蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神

蚩尤の概要 (しゆう chi1you2 チーヨウ)

蚩尤は古代中国神話上の部落連盟である九黎の首領です。勇猛果敢で戦争が非常に強かったため、現在では戦神として奉られています。

蚩尤は牛の図柄と鳥の図柄を象徴として用いていた部族の首領であり、81人の兄弟がいましたが、全員が獰猛で強く、銅の頭と鉄の額を持ち、足が8本で足の指が9本とも10本ともあったと言われています。

能力値:黄帝最大のライバルですので能力値は全体的にかなり高いです。戦闘に関しては強いという記述が沢山ありますので最強レベルです。政治も統率も大規模な部落連盟を率いて戦ったので非常に高かったと思われます。黄帝に敵対したため信仰は低めですが、それでも中国各地で神様として祀られているので高いです。不死身で剣も槍もきかないので術は相当高いと思いました。

今から4500年くらい前に、九黎と炎帝及び黄帝の部族が涿鹿(たくろく)の戦いを起こしました。この戦いで蚩尤は敗北し戦死したとも言われており、蚩尤の率いた部族連盟は黄帝と炎帝に吸収融合されました。

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  • 蚩尤が勢力を築いていた地域

蚩尤率いる九黎は中原一帯で農耕を信仰し、銅や鉄を冶金し、軍隊を整備し、百芸を創り、文明を前進させたので、初期の中国の文明の発展に多大なる貢献をしました。河南、山東、河北が交わる地域には蚩尤の拠点があったと考えられており、”九黎の都”と称されています。河北省の涿鹿県内には蚩尤墳、黄帝泉(阪泉)、蚩尤三砦、蚩尤泉、八卦村、定車台、蚩尤血染山、土塔、上下七旗、橋山などの遺跡が残っているとされています。

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古い記録によると、蚩尤の部族が生活を営んでいたと言われている地方には蚩尤軍の拠点や墳塚、祀祠などの遺跡の記載が見られます。これらの遺跡をさかのぼっていくと蚩尤の率いた部族の末裔や当時の蚩尤の活動の様子が少しずつ見えてきます。

蚩尤上に関する記載は《水経注・巻十三》の涿水の条項にあります。”涿水は涿鹿山から流れ出ており、世にいう張公泉で、東北を流れて涿鹿県を経る、故に城南、とあります。”《魏土地記》には、”涿鹿城東南六里に蚩尤城がある。泉水は深く流れなかった。雨水は阪泉に注いだ。”とあります。

また、《晋太康地理記》を引用して、”阪泉は地名でもある。泉水は東北を流れ、蚩尤泉と合流する。水は蚩尤城を出て城の東面はなかった。”とあります。故に蚩尤ゆかりの涿鹿や蚩尤泉は今の河北の涿鹿県にあったと推測されています。また、阪泉は今の北京市の延慶県で、蚩尤の住処は新安県にあったのではないかと考えられています。

  • 蚩尤の戦闘能力

蚩尤は中国神話中の九黎の首領であり、苗族の先祖であるという説もあります。漢民族の神話中では蚩尤は戦神として描かれています。蚩尤は炎帝と大きな戦いを繰り広げ、この戦いで炎帝を完膚なきまで打ち破っています。窮地に陥った炎帝は黄帝に助けを求め、炎帝及び黄帝連合軍として再度蚩尤に挑みました。

蚩尤は81人の兄弟たちと共に黄帝と天下を争いました。そして最終決戦の舞台となったのが涿鹿です。この戦いでは両陣営とも魔神や神獣や妖怪たちを総動員して戦いました。伝説によると蚩尤には八本の足があり、キン肉マンに出てくるアシュラマンのように頭が三つで手が六本あり、銅の頭部に鉄の額を持っており、槍や剣では体を傷つけることすらできませんでした。

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蚩尤は戦闘では剣や斧、矛を持ち勇敢に戦いました。不死であり休むことなく戦い続けることができ、比類なき勇猛さを誇りました。さすがの黄帝も力でねじ伏せることが出来ずに天に助けを求めました。蚩尤を殺すときには天は曇り地は暗闇になり、流れ出す血は川を作ったと言います。

蚩尤は黄帝に斬首され首級は埋葬されました。埋葬された首は血楓林に変わりました。その後黄帝は蚩尤を”兵主”、すなわち戦争の神とし称えました。その勇猛さは人々に畏怖の念を抱かせるので、黄帝は蚩尤の形象を軍旗に用いることで兵を勇気づけました。兵たちは勇猛に戦ったので、黄帝と相対した諸侯たちは蚩尤を見ると戦わずに降伏してしまいました。

  • 史書から見る蚩尤

年代的にみると、春秋時代以降の書物には蚩尤の記述が豊富に書かれていますが、矛盾する箇所も多くあります。これらの記録に基づくと、蚩尤は古代の部落連盟である九黎の首領でした。《逸周書》と《塩鉄論》照らし合わせると蚩尤は太昊(たいこう)と少昊(しょうこう)氏族の集団に属していました。蚩尤の兄弟は81人いたと言われていますが、これは81の部落の意味とも取れます。また、兄弟数は一説によると72人とも言われています。全員勇敢に戦い、強大な勢力を築き上げました。

蚩尤は牛のような顔をしており、背中には二本の羽があったといいます。古い書物に記載されている黄帝との激戦で内容は主に次の三説です。




第一説は有名な《史記・五帝本記》に見られる内容です。即ち、皇帝が阪泉の戦いで炎帝を破った後、蚩尤が反乱を起こしました。黄帝は涿鹿の戦いで蚩尤を破り天子の位につきました。

第二説は《逸周書・嘗麦篇》に見られるように、蚩尤が赤帝(炎帝)を倒した後、赤帝は黄帝に支援を求めました。二帝は連合を組み中冀で蚩尤を殺しました。

第三説は《山海経・大荒北経》に見られるように、蚩尤が黄帝を攻撃したため黄帝は応龍に迎撃させ、双方は冀州の野で戦い蚩尤軍は敗北して殺されました。

様々な説がありますが、蚩尤と黄帝(もしくはそのモデルとなった部族の長達)はかつて大規模な戦いを繰り広げた可能性は非常に高いです。もちろん後世に様々な逸話が加えられたため、戦争の過程は非現実的な神話となっています。蚩尤は善く戦いました。戦争の過程には”五兵の器を制作し、雲霧に変化した。”や、”深い霧を作り出し、三日間霧が立ち込めた。”、”黄帝は九戦して九敗した。”、”三年城が落ちなかった。”など様々な逸話が伝えられています。

《魚龍河図》には、”黄帝は蚩尤に敵わず天を仰ぎ嘆いた。天は玄女を遣わし黄帝に兵信神符を授けた。”そして戦いに勝利します。つまり、玄女の力を借りて勝利したわけです。また、一説によると黄帝軍の軍師風后が指南車を発明して深い霧の中でも方向を知ることができたため勝利につながった、という言い伝えもあります。

蚩尤の最後は涿鹿の戦いに敗れて殺された、もしくは黄帝に服従し軍事の長になったなどあります。蚩尤が服従した後は天下が乱れた際には黄帝は軍旗に蚩尤を描き天下に威を示すと共に、実際に不死の蚩尤が黄帝の幕府にいたため黄帝に服従しない者はいませんでした。

戦いの過程や戦後には様々な説がありますが、黄帝と蚩尤の戦いは古代中国で大きな意味を持ちます。黄帝が勝利後に中原を統一して華夏王朝の礎を築きました。華夏王朝以降は中原の覇権は殷や周へと移ります。中国の古い書籍の中でもとりわけ長期間主流となっていた儒家の書物中には蚩尤の悪評が多く書かれています。これは必ずしも公平な評価とは言えませんが、これらの悪評のため蚩尤は悪いイメージを持たれるようになります。最終的には、”銅頭鉄額”や”八肘八趾”、”人身牛蹄、四目六手”または、”食砂石”などと形容されるようになりました。

蚩尤と神々や民族との関係

  • 蚩尤と炎帝

黄帝と戦う前に蚩尤はまずは炎帝と戦いました。この戦いで蚩尤は炎帝を完膚なきまで叩きのめしています。しかし、炎帝との関係はこの戦いの敵としてのみではなくかなり複雑な関係を持っおり、様々な説があります。さらに、各説ごとに様々な解釈もあります。

炎帝は称号であり、初代神農氏から代々受け継がれていました。蚩尤の時代の炎帝は八代目である榆罔(ゆもう)でした。榆罔の時代には世は乱れ戦国の様相を呈していました。蚩尤は一度炎帝の家臣になっていたとも部族連盟に加わっていたとも言われています。しかし、蚩尤は炎帝と袂を分かちやがて炎帝に反旗を翻します。

神農氏に関しては以下をご覧ください!

炎帝神農氏:フーテンの寅さんと中国の妖怪退治で有名な茅山道士には意外な接点があったことが判明

蚩尤と炎帝は共通の先祖が枝分かれした関係です。《路史・蚩尤伝》では、”蚩尤は姜姓で炎帝の子孫である。”とあります。炎帝と蚩尤は共に神農氏族の流れを汲んでおり、農耕部落連盟に属していました。炎帝は神農氏族の直系の子孫であり、神農氏が農業や医薬を発明したことによる偉大な功績のため神農氏の直系は代々部落連盟の首領となり代々炎帝を称していました。




しかし、書物によっては炎帝と神農氏は別の人物として描かれている場合もあります。《史記・封禅書》には、封禅大典の際に、神農氏と炎帝が分かれてい列を作っていたとあります。その他、《帝王世紀》や《易・系辞》などにも炎帝と神農氏は別人物として記述されており、両者を合わせて炎帝神農氏と称しています。

いずれにせよ神農氏以降は、神農氏族の長は八世に渡り代々炎帝を称しました。即ち、神農氏、帝臨魁、帝承、帝明、帝直、帝嫠、帝哀、帝榆罔の八代です。榆罔(ゆもう)の時代は世が乱れており、ひと際能力が高くまた最先端の農業や冶金など様々な技術を取り入れ改良していた蚩尤や黄帝が台頭してきます。

蚩尤の部落は神農氏関係の部落の中でも最強の実力を持った部落へと成長しました。背力の拡大の原動力となったのは第一に蚩尤の領土内に塩の産地があったからです。第二には塩を煮詰めて生産する過程で金属の精錬法を発見して、冶金技術を発展させたからです。

当時の塩は貴重品でしたので経済的に発展できたことと、精錬した金属を用いて様々な武器を作り戦闘力を増大させることで周囲を圧倒する強大な部落を築き上げました。その実力は部落連盟の盟主である炎帝を滅ぼす一歩手前まで追い込み、黄帝軍と戦っても連勝を重ねました。

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炎帝と蚩尤の関係をより現実的に考えると、炎帝と蚩尤を分ける要因はただ一つです。それは戦争に勝ったか負けたかです。戦争に勝ったものを炎帝と、負けたものを蚩尤と呼んでいるだけとも言えます。蚩尤が戦争に勝っていたら、蚩尤が炎帝や黄帝などと称されていたことでしょう。

  • 蚩尤と黄帝

中国社会では長期間儒教の考え方が主流となっており、正統の観念が重要視されました。すなわち、王は正統で反旗を翻す者や敗北したものは賊であるという考え方です。黄帝と蚩尤の戦いは典型的な正義が悪を誅する戦いとして描かれています。《史記・五帝本紀》がその代表です。蚩尤が妖魔に変わり始めたのは孔子の儒家思想に根差しているのです。

儒教と関係のない文献である《逸周書》や《山海経》中では蚩尤と黄帝の戦いはどちらに偏る訳でもなく客観的に描写されています。さらに、道家の経典である《庄子》には逆に蚩尤に同情的な描写が多くみられます。蚩尤と黄帝の戦い以外では、主従関係にあったという記述もあります。すなわち、黄帝は蚩尤を冶金の長として少昊を補佐したというものです。春秋時代の斉国の名宰相である管仲は蚩尤を黄帝の六相の首としており、その地位は非常に高いものでした。戦国時代の韓非子も蚩尤に関して似たような記述を残しています。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

蚩尤と黄帝の戦いに関してはいくつかの説があります。第一説は黄帝は炎帝との戦いに勝利し、その後蚩尤にも勝利して帝位を不動のものにした。黄帝と蚩尤の戦いは黄炎の戦いの余波であるという説です。第二説は蚩尤は赤帝(炎帝のこと)を倒し、赤帝は黄帝に助けを求めたので、二帝は連合を組んで中冀で蚩尤を殺した、という説です。第三説は蚩尤が兵を集めて黄帝を攻め返り討ちにあった、という説です。

涿鹿の戦いに関しては以下をご覧ください!

神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末

第一説は《史記・五帝本紀》にある阪泉の戦いから涿鹿の戦いにかけての記述です。第二説は《逸周書・嘗麦解》に見られる記述です。第三説は《山海経・大荒北経》の記載で、”蚩尤が黄帝を攻めた。黄帝は応龍に命じて冀州の野で蚩尤を攻撃した。応龍は畜水した。蚩尤は風伯雨師に請い大風雨を起こさせた。黄帝は天女である魃に雨を止めてもらい遂に蚩尤を殺した。”という内容です。




風伯と雨師は蚩尤の部落の天候を司る巫師であり、以降は農業の気象の神様として祀られています。《韓非子・十過》には、”黄帝と鬼神が泰山に登った。蚩尤は前に居り、風伯が道を掃き、雨師が道を整えた。”という記載は風伯と雨師が蚩尤の部落と密接なかかわり合いがあったことを示唆しています。農業の生産には適度な雨と風が穏やかである必要がありますので、農業を行う部落にとっては切っても切れない関係となります。いずれにせよ、蚩尤との戦いの後黄帝は確固たる地位を築き部落連盟の首領になります。

風伯と雨師に関しては以下をご覧ください!

黄帝を苦しめた中国最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師

  • 蚩尤と九黎、三苗族

蚩尤は九黎の首領であるという記載は多く、論争もあります。蚩尤は九黎と三苗の関係を代表しています。《尚書》と《国語》などの多くの古籍に記載が見られ、三苗は九黎から別れて形成されました。九黎が戦争に敗れた後、一族は流散し、三苗に変わりました。この三苗は今の苗族とは無関係です。

  • 蚩尤と東夷

現在では蚩尤は東夷の首領と称されています。東夷とは商のことを表しており、周時代”華夷五方”という構造が出来上がった後に使用された言葉です。即ち、東夷は蚩尤の後の時代にできた言葉となりますので、この点を理解して使用する必要があります。

  • 蚩尤の子孫

蚩尤が黄帝に敗れた後、部落の人々は四散しました。この蚩尤の部落の子孫の可能性が高いのは漢族、苗族、瑶族、姜族などです。

1. 漢族

蚩尤が敗れた後、大部分は炎帝と黄帝の部落に吸収されたので、華夏族の祖先となり漢民族の祖となっています。また、蚩尤由来の苗字として関連があると思われるのは、如鄒、屠、黎、蚩などです。

2. 苗族

苗族史によると、苗族は大昔には黄河流域に住んでおり、黄帝の部落に敗北したため今の苗族の居住地である貴州や西湘、鄂西南と言った地域に移り住んだと言われています。

3. 姜族

漢代の書籍である《後漢書・西羌伝》によると、蚩尤の部落の一部は西へ向かい古羌族と混ざり合ったとあります。ただし、古羌族は今の羌族とは同一の民族ではありません。

中国各地の蚩尤崇拝の相違

  • 漢民族地域

先ほど書いたように蚩尤は儒教の影響で悪者であるイメージが強くなりました。しかし、蚩尤を崇拝している地方も少なからず残っており、華北地方の河北、山西一帯では蚩尤信仰が行われています。南朝の任昉《述異志》にも記載があるように、現在の河北である冀州には有名な《蚩尤戦》という祭りがあります。人々は頭に牛の角を付けて押し合います。太原の村では人々は蚩尤神を祀っています。秦の始皇帝が蚩尤を八神の一柱の戦神として祀り始め、後の帝王や武将たちも出陣前には武運を祈り蚩尤を祀りました。

蚩尤が敗北して首を斬られた後、首の埋葬地に作られた”蚩尤塚”は各地にあり、人々によって祀られています。近年では2001年に山東省の巨野県に蚩尤の墓と”蚩尤広場”が作られています。

一方で、黄帝六相に基づくと、蚩尤は占星術で星相の名称となり、”蚩尤旗”と称されました。《呂氏春秋》や《史記》、《隋書》などの文献に記述がみられ、蚩尤旗はある種の彗星を指しており戦乱の兆しとされています。

  • 苗族地域

苗族は古くから蚩尤をその祖とみなしています。川黔滇方言を話す苗族の間には、”格蚩爷老”、もしくは”格蚩尤老”という伝説が語り継がれています。格蚩とはおじいさんという意味で、爷老は英雄という意味で即ち蚩尤を意味しているのではないかという解釈もあります。

苗族では昔から蚩尤を祀っていましたが、近年ではその祖が蚩尤であったと考える傾向が強くなっており、たびたび論争を巻き起こしています。西湘、黔東北の苗族の祭祀の時、豚を殺して”剖尤”に捧げます。この剖尤は古代の勇敢であった領主のことを意味しており、”剖”は西湘の苗族語では公を意味しており、”尤”は名前であり、合わせると”尤公”となります。




湖南省城歩の苗族自治県の苗族の祭りに病人のために”鬼疫”を駆除する”楓神”の習慣があります。”楓神”に扮した人は威風堂々としており、人々に楓神は蚩尤の化身であることを印象付けます。《山海経・大荒南経》には、蚩尤が楓の木となった記述があるように、楓の木と蚩尤には関係があります。黔東南の《苗族古歌》の中には《楓木歌》があり、歌詞には蚩尤を苗族の祖として奉る内容が含まれています。そのため、川南、黔西北一帯には”蚩尤廟”があり、蚩尤は苗族から供養され続けています。

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苗族は楓の木を象徴的に信仰する、いわゆるトーテム信仰を行っており楓の木が自分たちの祖先であるとして代々大切にしてきたと言います。蚩尤が黄帝に敗れた後、いくつかの説がありますが楓の木に変わった説が多く、また楓の木から苗族の祖である蝴蝶媽媽が産まれています。

蚩尤が変化した楓の木と蝴蝶媽媽が産まれた楓の木が同じ木であるかははっきりとしませんが、楓の木を介して蚩尤と苗族がつながります。また、苗族の祖先が蚩尤が率いた九黎であるという説もありますが、いまいちはっきりとは判っておらずに中国では論争に発展しています。

蚩尤が苗族の祖先の場合、苗族は蚩尤が亡くなった後に変化した楓の木から生まれたので、蚩尤と同時代に生きていた九黎が祖先である説と時系列が合いません。議論しようにも文字のない時代の出来事で資料がありませんし、後世の書物でも苗族と蚩尤が直接つながるという文章は乏しいので、数ある伝説がそれぞれ独り歩きしてしまっている感じがします。

蚩尤以外の苗族の祖先である蝴蝶媽媽に関しては以下をご覧ください!

蝴蝶媽媽と妹榜妹留:神秘的な民族、苗族のご先祖様のお話

蚩尤の功績

神話時代には文字がありませんでしたので、文字ができて記録が残っている春秋戦国時代の文献をもとにして5000年前の新石器時代に何が起こったのかを推測するしかありません。そのため、中国で古くから正史とされてきた黄帝や炎帝が中国の礎を築き上げたと考えられてきました。

新石器時代の末期には中原一帯は原始的な生活を営んでいました。しかし、5000年ほど前からは農業の発展により部落が形成され、さらには部落同士の部落連盟が出来ました。それがいわゆる九黎です。蚩尤はその首領でした。《国語・夢語》には、”九黎、蚩尤の徒なり。”とあり、《書呂刑釈文》、《呂氏春秋・蕩兵》、《戦国策・秦》の注釈として後漢の高誘は、”これらの書物は蚩尤が九黎の君主であったことを示しており、彼らは地の利を活かすとともに開墾に励んだため、生産力が徐々に上昇し、経済も徐々に発展していった。最終的には東方の強大な部落にまで成長し、最も早く中原に侵入していった部落でもある”と書いています。そして、蚩尤は新石器時代に以下のような様々な貢献を行っています。

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第一に、蚩尤の物質文明に対する貢献です。蚩尤は九黎部落連盟を率いていましたが、黄河中流から長江中下流一体にかけて勢力を築き上げており、河や海に面した地域で発展を遂げました。当時の三大部落で最強の存在で、様々な物資を作り出していました。河に面していることから水を利用して食料を育てるとともに漁業や牧畜なども発展させました。これらの生産性の拡大により、人口増加と文明の発展を促しました。

第二に、蚩尤は冶金技術を発明するとともに金属製の兵器を製造しました。《世木・作篇》では、蚩尤は”金属で兵器を作った。”とあります。翦伯はこの記述から、中国で最も早く冶金を行ったのは蚩尤であるので、彼が冶金の発明者であると称えています。また、この金属の使用により武器のみではなく農耕器具などの各種道具も発展していきました。

第三に、蚩尤は法を制定した最初の人物でした。古代中国において蚩尤は法を定めまた法を順守して綱紀粛正に取り組みました。《周書・呂刑》には、”蚩尤は苗民を刑を以て制した。”とあり、この記述が蚩尤が法を制定していたことを裏付けています。《路史・后紀四・蚩尤伝》には、蚩尤が処刑された後についてこう書かれています。”後世の聖人は彝(供え物の器)に著し、もって貪を戒めた。”この表現に対して羅萍は注釈として、”蚩尤は天符の神で、三代の彝器に蚩尤の像を著した。以って貪虐者を戒めた。”と書いています。

《太平御覧》の第七十九巻には《龍魚河図》を引用して、”霊龍亡き後、天下は再度乱れた。黄帝は蚩尤の形象を描いて天下に威を示した。天下は皆蚩尤は不死という。八方の民は皆黄帝に従った。”とあります。この説明も蚩尤が厳格に法の制定者であり実行者であることを連想させます。

出典:baidu

蚩尤は神話中では冷酷な戦神として描かれている場合が多いですが、これは実は儒教のの影響で悪評を植え付けられたものだったのです。実際は同じ部落連盟の首領同士である、炎帝、黄帝、蚩尤、この中で勝者である黄帝が祀られ、敗者である蚩尤は悪神とされました。蚩尤が勝っていたら偉大な神として今でも称えられていたことでしょう。

現実的には蚩尤は古代中国で富国強兵を推進して文明の発展に寄与した首領であったことがイメージされます。

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コメント

  1. 千田 稔 より:

    教えて下さい。『日本書紀』『古事記』に新羅の王子とする「アメノヒボコ」の渡来記事があります。アメノヒボコは兵主の神として、但馬地方を中心に各地にまつられています。おそらく、楽浪郡あたりから(朝鮮半島の南を経由して?)倭国に渡来したと思われますが、そのような兵主(蚩尤)の倭国への移動を示唆するような文献・史料があれば御教示下されはありがたいです。

    • mango より:

      千田様

      ご質問ありがとうございます、管理人です^^

      ご質問のアメノヒボコに関してですが、まず、アメノヒボコと蚩尤は別々の人物を指しています。兵主に関しては、蚩尤の伝説が伝わり使用されるようになった可能性が考えられます。

      日本神話と中国神話を整理してみますと、日本神話では皇紀元年、即ち神武天皇が即位したのが紀元前660年となっています。もちろんこの年が正しいと言う訳ではありませんが、アメノヒボコのストーリーはこの皇紀元年よりも後ということになります。また、アメノヒボコに関連がありそうな応神天皇やその父の仲哀天皇を調べてみると、大体西暦350年頃に生きていたようでしたので。ここから考えるとアメノヒボコが日本にやってきたのは西暦300年位でしょうか?

      一方の蚩尤ですが、蚩尤が生きていたのは紀元前2500年前くらいですので、皇紀元年よりも2000年前に生きていたことになり、年代的に開きがありすぎます。また、この時代は新石器時代の終わりで文字はあったかどうか定かではなく、直接的な資料は残っていません。中国のこの神話時代を伺い知るのは、殷(商)時代の遺物や漢代に書かれた歴史書などしかありません。さらに、言ってしまえば蚩尤や黄帝自体も実在したかどうか実は怪しいのです;;

      ですので、蚩尤の移動に関しては直接的な文献は無く伝説や伝承の形で残っているのみです。蚩尤が率いた九黎族は蚩尤が戦いに敗れた後、南方に移動して苗族となったという伝説が残っていますが、この真偽に関しても中国国内でかなり揉めています。証拠がないから強引にこじつけて言ったもの勝ちになっています。

      また、アメノヒボコに関しての文献ですが、こちらはご存知かもしれませんが、三国史記という朝鮮半島の歴史書をご覧いただくのがいいかと思います。朝鮮半島の人物でしかも当時は未開の国であった日本に移住した内容が中国の歴史書に残っているとは思えません。中国からしてみれば自分達には一切関係のないことですので、無視されたと考えるのが妥当であると思います。

      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98

      この三国史記中の新羅本紀がアメノヒボコについて書かれている可能性のある文献だと思いました。この三国史記を確認して古事記や日本書紀の内容と照らし合わせてみるのがいいと思います。現に応神天皇の在位の時期は三国史記の百済本紀と整合を取っています。

      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

      一応アマゾンで検索してみると三国史記に関する本や新羅本紀などもありましたのでご参考までに。