契:帝嚳の息子で商族の祖であり、火正となり民に尽くした名臣

契(せつ qi4 チィ)

契は子姓で卨(せつ xie4)とも言い、別称は閼伯(あっぱく)です。契は帝嚳(ていこく)と簡狄(かんてき)との息子で帝堯の異母弟であり、紀元前2096年に生まれたとされています。帝舜に商(現在の河南省商丘市)に封じられ、火正を主管しました。

契の部族はその地名に因んで商族と称されました。契は商族の始祖となり、商朝の建国者である商湯の祖先です。後世では商祖や火神と尊称されました。

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五帝の時代に帝嚳は娀氏の二人の娘を妃にし、年上は簡狄、年下は建疵でした。両人とも美人であったと言います。ある日、両人が亳都(現在の河南省商丘)の傍の玄丘の河で沐浴をしている時、突然二羽の玄鳥が飛んできて岸辺で水浴びをしだしました。玄鳥が飛んでいくと、両者は岸辺で玄鳥の卵を見つけ、争うように奪い合いました。簡狄は走っては鳥の卵を口の中に入れ、そのまま飲み込みました。そして妊娠して生まれたのが契でした。いわゆる天は玄鳥に命じ、降りて而して商を生む、の故事です。

契(閼伯)と兄弟の実沈(じっちん)は深い林の中に住んでいたため不和となっており、父親である帝嚳は契を商丘(現在の河南省商丘市)へと移し、実沈を大夏(現在の山西省太原市)へと封じて兄弟を分けました。

《左伝・昭公元年》には、”高辛氏(帝嚳)に二人の子がおり、名を閼伯と実沈と言った。彼らは広大な野に一緒に住んでいたため毎日喧嘩をしており、争っていた。帝嚳は仕方なく契を商丘に移し東方の大火星(さそり座のアンタレス)を管理させ、実沈を大夏に移し参宿(しんしゅく)と言い、オリオン座の三つに並んでいる星を管理させた。”という内容が記されています。




契は火を使って時間を測る方法を発明し、閼伯台を建築して星辰の観察をし、これを以て一年の自然の変化とその年の実りの良し悪しを測り、古代中国の天文学に重要な貢献をしました。契は商の地で火正となり、誠心誠意民に尽くし、人民から深い愛情を受け、民衆から火神として尊ばれるようになりました。

虞舜二十年(紀元前2260年)には、虞舜は大禹を派遣して治水にあたらせ、契、后稷を禹の補佐として治水にあたらせました。十三年後に治水は完了し、虞舜は契を司徒に任命し、商邑に封じられ後に契玄王に封じられました。契の氏族は後に商族となったと言い、子孫は後に商王朝を建国します。

契の死後は、商丘の閼伯台の下に埋葬され、契の封は商と号しました。その墓は契に因み商丘と呼ばれて、これが現在の商丘市の名前の由来となっています。

契の話は司馬遷の五帝本紀にも現れており、以下のように記されています。

”禹、皋陶、契、后稷、伯夷、夔、龍、倕、益、彭祖は堯の時に皆推挙されたがまだ職はなかった。”

”舜は四嶽に言った。「功を明らかにし堯の業績を美しくする者がいたら官に居り事を相させよう。」四嶽は皆言った。「伯禹が司空と為り帝の功績を美しくするでしょう。」舜は言った。「そうだ。禹よお前は水土を平らにしなさい。そしてこれに励むように。」禹は稽首の礼をとり、稷、契と皋陶に譲った。舜は言った。「それでは行きなさい。」舜は言った。「棄よ、民衆が飢えている。后稷に任官するので百穀の種を撒きなさい。」舜は言った。「契よ、百姓は親しまず、五品に従わず。お前は司徒となり敬って五教を敷き寛大でいなさい。」舜は言った。”とあります。

同様に五帝本紀の別な文中には、”契は司徒となり百姓は親和した。”や”契は商国と為し、姓は子氏とした。棄は周を為し、姓は姫氏とした。”とあり民を慈しむ有能な人物で、商国の祖となったことが記されています。

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出典:baidu

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