共工:治水で民に尽くしそして山をも真っ二つに割ってしまう狂戦士

神話中の共工(きょうこう gong4gong1 ゴンゴン)

共工は古代中国の神話上の神であり、沢山いる神の中でもひときわ強い存在感を出しているのがこの共工です。怒って頭突きで天地をひっくり返してしまったので、相当な石頭の持ち主でもあります(;´∀`)

共工のエピソードは神話と非神話入りまじって様々な時代で見られます。伏羲(ふっき)や女娲(じょか)の時代に見られる共工は水正部落の首領の称号でした。伏羲や女娲は黄帝よりもさらに前の時代です。また、黄帝の子孫たちの時代にも共工が戦争や治水を行ったという記述もあります。これは一人の人物ではなく、共工氏族が歴史を通して活動した軌跡であると考えることもできます。

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共工の評判もエピソードによっては良くも悪くもなっており実態がつかみにくいです。良い評価では《通鑑外紀》や《白虎通》で、何と三皇五帝の内、三皇に数えている書物もあります。逆に悪い評価は四罪にされてしまっていますので両極端です。しかし、両極端の評判にもかかわらず四大神話に共工のエピソードがあることから、中国神話中でも非常に強い存在感を示しています。

共工は古代神話中では炎帝神農氏(えんていしんのうし)の後代で炎帝一族に属している水神です。ややこしいですが、このため炎帝共工とも称されることがあります。古代中国神話中では水神となり洪水を操ります。

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共工は人の顔を持っていましたが、手足と蛇の胴体でした。黄帝の継承人者である顓頊の治世に反乱を起こし顓頊(せんぎょく)に鎮圧されました。共工は怒って世界を支える支柱と言われている不周山を頭で叩き世界は東南に傾いてしまいました。いわゆる中国四大神話中の一つである”共工怒触不周山”です。その後、共工はたびたび乱を起こし、洪水などで苦しめました。最後には禹(う)によって治められました。これは禹が治水を成功させたことを表しています。




中国の古奇書《列氏》には、水神共工(すいじんきょうこう)と火神祝融(かしんしゅくゆう)は相容れない存在であると書かれています。なぜならば、”水火不相容”であり、そのために祝融との間に驚天動地の大戦が勃発しました。この戦いに勝てない共工は最後には怒って不周山を頭で叩きました。すると山は崩れ落ち大地は傾き星々の配置はめちゃくちゃになってしまいました。こちらも”共工怒触不周山”の神話です。しかし、戦った相手は祝融でした。即ち、”共工怒触不周山”の神話には顓頊と祝融の二通り存在するのです。

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さらに別の説では、共工氏は黄帝軒轅(けんえん)の子孫の黄帝王朝時代の部落名で、共工と驩兜(かんとう)、三苗(さんびょう)、鯀(こん)と共に四罪に数えられています。

  • 部落連盟における共工

共工は古代中国の氏族名で共工氏とも称されます。共工の姓は姜(きょう)と伝えられており、炎帝の後の時代の話です。共工氏は神農氏以降に農業の発展に多大なる貢献をした人物です。また、畜水技術を発明したので、水の伝説が付いて回るようになりました。

黄河の氾濫は部落の存続に関わったため、共工は大勢を率いて洪水に立ち向かいました。共工は河に水路を別に作り水を逃がす“疏”という方法でなく、堤防を作って水の氾濫を防ぐ“堵”という方法で治水を行いましたが、成功には至りませんでした。しかし、この失敗の経験が蓄積されて治水の知識と技術力が高まりました。

共工は華夏の治水の英雄で後世では水神として崇められました。治水は決してあきらめない精神を表すようになり中国の精神的な支えとなりました。しかし、共工は黄帝の孫である顓頊と部落連盟の盟主の座を争いました。

この時顓頊は迷信を利用して民衆の心理を扇動します。即ち、共工が天を怒らせたという話を作り民衆の間に流したのです。この作戦により共工は民衆の支持を失い盟主の座には届きませんでした。そして共工は自分の治水の功績を守るために撞山で自殺し、自分は天を怒らせていないことを示しました。共工と顓頊が帝位を争った故事は多分に脚色されて共工怒触不周山の伝説として完成しました。

  • 顓頊時代の共工

帝顓頊の時代(紀元前25世紀ごろ)に、顓頊の部落連盟と共工の部落連盟が中原の今でいう河南北部で戦いました。新石器時代を経て文明を築き上げている最中の出来事でした。顓頊は黄帝の孫と言われており、高陽氏と号し黄帝の部落連盟を継承して首領になっていました。顓頊は若水で生まれ黄河東岸付近の帝丘(河南濮陽東南)に居を構えました。




一方の炎帝共工の子孫は炎帝族から分かれて共工部落連盟の首領となっており、九州黄河中流河西地区、今で言う河南輝県境あたりに住んでいました。顓頊の部落連盟の上流にあたる場所です。顓頊高陽政権は黄帝の位を継承(黄帝は一人ではなく初代黄帝以降の政権継承者も黄帝と呼ばれています。)しており、顓頊は軍を率いる名目で南征北戦し各地の諸侯を降伏させました。共工氏もその中の一つでした。

  • 書物中に記載されている共工

共工の評価は両極端であり悪評を伴うことも多く、古い書物の中で様々な悪神、凶神に混じって共工の名を見て取ることができます。

《尚書・堯典》には、讙兜(かんとう)は共工を推薦した。堯(ぎょう)は駄目だと言ったが工師として試した。しかし、共工は邪であった。四岳(しがく)は鴻水の治水に鯀(こん)を推薦したが堯はこれも駄目だといった。しかし、四岳が頼み込んだので鯀を使ってみたが結果は出ず、百姓たちは不便であった。三苗(さんびょう)は江淮にいて荊州で幾度か反乱を起こした。舜は帰って帝に、共工を幽陵に流して北狄と、讙兜を崇山に追放して南蛮に、そして三苗を三危に遷して西戎にさせ、鯀を羽山で死罪にし東夷に変えるように請うた。四つの断罪をして天下は従った。

《列子・湯問》では、”共工氏と顓頊が帝位を争った。怒りそして不周の山に触れると天柱は折れ、地は割れてしまったので点は北西に傾いた。日月星辰は終わり、地は東南を満たせず故に百川の水が戻り溢れた。”とあります。この話は《天文訓》や《淮南子》などにも記載されています。

《山海経・海内経》では、”炎帝の妻、赤水の子、聴沃は炎居を生み、炎居は節並を生み、節並は戦器を生み、戦器は祝融を生んだ。祝融は降りて江水になり、共工を生んだ。”とあります。

《山海経・大荒東経》には、”東海の外は大きな海で、少昊(しょうこう)の国があった。後継者は顓頊であった。少昊の都は曲阜にあり、距離は共工出生の地である邾婁に非常に近かった。それで顓頊と共工は近隣の関係だった。彼らの共同の領主は強大な少昊であったので、本来なら顓頊と共工は仲良くやっていかなければならなかった。しかし、少昊の治世の後期には少昊族の力は衰えた。加えて共工一族の隆盛により少昊に勢いを増しつつある共工を止めることはできなかった。このため、共工一族は少昊の統治に対して戦いを挑んだ。”

このことは《国語・楚語》に、”少昊氏の衰退で九黎(きゅうり:蚩尤が率いた部落連盟)は徳を乱し、その後三苗は九黎の徳の件を繰り返した。歴史上、共工は帝江と称し、これには江水の帝の意を含んでいる。共工の隆盛に面して少昊は後継人として指名した顓頊はもちろん不服であり、重黎に共工との対決を命じた。”とあります。

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重黎とは重部落と黎部落のことであり、重は少昊の子で江水流域にいた。黎部落は顓頊の妻の女禄の出身部落で女禄の禄は黎の通仮字です。女禄の出身部落は滕濆氏とも言い、朱后の代で分岐した祝融の家系であった。滕濆氏は滕奔氏とも言い奔は濆の通仮字です。濆は噴泉の意味で滕濆は沸騰するように涌き出る噴泉のことです。滕濆氏は今の山東滕州にあり、滕州は涌き出る噴泉により名付けられました。黎(禄)姓の滕濆氏は今の滕州一帯にいました。それは氏族の祖先である祝融のいた邾婁に非常に近かったと言います。

女禄と顓頊の後代も一部祝融を称していました。滕濆氏と共工は同族でしたが、兄弟分家であったため不愉快で顓頊を支持して共に共工を攻めました。

《文子》には、”共工は水害を成し、故に顓頊これを誅する。”とあります。

また、共工は争いを起こしましたが、書物によってその相手は異なります。《淮南子・原道》には高辛と、《雕玉集・壮力》には神農と、《史記・補三皇本紀》には祝融と、《路史・太呉紀》には女娲(じょか)と争ったとあります。その他には禹(う)が共工を追放したや、禹が共工の臣である相柳を殺した、などの伝説が残されています。

共工氏は残忍で暴力的な描写をされることが多いですが、共工の神力と共工と民の密接なかかわり合いにより、最終的には人々に畏怖される存在になりました。《山海経》には、共工の台、射る者あえて北を向かず、とあります。これは共工への畏怖の念の表れともとれます。共工氏の努力は最終的に治水の成功へと導きましたので人々の生活環境を変えたという点で三皇に数えられる書物もあります。

  • 共工怒触不周山伝説その1 対顓頊帝

《史記・五帝本紀》には以下のように記載されています。

顓頊帝の管区は広大であった。北は幽陵に至り、南は交阯に至り、西は流沙に至り、東は蟠木に至る。動くものも動かない物、大小の神、日月照る所、全て帝に帰順していた。林が大きくどんな鳥もいた。顓頊の大徳智慧、善者は従い、邪悪に使うに及び無法無天の共工はこれを恨む。共工は妬みで狂い、共工同様顓頊に不満を持つ悪神に呼びかけて軍隊を組織した。軽装で身を軽くし、突如として天国の京都を襲撃した。顓頊帝は変を聞きくも動じず、七十二座の狼煙台に点火した。




大戦開始後、顓頊帝は軍を率い、共工部隊を天上から俗界まで追いやり、再び俗界から殺し合い天上に至った。数度の戦闘の後、顓頊帝の部隊は段々共工の部隊を圧倒していった。二つのハチの巣から驕虫が毒蜂を率いて平逢山から急ぎ、共工の部隊はさんざんに蹴散らされ、全滅寸前の状況であった。共工は転戦しながら西北の不周山の麓にたどり着いたときには、身辺には十三騎しかいなかった。不周山は切り立っていて天までそびえ立っていて、この賊の退路を断っていた。

この不周山は巨大な天の柱であった。顓頊帝が宇宙の秩序を維持するための主要なものの一つであった。この時、顓頊帝が軍を率いて四方八方から大声を上げて突撃し、天羅地網が完成した。すなわち逃げ場はどこにもなく、共工は死ぬ前に一計を立て、後世に恨まれようが一切顧みず、不周山を頭で叩きに行った。ものすごい轟音の中、天を支えている不周山が折られてしまい、横に倒れてしまった。

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天柱が折れた後宇宙は大変動を起こし、西北の天穹は支えられずに傾いてしまった。太陽も月も星々ももともとの位置にいることが出来なくなってしまった。不周山が折られてから天は半分崩れて非常い沢山の大きな穴が開いてしまった。地面は裂けてしまい、大きな裂け目ができてしまった。天が崩れ地が裂けた状況で、山林は燃え上がり大火災が発生し。地下水が洪水のように湧き出し、凶獣達が出現して大地はまさに地獄と化してしまった。

天神女娲は自分が作った人間たちがこのような苦難を受けていることを見て大変心を痛めた。人々に新しい自然な生活をさせるために女娲は壊れた蒼天を修復しに行った。

この修復は困難を極め、女娲は先に江河で沢山の五色の石を選び取り、大火の中で石を九天九夜焼いた。精錬された石は紅、黄、青、白、黒の五色が混ざったどろりとした液体になった。そして、その液体を掬って天上の穴を修復した。この作業中には天を支える必要があったため、一匹の大きな鳥亀の四本の足を天柱の代りにし、大地の四方に据え天を支えた。

柱は完成し天空は再び傾くことはなかった。。女娲はまた人々を苦しめている凶禽悪獣達のところへ行き、芦を燃やして出来た灰を持って洪水をふさぎに行った。天の修復が完了し地面も平坦になり、華夏の民は再び自然で幸福な生活を送るようになった。

  • 共工怒触不周山伝説その2 対祝融

盤古が天地を開き女娲が人を作った後、一度戦争が起こりました。水神共工と火神祝融は相容れず、共工は蝦兵蟹将を率いて火神に攻撃を開始したのです。先鋒の大将は相柳、浮遊で祝融の住居である光明宮に突撃し、光明宮の四方で燃えている長期間消えることのない神火を雨で消すように命じました。大地は次第に漆黒になりました。火神祝融は全身に炎を纏った火龍に引かせてこれを迎撃しました。

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すると光明宮の上空に立ち込めていた雲霧は消え空は晴れ上がり雨は止んでしまいました。共工は激怒し相柳と浮遊に命じて三江五海の水を汲み上げて祝融に向かって放水しました。その刹那、大洪水が起こり神火はまた消えてしまいました。しかし、洪水が引くと神火は再び燃えだし、加えて祝融は風神に協力を頼み、風の助けで火勢は強くなり、共工に襲い掛かりました。

火炎は共工を直撃し、共工とその部下は大量の水でその火を消そうとしました。しかし、水は千里を速く流れており、留まっている場所がどこにもありませんでした。火焔は再び長い舌のように襲い掛かってきます。共工達は火に焼かれて全身黒こげで、大混乱に陥りました。共工は水軍を率いて戦いつつ退却し、大海まで逃げました。共工はここで祝融を大洪水にあわせるために水を満たしましたが、難しいと悟り退却しました。

祝融は必勝の決意をもって全速で追撃します。火龍が水宮にたどり着くと、海水は両側に分かれて一条の道が現れました。祝融はためらわずに突撃し、水神共工達はただ闇雲に打って出ました。祝融の勝利が間近に迫り、共工は心身ともに疲弊しきっていました。再び戦う力は残っておらず、狼狽して天に向かって逃げました。共工は不周山までたどり着き後ろを振り返ると、追撃してくる祝融軍が間近に見えました。共工は恥と憤りで山を頭で叩きました。




大きな音と共に不周山は折れてしまいました。不周山が倒れると大災難が降りかかりました。不周山は天を支える天柱なので、柱が折れると天は傾いてしまいました。岩がむき出しの大穴が開き大洪水が起こりました。

これが中国で有名な”水火不相容”の故事の題材となっている水神共工と火神祝融の大戦です。戦後は上の方で書いた話しと同様で、女娲が五彩色の石を使って修復して天地は正常に戻りました。

  • 共工の洪水伝説

伏羲(ふっき)の時代、華夏に共工の部落がありました。共工氏は天上の水神で、人面で蛇の体をしており、髪の毛は赤く性格は狂暴でした。共工の手下には二柱の悪名高い神がいました。一柱は九つの頭部を持った相柳(そうりゅう)で、人面で蛇の体、全身青色の残酷で貪欲は性格をしており、もっぱら殺戮を好みました。別の神は凶神で浮遊(ふゆう)で人の心が透けて見えたといい、この能力を使って人に蠱惑を施しました。

これにより、共工氏の民は表面上では敬っていましたが、内心では憎々しく思っていました。共工氏の首領は康回(こうかい)と言い、全身剛毛で朱色の髪で全身の筋肉は盛り上がり、身の丈は一丈あまりの怪力無双でした。康回は人々が上部だけ敬っていたので陰謀を巡らそうとしましたが、伏羲の大威大徳のためしばらく耐えていました。

伏羲が死去すると華夏の民は女娲(じょか)を立てました。これを康回は妬み自分の封じられた領地が高地にあることを利用して中原一帯に洪水を起こし、華夏の大地を水浸しにしました。女娲は怒り華夏の民を率いて共工氏を一掃することを決めました。

  • 治水にまつわる伝説

華夏の堯(ぎょう)帝時代、天下は洪水で悩まされていました。鯀(こん)の治水が成功せず、堯は鯀の息子である禹(う)を派遣して治水にあたらせました。大禹は百姓たちを率いて黄河へ行き、邙山の東の外れに至りました。この東側の治水が上手くいっておらず、それはここで共工が邪魔をしていたからでした。

共工は邪悪な水神で、性格は狂暴で残忍、何事にも横暴であり、もっぱら華夏の民を目の敵にしていました。共工は心血が絶頂に達した時、神力を発揮して風を呼び雨を降らせ、洪水で天下の百姓たちに被害を与え、美しい華夏の大地を水浸しにしてしまいました。百姓たちは天を仰ぎ泣き地を叩いて嘆きました。苦しい日々をただ耐えるしかありませんでした。

大禹は共工を探し出し、風や雨を呼び、洪水を起こして民百姓に被害を与えることをやめて、華夏の民の生活に役立ち徳行を積むことを説きました。共工は大禹の勧告を全く聞かず、こう言いました。”我は我の洪水を起こしている、其方に何の関係がある?”。これを聞いて大禹は低俗な悪神にこれ以上無駄な時間を費やしたくなく、ただ雨の日も風の日も走り回り、激しい風雨の時でも地形を観察して黄河の東へ進みました。

共工は大禹が一心不乱に洪水を治め、黄河の流れを導き、華夏の民の生活を正常にするために働いているのを見て、怒りの炎が燃え上がりました。そして、自分の持てる神力を使って中原一帯に洪水を起こし水であふれかえらせました。洪水はおさまるどころかさらに大きくなりました。大禹は西へ東へ奔走し、全力を尽くしましたが黄河の水は四方八方へ溢れおさまる気配はなくむしろ水が増えていく有様でした。

共工の騒乱があり、黄河は治水どころではなくなってしまったので、大禹は我慢の限界を超えて華夏の民を率いて共工を駆逐する決心をしました。大禹は治水を行っていた応龍と黄龍、白龍、蒼龍を全て召喚し、戦いに参加させました。大禹は軍勢を率いて水中で立ちふさがっていた共工に攻撃を開始しました。双方は殺し合い、大戦は一か月間続きました。




大禹率いる華夏の民はかわるがわる軍隊に加わり戦ったので、共工は段々と疲弊してついに戦いに敗れ、慌てて逃げ、大禹は追い詰めました。共工は逃げ場がないことを悟り、大禹に跪いて二度と華夏を侵害しないことと水を使った悪行をしないことを誓いました。大禹は許し共工を開放しました。

大禹が華夏の民を率いて共工を追い払った後、一気に洪水を排し黄河の水を東海に導きました。また、太行山の石を使ったので、黄河の両岸は高くそして厚く作られており、十分堅固な岸となりました。

  • 共工の社会的な貢献

共工氏は代々治水を行う家でした。共工氏の治水は高地を平らにして低地を高くして、平地の上に土の堤防を築くことでした。しかし、この方法では川の流れが変わらずに水の勢いをそぐことができないので水量が増えると曲がりくねった弱い部分から決壊してしまい、共工の治水工事は最終的に失敗してしまいました。

共工氏と娘の后土はどちらも農業に精通していました。彼らは農業における水の利用に関して研究をしており、部落の土地の状況を考察したときに、高い土地では田畑に水を引く領力を費やすことに気が付きました。一方。低い土地ではたやすく水があふれます。

このような状況で、共工氏は堤防を築き畜水の方法を発明しました。それは、高い土地の土を低い土地に運び平らにすることです。地面の高低差を無くすことで水が全体に行き渡りやすいようにしたのです。これにより農耕可能な耕地面積は増大し、灌漑も発展して農業の生産高は向上しました。

出典:baidu

共工はもともと炎帝の分家であり、炎を象徴する一族でした。しかし、いつの日か水神とされていました。さらに水神であることから火神である祝融と戦いを行っていますので火だか水だか混乱しますね(;´∀`)

陰陽五行学説で言うと火と水は相克で、水剋火、つまり水は火に勝つとなり、水神である共工の方が火神である祝融よりも強いはずなのですが、これは如何に?

陰陽五行は道教の考え方ですが、道教が成立すると共工と祝融のこのような矛盾は取り除かれると思いました。しかし、意外に後世まで残ってしまっていますので、これはこれで興味をそそられました。

また、あまりよくない伝説ばかりでトラブルメーカーのイメージですが、神農氏や伏羲など天地開闢付近の神様たちと同等の三皇に数えられている場合もありますので、良くも悪くも非常に強い存在感を出しているのがこの共工なのです。

そんなわけで今回は得意攻撃が頭突きのプロレスラーを連想してしまう共工でした( ´∀`) 負けると不思議な踊りを踊る刑天とのタッグはキン肉マンのタッグマッチにも出れそうなコンビですね(;´∀`)

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