史記を読もう!夏本紀を翻訳してみた。

史記は司馬遷の書いた中国の歴史書です。この史記は中国が始まって以来の歴史を記しており、五帝本紀から始まります。黄帝は紀元前2500年頃に生きていたとされており、この五帝本紀は黄帝から始まりその子孫が代々帝位に就いています。この時代は帝位は世襲制ではなく徳の高い人物へ禅譲するという形態をとっていました。




紀元前1900年頃に禹により夏王朝が建国されると、夏王朝は世襲制の王朝として存続します。しかし、商湯の登場により夏王朝は滅ぼされて紀元前1600年頃に商王朝が建国されます。商王朝は日本では殷と言った方がなじみがあるかもしれません。この夏本紀は禹による夏王朝の建国から夏王朝最後の帝であった夏桀が商湯により滅ぼされるまでを描いています。

最初の方は九州、即ち冀州、兗州、青洲、徐州、揚州、荊州、豫州、雍州、梁州全域の治水工事と開墾、道路整備と徹底的な土木工事を行っています。世界的に見ても歴史に残るような王は戦争に強かったか大規模な土木工事を行った場合がありますが、大禹は後者で中国の中原一帯を人が住め農作物が生産できる土地へと変えていきました。禹は夏王朝を建国しますが、禹の土木工事の後に中原一帯は大発展を遂げたと考えられます。そしてその大いなる遺産を引き継いだのが夏王朝です。

史記・夏本紀

夏禹(かう)の名は文命といった。父の名は鯀(こん)であり、鯀の父親は帝顓頊(せんぎょく)、顓頊の父は昌意、昌意の父親は黄帝であった。禹は黄帝の玄孫であり顓頊の孫であった。禹の曽祖父の昌意と父親の鯀はどちらも帝位には就けず、臣となっていた。帝堯の時代、洪水が滔々と大地を襲い、溢れた水は山岳を囲むほどであった。丘陵は水没し、百姓は苦しんだ。堯は治水のできる人材を探し、群臣と四嶽(しがく)は皆鯀を推薦した。しかし、堯は、「鯀は命令に背き同族の名誉を傷つけたので用いることはできない。」といった。そこで四嶽は、「しかし、臣の中に鯀よりも有能な人材はいません。一度試してみてはいかがですか。」と言った。堯はこれを聞いて四嶽の意見を採用し、治水に鯀を用いた。九年費やしても洪水の患は治まらず治水は終わらなかった。帝堯は再び人材を尋ねたが、これとは別にこの時舜を得ていた。舜は重用され、天子の職務を代行するようになり、巡行し各地の諸侯の領土を視察した。巡行中に鯀が治水をまじめにやっていないことを知り、羽山の海辺で鯀を誅殺してしまった。天下の人たちは舜の処置が適切であると思った。この時舜は鯀の子供の禹を抜擢し、父親であった鯀の治水事業を引き継ぐように命じた。




堯が崩御した後、帝舜は四嶽へ向かって、「堯の事業を完成させる人材はいないか?」というと、皆、「伯禹を司空に任命すると必ずや堯の大業を成し遂げることでしょう。」と言った。帝舜は、「そうであるか。」といい、禹を任命する際に。「お前は水土を平らにするのだ、行け。」と言った。禹は頭で地面を叩き拝し、契と后稷、皋陶などの人を推薦した。舜は、「この仕事はお前に任せるので頑張りなさい。」と言った。

禹と言う人物は、俊敏でかつ勤勉でありその品徳は正道であり、仁愛を以て人に接し、人と話す時には誠実で信じるに足り、発する声は自然で音律を奏でる如きであった。行動には節度があり和やかで、その行動が重要な規範となった。禹の勤勉さは他の人々の綱紀として遵守されるようになったのだ。

禹は伯益、后稷と共に舜の命を奉り、諸侯百官に命じて民夫を集め、治水工事を開始した。山を巡って木に標識をたてその名を記した。禹は父親の鯀が治水に功績が無かったために殺されたことに心を痛めておりこの心労により、十三年間で三度自宅へ帰ろうとしたが三度とも家には入らずただ門の前を通り過ぎただけであった。自分の食べ物や着るものは質素であったが、祖先神明の祭祀には豪華で礼を尽くした。自分の住む家は簡素であるが、治水工事にかかる巨額な費用の出費は惜しまなかった。禹は車に乗り道を走り、船に乗り水路を行き、泥の上をソリに乗って滑り、山路をかんじきを履いて登った。常に身に着けていた物は水準器と縄墨であり、コンパスと定規であった。これらを常に身に着け九州を開き、九州に道路を通し、九州の湖沼の堤を修繕し、九州の山脈を計測した。同時に伯益に言って低湿地に稲の種を撒かせ、群衆に育て方を教えた。また、后稷には民衆が食料を得られないときには食料を配給させた。穀物の収穫が少ない地方には、余剰のある地方から穀物を送り不足分を補填し、各諸侯に食料が均等に行き渡るようにさせた。禹はまた各地にどのような物産があるかを視察し貢賦を定め、さらに各地の山川の状況を調べた。

禹は治水工事を冀州から始めた。壶口の治水が終わるとその隣の梁山と岐山を行った。太原を修整した後、泰岳南面地区まで修整した。覃懐(現在の河南省沁陽市)地区の工事が完了すると衡漳水一帯へと到った。常水(恒水)、衛水の流れも滑らかになり、周辺の澤だった土地は全て耕作を行える土地へと変わった。この州の土壌は白壌であり、田の等級は第五等で、賦税は第一等であるが、その年の豊作凶作に左右されて第二等であった。東北の烏夷族は貴族が着る異獣の毛皮を献上した。彼らは海路を使い貢物を運び、海岸に沿って南下し、さらに西へと航路をとり黄河へと到った。

済水と黄河の間は兗州であった。黄河の下流の九条河道の流れは滑らかに通り、雷夏の首んでいる土地には水が溜まり呼称となっていた。雍水、沮水も皆雷夏澤中へと合流し、桑を育てるのに適し養蚕が既に開始されていた。これにより人々は洪水を恐れて高地に築いた住居を平地へと移すことが出来た。この一州の土壌は黒色で肥沃であり、その上面は草木が豊富に生い茂っていた。田の地列は第六等であり、賦税は第九等であった。この一州は十三年の農耕を経て他の各州に追いついた。この一州の貢物は漆と絹でさらに装飾が施された箱に入った模様のある絹織物もあった。その貢物を送る経路は船で済水、漯水を通り黄河を通った。

地は東辺の海まで跨り、西辺の泰山に到り、この地域が青州である。すでに東北に住んでいる堣夷族との境界を引き、安住を得た。また、濰水や淄水の流れがよくなりこの地区も治まった。この一州の土壌は白墳であり、浜辺は塩の生産地であった。田は第三等となり、賦税は第四等であった。この一州の貢物は塩、繊細な葛布、海産品および玉を磨く砥石であり、並びに泰山山谷中で得られた絹糸、麻、鉛、松、玉に似た石と莱夷族の献上した畜産品、さらに装飾を施した箱の中に入った山桑蚕絹糸があった。この貢物の道は汶水を経由して済水へと入る水路が用いられた。




東辺は沿海、北辺は泰山へ至り、南辺は淮水の間の徐州へと到った。淮水と沂水どちらも治まり、蒙山、羽山地方も耕作可能となった。大野澤も湖となっており。東原地区の水たまりも無くなり地は平らになった。この一州の土壌は赤埴墳で、その上には草木が生い茂った。田は第二等に列し、賦税は第五等となった。この一州の貢物は五色土、羽山谷中にいる五色の雉の羽、嶧山の南面で採れる琴の良材である桐、泗水の水辺の浮磐石、淮夷族の献上する珍珠貝及び魚などであった。さらに装飾された箱の中には赤黒色の細い絹糸と白色の絹糸であった。その貢物は船で淮水を経由して泗水に入り、菏水を通って運ばれた。

北は淮河から始まり、東南は海へ至る地が揚州である。彭蠡の域はすでに水が集まり湖を作っており、毎年雁の群れが南からやってきて越冬する地であった。彭蠡より東の諸江はすでに海へと注いでいた。太湖水域も安定した。このため、満遍なく草木や竹林が生い茂り、至る所に美しい芳草、葱翠の喬木が見られた。この一州の土壌は塗泥であり、田の等級は第九等であり、賦税は第七等で、雑種は第六等であった。この一州の貢物は三種の色のある銅、瑶琨美玉、竹材、象牙、異獣の革、珍禽の羽、旌牛の尾であり、島夷族の献上する卉服と称される細い葛布、さらに装飾を施した箱の中に入った絢麗の貝錦の貢物、並びに包装された蜜柑、柚子であった。これらの貢物は大海、長江を経由して淮河、泗水へと入り運ばれた。

荊山から衝山へ至る南面が荊州で、この地には長江があり、漢水が大海へと注いだ。長江の数多の支流は固定の河道があり、沱水、涔水はすでに治水が完了していた。雲澤、夢澤も治まっていた。ここの土質は湿潤で、田の土地は下の中、即ち第八等であり、賦税は上の下、即ち三等であった。貢物は羽毛、旋牛の尾、象牙、皮革、三色銅、椿木、柘木、桧木、柏木、さらに粗い研磨石、矢じりに使用できる砮石、丹砂、矢に適している細い竹である簬、楛、漢水付近の三つの諸侯国の貢物が特産で、さらに包装された箱の中の供物は祭祀の神酒用の青茅、竹籠を使って飾り付けられた色彩の布、珠に穴をあけて通す絹糸などであった。ある時は命令に基づいて九江で獲れる大亀を献上した。朝貢の時には、長江、沱水、涔水、漢水を経由して一旦陸路で進み、再度洛水に入って南河へと進んだ。

荊州と黄河の間の地は豫州であり、伊水、洛水、瀍水、澗水は全て流れやすくして黄河に注いていた。荥播にも湖が出来ており、荷澤の水も上手く流して堤防を築いていた。ここの土質は柔らかく肥沃であり、低地には即ち肥沃で堅実な黒土であった。田は中の上、即ち四等で、賦税は上の中、即ち第二等であった。貢物は漆、絹糸、細い葛布、麻、竹籠に盛る細い絹糸、有る時には玉磬を削る時に用いる石を献上した。献上の時の水路は、洛水を経て黄河へと入った。

華山の南麓から黒水までの間が梁州であった。岷山、嶓冢山は全て耕作が出来、沱水、涔水も水の流れは改善し、蔡山、蒙山の道路もすでに拡張工事を終えていた。和夷地区の治水も効果を得ていた。ここの土質は青黒であり、田は下の上、即ち七等であり賦税は下の中、即ち第八等であったが、場合により七等、九等となった。貢物は美玉、鉄、銀、彫刻できる硬鉄、矢じりに使用できる砮石、磬という楽器に使用できる磬石及び熊、羆、狐、狸の毛織物であった。貢物の経路は西傾山から桓水を通り、浮かび又は沈み、沔水を渡り渭水へ入る。その後に黄河へと到る。

黒水と黄河西岸の間は雍州であった。弱水も治まりすでに西へ流れ、涇水は渭水へと流れ込んでいた。漆水、沮水も渭水へと流れ込み沣水も同様に渭水へと合流した。荊山、岐山の道は開通しており。南山で終わり、敦物山から烏鼠山へ至る道の工事も終了していた。高原と低谷の治理も一定の成果を上げており、周辺の野澤一帯まで完了した。三危山地区も居住可能となり、そこに住む三苗族も服従していた。ここの土は黄色で軟らかく田は上の上、即ち一等であり、賦税は中の下、即ち第六等であった。貢物は美玉と美石であった。朝貢の時は積石山から水路を下り流れに沿って龍門山間の西河へと到り、渭水の湾曲した部分へと集まった。績皮族、崑崙族、析支族、渠搜族、そして西戎族も帰服した。

禹は九条の山脈の道路を開通した。一条は汧山と岐山から始まりまっすぐに荊山へと到り、黄河を越えた。一条は壶口山、雷首山からまっすぐに太岳山へと到った。一条は砥柱山、析城山からまっすぐに王屋山へと到った。一条は太行山、常山からまっすぐに碣石山へと到り、海中へと入り水路と接続されていた。一条は西傾山、朱圉山、烏鼠山からまっすぐに太華山へと到った。一条は熊耳山、外方山、桐柏山からまっすぐに負尾山へと到った。一条は嶓冢山からまっすぐに荆山へと到った。一条は内方山からまっすぐに大别山へと到った。一条は汶山の南面から衡山へ到り、九江を越えて最後には敷浅原山へと到った。

禹は九条の大河の治水を行った。弱水の治水は合黎に到り、弱水の下流の水を砂漠へと流した。黒水の治水は三危山を過ぎ、南海へと流れた。黄河の治水は積石山から始まり龍門山へと到り、南を向くと華陰へと到った。その後は東に折れ砥柱山を過ぎ、東へ向き孟津へと到り再び東へ向き洛水を経て河口へと注ぎ、そのまま大邳へと到った。その後北へ向かい降水を過ぎ、大陸澤へと到った。再度北へ向かい分かれて九条の河となった。この九条の河は下流に到ると合流しまた一条の河へと戻ったため、逆河と呼ばれ最後に大海へと注いだ。嶓冢山から漾水の治水を開始し東へ向かい漢水となり、さらに東へ流れて蒼浪水となり、三澨水を過ぎ大別山へと到り南へ曲がり長江に注いだ。さらに東へ向かい彭蠡澤の水と会合し、そのまま東へ向かい北江となって大海へ注いだ。長江の治水は汶山から始め、東へ向かい支流に分かれて沱水となり、さらに東へ行き醴水へと到り、九江を経て東陵へと到ると東へ斜行して北へ流れ彭蠡澤の水と会合し継続して東へ行き中江となり最後に大海へと注いだ。沇水を治水し、東へ流れるのが済水であり黄河へと注ぎ、両水は合流し溢れ多くの澤を作り出し、東の陶丘北面を過ぎてそのまま東へと流れ達荷澤へと到り、東北へ向かい汶水と会合し、再び北へ向かい大海へと注いだ。桐柏山から淮水の疏水を開始し、東へ向かい泗水、沂水と会合し、再び東へ向かい大海へ注いだ。渭水の疏水は鳥鼠同穴山から開始し、東へ行き沣水と会合し、また東へ向かい涇水と会合し、再び東へ行き漆水、沮水を経過して黄河へと注いだ。洛水の疏水は熊耳山から開始し、東北へ向かい澗水、瀍水と会合し、再び東へ向かい伊水と会合し、再び東北へ向かい黄河へと注いだ。

かくして九州はひとしくおさまった。四方の川岸は落ち着いて、人々の居住するところとなり、九山の木々は切り払われて道路が通じ、山の祭りもおこなわれるようになり、九川はさらわれてほどよく流れるようになり、九沢は堤防を築かれて氾濫のおそれがなくなり、四海の民は都にあつまるようになった。金・木・水・火・土・穀の六者はきわめて順調に生産され、九州の土地の等級は正しく定められ、貢物・賦租についての規則はきわめて慎重に決定され、土地の上・中・下に則して賦租が全国に割り当てられた。天子(舜)は禹の功労を嘉し、功臣たちに土地を賜うて諸侯を封じ、その土地にちなんで姓を賜うた。そして、「わが徳をつつしんで天下にのぞめば、天下の民はわがおこないに違うものはない」という感慨をいだいた。

このようにして河川の治水が完了し、九州は統一され四境の内は全て住居可能となった。九条の山脈には道路が通され、九条の大河は治水が行われ、九つの大湖には堤防が築かれ、四海の内の諸侯は皆都へ参勤し、会した。金、木、水、火、土、穀の六庫の物資の生産は非常に順調に進み、各方の土地にはその状態により等級が付けられて、その等級に応じて税が課せられた。さらに九州の中で諸侯を封じ、土地と姓を与え、”徳行を敬い行えば、天子の施しに背く者はいない。”と言った。

禹は天子の都の外五百里の地区を甸服とし、天子のために田を耕す労働に就き穀物を納税する地区と定めた。都から百里以内には割り振った土地ごとに穀物を納めさせ、百里から二百里は禾穗を納付させ、二百里から三百里は穀粒を納付させ、三百里から四百里は粗米を納付させ、四百里から五百里は精米を納付させた。甸服以外の五百里の地域は侯服となし、天子の偵察順逆を為し王命に従う地区であった。甸服の近くの百里以内は卿大夫の采邑で、その外の二百里以内は小さな封国となし、さらに二百里以内は諸侯の封地となした。侯服以外の五虐里の地区は綏服をなし、即ち天子の安抚を授け、教化を推行する地区であった。侯服の近くの三百里以内は礼楽法度、文章強化を推行し、その外の二百里以内は武威を推行し天子を護った。

綏服以外の五百里の地区は要服となした。綏服の近くの三百里以内は夷、即ち教化を遵守し和平と共にあった。その外の二百里以内は蔡、即ち王法を遵守した。要服の外五百里の地区は荒服であり天子から遠く離れた地区であった。近くの三百里以内は蛮、即ち荒涼としており人の域期には制限がなかった。その外の二百里以内は流、即ちどこにでも住むことが出来、制約は受けなかった。このように東は大海に望み、西は砂漠に到り、北方から南方まで天子の教えは四海に轟いた。このため帝舜は禹の治水の功績を表彰して黒色の圭玉を賜り天下に治水の成功を宣言した。天下はこれにより安定した。

皋陶は法を執行するの官職に就いており、民衆を治めた。帝舜が朝廷にいる時、禹と伯夷、皋陶と共に話し合った。皋陶は自分の意見を述べ、「道徳がはっきりとしてゆるぎなければ策も上手く行き臣下は団結するでしょう。」と言った。禹は、「大賛成です。ただし、どのようにするのですか?」と言った。皋陶は、「慎んで自身を修養し、長期的な計画が必要です。上は高祖から下は玄孫までの九族を安定させます。このようにすると知っている人たちはあなたを補佐し、自ら始めるでしょう。」と言った。禹は皋陶の言葉に感謝し同意した。皋陶は、「さらに徳業を知っている人がいれば、民たちも安心するでしょう。」と言った。禹は、「そうでしたか、帝堯は恐れ困難であったと感じていました。人々に理解させることは明智であり、それは人々にあたかも感触を与えているようなものです。民衆を安寧にすることが仁恵であり、黎民百姓はあなたを戴くことでしょう。もし、すでに人々に理解をさせていたのならさらに仁恵であり、なぜ驩兜を恐れ、なぜ有苗を追放し、なぜ美辞麗句を並び立てる小人を恐れる必要があるのです。」と言った。皋陶は、「そうです。一人の行いを精査するにも九種の徳を持って行い、言論を精査するにも品徳を持って行います。」と言った。さらに、「事を始めるにもよく調べた後に始め、寛厚で威厳があり、温和で堅実で、誠実で恭敬で、才能が有り用心深く、善良で剛毅であり、正直で和気であり、平易で鋭さがあり、果断で実効を求め、強いが道理を語るというこのような九徳を備えている士を重用する必要があります。毎日三種の品徳を宣明し、早晩に勤行努力し、卿大夫はその人物の領地を保有し、毎日厳粛に恭しく六種の品徳を実行し、誠実に王を補佐して諸侯はその封国を保有できます。九種の品徳を兼ね備えて普遍的に施すことが出来ると才徳の人物を皆任官できますので、このような官吏は皆元宿誠実に職務を全うすることでしょう。人々に気の向くままに悪事を働き、妄想させることは必要ありません。もし、不適格な人物が官職に就くと混乱を招く原因となります。天は罪人を懲罰し、五種の刑罰で五種の罪を裁きます。私の言うことには道理がありますでしょうか?」と言った。禹は、「もしあなたの言うことを行うと、必ず結果が出るでしょう。」と言うと、皋陶は、「私の智は浅薄ですので、天下の道を治める手助けをすることを望んでいます。」っと言った。




帝舜は禹に対して、「あなたも自分は良いと思う考えを述べるがよい。」と言った。禹は帝舜を敬い拝礼して、「私が何を申せばよいのでしょうか?私はただ毎日勤勉に努力を重ねる事だけを考えております。」と言った。皋陶はこれに対して、「どのように努力をなされているのですか?」と聞くと禹は、「洪水が世に溢れており、山を囲み丘陵を飲み込み、低地の人々は洪水で難を受けています。私は陸地を車に乗り進み、水上を舟で進み、泥の上を木のソリに乗り進み、山路をかんじきを履いて進み、山の木々を縫うようにして歩き、山上に標志を作りました。私と益は共に黎民百姓に穀物と新鮮な肉を与えました。九条の河を治め大河へと流し、田畑のために水路を作りました。稷と共に飢えに苦しむ民衆を救済しました。穀物が乏しい時には穀物が豊かに収穫される地方から穀物を送ると共に、豊かな土地へと百姓たちを移住させました。民衆の生活は安定し、諸侯国も平和に治まっています。」と言った。皋陶は、「それはあなたの偉大な業績です。」と答えた。

禹は、「帝よ、あなたの臣として慎み、あなたの政務を着実に行います。補佐の大臣は徳行があり、天下の人は皆あなたに応え擁護するでしょう。あなたは清静の心を持って上帝の命令を発し、上天は常に素晴らしい符瑞をあなたに与えるでしょう。」と言った。帝舜は、「大臣、大臣たちよ、其方たちは私の腕であり耳目である。私は天下の民を助けたいので、あなたたちは私を補助してくれ。私は古人の衣服上の図象に習い、日月星辰の天象に照らしあわせて 錦繡の衣服を作り、あなたたちはこの衣服の等級を定めなさい。私は各地の音楽の雅正と淫邪を考察し、その考察のの中で政教の状況を考察し、各方面の意見を取り入れるのであなたたちには仔細を判別して欲しい。私の言行に正しくない箇所があれば、あなたたちにはそれを正してほしい。あなたたちは面と向かって機嫌を取ることなど必要はなく、戻った後に私を叱責しなさい。私は前後左右の補佐大臣を敬う。これらをかき乱す佞臣がいたなら、君主の徳政を実施し、彼らは取り除かれるだろう。」と言った。禹は、「はい、あなたがもしもこのようでなかったのなら良い人物悪い人物が混じって別れず、大事は成就しないでしょう。」と言った。

帝舜は、「あなた方は丹朱のあのような傲慢で横暴なところを学ぶ必要はありません。ただ怠惰放蕩を好み、無水の陸地で船を漕がせ、衆人が家にいるにもかかわらず淫乱の事を行い、帝位を継承する資格はありません。このような人物は私に代わって物事を成すことはできません。」と言った。禹は、「私は涂山氏の娘を娶り、新婚の四日目に家を離れて職に赴きました。息子の啓が生まれましたが私も育てることはできずに、ただ治水に邁進して成功しました。私は帝王の設置した五服を助け五千里に渡り州ごとに三万の労力を用い、四方の荒れ地の辺境を開き、五つの諸侯国ごとに首領を設置し、職を守り皆功徳を持ちましたが三苗は凶頑で功徳はありません。帝王にはこの件を記憶にとどめておかれることを望みます。」と言った。帝舜は、「私の徳を使って導き、あなたの仕事に頼って彼らを帰順させよう。」と言った。

皋陶はこの時重ねて禹の功徳を敬い、天下に禹をお手本にして学ぶように命令した。命令を聞かなければ刑を施した。これにより舜の徳教は大いに高まった。この時、夔は音師であり、楽曲を定め、先祖の亡霊を降臨させ鑑賞させた。諸侯国君が相互に譲り合い、鳥獣は宮殿の周りを飛翔し、舞いを舞った。《簫韶》を九回奏でると鳳凰がやってきた。群獣は舞だし、百官は忠誠を誓った。帝舜は、「天命を普請し、徳政を施し。天の時に従い、謹んで行う。」と歌い、「手足となってくれる大臣たちが忠義を尽くし、天子が治める国に功があり、百官の事業も盛んになった。」とも歌った。

皋陶は跪き拝み、手の位置まで頭を低くし、さらに頭で地面を叩き高い声で言った。「あなたは覚えているでしょう。努力をして職に励み謹んであなたの法度を誠心誠意職務を全うしたします。」また、「天子の英明は理に適っており、手足となる大臣は皆賢良で、天下万事は皆興旺です。」と唱道した。また、「天子の胸中に大略が無く、手足となる大臣がだらけると天下万事は皆腐敗してしまうでしょう。」とも唱道した。帝舜は拝答して、「そうだ、今後は我々は皆努力し各自の職務を行うのだ。」と言った。この時、天下は皆禹の熟達した尺度と音楽を推崇し、禹を山川の神主として尊奉した。これは山川の神に代わって号令を行う帝王の意味である。

帝舜は禹を推挙し、禹を帝位の継承人とした。十七年後に、帝舜は逝去し三年の喪が明けると、禹は帝位を舜の息子である商均へと譲り、陽城へと去った。ただし、天下の諸侯は商均ではなく、禹へと拝謁した。このため禹は天子の位を継承し、天下の諸侯の拝謁を受け国号を夏后とし、姓は姒氏と為した。

禹は天子に即位した後、皋陶を帝位の継承人とし、皋陶を天に推挙して国政を皋陶に授けた。しかし、皋陶は引き継ぐ前に死んでしまった。禹は皋陶の後代を英、六の地に封じた。その後、益を挙用し益に国政を授けた。十年が過ぎると帝禹は東方の視察へ赴き会稽山へと到りこの地で逝去した。以って天下は益へと受け継がれた。三年の喪が明けると、益は帝位を禹の息子である啓へと禅譲し、自分は箕山の南へと躱避した。禹の息子の啓は賢徳で天下の人心は皆啓へと向いた。禹の逝去により、天子の位を啓へと与えたけれども、これは益の禹を補佐した期間が短く天下は益に従わなかったからであった。このため、諸侯は皆益を離れて啓へと朝拝し、「こちらが私たちの君主である帝禹の息子です。」と言った。これにより啓は天子の位を継承し、これが夏后帝啓である。夏后帝啓は禹の息子で、母親は涂山氏の娘であった。

啓は帝位に就いた後、有扈氏は帰順しなかったため啓は討伐へと赴き甘地で大きな戦いが起こった。戦闘の開始前に、啓は《甘誓》と呼ばれている誓辞を作り、六軍の将を召集して訓戒した。啓は、「六軍の将たちよ、私はあなた方に宣告し誓う。有扈氏は仁、義、礼、智、信の規範を蔑視し、天、地、人の正道に背き、このため上天はあ有扈氏の大命を絶つ頃を望んでおられる。今、私が敬って上天の有扈氏に対する懲罰を執行する。戦車の左辺の射手は左辺から敵を射ず、戦車の右辺の剣手は右辺から敵を攻撃せず、即ち命令に服従していないのである。馬の馭手が車馬を上手く整列させることが出来ないことも命令に服従していない。命令に従うと、私は祖先の神霊の面前でその人物を褒賞することを約束する。命令に背くのならば、社神の面前でその人物を殺してしまい、その家族を奴隷の身分に落とすであろう。」と宣誓した。これにより有扈氏を滅ぼして天下は皆来朝し拝した。

夏后帝啓が崩御した後、その息子の帝太康が帝位を引き継いだ。帝太康は一日中遊び狩をして民を顧みず、その結果羿により放逐されてしまった。国を失い、太康の五人の弟は洛水の北岸で待っていたが現れることはなく、《五子の歌》を作った。

太康が崩御するとその弟の中康が即位した。これが中康帝で、中康帝の在位の時、羲氏、和氏は酒に溺れ四季を通して乱れていた。胤は命を奉り討伐へ赴き、《胤征》を作った。中康が崩御すると息子の帝相が帝位を継承した。帝相が崩御するとその息子の帝少康が帝位を継承した。帝少康が崩御するとその息子の帝予が帝位を継承した。帝予が崩御するとその息子の帝槐が帝位を継承した。帝槐が崩御するとその息子の帝芒が帝位を継承した。帝芒が崩御すると、その息子の帝泄が帝位を継承した。

帝泄が崩御するとその息子の帝不降が帝位を継承した。帝不降が崩御すると弟の帝扃が帝位を継承した。帝扃が崩御するとその息子の帝廑が帝位を継承した。帝廑が崩御すると帝不降の息子の孔甲が帝となった。これが帝孔甲である。帝孔甲が帝位に就いた後、鬼神に惑い淫乱であった。夏后氏の威徳は日増しに衰え、諸侯は帝孔甲から離れていった。上天は二条の神龍を遣わした。一雌一雄であった。孔甲は飼いきれなくなり、飼ってくれる人を探した。陶唐氏は既に衰えており、後代に劉累がおり劉を養える人物から龍の馴らし方を学び孔甲の下へ行き仕えた。孔甲が御龍氏の姓を与え、豕韋氏の後代の封地を受け取らせた。

以降、雌龍が死に、龍累はこっそりと肉醤にして孔甲に献上し食べさせた。夏后孔甲はそれを食べて以降、また人を遣わして龍累を探し肉醤を要求した。龍累は恐れ、魯県へと移った。孔甲が崩御するとその息子の帝皋が帝位を継承した。帝皋が崩御するとその息子の帝発が帝位を継承した。帝発が崩御するとその息子の帝履癸が帝位を継承した。この人物が桀であった。

帝桀の在位の時、孔甲以来多くの諸侯が夏から離反しており桀もまた徳を修めておらず武力で百官の族を害していたので百官は耐えられなかった。桀は湯を召し、湯を夏台に監禁したが、やがて解放した。湯は徳業を修め諸侯は湯に従うようになり、湯は兵を率いて夏桀を討伐した。夏桀は鳴条に逃げ、最後には放逐された後に死んでしまった。桀は人に、「渡差異は湯を夏台で殺さなかったことを後悔している。」と言った。このようにして湯は天子の位に就き、夏朝に取って代わり天下を領有した。湯は夏の後代を封じ、周朝に到ると夏の後代は杞地に封じられた。

太史公は、「禹は姒姓で子孫は各地に分封され国号を姓として使用した。このため夏后氏、有扈氏、有男氏、斟鄩氏、彤城氏、褒氏、費氏、杞氏、繒氏、辛氏、冥氏、斟戈氏がある。伝えられるところによると孔子はかつて夏朝の歴法を正しいとし、学者たちは《夏子正》を伝承している。虞舜から夏禹時代が始まり、朝貢物の規定が定まった。ある人は禹は長江の南で諸侯と会し、この時に諸侯の功績を定めているときに死に、この地に葬られた。これに因み、禹の埋葬された地は会稽山と名を変えた。会稽とは会して功を計る意味である。」と言った。

出典:baidu

史記の夏本紀でした。古代中国に馴染みのない方々には難解な言葉が出てきますが、多すぎて一つずつ説明できないのが申し訳ないです。夏本紀は、帝舜から禹へと帝位が引き継がれ、禹は治水の功績により中国初の王朝となる夏王朝を建国するまでが主な話です。禹までの帝位は徳の高い人物へと禅譲されていましたが、禹の夏王朝から世襲制へなりました。夏王朝では禹から息子の啓へと引き継がれています。夏本紀は更に禹の子孫についても書かれており、最後の帝であった夏桀が商湯に滅ぼされたところで終わっています。

冒頭の方にある九州とは日本の九州ではなく、中国の中原地帯を九つに分けた州を言っています。冀州や徐州などですが、徐州や青州など三国志でも出て来ますので三国志を知っている方にはなじみのある地名と場所なのではないでしょうか。基本的に古代の中国ではこの九州が世界の中心であり、中原の外は四つの海で囲まれ、その外側は大荒という異民族の住む未知の国とされていました。

また、古代中国における姓と氏の違いですが、姓は部族を指し、氏はその分家の集団を指します。氏を見ただけではわかりませんが、姓を見ればどの部族であったか知ることが出来ますので、先祖を知る上でも大切です。

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