刑天:首を刎ねられてもなおも戦いをやめない不屈の戦士

  • 刑天の概要

刑天 (けいてん xing2tian1 シンティエン)

刑天は古代中国で黄帝に一人立ち向かった強大な神です。形天や邢天などと表記されることもありますが、一般的には刑天が広く用いられています。

刑天は中国古代神話中の人物で黄帝と帝位を争いました。刑天はこの争いに敗れ首を刎ねられましたが、何と胴体だけになっても武器をとり舞を舞いだしたのです。首を刎ねられるとドラクエのデスピサロやバーサーカーみたいになってもなおも戦いをやめようとしない姿勢から、後世では不撓不屈の精神の象徴とされています。

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  • 代表的な刑天の逸話

《山海経・海外西経・刑天与帝争神》には、”刑天と帝は神を争に至り、帝はその首を刎ね、常羊山に葬り、両乳を目とし、へそを口として盾と斧を持って舞った。”この文をかみ砕くと、刑天と黄帝が神位争奪をして争いました。勝者の天帝は刑天の首を刎ねてしまいました。そして、刑天を常羊山に葬りました。すると刑天の胴体は両乳が目となりへそが口に変わって盾や斧を持って舞いだしました。というものです。

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また、ある伝説ではその時の常羊山と刑天の様子を以下のように伝えています。常羊山に暗雲が立ち込め碧い空は見えず、山谷中には激しい雷鳴が鳴り響いていました。帝位争奪に敗れた刑天は諦めずに武器を持って一心不乱に敵と戦い続けました。




この神話により、刑天は首を斬られても戦うことをやめない不屈の闘志を持っていることが伝わり、戦神として敬われるようになりました。一方で、黄帝に敵対した者の運命として悪評がついて回ります。悪評を広めたのは孔子の儒教が主でした。儒教の考え方として、帝は正義ですので帝に歯向かった刑天はもちろん悪とされました。この他にも黄帝と戦った蚩尤(しゆう)や誇父(こほ)などにも悪評が付きまといます。

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  • 様々な刑天の伝説

刑天は無名の巨人で、黄帝との大戦中に黄帝に頭を割られてしまいました。これにより刑天と呼ばれるようになりました。天は顛であり、刑は戮です。天とはすなわち天帝を指し、”刑天”とは天帝に報復を誓うという意味を持つ名前でもあります。別の説では刑は割で刈るの意味となり、天は即ち頭部の意味で頭を刈ると言う意味にもとれます。

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炎帝がまだ中原の部落連盟の首領であった時、刑天は炎帝配下の大臣でした。刑天は生まれながら歌を非常に愛し、炎帝に楽曲《扶犁》や詩歌《豊收》、《卜某》などを作りました。これらの歌は人民の幸福で楽しい生活を歌ったものです。その後炎帝が阪泉の戦いで黄帝に敗れたので刑天とその子供、部下たちは不服でした。

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蚩尤が黄帝と戦っていた時、刑天はこの戦争に参加したいと思いましたが、炎帝がかたく拒んだため戦争には参加しませんでした。蚩尤と黄帝と戦うことに失敗し、蚩尤は殺されてしまいました。刑天の心の中には再び怒りの感情が芽生え、こっそりと南方天廷を離れて中央天廷へ向かい、黄帝と対決するつもりでした。

刑天は戚(せき)という巨斧を右手に、左手には四角い形の青銅の方盾、古い言葉では干(かん)を持っていました。そして黄帝を殺すために宮廷の前まで行きました。黄帝は刑天が自分を殺しに来たことを見て取り激怒して宝剣を手に刑天に向かっていきました。両者は宮廷内で戦いを始め戦いは宮殿の外に出ても続きました。そして戦いは続きついには常羊山にまでやってきました。




黄帝は戦場の経験が豊富で剣の技術も熟練していました。刑天に鋭い打ち込みを行い、刑天は防ぐことが出来ずに首を斬られました。頭部は地に落ち勝敗は決し、刑天の頭部は常羊山の麓へ転がっていきました。刑天の胴体は自分の頭部を探していましたが目がなかったので見つけることが出来ませんでした。

黄帝は刑天の胴体が頭部を探している様子を見てとどめを刺すことを思いとどまり、頭部を探しだしたら再度戦い決着を付けようと思い宝剣を常羊山に向けて切りつけました。すると、大きな音と共に常羊山が真っ二つに割れ刑天の頭部は山谷に転がっていきました。その後、二つに割れてしまった山は元通りになり刑天の頭部は山中に埋葬されました。

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刑天は周囲の変化を感じ取り黄帝が自分の頭部を山腹に埋めたことを知りました。刑天の気力は衰えておらず、立ち上がり右手に斧を、左手に盾を持ち天に向かって振りました。目を失って暗闇の刑天の怒りは爆発し、両乳が目となりへそは口となってまで黄帝を探し続けました。

刑天は黄帝の殺害に失敗したけれど、彼の決して妥協しない精神が後世の多くの人々を感動させました。晋朝の大詩人陶淵明は刑天のこの精神を絶賛して以下のような詩を書いています。”刑天舞干戚、猛志固常在。”と。

また、黄帝の剣技も最強レベルであったことが伺えます。宝剣とは首山の銅から鋳造され、天の神々から黄帝に下賜された軒轅剣(けんえんけん)を指していると思われます。黄帝の姓は公孫とも姫とも言われており、名前は軒轅です。




書物によっては刑天が黄帝の宮殿にやってきた際には、黄帝の周囲にいて警護していた風伯や雨師と言った歴戦の勇士たちが刑天に襲い掛かかったといいます。しかし、あえなく返り討ちにあっています。風伯も雨師も黄帝をも追い詰めた猛者であり、天候を操らせたら凶悪な二神ですが、個人の剣技では刑天には遠く及びませんでした。黄帝はこの刑天を斬ってしまったのですから黄帝の剣技の高さが伺えます。

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  • 刑天伝説その2

別の伝説によれば、刑天は勇者の名前でした。ある地方に凶獣が現れて村を襲い常に人を食べていました。人々は打つ手がなくなったので勇士たちを推薦して凶獣を制圧してもらうことにしました。その中に刑天がいました。しかし、怪物は十分強大であり、刑天ともう一人の勇士のみが凶獣に立ち向かうことが出来き、激しい戦闘の末対に凶獣を殺しました。

戦いに勝利しましたが、もう一人の戦士が名声の誘惑に勝てずに手柄を独り占めしようと刑天を殺してしまいました。そして刑天の頭部を山の中において帰ってしまいました。その後、刑天の怨念は収まらず胸に二つの目ができ、腹部には口ができ、村へ戻り自分を殺した戦士を殺してしまいました。

しかし、怪物の姿になってしまっていたので村人は誰もその怪物が刑天であることに気が付かず、彼を殺そうとしました。刑天は山へと逃げ戻り毎晩自分の頭部を探しました。心中の恨みは決して溶けることはなく、人間に遭遇すると有無を言わさず殺してしまいました。

  • 実際の刑天

神話は何かしらの実話に基づいていると考えられることが多々あります。これは刑天も当てはまり、現実的な観点から刑天を見るとどのような像が浮かび上がるのでしょうか?




甲骨文字と金文には、刑天は一人の人間を表した符号として書かれており、刑天の図柄は氏族部落の象徴となっていました。刑天の原型は華夏族(黄帝の子孫の王朝)の無名の神で首を斬られた後”形天”と称されたとも考えられています。《山海経》のような古い書籍には、”形天”と”刑天”の両方が見られます。

後世には、刑天は勇猛将士の象徴となり、各王朝において戦闘を行う例えや戦争のシンボルとされました。

晋朝の大詩人、陶淵明の《読山海経》などの書籍には”刑天舞干戚”という記述が有りますが、干は干戈(かんか)などで使用されるように盾の意味です。戚(せき)は矛(ほこ)と考えられがちですが、漢字の意味から厳密にいうと手斧となります。これは戦闘の象徴ではなく権力と氏族の関係を表していると考えられます。

戚は鉞(まさかり)の一種で戌(えつ)と言い、実戦的ではなく装飾的な意味合いが強く、同宗の兄弟氏族などの関係を表す時に使用されるなど象徴的な武器でした。戦いに不向きな武器を持っているのでこの舞は戦いのためではなく何かしら象徴的な舞であったと考えられます。

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刑の漢字の右辺の旁が刀部、すなわちりっとうとなっており、それ自身が割殺を意味しています。そして天は本来は顛でありすなわち人の頭部を意味していました。修辞学で考えると、刑天とは頭部を切断されたとなります。

刑天は姜氏の出身で、戦闘中に体の一部を損傷したため一族はその功績を称えて刑天という漢字を使用して称えたとも考えられます。漢字の意味を用いたこのような命名法は古来からよく見られるものです。

また、刑天と炎帝の部落は同宗の氏族であったと考える説もあります。黄帝と炎帝、蚩尤などももともと同宗氏族の関係であったと様々な書物にも記載されています。もちろん後世の後付けかもしれませんが、現在でも神様として崇められている黄帝も実在したとすれば当時一大勢力を持っていた部落の首領だった可能性が高いです。つまり部落同士のトーナメント戦の最終勝者が黄帝であったということです。刑天も素直に考えれば黄帝と戦った部落の長がモデルとなって伝説中に残り、様々な変化が加えられたと考えるのが自然な考え方だと思われます。

出典:baidu

刑天は炎帝の臣下であったとも言われています。黄帝に単身戦いを挑んで返り討ちにあった蛮勇を体現するような戦神です。しかし、屈強なのは肉体のみならずその精神です。首を刎ねられてもなおも戦いをやめようとしない姿勢は後世の多くの人々を惹きつけました。

黄帝との一戦は逆に黄帝の強さが際立っています。部落連盟の首領ですので、自ら戦わず、軍を指揮する立場ですが一個人の戦闘力も非常に高いです。しかし、黄帝の宮殿に乗り込んで近衛兵がおらず一対一の戦いになってしまったことが疑問でしたが、黄帝の強さを伝えるエピソードとして作られたのかと邪推してしまいました(;´∀`)




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