んで酔っており、突然の空の異変に気づくのが遅く、自分の不覚を悟り、水中の泥の中にもぐろうとしましたが、川底が硬くてもぐれませんでした。そこを青龍の爪に引き裂かれ、峡谷の谷底に沈んでいきました。

次は独角蛟です。独角蛟の角は異常に鋭く、この武器により高い攻撃力と絶対の自信を身に着けています。泥鳅精がやられたことで、相棒を失った自分のふがいなさに怒りを感じました。そして、青龍と東海龍王たちとの決闘を誓いました。青龍は老父から指示された地点へ向かいました。そこは金剛崖と呼ばれる急峻な崖で、東海龍王たちをその崖の上に登らせました。その崖は急峻過ぎて独角蛟には登れませんでした。独角蛟はさらに怒りを増し、その鋭利な角で、崖を狂ったように破壊し、青龍や東海龍王たちを引きずり降ろして攻撃しようとしました。しかし、崖の石は独角蛟の想像以上に硬く、崖を破壊できず、逆に独角蛟の角が岩によって破壊されました。頭からは鮮血が滴り、大声を出して、埃を舞い上げて倒れ死んでしまいました。

青龍は妖怪との戦いに勝利し、民のために災いを取り除いて長年夢見てきた聚鳳山周辺の湖畔へとたどり着きました。鳳凰たちは山の中におり、天を仰いで喜び、青龍に謝意を表しました。こののち、聚鳳山では鳳凰の鳴き声が一年中聞こえ、湖畔では青龍が適度な雨を運び、安丘では毎年作物に満ち溢れ、歳歳吉祥、絵にかいたような龍鳳呈祥の風景が見られましたとさ、めでたしめでたし。

龍と鳳凰が一緒にいる龍鳳呈祥の図ですね。この龍鳳呈祥の絵柄はよく中華料理のどんぶりに描かれています。ラーメンを食べているときなどにどんぶりを見ていると下のような絵柄が見つかるかもしれません( ´∀`)

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○ 青龍洞伝説

澄江の東側に、周囲を山々で囲まれた小さな山村が一つありました。村のいたるところに青々とした木々が繁茂していました。この村は雄大な高い山のふもとにあり、山の上では花が咲き乱れ、木々は元気に育成していました。年中春のような陽気で、この山を青龍山といいました。この山の上のひときわ花が咲き乱れている場所に、青龍洞と呼ばれる底知れぬ深い洞窟があり、好奇心に駆られた多くの人々が、一目この洞窟の底を見ようと降りていきました。しかし、底を見る前にみんなあきらめて、底までたどり着いた人はだれ一人いませんでした。ここことから、美しくも悲しい故事が囁かれるようになりました。

ずっと以前に、この村の周囲数十里にわたって大干ばつが起こりました。灼熱の太陽が容赦なく地面を焼き、土地は乾燥しひび割れて、作物も枯れ果て、井戸の水も干上がりつつありました。この状況で、人々は祭壇を祭り、神に救いを求めました。村人達は神へ助けを求め祈りましたが、何も起きずに一滴の雨すら降りませんでした。

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人々の悲痛な叫びを伴った祈りは、竜宮に届いていましたが、老龍王はこの声を無視し、自分の部下の龍たちにも懲罰を以て現地へ行き雨を降らせることを禁じました。しかし、人々の祈りに心を動かされた一頭の小青龍は、龍王のもとへ行き、自分を彼らのもとへ行かせ、雨を降らせるよう求めました。小青龍の必死の懇願も龍王は決して聞き入れず、挙句の果ては小青龍を罵る始末でした。

小青龍はこの罵りに対して怒りを覚えつつ自分の住処へ戻りました。家に戻ってからも龍王の残忍さへ対する怒りと、人々の受けている苦難への救いに対する焦りが同時に沸き起こりました。そして、自らの命を懸けて村へ行き、雨を降らせる決意をしました。決意ののち、小青龍は静かに天へ舞い上がり、天空に黒々とした分厚い雨雲を作り出し、短時間の大雨を降らせました。苦難に打ちひしがれていた人たちは、この大雨に元気づけられ、飛び上がって喜びました。そして、自分たちの祈りが龍王に通じたのだと思いました。干上がった田畑は数日で青々とし、作物が育つようになりました。




しかし、この状況は長く続きませんでした。事態を知った龍王は状況を調べ、小青龍が人間のところへ行き、大雨を降らせたことを知り、烈火のごとく怒り狂い、小青龍を投獄してしまいました。この後、小青龍は孤独でさみしい龍宮の牢獄で数か月を過ごしました。その後、干ばつが再開し、再び人々の祈りが龍宮へ届くようになると、老竜王は嬉しくなり腹を抱えて笑い出しました。これを知った小青龍は、看守の目を盗んで龍宮を抜け出し、人間のもとへ行きさらに大きな大雨を降らせました。この件も老龍王に知られることとなり、小青龍はついには龍宮をたたき出され、底知れぬ山洞の底に鎖でつながれ、永遠に龍宮へ戻ることを禁じられました。

人々は、自分を顧みずに自分たちを救ってくれた小青龍をたたえて、この高く雄大な山を青龍山と名付け、その深い洞に青龍が閉じ込められていると信じて青龍洞と呼ぶようになりました。

出典:baike.baidu.com 

青龍はその威風から様々な皇帝の象徴として用いられており、権力の象徴となっています。龍生九子などで派生型にいろんな種類がいるのもこの青龍です。龍虎や龍鳳など、組み合わせで縁起ものとしてもよくつかわれています。西洋のドラゴンと中国の青龍の違いは、外見は同じ爬虫類ですが、形状的には西洋は4本足に翼がついており、3対6肢であり、中国の龍は二本の角に両手両足の2対4肢であることでしょうか。中国の龍はたくさん種類があるので、羽の生えた龍、應龍などもいますので、西洋のドラゴンと中国の龍が外見上異なるとは一概には言いきれないです。また、性質は西洋のドラゴンは邪悪で宝石など煌びやかなものを好み人を襲うと言われていますが、中国では仁徳を兼ね備えた神獣としてよく描かれています。

四象中では、真武大帝の玄武が頭一つ飛びぬけていますが、次はこの青龍でしょう。というのも、皇帝たちの権力の象徴として崇められていたために歴代権力者によく用いられていました。そのため、格が上がっている印象を受けます。

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