山海経 (せんがいきょう shan1hai3jing1 シェンハイジン)とは?
山海経はさんかいきょうと読みそうですが、せんがいきょうと読み中国の大昔に書かれた誌怪古籍です。書中には多くの奇怪な動植物や妖怪達が書かれており、漫画やアニメ、小説などのネタ元とされてきた書物でもあります。
山海経を全訳してみましたので、翻訳文は以下のページをご覧ください!
成立期は今から2000年以上前の中国の戦国時代中後期から漢代の初中期にかけて、楚の国もしくは蜀の人により書かれたと言われていますが、具体的に誰がどこで書いたなどという情報は不明です。文中には趙国の周辺地域が詳細に記述されているため、趙国の人々も編纂に関わっていたと考えられています。山海経自体には禹の家臣の伯益が書いたとありますが、禹が生きた時代は4000年くらい前の神話時代ですので現実的ではありませんし、加えて禹自体が実在を危ぶまれている存在でもありますので信憑性は乏しいです。
禹に関しては以下をご覧ください!
内容は中国各地の鉱物や植物、動物、宗教などを書いていることから世界最古の地理書とも言われますが、一部では妖怪などの話や神話などが織り込まれており、奇書とも呼ばれています。しかし、妖怪や神話などの情報が豊富に含まれていることから、古代中国の状況を推測する足掛かりとされてることも多く、学術的な価値も非常に高い書です。
山海経の地理の中心地は洛陽で、中原一帯は九州と呼ばれていました。この九州の外側をぐるりと四海が取り囲み、さらに四海の外側の果てにある場所が大荒とされています。四海と言っても実際の海ではなく異民族たちの住む場所を指しています。
山海経は18篇が現存しており、他の篇は時代と共に失われました。一般には原作は22編、約32,650字であるとされています。現存する山海経は山経と海経に分かれており、山経は五蔵山経5編で海経は海外経4編、海内経5編、大荒経4編の合計13篇からなります。
山海経の構成
山海経 | ||||||
山経 | 01南山経 | 02西山経 | 03北山経 | 04東山経 | 05中山経 | 五蔵山経 |
海経
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06海外南経 | 07海外西経 | 08海外北経 | 09海外東経 | 海外経 | |
10海内南経 | 11海内西経 | 12海内北経 | 13海内東経 | 海内経 | ||
14大荒東経 | 15大荒南経 | 16大荒西経 | 17大荒北経 | 18海内経 | 大荒経 |
《漢書・芸文志》作は13編からなりますが、《芸文志》は14~18番の大荒経と海内経を数えていない編数です。山海経の内容は、中国各地に伝わる民間の伝説から地理、山や川、道、民族、物産、薬物、祭祀、巫術、医術などの事柄が書かれています。
伝説には、巨人夸父(こほ)が太陽を追いかけた話である夸父逐日や、共工(きょうこう)が頭突きで天柱を折り滅茶苦茶になった世界を女娲(じょか)が修復する女娲補天、炎帝神農氏(えんていしんのうし)の娘、女娃(じょあい)が東海を埋めたてようとした精衛填海の話や応龍(おうりゅう)の活躍により治水に成功した大禹(だいう)治水の伝説など人々に好まれる寓話故事が載っています。
夸父逐日の図
夸父に関しては以下をご覧ください!
共工と女娲補天に関しては以下をご覧ください!
水神共工:治水で民に尽くしそして山をも真っ二つに割ってしまう狂戦士
炎帝神農氏に関しては以下をご覧ください!
炎帝神農氏:フーテンの寅さんと中国の妖怪退治で有名な茅山道士には意外な接点があったことが判明
応龍と治水工事に関しては以下をご覧ください!
応龍(應龍):不死身の帝王である兵神蚩尤を討ち取った中国最強の龍
《山海経》は中国の歴史書である史記を記した司馬遷などからは荒唐無稽と一蹴されていますが、司馬遷の時代と異なり現代には当時の文献がほとんど残っていません。このため、山海経にはすでに失われてしまった様々な情報が記載されており、文献としての価値は非常に高いです。黄帝の生きた時代は新石器時代とされており、この時代の状況を山海経の神話の中から推測できる場合があります。
山海経は様々な非現実的な事柄が書かれている一方で、古代の歴史や地理、文化、交通、民族、神話などの古代の研究になくてはならない文献となっています。さらに、鉱物などの情報を含んでいることから新石器時代の終焉から青銅器や鉄器を使用しだした文明の発祥に関しても知ることができるため、世界最古の地理的な文献としても有名です。
残念なことに山海経は原本は残っておらず、残っているのは様々な人々の手による複製や注釈などです。最も古い山海経に関する本は晋の郭璞の《山海経伝》ですので、山海経の内容にはよく郭璞の注釈が添えられています。ただし、山海経の書名自体は司馬遷の《史記》など、漢代の書物中にも見られます。
最も古い名前の記載は、《漢書・藝文志》中に見られます。書物の作者は以前は禹、伯益、夷堅、西漢の劉向を経て劉歆により改訂されて、伝承話などを含んだ書籍となったと考えられていました。しかし、研究が進むにつれて年代や作者などがはっきりしなくなり、作者は今なお不明なままです。
山海経の内容
- 山海経の概要
山海経は中国の神話が一部記載されており、その他にも地理、植物、動物、鉱物、物産、巫術、宗教、医薬、民族など多岐に渡った内容が網羅されています。神話を除いて考えると、2000年以上前の中国を哲学、美学、宗教、歴史、地理、天文、気象、医薬、動物、植物、鉱物、民俗学、民族学、地質学、海洋学、人類学など様々な学問の分野により考察することができます。
科学や交通の発達していない大昔にとっては、山海経は奇書というよりも自分たちの生活圏の外を知るための百科事典としての意味合いが強かったことでしょう。最初に山海経を整理したのは西漢の劉歆で、その《上山海経表》の中で、この書は三代にわたって書かれたと書いています。劉歆は、”この書は、堯舜禹の時代に書かれ、禹が天下を九州に分け、伯益などが万物の本質を区分する目的でこの山海経を書いた。”と述べています。
劉歆のこの話は《列子》の影響を受けていたと考えられています。なぜなら、《列子・湯問第五》で、夏革が湯の疑問に対してこのように回答していたからです。”五つの大きな山の特産と住んでいる怪異の物が、山海経に記載されている山々と地理、特産と怪物の描写が似ている。”と。 同時に、《列子》には、”これらの怪物は大禹の治水の時に見られており禹の臣下である伯益はこのことを理解し、山海経の内容に反映させた。”と書いています。これらの理由により、劉歆には列子の影響が見て取れます。その後、王充の《論衝・別通篇》、趙嘩の《呉越春秋》などもこの観点を共有しています。
龍面人身の絵
戦国時代中後期から漢代初中期にかけて楚国や巴蜀地方の人々の作であり、一部は神話時代の記述もあるという想像を超える奇書であり、古代の山水物誌もあります。長い間西漢の劉向を経て劉歆父子が編集したとされていました。
《山経》は《五蔵山経》五篇で一組となし、各地の山の方角や距離から水の流れ、産出する鉱物、住んでいる動植物を記述しています。
山海経の地理図
《海経》中の《海外経》四篇は一組を成し、外国各国の奇異風貌が記載されています。《海内経》四編篇も一組で、海内の神奇の事柄が記載されています。《大荒経》は五篇で一組で、黄帝や女娲、大禹に関する神話がふんだんに記載されています。第18篇の《海内経》には山海経の地理状況の総括が書かれています。中国境内の地理地形や山系、水系、開拓区域分布、農作物生産、井戸の発明、楽器制作、民族移動、河川の開発及び中国国土の発展の基本的な枠組みについて書かれています。
また、山海経の中には40の国、550の山、300の水道、100以上の歴史的な人物、400以上の神怪畏獣が記載されており、どこであるかという地域については記載がありますが、時間に関しては記載がありません。記載されている事柄の大部分は南から始まります。その後は西に向かい、今度は北、最後は大陸の九州中部に到達します。九州は四方を東海、西海、南海、北海に囲まれているとしています。
山海経に記載されている内容は虚実入りまじっているので気を付けて読む必要があります。山海経の詳細な研究が行われて、黄河や渭水、華山などは現在と大体一致していることが判りました。五蔵山経には記載されている山々と実在する山々には不整合な点が見られます。司馬遷の史記の時代には、禹本紀と山海経の内容は荒唐無稽であるという認識で、これらの書物は参考にされませんでした。
デスピサロ、ではなくて刑天ですね(;´∀`)
《大宛列伝》には山海経と当時実在していた地理が不整合である点が指摘されています。しかし、五蔵山経に記載されている河川の内、全てが存在しないと言う訳ではありません。特に中山経に記載されている話は五蔵山経の話に比べると実在の河川に基づいて書かれた出来事であるとみなすことができますが、その他の内容は空想の世界の話です。つまり、実在の地理に基づいて空想や伝承、伝説などの話を盛り込んだと思われます。
山海経の内容に関しての評価は時代を通して様々です。歴史書である史記を編纂した司馬遷からは内容を荒唐無稽と評されたため、その影響で顧みられることが無くなった時期もあります。もちろん司馬遷が生きていた漢代には四海や大荒とされている地域について様々な情報がすでに得られている時代ですので、当時の司馬遷から見ると眉唾物の内容だったのかもしれません。魯迅などのように巫師や道教の方士の書と評されたこともあります。しかし、現代では失われた情報がふんだんにある山海経には文献的な価値があると多くの学者たちが認識しています。
また、山海経を読んでいると、人がいて杖を持って東を指している、や人が穀物の種をまいている最中など、動作中の描写が見られていることもあり、もともとは絵に描かれている内容を文章にしたのだと言われています。つまり、山海経には文章のみではなく、絵もあったはずであると考えられていますが、今のところ見つかっていません。
- 地理学について
山海経は純粋な地理学の書ではありませんが、もともと地理の情報を第一にしていたため、各方面の様々な地理の特徴が載っています。山海経には沢山の山が記載されています。山の名称はその地形により決められています。また、これらの山は山系の様子も表しており、例えば水が豊富であるという記載があれば、その水源と流れ出る河川が記載されています。
水源はとある山麓である場合や、流れ出る場所は山から遠かったりしており、著者は水に関する記載をするときは川の流れや支流と本流に注意していますが、水の経路に関しての記載は見られません。しかし、黄河や渭水は支流が沢山ありますので本流の位置が分かれば大体どの位置に流れ込んでいるか見当がつきます。山海経には伏流河と季節河が記載されており、これは地面の下を流れている河を意味しています。
《海経》には当時の社会人文風俗、経済発展、科学技術などの記載が大量にあります。また、中原の周辺地域の開発などについても書かれています。
- 神話学について
山海経に記載されている内容で、多くの方々が興味を持たれている内容は神話でしょう。例えば、海外北経には禹が共工の家臣である相柳を殺した話が記載されています。しかし、この話に出てくる相柳は九首人面で蛇の胴体で青色という人間離れした形状をしています。この内容を神話という観点から分析すると、共工と相柳、禹の三人の人間関係が見えてきます。さらに、禹は帝であったので、禹が殺したということは個人的な出来事ではなく、部落同士の戦争が起こったともとらえることができるのです。
このように記載内容をその他に伝承などと照らし合わせることで、ある程度神話が作られた背景を推測することができるようになります。これは、中国の新石器時代から華夏王朝にかけて、5000年もの昔の状況を知る上で貴重な情報源となっています。
- 宗教学について
山海経の中には大量の神話や伝説があります。これらは今日の原始宗教研究にとって得難い研究材料です。例えば海外西経には、”巫咸国は女丑の北にあり、右手では青蛇を操り、左手では赤蛇を操る。登葆山には多くの巫師たちが上から下にいた。”とあります。また、大荒西経には、”霊山には巫咸、巫即、巫盼、巫彭、巫姑、巫真、巫礼、巫抵、巫謝、巫羅の十巫が有り、ここより天に昇降し、百薬ここにあり。”とあります。
山海経の神話中には、巫師の活動だけではなく、古代の民族の信仰や崇拝をも見ることができます。また、山海経中には大量の神奇動物の記載を見ることができますが、主要な動物は鳥、獣、龍、蛇などで彼らは往々にして神秘的な能力を持っています。これらの動物は古代の人々のトーテム崇拝、すなわち図柄を象徴的に信仰する対象であったことが伺えます。
上で引用した巫咸国の青蛇や赤蛇の記述は、実は巫咸国のトーテムであったことを表している可能性が考えられます。要するに、巫咸国の象徴が青蛇と赤蛇であったということです。
このように、山海経の記述には、大昔の出来事や風習などを考察するヒントを与えてくれる内容が多くあります。
- 歴史学について
山海経は新石器時代から青銅器時代の穴埋めをする資料としての価値も持っています。中国では、この新石器時代の終わりに黄帝が中国の基礎を築き上げたとしてことさら大切な時代です。もちろん、この時代の話は伝説であり、様々な脚色が多分に盛り込まれています。
現実主義者の司馬遷は黄帝の存在は信じていませんでしたが、黄帝伝説が残っている地域には共通の風習などを見て取り、黄帝のモデルとなった部落集団などがあったのではないかと考えて《史記・五帝本紀》を書いています。つまり、司馬遷も五帝時代、すなわち黄帝時代から中国が始まったとみなしています。
大荒北経には、黄帝が最大のライバルである蚩尤と戦った涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の記載があります。中原の覇権をかけて黄帝と蚩尤が戦います。この戦いは龍や神様などを巻き込んだ戦いですので、神話の意味合いが強いですが大きな部落同士が覇権をかけて大規模な戦争を行った話が下敷きになったとも考えられます。
大荒西経、海内経には黄帝の系譜が記載されています。すなわち、”黄帝の妻である嫘祖が昌意を生んだ。昌意は若水に降り韓流を生んだ。韓流は首が長く、小耳で人面、豚の口、麟の体で淖子阿女と言い、帝顓頊(せんぎょく)を生んだ。”とあります。これは黄帝からその子孫である顓頊までの系譜を記載しています。
その他にも系譜に関する記述は見られているので、当時の血縁関係を示す貴重な資料となっています。この系譜は大載礼記・帝系篇や史記・五帝本紀、皇甫謐の帝王世紀などの記載と同様です。
- 科学について
山海経は古代の科学史ともとらえることができます。それは、様々な発明を通して技術力を向上させたことが山海経に反映されているからです。例えば、農業に関しては大荒海内経には、”后稷(こうしょく)が百穀を撒き始めた。”や、”叔均(しゅくきん)が牛耕を始めた。”などと言った記述があります。大荒北経には、”叔均を田祖となす。”という記載があります。これは、農業技術を発展させた人物が後に神様として祀られた結果を反映しています。また、新石器時代から先秦時代までの数千年に渡る農業技術の発展も見て取れます。
山海経中には自然現象に関する記載も多くみられます。同時代の書物を見てみても自然現象に関する記載は有りません。しかも、雨が降ったなどという自然に起こる現象のみではなく、中には超常的な現象も多く含まれていることが特筆されます。
例えば、海外北経には、”鐘山の神、名を燭陰と言う。目を開けると昼に、閉じると夜になる。吹くと冬に、吸うと夏になる。飲まず食べず、休まず、息は風となった。身長は千里あり、無の東にいた。人面で蛇の体、赤色で鐘山の下にいた。”と書いてあります。つまり、昼や夜、夏や冬はこの燭陰によって作り出されていると書かれています。
燭陰に関しては以下をご覧ください!
さらに、農業のみではなく。治水や造車船、耕牛などの技術的な記述から楽舞と言った音楽や娯楽までもが記載されています。
出典:baidu
今回は様々な小説や漫画などのネタ帳とも言うべき山海経の内容を書きました。一見すると真面目に書いている中に様々な遊び心が加わったような書物です。作者たちが見聞きした事柄を取りあえず書きこんだ感じですが、いたるところにちりばめられた神話や妖怪の話がいい味を出していますね( ´∀`)
当時は妖怪などがいるとまことしやかに考えられていた時代ですので、妖怪が出たという話も本当の話であったと信じられていたのではないかと思います。後世には白澤図という妖怪辞典も出回っていました。それほど遠くない昔(と言っても数十年前くらい前)まで中国では妖怪などの存在は実際に強く信じられる傾向にありましたし、麒麟や鳳凰など中国の民衆の間に深く根差していました。これは麒麟送子や龍鳳呈祥などからも伺い知ることができます。
しかし、人間を通して現実に即した歴史を中立な立場で記述したかった現実主義者の司馬遷からは山海経の内容を一蹴されて顧みられませんでしたが、当時の資料がほとんど残っていない現在では山海経は大昔の中国の状況が推測できる計り知れない価値のある書物です。先秦時代には神話のみでなく妖怪や神獣などが沢山生み出されては歴史の闇の中に消えて行ったのだろうと推測します。なんか残念ですね(´;ω;`)
山海経の翻訳に関しましては以下をご覧ください!
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