雷公:雷公、雷神(比較級)、雷王(最上級)、雷神の三段活用

雷公 (らいこう lei2gong1 レイゴン)

  • 雷公の概要

雷公は雷神の俗称です。雷公は古代中国神話中の雷を起こす神様で、《山海経・海内東経》などに記載が見られます。古代の人々にとっては物凄い音を立てて鳴る雷がどういう仕組みで起こっているのか不明でしたので、恐ろしい雷を起こす雷公には様々な伝説が関連付けられました。

山海経に関しては以下をご覧ください!

山海経:中国の妖怪はここから来ている!妖怪のネタ帳として有名な山海経

大昔の中国では、雷神の形状は一定ではなく常に変化していました。最初は人々は雷公を人の頭と龍の体の怪物で、お腹を叩くと雷の音が出るように描きました。その後、少しずつ形を変えて行き、やがて一つの形状に落ち着きました。

道教の神話中では多くの記述がみられ、さらに雷神は等級ごとにランクが分かれています。雷公は雷神の等級の中で最も下の等級となります。雷公の一つ上の等級は普通の雷神(レイシェン)で、その上の等級は雷王(レイワン)です。伝説によれば、雷王は広東省の雷州半島で生まれ、名を陳文玉と言い、神仙となりました。また、道教中の雷神の最高位は”九天応元雷声普化天尊”と言います。道教では最高の位には天尊を使用します。普化天尊とは雷神たちの総司令官とも言えます。

中国の観念では雷神は罪を罰し悪を懲らしめる神で、人がもし悪事を働き、もしくは誓いを破ると五雷が落ち死んでしまうと言います。中国の人々の間では、雷神の誕生日を農歴の6月24日に定め、この日には雷神を祀る儀式を行い、邪を祓い災いを避けて福を祈願します。

雷州半島の雷神は全て雷首宮と言い、誕生日は農歴の1月28日で、この日は家々では果物、餅干、など供え物を供えて醒獅団と鷹雄団、舞龍団、戯班を招き、盛大にお祝いし、風調雨順、国泰民安を祈祷します。

また、雷公には奥さんがいるという説があり、電母(でんぼ)と言います。結構怖い奥さんみたいで、空で雷鳴が鳴るのは、夫婦げんかが原因だとのことです((;゚Д゚))

電母に関しては以下をご覧ください!

電母:怒らせたら中国一怖い雷公の奥さん((;゚Д゚))

  • 雷公の容姿

雷電崇拝は古くに始まりました。戦国の屈原の《遠遊》には、”左雨師経を使い待ち、右雷公衛を成す。”とあります。《離騒》には、”鸞皇(鸞鳳で鳳凰の亜種)が余の警護をしており、雷師は余に準備はまだだと告げた。吾、豊隆を雲に乗せ、寵姫の所在を求めた。”豊隆とは漢の王逸の注釈によれば、雷師のことです。

《山海経》にも雷神の記載が多くみられ、雷神を”龍身で人頭、その腹を敲く。”とあり、当初は獣形でした。呉の西にいたとされます。

しかし、漢代の王充の《論衝》中の記述に見られる漢代の雷神は、”力士(力の強い人)の容貌で、雷公と謂う。左手で連鼓を引き、右手でバチを推し、雷電を放っているようである。雷の音が高々と鳴り響き、連鼓の音に合わせて雷鳴が轟いた。”とあります。

雷公は漢代には人型でしたが、魏晋南北朝時代には雷公は再び獣形に戻っています。《捜神記》には、雷神を”色は丹(朱色)の如く、眼は鏡の如く、体毛は三尺あり、形状は六畜の如く、猿に似ている。”とあります。

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捜神記:中国の様々な伝説が記されている貴重な書物

《酉陽親俎・前集》では、”豚の首、手足各両指、赤蛇を持ちこれを噛む”とあり、《古今図書集成・神異典》第二十一巻に、”猪の首で鱗身”とあります。《鋳鼎余聞》第一巻には、”大首鬼形、白擁項、朱犠鼻、黄帯、右手に斧を持ち、左手はノミを頼り、火中で鼓を打ち鳴らす。”とあります。《唐国史補》には、”その形状は豚の如く、秋冬地中に伏せる。”とあり、《夷堅丙志》第七巻には、その形は奇妙な鬼として、”身長三尺で、顔や体は皆青い。首の上には頭巾をつけ、世間で見られる(聖徳太子がかぶっている)幞頭のようであり、肉がこれを成し、額と連なっている。”とあります。

総じて雷神の形状は不定で諸説入り乱れており、体は龍や人、獣、顔は赤あるいは人、猿、豚、鬼などからなります。周以降、雷神は雷師や雷公と言われるようになり、《開元占経》には、”五車東南星名を司空と言い、その神名は雷公と言う。”とあります。

もちろん雷師や雷公は当時人々が信仰していた一柱を指し、これに関連して農歴の六月二十四日は雷公の誕生日で、”雷公誕”と成し、この日は人々は雷公を奉じ祭ります。元代になっても雷神の形状はまだ定まっていませんでした。元代の陣中には雷公旗がありましたが、その旗に描かれている雷神の形状が鬼の姿と力士の姿の二種類があったためです。

明清時代にはやっと統一されました。その標準的な形状を《集説詮真》の中で、”外見は力士の如く、上半身は裸で背中には二本の翅があり、額には三つめの眼を備え、顔は赤く猿のようで、下顎は長く鋭く、足は鷹顫の如く、爪は鋭く、左手にはくさびを握り、右手には槌を握り、撃状を作らんと欲す。頭上から傍らまで連鼓五個が環を成し、左右の盆を足で踏んで打ち鳴らし、雷公江天君と称す。”とあります。この時の雷神の特徴は、猿の顔に尖った口でした。この雷公の特徴ため、人々の間では”雷公顔”や”雷公口”などという人の顔の特徴を表現するための比喩が使われるようになりました。

雷神伝説

  • 雷沢雷神

中国古代神話中で最も有名な雷神は《山海経・海内東経》に記載されている、”雷沢中に雷神がおり、龍身人頭でその腹を叩くとすなわち雷。”の一節に出てくる雷神です。山海経は基本的には地理書であり、様々な山やそこで産出される鉱物や水の流れや生き物などを記載していますが、時には生き物が妖怪だったりする面白い書物です。また、大昔には雷沢(今の山東省菏沢市)一帯が雷神の居住地であったとされています。この雷沢雷神は伏羲伝説で特に重要です。なぜなら伏羲の父親だからです。

伏羲は古代神話の伝説の人物です。

  • 伏羲伝説

雷沢の両岸は雷河を成し(今でいう牡丹区辛集鎮)、華胥国の人々は雷河の両岸に集まって住んでいました。その時の雷神の一柱が気に食わないときに雷河の水を溢れさせました。特に雷神が怒っているときには河の水は猛烈に流れ、人々は方法もなく途方に暮れていました。

華胥国に華胥姑娘がいました。彼女は雷神殿堂へ雷神を探しに行き説得しました。彼女の大胆さと率直さに雷神は感動し、その娘を自分の嫁にしました。華胥国の危機のため華胥姑娘は雷神に嫁ぎました。一年後、華胥姑娘は雷神との間に子供を授かりました。雷神は非常に喜び機嫌は日増しによくなりました。これにより、雷神は農業の季節にだけ打雷閃電を行い、雨を降らせました。以降、雷河の両岸の風と雨は順調で、五穀がよく実りました。雷神の嬉しい様子は中国の古い言い方で、”人が喜ばしいことに逢うと気分が爽やかになる。” という言い方がぴったりでした。

華胥は残してきた家族を思い、息子を葫芦(ヒョウタン)の上に乗せ、水に流して華胥国に帰りました。息子のお婆さんが孫が葫芦に乗って流れてきたのを見つけ、名前を葫芦から取り伏羲と名付けました。華胥国の方言では伏羲(三皇の一人で神話時代初期の神)と葫芦は同じ発音をしたと言います。

伏羲が大きくなると、蜘蛛の巣から網を発明し、水の中で魚を獲り林の中で鳥を捕まえました。また、食べ物を火で調理する方法も発明したので庖牲と呼ばれ、最高の調理師として名を成しました。伏羲は母親を思い、母に会うために都広にある天梯を登り、木の上に建てられた天庭へ行きました。

天帝は雷神の申し出を聞き入れ、伏羲を華胥国の国君、つまり華胥部落の首領とし、人間の王に封じました。これが五氏の一人、伏羲の神話です。五氏とは、古代神話初期の偉大な五人を指します。すなわち有巣氏、燧人氏、伏羲氏、女娲氏、神農氏です。

  • 雷神信仰

雷神信仰の始まりは、古代の人々の雷電に対する自然崇拝から始まったと考えられます。古代の人々にとって、青かった空が急に暗くなり激しい光と共に雷鳴が轟く上に、稀に落雷で樹木などが破損してしまうので恐ろしい現象であったことは想像に難くないです。

人々は雷が起こると天の神様が怒っていると思い恐怖し、怒りを収めるように祈ったと言う訳です。この信仰は次第に具体性を帯びてきて、複雑な働きをする雷神として表現されるようになりました。

道教中の雷神の階級

第一位:九天応元雷声普化天尊

雷神の最高神は九天応元雷声普化天尊と言います。《歴代神仙通鑑》には、”主天の災福、持物を測り、人物を掌握し、生殺を司る。”とあります。この最高神の下で複雑な雷神部隊が組織されています。部隊は神雷玉府を成し、下には三十六内院中司、東西華台、玄館妙閣、四府六院及び諸有司、各分曹局からなります。

《無上九霄玉清大梵紫微玄都雷霆玉経》には四府の説明があり、九霄玉清府、東極青玄府、九天応元府、洞淵玉府の四つです。また、六院は、太一内院、玉枢院、五雷院、斗枢院、氏陽院、仙都火雷院です。諸有司は、天部廷司、蓬莱都水司、太乙雷霆四司北帝雷霆司、北斗征伐司、北斗防衛司、玉府雷霆九司諸曹院子司からなります。

また、それぞれの組織中には、玉府左玄、右玄、金閥侍中、仆射、上相真仙、真伯、卿監、恃宸、仙郎、玉郎、玉童、玉女左右、司麾諸部雷神、官吏、将吏があります。また、九天雷公将軍、八方雲雷将軍、五方蛮雷使者、雷部総兵使者とも呼ばれ、九天応元雷声普化天尊の命令に従います。

諸司の中には、三十六の雷公がおり、天、地、人の三種類に分かれて各十二柱ずつです。天雷十二柱は、神霄雷公、五方雷公、行風雷公、行雨雷公、行雲雷公、布沢雷公、行氷雷公、行霄雷公、飛砂雷公、食糶雷公、伏魔雷公、吞鬼雷公です。

地雷十二柱は、糾善雷公、罰悪雷公、社令雷公、発稲雷公、四序雷公、却災雷公、收毒雷公、扶危雷公、救病雷公、太昇雷公、巡天雷公、察地雷公。

人雷十二柱は、收瘟雷公、摄毒雷公、却禍雷公、除禍雷公、破禍雷公、破廟雷公、封山雷公、伏虎雷公、打虎雷公、滅屍雷公、破障雷公、管魄雷公、蕩怪雷です。

この三十六の雷公は三十六の天曹の刑律を司っており、九天応元雷声普化天尊忠実に従い、天に変わり刑罰を与えることから、”雷司の布令は疾きこと風火の如く、中止できず、降沢の処に矛有り、震雷の声数有り、干ばつであれば即ち干ばつ、雨ならばすなわち雨、必ず帝令を実行する。”とあります。

さらに、九天応元雷声普化天尊は五雷、十雷、三十六雷霆を統括しています。すなわち、五雷は、天雷、地雷、水雷、神雷、社雷の五柱です。十雷は、玉枢雷、神霄雷、大洞雷、仙都雷、北極雷、太乙雷、紫府雷、玉晨雷、太霄雷、太極雷の十柱です。

三十六雷は、玉枢雷、玉府雷、玉柱雷、上清大洞雷、火輪雷、灌斗雷、風火雷、飛捷雷、北極雷、紫微璇枢雷、神霄雷、仙都雷、太乙棗天雷、紫府雷、鉄甲雷、邵陽雷、欻火雷、社令蛮雷、地祇鳴雷、三界雷、斬壙雷、大威雷、六波雷、青草雷、八卦雷、混元鷹犬雷、嘯命風雷、火雲雷、禹歩大統攝雷、太極雷、剣火雷、外鑑雷、内鑑雷、神府天枢雷、大梵斗枢雷、玉晨雷の三十六柱です。

九天応元雷声普化天尊には次の三つの説があります。

一つ目は元始天尊の第九子である玉清真王の説です。《無上九霄玉清大梵紫微玄都雷霆玉経》には、”元始天尊の第九子である玉清真王が、雷声普化天尊に化け、九霄三十六天を統制し、雷電を司ることを掌握し、神雷真王と称した。”とあります。この説は、《道蔵・九天応元雷声普化天尊玉枢宝経》などの書物中にも記載されています。

二つ目の説は黄帝説です。

《重修緯書集成》第六巻の《河図始開図》で、”黄帝、名は軒轅、北斗神也。雷を以て精を起こす。”とあります。同様に第四巻の《春秋台誠図》では、”軒轅星、主に雷雨の神。”とあります。《史記・正義》には、”軒轅十七星、七星の北にあり、黄龍の体で、主に雷雨の神。”とあります。

さらに《歴代神仙通鑑》には詳細な説明があり、”黄帝は封じられ九天応元雷声普化真王と成す。神雷玉府に住み、碧霄梵気の中にあり、雷城二千三百里に去る。雷城は高さ八十一丈、左には玉枢五雷使院が、右には王府五雷使院があった。真王の前に三十六面の雷鼓があり、三十六神がこれを司る。通常は雷が鳴る時、真王が雷鼓を敲くと、すなわち雷公雷師が雷声を発する也。雷公は雷沢に入りて神者と成す也。力牧は勅で雷師皓翁と成した。三十六神皆功のある臣であった。”とあります。

黄帝は中原を統一した最初の帝で、中国の祖と言われています。力牧はその部下で、ライバルの蚩尤を倒すために黄帝が求めた人材でした。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

三つめは聞仲説です。

この説は《封神演義》中にあり、姜子牙が封神される時、将太師聞仲が九天応元雷声普化天尊に封じられ、鄧忠、辛環、張節、陶榮などの二十四の雷公が配下につき、”催雲助雨法”を行ったというものです。

これらの説は雷神が道教に取り入れられたことで発展しました。《明史・礼志四》には、”雷声普化天尊者、道家総司五雷を以て成し、また、以て六月二十四日は天尊現示の日と成す。故に歳はこれを以て日は官を遣わし、顕霊に詣で宮は祭を致す。”とあります。道教中には雷神を召還する雷法があり、この法は符箓(フールゥと読みお札のこと)を使用して法術を行います。この術は神を召還して鬼を捕らえさらに、雲を興し雨を降らせるという術です。

第二位:鄧元帥

鄧元帥は道教雷部の神の一柱です。その名は忠と言い伝えられています。《鋳鼎余聞》第一巻に、”銀牙耀目”とあります。九天応元雷声普化天尊の部下の天君であり、鄧元帥がそのトップです。《夷堅志補》第二十三巻には、”宗室の趙善蹈は幼いころ九華同先生の伝霊宝大法に出会った。その効力は非常に高かった。壇を作って法を行い、神人が火焔で身を焼くを見て曰く、”吾天元から鄧将軍を召喚した。”とあります。

宋代には天元鄧将軍と称しました。明の姚宗儀の《常熟志》には、”道観に雷神殿があり、前には律令大神鄧元帥を以て首と成す。”とあります。その他、《封神演義》でも、鄧忠という名で登場し、《西遊記》中にも鄧化として登場しています。これらは全て鄧元帥を指しています。

第三位:辛元帥

辛元帥は道教雷部諸神の一柱です。《三教源流授神十大全》第五巻には以下のような話が記載されています。

その名は辛興と言い、字は震宇と言い、その母姓は張と言った。幼い時家は貧しく、柴を売って何とか暮らしており、母親を養いながら辛い日々を送っていた。もともとは雍州人であった。その住んでいる地方に雷神山があった。いつも驚蟄(二十四節気の一つで春雷が起こるころ。日本では啓蟄と書きます。もともとの意味は冬眠していた虫が驚いて目を覚ますという意味です。)の日には大きな雷を作り出し、驚かない者はなかった。

夏になり、秋の二季に雷神は地にもぐり、鶏の形に変わった。ある日、辛興は雷神山に柴をとりに入ると、静かな山谷中でさっき鶏になった雷神五羽を見つけた。心中は興奮し、殺して母に食べさせようと思った。家に帰ると、辛興は先ほどの鶏を母親に渡し、柴を売りに行った。

母は四羽の鶏が籠の中にいるのを見て、一羽殺そうとしたとき、鶏は突然人のようにしゃべりだした。”私は雷神で食べることができません。私の命をお救いください。”母は答えず、殺してしまった。すると突然大きな雷鳴が轟き、雷撃が母を直撃し母は死んでしまった。

辛興が家に帰ると、母が死んでいるのを見つけた。亡骸を抱え大声で、”なぜこんなことをする、この恨みは忘れんぞ!”と、眼からあふれる涙を拭ったとき、母親の背に金色の文字で、”混一の気、青帝の英、威令を加える所、悪を滅し邪を誅する。ただ吾命を司る。”書かれていた。これを見て、雷神の仕業であり、鶏は雷神が変化したものと理解した。そして木の棒で四羽を打ちのめし、雷鶏は衣服をかぶせられ、雷電が出せないようにされた。

突然、厚い雲に覆われ、雷電が加わり、雷神が辛興を撃たんと欲していたが、その孝行心はなかなか見られるものではないため感心し、道士に変わり胸の前で両手を合わせて言った。”一人で雷神をも恐れず、雷を使えなくした孝行息子よ。吾は雷神、誤って其方の母親を傷つけてしまった。其方の母は恨む也。余等はその謝罪する。”と言い、火丹十二顆を与え食べさせた。すると辛興は即座に雷公になり、足は五雷鼓を踏み、雲天に昇り、玉帝に雷部元帥に奉じられた。

伝説では農歴六月二十五日は辛元帥の聖誕で、雷神を敬う人々はこの日は菜食とし、”雷斎”としました。《鋳鼎余司》の第一巻のように、国朝顧禄の《清嘉録》を引用して、”六月二十五日は辛天君の誕辰と成し、天君雷部中の主簿神と成したという。凡そ雷を奉る斎者、日に至り皆で野菜を茹で以て神祐を祈る。”とあります。

第四位:龐喬封帥

《三教源流捜神大全》には以下のような逸話が書かれています。

帥の姓は龐で名は喬、字は長清、漢江人、その父龐定、母姚氏、渡し船で生計を立て、漢献帝癸丑年十一月癸亥日丑に喬を生む。龐喬は控えめだが善良で、道で拾って自分のものにせず、常に人の急難を救う。

重陽節の晩に、一人の商人が帰宅の徒で渡しを求め、うっかりと黄金百両を船上に残していった。次の日、船客が尋ねるに至り、心には焦りが焚の如く、龐喬はその黄金には全く手を付けず船客に即座に返却した。船客は感激で涙を流し、龐喬に最大限の感謝の意を表した。

又、旧暦の大晦日の二日前に、若い女性が一人で渡河を求めたが、その時はすでに日が暮れ、大雪で婦女は行くところがなかった。龐喬は家に招き火を焚き衣食を与えた。次の日雪が止んだ後、婦人はその後どうなったか知らず。その次の日、龐喬は船客の対応で忙しく、その父龐定は水除けの蓑を着られ、船を助け客を渡した。件の婦女は後面に共にいた。

船が岸に至り折り返す際、江に大風が吹き船が大きく揺れた。龐喬はこれを見て凍える冷水に飛び込み荒れる流れを泳ぎ、その父が落水したところへ泳ぎ着いた。水に潜りその父を背中に抱え、崖まで泳ぎ着いた。その時また大きな波が来た。すると龐喬とその父はその波に飲まれてしまった。

龐喬はまた力を振り絞り父親を助け、婦女を求め、水の中に三回潜り婦女を助けた。この時除夜で、鬼魂が出入りし魂を取り換えんと欲し、龐喬は十六の精をしっかり保ち、坎を以て府と成していたが、沸き立つ大波はそのほとんどを不能にせしめた。そして、その婦女慈航(観音)の化身で、当然何事もなかった。

龐喬の父も危険はなかった。龐喬は父と抱き合い大声で泣いた。そして数十鬼もまた哭いていた。これを鞭を使って打つと鬼は逃げて行った。次の日の夜も鬼魂が来て哭いた。陰風がざわめき、鬼哭は人を惨めにし、いわんやその父水中から生還したばかりで、体調が芳しくない。その生命が危ぶまれ、龐喬はすでに得ず、芳香の灰をその掌中につけ、その上に火をたいた。祝祷天に届き、玉皇大帝が知ることとなった後、混気元帥に封じられ、手には金月を持ち、天門を守る。その後、雷部天君と成し、陣魔除悪、微塵も犯さず。

第五位:雷精

雷精は《三教源流授神大全》の第四巻に、”元帥姓を田、名を華と言う。雷精から成り、地中に籠り、田問に寄胎し、千年石乳中の気を得て生まれた。生まれたときは昼であったが空には雷雲が立ち込め、火光が天を貫き、風雨が起こり、帥膝座りの状態で大蛇がその外を囲んだ上に、八の群れがその授乳をした。成長して田に因み姓とし、漉櫨岩の下で修練を重ねた。”とあります。

当時は女娲が共工が壊してしまった天地を五色の土を焼き溶かして補天を行い、百計は成らず、帥木火の精を助け、雷で黒石を砕き、南の気曙を吐き出し鋳しこれを仕上げる。声は天地にとどろき、天漏を塞ぎ、再び五色を火雹風雷陣を煉き、軒轅が蚩尤を倒すを助ける。そのため軒轅黄帝は龍師を拝む。師曰く、”私は人ではない、なぜ面倒なことをしなければならない?”と言い、衣を脱ぎ捨てて華胥国の境へ隠遁した。これに因み、名を華焉と言った。

時が過ぎ、唐氏の時代となった。天上には十個の太陽があり、大地を赤く焼いていた。衆星官は代天工司者を以て喩え、帝閉じこもり滞り、天地立心洪炉を成し命を造る。帥玉帝に意図を奉り、雷車を引かせて、電旗を抱く。時は流れ漢末に及び妖魔縦横、奸淫百出の様であった。玉帝は雷門を元帥と成し、十二雷霆を掌握させた。これより天地の水が枯渇しないように管理し、不仁不義の人を撃ち、群魔妖怪を誅する。故に人々より尊敬され奉じられるのである。

第六位:立化慈済真君

立化慈済真君は道教の雷部諸神の一柱です。《三教源流授神大全》の第四巻には、《雑記伝》を引用して、”天君東晋人と成し、名を后と言った。岷江漁を渡る途中に生まれ、干支が庚子の年の八月十二日の酉刻であった。ある日、母が江中から水を汲んでいると、母の不注意からその子は江の中へ落ちてしまった。近くに浮かんでいた木を得て河を渡る。その父、劉福公が迎えに行き、何とも異也、死ななかったことが幸いだ、言った。年幼く家は貧しく、羅真人に随い読むを助ける。後に真人伝授を得て、五雷掌法に精通し、風を呼び雨を降らせ、百姓たちの危機を救った。その後、玉帝は”立化慈済真君”に封じ、神雷玉府五雷使院を管理するようになりました。

出典:baidu

雷神部隊、強そうですね((;゚Д゚)) ドラクエで言うならライデインは使えて当たり前で、上位の雷神になるとギガデインを使い、必殺技がミナデインでしょうか。こうなると手が付けられませんね((;゚Д゚)) やはりワンピースのゴム人間などが天敵となるのでしょう(;´∀`)

しかし雷公ってびっくりするほどいっぱいいたのですね(;´∀`)

もともと一柱の雷神を指して雷公などと称されていましたが、道教に取り入れられたのちに多彩な進化を遂げて道教中では雷公は下位の雷神の呼称とされるようになりました。

道教では崑崙山に住む仙人になることを目標の一つにしていますので、道教には多くの神が取り入れられています。加えて煉丹術や各種の召喚術、死者を動かす趕屍術などもあり、独特の体系を持っています。

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