禺強(ぐうきょう yu2qiang2 ユィーチアン) 禺京(ぐうきょう yu2jing1 ユィージン)
禺強は古代中国神話中の風神で、禺京や禺疆とも書きます。山海経の大荒東経には、”東海の島嶼の上に神人がおり、人の顔で鳥の体をしていた。耳には二条の黄色の蛇を掛け、足の底には二条の黄色の蛇を踏んでいた。名を禺猇と言った。黄帝は禺猇を生み、禺猇は禺京を生んだ。禺京は北海に、禺猇は東海に住んでおりどちらも海神である。”とあり、この禺京が禺強や禺疆と名を変えているのです。
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禺疆:海神であり風神でありさらに疫病を運ぶ瘟神でもある人面鳥身の神様
これは中国の通用字に由来しています。昔は京や強と言った漢字の読み方が同じであるために代わりに用いる場合がありました。このためもともとは一柱の神様に禺強、禺京、禺疆と異なる表記がなされました。これが時代を重ねるとそれぞれ別の神様として扱われるようになり、三柱の神様が出来上がります。特に禺疆と禺強に関してはそれぞれ独立した神様として扱われている記述が見られます。
禺強の父親は禺猇で祖父は黄帝(こうてい)です。つまり禺強は黄帝の孫になります。禺猇は北海に住む海神であり北風を司る風神であるとともに風と共に疫病を運ぶ疫神でもあり、この北風は歴風と呼ばれていました。体は魚のようですが手足があり二条の龍に乗っています。
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- 山海経に記されている禺強
山海経の大荒北経には、”儋耳国があり、そこに住む人の姓は任であり、神人禺号の子孫で谷米を食べた。北海の島嶼の上に神人がおり、人面で鳥の体であり、耳には二条の青蛇をかけおり、脚の下には二条の紅蛇を踏んでいた。名を禺強と言った。”と禺強の事が記されています。
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一方で大荒東経には、”東海の島嶼の上に神人がおり、人の顔で鳥の体をしていた。耳には二条の黄色の蛇を掛け、足の底には二条の黄色の蛇を踏んでいた。名を禺猇と言った。黄帝は禺猇を生み、禺猇は禺京を生んだ。禺京は北海に、禺猇は東海に住んでおりどちらも海神である。”とあり、禺京とその父親である禺猇の事が書かれています。このように山海経の中でも禺強と禺京という別々の神様として描かれています。
大荒東経に関しては以下をご覧ください!
- 史書中の禺強の記載
禺強は山海経の他にも《淮南子・墜形訓》中にも記載が見られ、”禺強、不周風で生まれる。”とあります。《史記・律書》では、”不周風は西北におり、主に生を殺す。”とあります。禺強は風神としての側面に加えて北から風と共に疫病を運ぶ疫神としての側面もありますので、これらの事が結びついている記述でると考えられます。
中国神話では四季や四方など重要な意味を持っています。これはそれぞれに神々が割り当てられていることから伺い知ることができます。最も有名な四季、四方の神は春は東方の神である句芒、夏は南方の神である祝融、秋は西方の蓐收、冬がこの北方の禺強です。
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祝融に関しては以下をご覧ください!
蓐收に関しては以下をご覧ください!
春夏秋冬の神々は気象の特徴を伴っており、句芒は春の新芽の吹き出す様子を、祝融は朱明を作り夏の昼間の熱気が盛んな様子を表しています。蓐收は蓐穫とも書き、秋の収穫を表しています。禺強は冬の日照の短さと空の暗さの特徴を表しています。これにより、句芒、祝融、蓐收、禺強は四季や東西南北の風、海を擬人化した神様であると言え、四方神を為しています。
《山海経》ではこの神の形状が書かれており、句芒は鳥身人面で祝融は獣身人面、蓐收は左耳に一条の蛇を掛け、禺強は人面鳥身で両耳にそれぞれ一条の蛇を掛けています。これらの四神の乗り物は、句芒と祝融、蓐收は二条の龍であると書かれていますが、禺強だけは乗り物ではなく足で蛇を踏んでいるという描写です。
山海経中では別な四海の神や四方の風神についても書かれており、則ち東海の神が禺猇、南海の神が不廷胡余、西海の神が弁兹、北海の神が禺疆です。これらの神の形状は大体同じで皆人面鳥身で耳には蛇を掛けており、脚には蛇を踏んでいます。これは句芒達の四神が分かれて作られた神々であるとも考えられます。
四方の風神は東風の神が折、南風の神が因、西風の神が石夷、北風の神が鵷です。これらの四柱の風神は東西南北でそれぞれ春夏秋冬の風の出入りを司っています。また、これら風神の名前は商代の甲骨文字中に見られています。
出典:baidu
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