蠱毒(こどく)で本当に人を呪えるのか?そもそも中国の蠱毒とは?

今回は漫画やアニメでもたまに見かける、本場中国の蠱毒(こどく)のお話です。

蠱は普段使わない漢字ですからうっかり間違えそうですが、”こ”と読みます。漢字の構成を見てみると蟲がお皿の上に乗っていることから蟲を器に入れると推測できます。蟲は虫と混同されていますが、蟲は生き物全般を指す漢字でした。

一方の虫は古くは中国の甲骨文字にも見られ、もともとは蛇の形状に由来しています。このため、昆虫のみではなく爬虫類や両生類も虫と呼ばれていました。蛇や蛙に虫偏がついているのはこの名残です。現在では蟲も虫も一般的に昆虫を示すようになっていますが、元来の意味は少々異なります。
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蠱は様々な種類の蟲を一緒に入れた容器、となります。そして容器に入れられた様々な生き物が互いに食べ合う過程を経て作り出される毒を蠱毒と言います。

蠱毒は元々は春秋戦国時代(紀元前数百年前)の中国発祥で、唐の時代(西暦700年ごろ)にはすでに日本に入ってきており、陰陽師などが秘術として行っていたようです。春秋戦国時代以前の殷商時代にも蠱毒の原型が見て取れます。




その後蠱毒は中国全土に広がりましたが、特に盛んに行っていたのが苗族です。中原地方から南方に伝わり、キョンシー伝説の基となった赶屍術と共に湘西(長沙と重慶の中間くらいにある)の苗族に伝わる秘術となりました。では、実在している術はどのような形態を持っていて、どのように発展してきたのか、またその効果、作り方は一体どのようなものなのでしょうか?今回、知っているようで詳しくは知られていない中国の蠱毒について徹底的に調べましたのでご紹介いたします!

蠱毒とは?

蠱とは、呪術を使って作られた毒、また、この毒が変形した毒虫を指します。野にいる虫から蠱を作り、さらには蛇や蛙等に変形して人を害し、また蠱を伝承させる一連の術を蠱毒と言います。日本の蠱毒は毒虫たちを一つの壷などに入れて食べさせ合うというものですが、中国ではこの方法は数ある方法の内の一つでしかありません。また蠱自体も非常に数が多いのも特徴です。

古い昆明の人たちは、呪詞”滚蠱”の詞の中で、如金蠱、銀蠱、蛇蠱、編短蠱、胡蝶蠱、蜻蛉蠱、など各地に生息する各種の虫の名前を使用していました。古い民間伝説では、蠱の種類は、金蚕蠱、蝦蟇蠱、百足蠱、水蠱、羊蠱、魚蠱、牛蠱、犬蠱、鶏蠱、鵝蠱、草蠱、菌蠱、虱蠱、蠍蠱、鬼蠱、蜂蠱、大象蠱、蟻蠱、豚蠱、蜘蛛蠱、鼈蠱、青蛙蠱、服媽蠱、雀蠱、亀蠱、稲田蠱、樹蠱、煩踢蠱、皖螂蠱、挑生蠱、石蠱、竹ひご蠱、溶蠱、腫蠱、牛皮蠱、犂蠱など、多数あります。(読み方はさっぱりわかりません、すみません!)

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種類が多いだけでなく尽きることなく変化し、人が防ぐことが出来ず、干宝の《捜神記》では、”容器が怪物、若鬼、その他の妖怪に変化しその種類は多く、または犬、豚、または虫、蛇など人がよく知っているものにも変化する。これをよく行っている百姓は皆、術の間に死んでしまう。”とあります。

清のアヘン戦争で有名な林則徐の《暁諭広東省士商軍民等速械鴉牙告示稿》 には、”鴉片(アヘン)は諸々の盗賊の用いる悶香(嗅ぐと昏迷する麻酔薬)よりもさらに、人を惑わす薬である。妖邪は蠱毒を用い、以って人と財産を攫い命あるものを害する。これらに違いなどあろうか。”とあります。つまり、アヘンと蠱毒は共に人に害をなすものだ、と嫌悪感を示しています。林則徐はこれを書いた後イギリスのアヘンを広東省東莞市の虎門鎮の池に捨ててイギリスを挑発したことが引き金となりアヘン戦争が始まります。清の時代、広東省は広州、香港などがあり、貿易が盛んでした。

蠱毒の種類

比較的に多く語られる蠱毒の種類は以下の通りです。

○ 蛇蠱

清甘雨撰の《姚州志(甘志)》には彝人の中に蠱毒を行うもの有り、その術は門外不出とされた。その術者は大蛇を飼い、涎を集め乾かして粉末にし、食べ物の中に入れ、誤って食べた人は7~8日経つと病気になり治す方法もなく死んでしまった、とあります。

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雲南剣川の白族に伝わる蠱毒の始祖伝には、蠱薬を術者の親指の爪の隙間にいれ、術の対象者の飲食中に蠱薬を弾いて碗に入れる、そしてこの蛇蠱を食べた人はお腹と胸が張り、蛇のような嘔吐物を吐き出す、とあります。

蛇蠱またはこれに似たものは以下の様なものがあります。

○ 陰蛇蠱

陰蛇蠱の中毒症状は、最初は嘔吐、下痢、腹部の膨張、食欲減退、口の渇き、発熱、顔の赤みといった症状が出て、重くなると、顔、耳、鼻、腹から蠱がうごめいているような音がし、腫瘍が膿み、回復の兆しは全くなくなり、30日で必ず死んでしまいます。

○ 生蛇蠱

生蛇蠱の中毒の症状は、陰蛇蠱の症状と似ていますが、いくつか異なる点があります。それは、腫瘍が2~3寸の高さで盛り上がり、跳ねるように動き、肉食が出来なくなります。腫瘍は蛇のような、あるいはスッポンのような形になり、身体の中でところかまわず噛み付くようになり、頭は疼き、夜間には更にひどくなります。また、外から風に乗って小さな蛇が集まってきて毛穴から入り込んで噛み付きます。内と外から噛み付かれて、打つ手が無くなります。

○ 犬蠱

晋(265年 – 420年)の時代の干宝が書いた《捜神記》の陽の部、趙寿には犬蠱が記されており、陳半が趙寿を訪ねたとき、忽然と大きな黄色い犬が6~7匹出てきて吠え出した。伯母と嫁が犬を食べると、彼女達は血を吐いて死んだ、とあります。

○ 公鶏蠱

雲南の滇地方のある民族によれば、体中を鶏についばまれているように痛む、と言われています。

○ 騾蠱と虱蠱

騾蠱の症状もほかと似たようなものですが、これを用いる術者によれば、痛みが起こると騾馬のようになってしまいます。虱蠱を食べた人は全身が痒くなり、掻き毟ると泡が出来、更にこの泡を掻き毟ると泡が割れて中から数匹の虱が出てきます。

○ 姑蠱

水蠱とも言い、干宝の《搜神記》には、漢光武帝の時、魊という妖怪が長江に住んでおり、砂を含んだ水を人に向かって放っていた。水がかかった人は頭痛発熱がして死に到った、とあります。道士の調査でこの症状は水に混じっている砂が体内に入ることが原因であることが判明しました。これはいわゆる毒ではありませんが蠱に含まれます。

伝説と蠱毒との関連性

蠱は人に害をなす毒虫を作り出す術で、古代の呪いの秘術でもあります。この由来の一つは、中国の南方の各地域の少数民族です。籾殻を長い間蔵に置いておくと、表皮が変形して飛虫にかわり、昔の人はこれを蠱と呼んでいました。《左伝昭公元年》には、籾殻は飛び蠱となる、籾殻を長い間積んでおくと、飛虫に変わる、これを蠱という。飛虫と籾殻は異なり、飛虫は飛べるが、籾殻は飛べない、とあります。




孔穎達の《十三経注疎》には、毒薬の薬師を以って、人に知られず術をなす、これ蠱毒なり、とあり、《本草網目》の中には、”蠱を作る者は百の虫を捕まえて、一つの容器に入れる。百の虫は大きいものは小さいものを食べ、最後に容器の中に残った一匹の大きな虫を蠱となす。もともと蠱は毒の治療薬だったが、いつしか人に害をなすために使われるようになった。百の虫を甕にいれ、一年後に開けると、ほかの虫を食べつくして一匹だけ残る、この残った虫の名を蠱と言う”とあります。

○ 苗族とは

苗族の居住地は古来から貴州、雲南周辺の山あいの辺境の地にあります。苗族は美人が多い民族としてとりわけ有名です。この苗族が行う蠱毒には対処法もあり、もっぱら大声で術者を威圧するというたぐいのものです。

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例えば、小さな子供が不注意で口の中に血豆が出来た時、母親はあわてて針で血豆を破り、”蠱よ、蠱がついたのよ。刃物で頭を切ってみて、誰が放った蠱かすでにわかった。彼女は急がずにこの蠱を取りに来い、私は彼女を許さない!”と、怒って言います。

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また、魚の骨がのどに刺さったとき、骨を取るために、母親は子供にご飯を噛まずに飲み込ませます。骨が取れた後、子供を門に呼び寄せ、蠱師の名前を黙って念じさせた後、大声で”誰々の家には蠱がおり、彼女は自分に蠱を放ったのがわかった。彼女は急がずにこの蠱を取りに来い、私は彼女を許さない。今後、彼女の家の門に汚物を撒き、屋根に石を投げつけ、みんなにこの家に蠱がいることを知らせ、子供に嫁が来ないよう、また嫁ぎ先がなくなるようにしてやる!”と、恨みと憎しみが込められた大声を響き渡らせます。この大声で叫ぶ蠱毒の対処法は、”放蠱”した人の耳に入ると心理的に圧力を受けて、恐怖で自ら蠱を回収しに行くというものです。名指しで言われた人はたまったものではありませんね(;´∀`)

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苗族では蠱は俗に”草鬼”と呼ばれ、それは女子の身体に寄生することで消滅せずに存在でき、人に害をなすとされています。そのため、蠱を持つのは婦女であり、”草鬼婆”と呼ばれます。




ある苗族学者が調査後に、各地で大小の違いはあるが、苗族は全体的に蠱を篤く信じている、と結論付けました。彼らは、急病を除いて、長期の咳、喀血、顔が青黒くなり痩せ、内臓の機能低下、お腹の膨れ、食欲不振等の慢性病の症状など、これらは全て蠱によるものだと信じています。急に起こる症状は、上記で述べた叫ぶ方法の後に術者が蠱を回収した場合に起こる症状です。慢性患者は巫師の”駆毒”の法を用いなければなりません。

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蠱は最初、器の中で産まれて生きている虫でしたが、時が経つに連れて籾殻から生まれる飛蛾やその他の物体から生まれた虫を全て蠱と呼ぶようになりました。昔の人は、蠱は神秘的な性質と非常に強い毒を持っていたと信じており、蠱を毒蠱とも呼んでいて、飲食により体内に入ると病気を引き起こすと考えていました。患者は鬼魅に惑わされたとか、神智を乱された場合と同じような状態だと思われていました。秦の時代(紀元前221年 – 紀元前206年)の人は、蠱虫の多くを自然発生する毒虫であるといいました。長期間毒蠱の迷信は継続し、人に害をなす蠱、そしてその蠱を使って害をなす方法の概念が出来上がりました。学者の調べでは、戦国時代(紀元前403年 – 紀元前221年)に中原で蠱を作って人を傷つける方法が伝えられ、使用されていたといいます。

苗族の伝説で伝えられる毒蠱の作り方は、蠍や蜥蜴のような毒虫を多くの種類を一緒に容器に入れてお互いに食べさせあい、最後に残った毒虫が蠱と言われます。蠱の種類は非常に多く、効果が高いものに蛇蠱、犬蠱、猫鬼蠱、蠍蠱、蝦蟇蠱、虫蠱、飛蠱等があると言われています。しかし、蠱の見た目は形がありますが、古来より蠱は飛翔、変幻、発光するなど鬼、妖怪と同じように痕跡なく往来する神秘的なものと信じられてきました。

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蠱師は法術を使って対象者を蠱虫がもたらす各種の疾病で死に至らしめます。毒蠱が病を起こす法術を昔の人は信じて疑わず、宋の仁宗の時代の慶暦8年(1048年)に、蠱の治療をやってみた方法を記した《慶暦善治方》が出版されました。これ以降、《諸病而侯論》、《千金方》、《本草網目》などの医術書中で、この蠱の分析結果と治療法が詳細に記されています。

苗族の観念では、蠱には蛇蠱、蛙蠱、蟻蠱、毛虫蠱、雀蠱、亀蠱などの種類があります。蠱は寄生している蠱師の体内中で増え、蠱師が誤って食べてしまうと蠱師自体を攻撃し、食べ物を探すため自身が被害を受けてしまいます。蠱を体内から出すと、今度は別な人に危害を加えだします。蠱を放つとき、蠱師は心の中で、”対象者を探して食べに行け、これ以上私の身体に纏わりつくな! “と言います。蠱は自分で動き、対象者を探しにいきます。ある対象者は、蠱師から数十メートル離れていましたが、蠱師が密かに指を弾いて蠱を放つと、蠱は対象者に飛んで行ったと伝えられています。

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人が言う蠱は一体誰を見ていて、害をなす相手をどのように知るのでしょうか、と言う疑問が生まれます。つまり、蠱の主人が危害を加えようとする相手を蠱がどうして知ることが出来るのでしょうか。蠱は主人の命に従いますので、蠱師は相手を知らない場合は蠱を放てません。苗族の中では、このような故事が残されています。




以前より蠱師であった母親がいました。蠱は彼女のすでに成人している子供を見て、その子供に危害を加えようとしようとしたので止めました。しかし、蠱は母親に激しく噛み、母親はどうしようもなくなり自分の子供を害するように蠱を放ちました。この母親と蠱のやり取りの時に、外にいた子供の嫁にこの光景を見られました。嫁は急いで村はずれに行き、仕事を終えて帰る夫を待ちました。嫁はこの出来事を夫に話し、母親から炒めて碗に入れた卵を渡されても絶対に食べてはいけないと念を押し、嫁は先に家に帰りました。

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家に帰ると嫁は大きな鍋でお湯を沸かし、夫の帰りを待ちました。母親は碗に入った卵を息子に食べるように言いました。嫁は、もう冷めているので一度温めます、と言い、鍋の蓋を取って卵を沸騰したお湯の中に入れ、鍋を蓋で抑えつけました。すると、鍋の中で何かが暴れる音がしました。静かになり鍋を開けてみると、鍋の中には一匹の大蛇が煮え死んでいたといいます。

○ 子虚鳥有

子虚鳥有、これはいわゆる放蠱とは当然ナンセンスなものであるという話です。最終的には蠱はどのような様子なのか、代々語られてきた話以外に誰も見たことがなく、当然想像上だけで実際には存在しないものです。現代ではこの考えは広く受け入れられていると思います。

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存在しないというものですが、苗族の婦女の一部は蠱の概念により、強い強迫観念を持っています。人々は蠱はただ婦女が持ち、婦女の身体に寄生し、自分の娘に受け継がせ、男性には寄生しないと信じています。

とある男性が、蠱を持っている娘と出会いお互いに惹かれあい、両親の同意が無いまま娘を娶りに来ました。彼らの子供の内、女の子は母親から蠱を受け継ぎ代々女の子供に伝承していったと言い伝えられています。漢の文献中では、放蠱者は女性限定というわけではありません。なぜ苗族は婦女にのみ蠱が寄生すると信じているのでしょうか。

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これは漢族と苗族の社会文化的な相違に由来しています。漢族の巫術信仰の中では、正邪の対立の中に性別の概念が無いことに由来しています。一方の苗族は南方の少数民族であり、文化的な性別の対立が強く残っている部分が多いです。この性別の対立が巫術信仰の中で表面化しました。結果、正当な父系の巫術が社会秩序を維持するための地位を得るようになり、母系は闇の呪術の伝承者としてこの秩序の破壊者としての性格を持たせられるようになりました。つまり男性が陽を象徴し、女性が陰を象徴したと言う訳です。




また、一切の男性巫師は天災人禍を説明あるいは祈祷する方法を持っておらず、これら禍を起こす呪術に関しては女性巫師が行うようになりました。これが婦女が陰の術である蠱を持つと言われるようになった経緯であると大まかに推論されます。

○ 苗族が非難の対象となる
放蠱は対象者の生命、財産を脅かす重罪犯罪と考えられてきました。歴史上、多くの人が攻撃対象になったと言います。《漢律》中には、”蠱師及び方法を教えたものは処刑する。”という条文があります。唐宋から明清までの法律全てに毒蠱の使用は十大重罪の一つに列せられており、使用者は処刑されました。また、使用者の一家は全て名誉を奪われ、人々から非難されました。
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苗族の多くは僻地に住んでいたため、医学が遅れており、多くの疾病に罹り、有効な治療法も無いまま多くが命を落としました。また、疾病の原因は蠱であるとされました。民国時代(1912年 – 1949年)、湘西に漢人の軍人がおり、軍の中でも地位は高く、権勢をふるっていました。彼は腹部がふくれるという奇病にかかり、腹がふくれるときに腹の中で何かが動いているように感じました。この地の医療技術は低かったため、薬の効果もなかったため、近所に住む苗族のある女性が蠱術を施したためであると言いがかりをつけ、しまいには激怒してその苗族の女性を縛って吊るし上げ、群集に罵詈雑言を言わせました。女性の夫は漢官の権勢を恐れて何も出来ず、群衆の中でただ傍観するのみでした。

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一年後、漢官は一人の高名な医者に症状を観てもらいました。医者が診察すると、これは鼓脹病の一種であることがわかり、蠱毒によるものではないことがわかり、処方された薬を飲むとすぐに元気になりました。可愛そうな苗族の女性は冤罪が晴れ、すんでのところで死を免れました。この医者の治療により、この苗族女性の潔白が証明され、名誉は回復されました。この無知の漢官のような者のために冤罪になった苗族の女性は沢山いると思われます。

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○ 迫害と現在

蠱術を用いるという俗説により、苗族は社会的に迫害を受ける危険が高くなり、多くの学者が苗族の蠱の迷信を取り除こうと努力しました。この努力の結果、苗族の教育水準、医療水準が高くなり、蠱毒の陰は日増しに小さくなって行きました。

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  • 蠱毒の作成方法
○ 古文字記載

殷墟(殷時代の有名な遺跡)の甲骨文字に、蠱毒の作成方法が記されており、作り方が”図示”されています。すなわち、一つの入れ物の中に何種類もの毒虫を入れます。後世の蠱を作る方法も、これとよく似ています。方法を集めた書物や民間で広まっている蠱毒の作り方を何種類か下に示します。毒虫を密閉した容器に入れ、お互いに食べさせ、最後に残ったものを蠱と言います。この蠱から毒素を取り出し、《隋書 地理志》には、この方法は五月五日に百種類の虫を集め、大きいものは蛇から小さいものは虱に到るまで、一緒に容器に入れて共食いをさせる。最後に残ったものが蛇だったら蛇蠱、虱だったら虱蠱といい、これを以って人を殺め、食べ物に混ぜて腹に入れ、その五臓を食べさせ、死ぬと蠱主の家に移る、とあります。

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《本草網目》の虫部の四には、李時珍が唐代(618年 – 690年,705年 – 907年)の陳蔵器の原話を引用し、百虫を甕にいれ、一年後に開けると、必ず一匹が全てを食べつくしている。これを蠱と言う、と記しています。宋代(960年 – 1279年)の鄭樵は、《通志》で、蠱を造る方法として、百虫を器の中に置き、お互いを食べさせ、最後に残ったものが蠱である、と記してあります。同年代の厳用と《済生方》にも、経書に数種類の蠱毒が載っており、広中山の人が造る虫蛇の類であり、これらを器に入れて互いに食べさせ、最後に残ったものがすなわち蠱である、と記されています。

宋代以降にも蠱毒の記載はありますが、主に人を襲うための方法について書かれています。明代の楼英は《医学網目》の中で、”広西、広東の間の山岳地帯に住む人は、蛇、百足、蛞蝓、蝦蟇等の百虫を同じ器に入れてお互いに食べさせ、勝者は霊祀とし、その毒を飲食させると人を害し、福を求め富貴を描くようになり人の中で少しずつ害をなし、一年以内に人を死に至らしめる。”《赤雅》巻には壮族(チワン族、雲南周辺の原住民)婦人の畜蠱について、陸次雲の《峒溪纖志》には、苗族が遺した蠱について述べられています。




金蚕蠱術は宋代に盛んであった術です。宋蔡條は、金蚕の毒は蜀で始まり、湖広閩粤(閩は福建、粤は広東を表す。)にまで広がった、と述べています。清張泓の《滇南新語》でも、蜀の中で畜蠱毒が多いが、最も多いのは金蚕蠱であり人の人生を終わらせることが出来、その魂を取り、財産を盗み、一方で富を遣わすいわゆる嫁金蚕である、とあります。伝説によれば、金蚕蠱の形状は蚕のようで、金色に輝いているとのことです。唐の時代、金蚕蠱は指でつくる環のようで、緋色の錦を食べ、その様は蚕が葉を食べるようである。故に食錦蚕とも称される、とあります。

○ 作成方法1, 金蚕蠱の作成方法

12種の蛇や百足のように毒のある生き物を集め、十字路に埋める。49日後に取り出し、香炉の中に保管しておく。完成したら、火も恐れず消滅させるのが非常に難しい蠱になる。福建の龍渓県にこのような伝説があります。金蚕は形の無い物で、それは人のやっていることを替わって行う。例えば、田植えが必要なとき、金蚕蠱に田植えを見せると、それは田んぼに苗をきちんと植えてしまう。それが掃除を覚えると、金蚕蠱のいる部屋はいつも清潔であり、門から家に入るときに門の段で滑ると、振り返ってみると滑った原因の砂が綺麗になくなっている。それで、この家に金蚕蠱がいることを知る。

現地の伝説によれば、金蚕蠱は人を食べるのが好きで、年に一度は人を食べる。年の暮れには主人は金蚕蠱とその年の清算をしなければならず、もし余剰があった場合は人を買ってきて金蚕蠱に食べさせる必要があった。この清算というのは、その年に主人が金蚕蠱に自分のために碗を一個壊してもらっていれば、主人は金蚕蠱のために碗を二十個壊していなければならず、帳尻あわせのために人を食べさせ、きちんと差し引きが合っていることを説明し、来年も人を食べさせて金蚕蠱を養うことになる。

南靖人の話では、大同小異で金蚕を飼うと挑生になるといい、金蚕蠱は尿缶の周辺にいるか、人が立ち入らないような場所にいて、もし居場所を知っていても、その場所を教えてはならないという。もし、知られたら、その身に禍が降りかかるからである。金蚕は時には蛇に、或いは蛙に、或いは地面から屋根まで飛び跳ねる赤いズボンを履いた一尺ほどの背丈の小さな子供に形を変えることが出来る。

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金蚕を飼う家は、病気になることが少なく、家畜を飼えば大きく育ち、死ぬような大きな病も無く、財産を築くことが出来る。毎年年末には、主人は門の後ろで金蚕と清算をし、その年に壊した碗の数を言い、差し引きが多いほどその年に得た利が多いことを意味し、清算しきれないと家中の人間がだんだん死んで行き、金蚕の関係者全員によい結果は訪れない。この結果は”金蚕食尾”と言われる。この状況が訪れた人は、嫁金蚕が必要である。その方法は、銀と花粉と香灰(すなわち金蚕蠱)を布で包み、交差点に置く、すると銀を見た人が自然に拾っていき誤って銀の包みと一緒に金蚕蠱も拾っていく、金蚕蠱はこのとき拾った人についていき彼と共に去っていく。(恵西城《中国民族大観》、広州:広東旅遊出版社1989年)

2, 壮族の蛇蠱の作成方法

太陰暦の五月五日を選んで、この一日で鼠、胡蝶、蜥蜴、蠍、蝦蟇、毒蜂(山林の毒菌と雨により腐乱し巨大化した蜂。口は鋭く尖っており体長三センチほどである) 、馬蜂(木の上におり、巣を作る種)、藍蛇、白花蛇、青蛇(毒蛇の一種で、色は青く通常は生い茂る草むらにいる。竹葉青とも言う)、吹風蛇(毒蛇の一種で黒い斑点がある。頭は三角形で眼鏡蛇とも言う)、金環蛇(俗称金包鉄、身体には黄色と黒の縞模様である)等、毒のある動物を集める。(明張介兵の《景岳全書》では、三種類の毒でことは足りると言い、広西、広東の山奥に住む人、于端午の話では、毒蛇と百足と蝦蟇を同じ容器に入れて、互いに食べさせる最後に残ったものが蠱となる。またの名を挑生蠱と言う、とある。)

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集めた毒のある生き物達を容器に入れて、互いに食べさせ、最後の一匹になるとやめ、最後の一匹を殺してこれを天日に干す。すると外から毒菌がつき、曼荼羅花などの植物が生育しだす。これを粉末にして蠱薬となす。もし、最後まで生き残った生き物が蛇であれば、これを蛇蠱と呼ぶ。この種類には胡蝶蠱、鼠蠱、蜂蠱、蠍蠱、蝦蟇蠱、蜥蜴蠱等がある。

これらの蠱薬を大きな碗の中に貯め、これを術者の寝床の下においておくと、太陰暦の毎月九日の夜更けに、碗の中から枝が伸び床に当たり、その後、蠱碗からかすかながらわずかに閉じた目が見え、口から呪詛を唱え、術者を主人と呼び術者に跪き、もし助けが必要でしたらお申し付けください、と言葉を発する。これを毎月三回繰り返し、誤解無いように誠意を示す。すると蠱は、害をなす人を取り除きます、と言う。

出典:baike.baidu.com

今回はたまに漫画などに出てくる蠱毒の話です。日本にも中国から蠱毒は伝えられており陰陽師などが使用していたようです。しかし、本場中国では内容が生々しくかなりリアルですね。蠱毒は中国全土で行われていたようですが、特に南方で盛んで、最も有名なのが苗族です。この苗族はキョンシーの由来である赶屍術を行うことでも知られています。苗族は美人が多いことでも知られており、これだけのネタが集まれば即小説や映画化決定となりそうです。

中国では蠱とは、呪術を使って作られた毒、また、この毒が変形した毒虫を指します。野にいる虫から蠱を作り、さらには蛇や蛙等に変形して人を害し、また蠱を伝承させる一連の術を蠱毒と言います。中国には蛇蠱や蛙蠱など多種多様な蠱があり、日本の蠱は数ある蠱の中のほんの一例に過ぎません。

普通に考えれば、蠱毒を作るよりトリカブトなどの毒を盛った方が確実な気がしますが、毒の入手や毒を盛るのが難しいのと、毒を盛ったことがばれる可能性が高いので、日本の藁人形のように恨み辛みを込めて人知れず蠱毒を行うといううさ晴らしの意味合いも強かったのだと想像します。

中国の蠱毒には大まかに二つの特徴的な形態が見て取れます。すなわち

  1. 元の物体、生物が変形する。
  2. 強力な毒を持ち、人に害をなす。

長期間放置していた籾殻が飛虫にかわる、という記述から、元々は保管により乾燥して軽くなった籾殻が風に飛ばされる様を見て飛虫に変わるという着想をしたのが蠱毒の色んなものに変形するという1の概念の始まりと考えられます。

色んな毒虫を一つの容器に放り込み、食べさせあい、強力な毒が生みだす、2の毒の概念自体は殷墟の甲骨文字にあると言われているようにかなり昔からあったと思われます。この二つの概念が結びつき、毒を持った物もしくは生き物が別の恐ろしいものに変化する、この想像がどんどんと拡大していき、最終的に中国の戦国時代に蠱毒の初期の形態が出来たのだと推測されます。

日本では8世紀頃には伝わっており、朝廷は蠱毒は危険であるということで実施を禁止していたようです。日本の漫画中に出てくる蠱毒は多種多様な毒を持った生き物を一緒に甕に入れてバトルロワイヤルさせ、最後に残った一匹を呪術に使用する、というもので中国と概要はかわりません。

蠱毒は日本に8世紀ごろに伝わって来て、それ以降、日本の蠱毒使いと中国の蠱毒使いがお互いに情報のやり取りや交流を持っていたのかは不明ですが、宋代に盛んだった金蚕蠱術など通常の蠱毒にさらに3番目の概念である”清算”の概念が導入されており、中国の蠱毒は8世紀以降も発展を続けていたことを伺わせます。

中国の蠱は基本虫の形になることが多いですが、ほかにも蛇蠱では蛇、蛇蝎蠱ではサソリ等、様々な形をしているようです。多くの地方でそれぞれ発展していることも特徴的です。また、苗族の伝承では蠱は女性に寄生するために苗族の蠱毒使いは女性のみであることに驚きました。日本では陰陽師とか呪術師が使っているイメージがありますので、男性が行うイメージが強かったです。

しかし、キョンシーといい今回の蠱毒といい、中国ではオカルト的な事柄がやたらと詳しく体系化されているのには驚きです。

もちろん、良い子のみんなはやってみたくても真似しちゃだめですよ!

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