第一巻:捜神後記を翻訳してみた

捜神後記、もしくは続捜神記は捜神記の続編で、東晋の陶潜(字は淵明)(365-427)の選です。しかし、陶潜の死後にも書かれているので全て陶潜により書かれたわけではないと言われています。捜神後記は捜神記に似た内容で妖怪や神仙の話が書かれており、十巻で百十七条から構成されていて、当時の故事を今に伝えています。

今回は第一巻をご紹介いたします。

  • 仙館玉漿

嵩高山の北面に大きな穴があった。人々はその深さを知らず、百姓たちは一年中そこへ行き、鑑賞した。晋代の初期に、かつて誤ってその洞穴の奥へ入って行った人物がいた。仲間たちは彼に生きて欲しいと思い、食料を投げ入れた。穴に入って行った人物は、食料を得たので出口を探し、凡そ十日後に忽然と光明を見た。すると、一軒の藁ぶき屋根の家を見つけ、家の中では二人が座って碁を打っていた。碁盤の下には白色の飲み物が置いてあった。




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洞窟に落ちた人物は彼らに向かって食料と飲み物が必要であることを伝えると、碁を打っていた人たちは、「これを飲むがよい。」と言った。その飲み物を飲むと、気力が湧いてきた。碁を打っている人物は、「ここに留まりたいか?」と聞くと、洞窟に落ちた人物は地上に出たい、と言った。碁を打っている人物は、「ここから西へ行くと、天の井戸があり、井戸の中には蛟龍が沢山いるのだが、その井戸の中に入ると外に出られる。もし飢えたら井戸の中の物を取って食べるとよい。」と言った。

洞窟に落ちた人物は言われた通りにすると、半年くらいで外に出られた。その人物が洛陽に戻ると、広武県侯である張華にこの件について教えを乞うと、張華は、「お前は仙館の中の二人の神仙を見たのだ。そして、お前の飲んだのは玉液琼浆で、食べたのは蛟龍の洞窟の石鍾乳だ。」と答えた。

  • 剡県の赤城

会稽の剡県に住む袁相と根碩は二人で狩りへ行き、山奥迄入っていったときに、六、七匹の山羊の群れを見つけたので後を追った。石橋を渡ると急峻な隘路となった。山羊は橋を渡ったので、二人も橋を渡ると絶壁の崖へと到った。崖は鮮やかな紅色で壁のようであり、赤城山と言った。崖の頂上からは水が流れ落ちており、その広がる様子は一枚の布のようであり、剡県の人々は瀑布と呼んでいた。山羊が進む小道の先には大きな門のような洞窟があった。両者は覚悟を決めて洞窟へと入っていくと、洞窟内は兵站で草木は芳香を放っていた。そして一軒の小屋があり、小屋には二人の少女が住んでおり、歳はどちらも十五、六歳ほどであり容姿は非常に麗しく青色の衣服を身に纏っていた。一人は莹珠と、もう一人は潔玉と言った。

彼女たちは根碩たち二人がやってきたことを見ると喜び、「あなたたちがやって来るのを待ち望んでいました。」と言った。そして、彼らは夫婦となった。ある日、少女たちが他の姉妹が結婚したので、祝賀しに行った。彼女たちは絶壁を軽やかに登って行った。根碩たちは家に帰りたいと思い、こっそりと帰路についた。二人の少女がこれを知ると、身を翻して追いかけてきて、「行ってもいい。」というと、彼女たちは腕の香袋を二人に贈り、「これを開けないように気を付けて。」と行った。彼らは家に帰った。ある時、根碩が外出した時、家族が香袋を開けて見てみた。香袋には蓮の花の花びらのようで、一層一層剥ぎとり、五層に到ると袋の中の青い小鳥が飛び出した。根碩が家に帰りこのことを知ると、非常に悔やんだ。その後、根碩が田で耕作ししていると、家族がいつものように飯を届けに行くと、彼が田の中で動かなかった。近づいてみると、セミの抜け殻のようなものだけが残っていた。

  • 韶舞

栄陽県に名前はわからないが何という姓の名声のある人物がいた。荊州の長官は彼を官吏に登用しようと乞うたが受けず、隠遁して心身の修練を行った。彼はよく田や農家に行っては家から収穫を見ていた。ある日、みすぼらしい衣服をまとい、角ばった冠をかぶった一丈ほどの背丈の人物が忽然と現れた。その人物は人々が収穫している中へと入り、両手を挙げて踊りだした。その人物は、何という人物に、「かつて韶舞(しょうぶ)を見たことがあるか?私の舞が韶舞だ。」と言うと、その人物は飛び跳ねながら少しずつ離れていった。何という人物は、その人物を追っていくと、ある山へと至った。その山には洞窟が一つあり、一人だけが通れる大きさであった。その人物は何という人物に、洞窟へ入るように言うと、何は彼について洞窟へと入って行った。入口は狭かったが、次第に広くなったがその人物は突然消えてしまった。何はそこで数十ヘクタールほどの広さの肥沃な土地があるのを見て、そこで開墾を始め、その田畑は代々受け継がれて子孫は今でもそこで田畑を耕している。

※韶舞は五帝の舜が作ったと言われている楽曲です。

  • 桃花源

晋朝太元年間に、武陵郡に魚を獲って生活している人がいた。ある日、彼は船で川をさかのぼっていると、知らず知らずのうちに船が遠くへと流れて行き、桃花の林に至ると、両岸は数百歩に渡って桃の木ばかりであった。桃の花は美しくかぐわしい香りを放っており、花の色彩も色鮮やかであった。漁師は非常に驚き、その場を離れようと船をこいだが、桃の林がどこまで続いているか気になり、林の終わりまで行ってみることにした。桃の林は渓谷の水源近くまで続いており、山が一つあった。麓には小さな洞窟があり、洞窟内は光輝いているようであった。入口は狭く、人ひとりがやっと通れる程度であった。さらに数十歩進むとこと禅と開けた場所に出た。そこは広く、家があり、肥沃な田、美しい池、桑や竹などの林があった。他は縦横に小道で囲まれており鶏や犬の鳴き声がした。そこにいた人々の衣服や外見は人と同じであり、大人と子供は幸せそうであった。




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彼らは漁師を見ると非常にいぶかしみ、どこから来たか聞くと、漁師は答えた。人々は漁師を客人として迎え、鶏を殺し酒を注ぎ、食事を作ってもてなした。村の人々が漁師が来たことを知ると皆が殺到して質問を浴びせた。彼らは自分たちの祖先が秦朝時代に戦乱を逃れて家族と共にこの土地へとやってきて、以降外へと出ていないためにこれまで外界とは隔絶されていたと言った。彼らは漁師に今は何朝か聞いたが、漢朝が存在していたことを知らず、当然魏朝と今の晋朝も知らなかった。漁師はこれらの仔細を彼らに聞かせると、彼らは非常に感じ入っていた。村の他の人々も漁師にどうしてもと酒をふるまい招待した。数日滞在した後に漁師は別れを告げてその地を離れた。村人たちは漁師に、「この場所のことを他の人には言わないでください。」と言った。漁師は山洞を出て自分の小舟を見つけると、目印を残して来た道を戻って行った。武陵に戻ると、太守にこれらの出来事を話した。太守の劉歆はすぐに部下を派遣して漁師と共にその場所を捜索させたが、漁師が残したという目印は見つからなかった。

  • 劉驎之

南陽郡に劉驎之、字を子驥という人物がおり、山水で遊ぶことを好んだ。彼はかつて一度衡山へ薬草を取りに行き、山中深くへ入ってしまったために帰り路がわからなくなってしまった。その時に彼は一条の渓流を見つけると、その渓流の南岸には石で作られた円形の穀倉を二つ見つけた。一つは門が閉まっており、もう一つは門が開いていた。川は深くて広かったので渡れなかった。彼は帰りたかったが道に迷っており、その時に偶然にも弓を作るために木材を集めていた人を見つけて帰り道を聞き、家に帰ることができた。話を聞いた人は、円形の穀倉の中に保存されているものは全て神仙が霊丹の妙薬を作るためのもの等であると言ったので、劉驎之は再度その場所を探しに行ったが、どこにあるかわからなかった。

  • 石室楽声

始興県の机山の東に二つの崖のある山がそびえており、両山の崖は相対して家屋の屋根の上の鴟尾(しび)のように見え、崖の上には数十の石屋があった。この場所を通り過ぎる人々は皆、各種の楽器が奏でられている音色が聞こえた。

※鴟尾はしゃちほこに似た屋根に着ける飾りです。もともとは龍生九子の一つであり、火災を避けるまじないとして使用されていました。詳細は以下をご覧ください。

龍生九子:龍と動物から生まれた中国の様々な神獣たち

  • 貞女峡

中宿県に貞女峡があった。峡の西岸には石が一つあり、その形状は女性に似ていたので、貞女と呼ばれていた。この付近に代々伝わる伝説によると、秦朝のころにある女性がここへきて巻貝を拾うと、突然暴風雨になり空が暗くなった。そしてその女性は石になってしまったという。

  • 舒姑泉

臨城県の南に四十里に蓋山があり、蓋山から百歩余りの所に舒姑泉があった。言い伝えによると、舒という姓の娘が、父親と共に泉の付近で柴刈りをしていた。娘は地面に座り休憩をしたところ、引っ張ってもどうやっても動かなくなってしまった。父親は家に帰って家族に言った。家族がその場所に行ったとき、娘が座っていた場所からは泉が湧き出していた。娘の母親は、「娘は音楽が好きであった。」と言い、楽器を弾き歌いだしたところ、渦を巻きながら止まることなく水が湧き出して、水の中には一対の金魚が泳いでいた。現在、人々はこの場所で楽器を弾き歌を歌うと、泉は止まることなく湧き続けるという。

出典:古詩文網

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