第十一巻:捜神記を翻訳してみた

捜神記の翻訳シリーズ第十一巻です。今回は干将(かんしょう)と莫邪(ばくじゃ)夫婦、そしてその子供の悲しい話があります。実はこの干将と莫邪の物語には莫邪が白龍となったなど幾つかあり、今回の話は数あるストーリーの一つです。また、莫邪の父は欧冶子と言い伝説的な刀鍛冶で湛慮剣や太阿剣、純鈞剣など数々の名刀を生み出しています。この欧冶子一族により作られた剣が春秋戦国時代後期の話によく登場しますので、春秋戦国時代が好きな方はこれらの名を目にしたことがあるかもしれません。

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古代中国十大神剣:中国の伝説の聖剣、名剣を集めてみた

他にも家族間の悲しい話や喜ばしい話が多い巻となっていますので涙無くして読むことはできません(´;ω;`)

  • 熊渠子が石を射る

楚国の熊渠子が夜間に巡行し、横に臥している石を寝ている虎だと思い弓で射た。矢は石の近くに刺さり、矢の羽は皆落ちてしまった。熊渠子は詳しく調べてみるとそれは石であることを知り、近づいてまた射ると矢は折られたが何の痕跡も残っていなかった。

漢代の李広が右北平太守に任ぜられ、虎を射たが石であった。熊渠子もこれと同じであった。劉向は、「精誠が至り、金石はこれを開き、更になおさら人である。あなたは和を言うがが不和であり、動いても誰もついてこず、中には必ず不全の者がいる。席を降りずに天下を正す、これがその身に起こった縁故なのである。」と言った。

  • 由基、更羸が善く射る

楚王が園林で狩りをしている時に、偶然白猿に出会った。楚王は命じてその猿を射させたが、白猿はその矢を掴み笑った。楚王は名手である由基に射させ、由基が弓を構えると白猿は木の幹に抱き着き叫び出した。戦国時代になると、更羸が楚王に、「私は弓を引くふりをして矢を放ちませんが、飛んでいる鳥を落とすことが出来ます。」と言った。魏王が、「そのような境地に達することは難しいであろう。」と言った。更羸は、「出来ます。」と答えた。しばらくして、雁の群れが東方から飛翔する音が聞こえると、更羸が弓を引き矢を放つふりをすると、一羽の雁が天上から落ちてきた。

  • 古冶子が鼈を殺す

斉の景公が黄河を渡った時、一匹の大スッポンが馬車の左側の馬に咬みつき、河の中に引き込もうとしたので皆慌てて恐れた。古冶子は宝剣を抜きその大スッポンを五里ほど追いかけまた川をさかのぼって三里追いかけると中流の砥柱の石島に着いた。古冶子はそれを殺すと、それが大きなスッポンであったことを知った。古冶子は左手にスッポンの頭を持ち、右手にはあの馬を引いていたが、その様子は燕のようであり天鵝のように水面から飛び出した。古冶子は天を仰ぐと大声で吼え、河水は振動して三百歩流れ、それを見た人々は皆古冶子が河伯だと分かった。

河伯は黄河の神でありますが、干宝さんの時代には結構信仰されていたようで捜神記によく出てきます。

  • 三王墓

楚国の干将、莫邪夫婦は楚王のために宝剣を鋳造し、三年で完成した。楚王は怒って彼らを殺そうとした。宝剣には雌雄二剣があり、当時の干将の妻、莫邪が妊娠し出産が迫っている時干将は莫邪に、「私は楚王に替わり剣を鋳造し、三年で完成した。楚王は怒っており、私が会いに行くと必ず私を殺すであろう。もし、男の子が生まれて成長したらその子に、門を出て南の山を望むと、石の上に生えている一本の松が見え、宝剣はその木の背上にある、と伝えてくれ。」と言った。そして干将は雌剣を持って楚王に会いに行った。楚王は非常に怒っており、仔細を観察させ、「宝剣は二振りあるはずだ。一振りは雄剣で、一振りは雌剣であるが、雌剣のみが送られてきた。雄剣はまだ送られてきていな。」楚王は怒って即座に干将を殺してしまった。

莫邪の子供は名を赤と言い、彼が成長すると母親に、「父親はどこにいるの?」と聞いた。母親は、「父親は楚王に剣を鋳造し、三年で完成したが楚王は怒って殺してしまった。父親は家を離れる時に私に、門を出て南の山を望むと、石の上に生えている一本の松が見え、宝剣はその木の背上にある、と言い残したのだ。」と答えた。子供は門を出て南を向くと一本の松が見えた。松は石の上に立っており子供は斧でその松の背を斬ると、宝剣を得た。そして日夜楚王が仇だと思い続けた。

楚王は夢で一人の男の子を見た。両眉の間が広く、仇討ちの話をした。楚王はその子を捕らえようと千金の懸賞金をかけると、それを知った男の子は急いで逃げて深い山の中に身を隠した。彼は歩きながら悲哀の歌を歌った。ある侠客がその子を見て、「まだ小さいのになぜそんなに悲しそうに泣いているのか?」と問うた。男の子は、「私は干将、莫邪の子供です。楚王が私の父親を殺したので仇討ちをしなければなりません。」と言った。侠客は、「お前の頭に千金の懸賞金がついていると聞いたぞ。お前の宝剣と頭を差し出せば私が仇を打とう。」と言うと、男の子は、「それは素晴らしい、ぜひお願いします。」と言い、自分の頭部を切り落としたが、身体は硬直して立ったままそれぞれの手に頭と宝剣を持って侠客に差し出した。侠客は、「お前に背くことはできない。」というと、男の子の亡骸は地に崩れ落ちた。

侠客は頭と宝剣を持って楚王に謁見すると、楚王は非常に喜んだ。侠客は、「これは勇士の頭ですので、大鍋で煮ましょう。」と言った。楚王はその言葉通りにした。三日三晩煮込んだが、頭部は煮えずに湯の上に浮かんでおり目は澄んでいて怒気が充満していた。侠客は、「この頭部は茹でても煮えていません。大王が近くへ行って確かめて頂くときっと煮えることでしょう。」と言った。楚王は鍋に近寄り覗き込むと、侠客が宝剣で楚王の頭部を斬ってしまい、楚王の頭部が煮えている鍋の中に落ちた。侠客も剣で自分の頭部を斬り落とすと、侠客の頭部も湯の中へと落ちた。三つの頭部は煮えてしまい、区別がつかなくなった。その後、湯の中の肉を三つに分けてそれぞれ埋葬したので、この墓は”三王墓”と呼ばれた。この墓は今の汝南郡北宜春県境内にある。

  • 断った頭が語る

渤海郡太守の史良とある女性は相思相愛で、女性は史良に嫁ぐことを承諾したが、実行しなかった。史良は怒り女性を殺し首を斬り家に持って帰りかまどへ放り投げて、「火で燃やしてしまおう。」と言った。すると、女性の頭が、「あなたと私は共に思っていたのになぜこのようなことをなさるのですか?」と言った。以降、史良は夢で女性に会い、「あなたにまだ渡す物があります。」と言った。目が覚めると史良が以前女性に贈った香纓や金釵などがあった。

  • 東方朔が酒を灌ぎ患を消す

漢の武帝が東方を巡遊中に、まだ函谷関を出ない辺りで怪物が道を遮っていた。怪物の身長は数丈もあり、その形状は牛のようで青色の目をしており眼球は輝いており美しく、四本脚を伸ばし脚を動かしていたが動かなかった。随行していた百官は奇妙で恐ろしくなった。東方朔が酒を求め、その怪物の前に注いだ。怪物に注ぐこと数十斛でその怪物はいなくなった。漢の武帝はどういうことか尋ねると東方朔は、「あの怪物は患と呼ばれており、憂郁の気が生み出したものです。この地方にはきっと秦朝の監獄があったことでしょう。さもなくば、罪人たちが集められて労役をしていたところです。酒は憂いを忘れさせますので、酒で患を消しました。」と答えた。漢武帝は、「知識深淵なる博識者よ、そういうことであったか。」と言った。

東方朔は神異経の作者であると言われており、仙人になったとも言われています。日本の浄瑠璃にも演目がありますので、日本でも古くから親しまれてきた人物でもあります。

  • 諒輔が身を以って雨を祈る

東漢の諒輔は字を漢儒と言い広漢郡新都の人で、若い頃から献身的な役人で精錬潔白な人物であった。以降、物事や大小の事情など全て妥当であり郡県の人は皆彼を敬った。その年の夏は干ばつで太守が庭院中で太陽に晒されながら雨を祈願したが雨は降らなかった。諒輔は五官掾の身分を以って出て行き山水に祈祷し、「私諒輔は郡の忠僕です。忠言で主を諫めることが出来ず、賢才を推薦し悪人を排斥し、陰陽を調和させることが出来なかったために天地は隔絶し万物は枯れ果て百姓たちは雨を待ち望んでいます。訴えなかった場所はもはやありません。罪はすべて私にあります。今は太守は自身を反省し自分を責めて庭で雨を求めています。私諒輔を罪人となり民百姓の幸福を求めます。誠心誠意切に願うと共に誓います。もし、午後にまだ雨が降らなければ私の体を使って罪を償わせてください。」と言った。すると諒輔は柴を積み上げ、自分を焼く準備を始めた。午後になると山上の雲が黒くなり雷が聞こえ始めると大雨が降った。この雨で一郡は潤った。当時の人々は諒輔を最も誠信な人物であると称賛した。

  • 何敞が災を消す

何敞は呉郡の人で、若い頃は道術を好み、歳を取って隠居した。郷里が旱魃に襲われたために百姓の生活は非常に困窮し、郡の太守の慶洪は戸曹を遣わし印章綬帯を奉って何敞に無錫県令を請うた。しかし何敞は受けずに辞退した。何敞はため息をつき、「郡中に災害があり道術を使わないことがあろうか。」と言った。そして何敞は県へと歩いて行き道術を使うと金星が家の中で停まり、蝗は死に絶えた。何敞は静かに立ち去った。その後、何敞を方正や博士に推挙しようとしたが何敞は全て受けずに、老いて家で息を引き取った。

  • 葛祚が民累を去らす

三国時代の呉では葛祚が衡陽太守に任ぜられた。郡の境内には斜めに切られた巨木は江の上に横たわっており妖を興し怪を作っていた。百姓たちはその木のために廟を建立した。道行く人はその祠に詣り祀ると木は水底へと沈んだ。そうしないと木は浮かんできて行き交う船にぶつかり壊してしまった。葛祚は官を辞する時に斧を沢山準備して百姓たちのためにその災禍を除こうとした。彼らは翌日に江上に到着した。その日の夜に彼らは江中で喧嘩をしている声を聞き、江上へと行き様子を見ると木はなんと自ら移動していき江の流れに沿って数里流されて湾中で止まった。これ以降、船が沈没するという心配はなくなった。衡陽の百姓たちは葛祚のために碑を建てて、「正德祈禳、神木為移。」と刻んだ。

  • 曾子の孝は万里を感じる

曾子は孔子に従い楚国を遊歴し、心の中に何か感じることがあり、別れを告げて家に戻り母親に問うた。すると母親は、「私があなたを想う時には自分の指先を咬みます。」と言った。孔子がこれを知ると、「曾子の孝心は万里の外に神通する。」と言った。

  • 王祥が氷を剖る

王祥は字を休征と言い琅邪郡の人であった。生まれつき孝行者であった。王祥が小さな頃に母親が死に、継母の朱氏は王祥を好まず何度も王祥の悪口を言ったために父親の愛情を失った。毎回王祥に牛棚の掃除をさせた。父母が病気になると毎夜看病させたために眠ることが出来なかった。継母が魚を食べたいというと凍える寒い中でも王祥は服を脱いで氷を割って魚を捕まえに行った。氷は忽然と自ら割れだし、二条の鯉が水中から跳ね出たので王祥はその魚を持って家に帰った。継母が黄雀の肉を食べたいというと、また数十羽の黄雀が王祥の帳の中へ入ってきてそれを継母へと差し出した。同郷の人々は皆奇怪に思ったが、王祥の孝心に上天が感動した結果であろうと感心した。

  • 楚僚が氷に卧す

楚僚は幼い頃母を亡くし、後妻に十分に孝順であった。後妻が腫物を患い、日ごとに衰弱していった。楚僚は自らの口でゆっくりと膿を吸い出し、夜になると彼女は穏やかに眠ることが出来た。後妻は夢の中で子供に会い、その子は、「もしもあなたが鯉を捕まえて食べたら病気はすぐによくなり、さらに寿命も延びるでしょう。そうしなければ長くは持たずに死んでしまうでしょう。」と言った。後妻は目を覚ますと。その夢を楚僚に話した。その時は十二月で外は凍り付いており、このため楚僚は天を仰ぎ泣き服を脱いで氷の上に横になった。すると一人の子供が楚僚の寝ているところの氷を掘りだすと、氷は自ら裂けると一対の鯉が河の中から跳ね出た。楚僚は魚を持って家に帰り後妻に食べさせると、病気は即座によくなり百三十三歳まで生きた。これは恐らく楚僚の孝順さに天神が感銘を受けたからであり、明かな応験である。これは王祥、王延の故事と同じである。

  • 盛の母の眼が復明する

盛彦は字を翁子と言い、広陵人であった。彼の母親の王氏は病で両眼の視力を失っていた。盛彦は彼女の傍で介抱した。母親が食べ物を食べるときには、自らの手で食べさせた。母親は病になって久しく精神が不安定となり、婢女を何度も鞭打った。婢女は憤り彼女を恨み、盛彦が長い時間外出していると聞くと黄金虫の幼虫を焼いて彼女に食べさせた。盛彦の母は幼虫を食べるとその味は良かったが、疑念を抱きこっそりと一つだけ残して置き盛彦に見てもらった。盛彦が見た物は幼虫であり、母親を抱き泣き悲み生きた心地がしなかった。母親の目は開き見えるようになっており、病は治った。

  • 顔含が蛇胆を尋ねる

顔含、字を宏都と言った。彼の兄弟の嫁の樊氏は病で失明した。医者は目を開くためには蟒蛇の胆を使った薬が必要であると言った。しかし、どこで聞いても探す方法は得られなかった。顔含は長いことため息をついた。ある時、彼は昼間に一人で家にいると、忽然と青い服を着た少年が現れ、年の頃は十三、四歳であった。そして手に持っていた青色の袋を手渡した。顔含は袋を開けてみると、蛇の胆が入っていた。少年はすぐさま走り出し家を出ると青い鳥になり飛んで行った。その蛇の胆で薬を調合すると、兄嫁の病は瞬く間に治った。

  • 郭巨が子供を埋め金を得る

郭巨は隆慮県の人とも河内郡温県の人とも言った。兄弟三人は早くに父親を失った。葬儀が終わると二人の弟は分家を要求した。財産は二千万ほどあり、弟たちはそれぞれ一千万ずつ得た。郭巨は母親を宿泊所に住まわせ、妻と共に使用人として雇われて母親を養った。しばらくすると妻は男の子を生んだ。郭巨は母親の世話の邪魔になると思い考えた。一つは母親が食べ物を得ると孫に分け与えて彼女の食べる分が減ってしまうこと。もう一つは外に穴を掘りに行き、その穴に子供を埋めてしまおうというものであった。郭巨が穴を掘り始めると石の蓋を見つけ、その下には黄金の瓶があり、その中には丹砂で書かれた文章があった。その上には、「郭巨は孝行者であるので黄金一瓶を賜る。」と書かれてあった。これにより郭巨の名声は天下に広く行き渡った。

  • 衡農が夢で虎に足を噛まれる

衡農は字を剽卿と言い、東平の人であった。小さい頃母親を亡くし、継母に非常に尽くした。ある日、他の家に泊まっていた時、雷に打たれ突風に遭った。さらに夢で虎に足を咬まれた。衡農は大声で妻を起こすと一緒に庭へと走り三度頭をぶつけた。すると家は忽然と倒れ、三十人余りが圧死し、ただ衡農夫婦のみが害を免れた。

  • 王裒が墓で泣く

王裒は字を偉元と言い、城陽郡営陵県の人であった。父親の王儀は晋の文帝に殺害された。王裒は墓の隣に小屋を作り住み孝を守り、早晩には墓に参ると柏の木に持たれて悲しみで泣いた。涙は木の上に落ち、これにより柏の木は枯れてしまった。彼の母親は雷に打たれることを恐れており、母親の死後に雷が鳴っている時には母親の墓へ行き、「王裒はここにいます。」と言った。

  • 東海の孝婦

漢朝の頃、東海郡に一人の孝順な嫁がいた。謹んで義母に奉仕した。義母は、「嫁は大変にも関わらず私に勤しんで奉公してくれる。私は既に老いたので、残りの人生は幾ばくもなく惜しむことがあろうか、それよりも若い嫁に長い間辛い思いをさせてしまった。」と言い、首をつって死んでしまった。これに対して義母の娘は官府へと告発し、「嫁が私の母を殺しました。」と訴えた。官府は嫁を捕らえて刑として酷く打ちつけ酷かった。孝婦は刑の辛さに耐えられず嘘の自白を言わされた。

当時、于公が獄吏となっており、「この夫人は義母を謹んで養うこと十数年で孝順であったためその名声は四方に渡っています。義母を殺したわけがありません。」と言った。太守は彼の意見を聞かずに于公と言い争ったが結局意見は採用されずに、彼は判決文を抱えて哭きながら官府を離れた。これ以降、東海郡は大干ばつが起こり三年間雨が降らなかった。後任の太守が着任すると于公は、「孝婦は死ぬべきでなかったのに、前任の太守が彼女を無実の罪で刑に処しました。この災禍の根源はこの場所にあります。」と言った。太守はすぐに自ら孝婦の墳墓へと行き祀り、その墓標に無実を晴らし彼女を讃える碑を建てた。するとすぐに雨が降り出しその年は大豊作となった。

当地の老人の言うところでは、孝婦の名は周青と言った。周青は死に臨んだ時、車上には十丈ほどの長さの竹竿が挿してあり竹竿からは五面幡旗が下げられていた。周青は群衆に向かって、「私がもし有罪で殺されるに値すれば私の血は竹竿から流れてくるでしょう。しかし、私が無実の罪で死ぬのであれば血は竹竿を伝って上へ行くでしょう。」と言った。刑が執行されると、彼女の血は青黄色を呈し、旗竿にそって上へと流れ頂端へと到り、その後幡旗を伝って下へと流れ落ちた。

  • 投水して父屍を尋ねる

犍為郡の叔先泥和の娘は叔先雄と言った。東漢順帝永建三年に叔先泥和は県功曹に任ぜられた。県長の趙祉は叔先泥和を使者として巴郡太守の元へと遣わした。叔先泥和は十月に出発したが、城の付近の急流に落ちて死んでしまい遺体は見つからずに埋葬できなかった。叔先雄は悲痛極まって泣き続けもう生きたくないと思い弟の賢とその嫁に父親の遺体を探すように言った。もし見つからなければ自分で水に潜り探すつもりであった。当時叔先雄は二十七歳で貢という子供がおり歳は五歳であり、もう一人は貰と言い歳は三歳であった。彼女はそれぞれの子供のために金珠の環をあしらった綉花香囊を作り、首にかけた。悲哀の声が口から途切れることはなく一族は皆心配した。十二月十五日になっても遺体は見つからなかった。叔先雄は小舟に乗って父親が落水した場所へと行き、数度泣くと水の中に飛び込んだが水に流されて水底へと沈んでいった。叔先雄は夢で弟に、「二十一日に私と父は一緒に水面に浮かぶ。」と告げた。その日がやってくると、夢で告げられたまさにその場所に叔先雄と父親が一緒に水面に浮かんできた。県長はこのことを文書で報告し、郡太守の粛登はこれをさらに尚書で報じた。これにより戸曹掾を派遣し、叔先雄の碑を建てその上に像を画いたので彼女が非常に孝順であることを皆に知らしめた。

  • 楽羊子の妻

河南郡の楽羊子の妻は誰の家の娘かは分からなかったが、姑に献身的に尽くした。かつてよその家の鶏が誤って敷地内に入ってきたときに姑がその鶏を殺して食べようとした。楽羊子の妻はその鳥肉を食べずに泣いた。姑はなぜ泣いているのか気になって尋ねたところ、彼女は、「私は家が貧しくて人の家の鶏を食べるまでになってしまったことが悲しいのです。」と言った。姑はこれを聞くと鶏肉を放り投げてしまった。

その後、家に強盗が入り姑を見つけ脅迫していると、妻はその声を聞いて包丁を持って飛び出してきた。強盗は、「包丁を捨てろ。俺に従えば命は助けてやる。しかし、従わなければお前の母は死ぬぞ。」と言った。楽羊子の妻は天を仰いでため息をつき自分の首を切って死んでしまった。その強盗は姑を殺さなかった。郡の太守はこの件を聞くと強盗を捕らえて処刑し、楽羊子の妻に多くの絹を贈り礼儀を尽くして丁重に葬った。

  • 庾衮は疫を畏れず

庾衮は字を叔褒と言った。晋の武帝の咸寧年間に疫病が起こり、庾衮の二人の兄が病死し、二番目の兄庾毗も病床で重症であった。疫病は盛んであり、父母は数人の弟を連れて家を出たが、庾衮は一人家に残りついて行かなかった。出て行こうとしている家族は庾衮を説得しようとしたが、庾衮は、「私は病を恐れてはいません。」と言い、残って二番目の兄の世話をして昼も夜も寝なかった。この期間は葬儀は絶えず、悲しみで首を吊る者も後を絶たずに、十数旬(三か月ほど)は続いた。疫病が収まって以降、家族は家に戻った。庾毗の病気は良くなっており、庾衮も無事で何事もなかった。

  • 相思樹

宋の康王の舎人であった韓凭は何と言う姓の妻を娶ったが、大変美しかったので康王は彼女を奪ってしまった。韓凭は恨んだが、康王は韓凭を捕らえて辺境へと追いやった。韓凭の妻は韓凭にこっそりと手紙を書き、その文は真意を隠してこの様に書かれていた。「その雨は降りやまず、河は大きく水は深くなり、日の出が心配です。」康王がこれを見つけると、臣たちに見せたが誰もその意味が分からなかった。大臣の蘇賀が解釈し、「その雨は降りやまずとは憂愁の気持ちを表し、河は大きく水は深くなりとはお互いに行き来できないことであり、日の出が心配とは死のうとしていることを意味しています。」と言った。

程なくして韓凭は自殺してしまった。妻は自分の衣服を薄暗い場所に置き朽ちさせた。康王と韓凭の妻が高台に登った時、妻は台から飛び降りようとした。咄嗟に左右の臣が服を掴んで引っ張ったが服が朽ちていたために敗れてしまい、彼女は落ちて死んでしまった。衣服の中には遺書が残されており、「大王は私を生かしたいと望んでおられますが、私は死を望んでいます。お願いですので私の亡骸を韓凭の亡骸と一緒に埋葬してください。」とあった。

康王は激怒し彼女の願いなど顧みず、墓を離して作り互いの墓が見えるようにした。康王は、「お前たち夫婦の相愛が不断であり、もし二つの墓を一緒に出来たならもはや邪魔はすまい。」と言った。日暮れの間に二本の梓の木がそれぞれの墓から伸びてきて十日ほどで幹は一抱えの大きさまで成長した。幹は湾曲し互いに近づき、木の根は地下で交接し木の枝は天空で交錯した。また、雌雄二羽のオシドリがその樹上に住み、早晩離れず寄り添って悲しく鳴きその鳴き声は人を感動させた。

宋国の人々は彼らに同情し、これよりこの二本の樹は「相思樹」と呼ばれるようになった。「相思」の名称はこの出来事から生まれて使用されるようになったのだ。南方の人々は、「オシドリとは韓凭夫婦の霊魂だ。今の睢陽県にある韓凭城のように、韓凭夫婦に関する歌謡は今でもこの地方で歌い続けられている。」と言う。

  • 望夫岡

鄱陽県の西の辺りに望夫岡があった。以前に、この県の陳明と梅氏が婚姻する予定であったが、式を上げる前に梅氏は妖怪に騙され連れ去られた。陳明は卜占師の元へ行き請うと、占卦には、「西北へ五十里ほど行ったところで彼女を探すこと。」とあった。陳明はその占いの通りの場所へ行き彼女を探すと、底が見えないほどの大きな洞穴を見つけた。陳明は縄で下へ降りると彼女を見つけた。陳明は同行人に彼女を連れて先に洞窟を出させたが、同行人は隣の秦文の元へと連れて行ってしまい再び戻ることはなかった。梅氏は自身の貞操を誓い、毎日この山へと登り陳明を想ったため、人々はこの山を「望夫岡」と呼ぶようになった。

  • 鄧元義の妻が改めて嫁ぐ

東漢南康郡に住む鄧元義の父は鄧伯考と言い、尚書僕射に任ぜられた。鄧元義が故郷に戻ると残っていた妻は姑によく尽くし、非常に謹慎であった。姑は彼女を憎み、空き部屋に閉じ込めてしまい、食べ物もろくに与えなかった。妻は骨が飛び出すように痩せ衰え日増しに弱っていったが、姑に対して恨み言は終始言わなかった。その時、鄧伯考は奇怪に思い家に行って確かめると、鄧元義の子供の鄧朗は当時数歳であったが母親は病気ではなく飢えで苦しんでいると言った。鄧伯考は涙を流して、「なぜ母親がそのように目に遭わなければならないのだ?」と言い息子の嫁を実家へと帰して改めて応華仲の妻として嫁がせた。

応華仲はその後大匠に任ぜられ、応華仲の妻は朝廷の車に乗って門を出た。鄧元義は路上で彼女を見ると、人に、「あの人はもともとは自分の妻であったが後悔は無い。私の母親が彼女に大変残酷なことをしてしまったのだ。彼女はもともとは容貌は大変美しく生まれてきたのだ。」と言った。

彼女の息子の鄧朗は当時郎官に任ぜられ、母親が彼に手紙を書いて送ったが鄧朗は全て返信しなかった。衣服を送っても全て焼いてしまった。母親もこれらのことは気にしなかった。母親は息子を想い李姓の親戚の内で用があると言い息子を呼び出してもらった。鄧朗は母親に会うと泣きながら二度頭を下げると実を起こして去って行った。母親は追いかけて彼に、「私が飢えて死にかけてた。自分はお前に家を捨てられ、私に何の罪がありお前はなぜそうなのだ?」と言った。これ以降、やり取りは途絶えてしまった。

  • 三陽の死友伝

漢代の范式は字を巨卿と言い山陽郡金郷県の人で、范汜とも言った。范式と汝南郡の張劭は非常に仲が良かった。張劭は字を元伯と言った。彼らは共に太学で学び、その後故郷へと戻って行った。范式は張元伯に、「二年間故郷に戻らなければならないが、戻ってきたときにはあなたの父母に挨拶をし、あなたの子供をみに行こうと思う。」と言った。そして彼らは会う日時を約束し、その日はすぐにやってきた。張元伯はこのことを母親に言い、母親に范式をもてなす酒宴の準備をして欲しいと頼んだ。母親は、「別れて二年も経ち、約束した時は千里も離れた場所にいたのにあなたはその約束を信じているの?」と聞いた。張元伯は、「范巨卿は約束を守る人物だ。必ず来るよ。」と言った。これを聞いて母親は、「お前がそういうのなら分かった。」と言い、酒宴の準備を始めた。約束の日が来ると范式は現れた。范式は張劭の家へと上がり一緒に酒を酌み交わし積もる話を語り合い、范式は帰って行った。

その後、張元伯は病になり、病状は非常に悪かった。同郡の郅君章や殷子征がやってきて彼を看病した。張元伯が死に臨んで嘆息し、「遺憾なのは私の死友に会うことが出来なかったことだ。」と言った。殷子征は、「自分と郅君章はあなたに尽くし側にいた、我々は死友でないのなら、誰に会いたいと思っているのだ?」と言った。張元伯は、「あなたたち二人は私の生友だ。三陽郡の范巨卿が私の言う死友だ。」と言うと程なくして張元伯は亡くなった。

范式は忽然と夢で張元伯に遇い、黒礼帽をかぶり、帽のつばには飄帯がついていた。靴を履いており慌てふためいて言った。「巨卿よ、私は某日に死んでしまったので某日に埋葬され永遠に黄泉の下に行ってしまうが、私のことを忘れないで欲しいので、どうにか最後に一目会えないか?」范式は忽然と目を覚まし、悲嘆で涙を流した。友のために喪服を着て張元伯の埋葬の日に彼の家へと駆けつけた。

范式はまだ到着しておらず、霊柩は既に引かれ出発していた。墓に着き柩を降ろそうとしたが棺は墓穴に入らなかった。張元伯の母親は棺を撫でながら、「元伯、まだ誰かを待っているのか?」と言い、棺を降ろすのをやめた。しばらくすると、白馬に引かれた一輌の馬車がやってきた。車上の人物は大声で泣きながら馬車を降りて近づいてきた。張元伯の母親はその人物を遠目に見ながら、「あれは范巨卿に違いない。」と言った。范式がやってくると霊柩に向かって頭を叩き弔意を言った。「あなたは行ってしまったのか、元伯よ。死と生は同じ道にはなれない。これが永遠の別れだ。」当時埋葬に参列した千人余りの人々は皆この情景を見て涙を流した。范式が縄で柩を引くと棺は動き出した。范式は墓地に留まり木を植えてやがて去った。

出典:古詩文網

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