祝融:中国神話中の赤帝で火を司り時代を超えて現れる火神

祝融(しゅくゆう zhu4rong2 ジュロン)

祝融には様々な意味合いがあり、様々な人物や神、官職を指しています。三皇五帝の時代には夏官火正は官名で大司馬と同義の高い地位でした。官職としての祝融の由来は、この火正に祝融氏が就任したことに由来している可能性が考えられています。

一方で、祝融は共工と争った火神でもあったり、舜の臣下で四罪である鯀を処刑したりと、中国古代伝説上で時間を越えてよく見かける名前となっています。文献によっては祝融は三皇に数えられることもあり中国神話中で重要な地位を占めています。




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  • 山海経に書かれている祝融の系譜

《山海経・海内経》には、祝融の出生に関して、”炎帝の妻、赤水の子聞沃、炎居を生み、炎居は節並を生み、節並は戦器を生み、戦器は祝融を生んだ。”とあります。祝融は炎帝の第五代の孫です。《海内経》によると、黄帝は昌意を生み、昌意は韓流を生み、韓流は顓頊を生んだ、とあります。この系譜は《山海経・大荒西経》へと引き継がれ、”顓頊は老童を生み、老童は祝融を生んだ。”とあります。山海経では祝融は黄帝の子孫として書かれています。

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  • 官職名に由来する祝融

祝融は炎帝後代の官職です。この官職の名前が氏族名になり顓頊の後も祝融氏は存在して後世に炎帝族の祝融氏と顓頊族の祝融氏に分かれたと考えると、祝融が神話上にたびたび登場することとつじつまが合います。

時系列的には炎帝の次に黄帝、黄帝の孫が顓頊で顓頊の甥で後継者が嚳です。初代炎帝である神農氏から嚳まで五百年くらいの開きがありますので祝融氏は長期間存在し続けた部族であったとも考えられます。

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祝融の由来についてまとめると、祝融は神話時代、即ち新石器時代末期の最も著名な氏族の首領であり、名を重黎といい、黄帝後裔の高陽氏の玄孫です。帝嚳(ていこく)高辛氏の時、火正の官職に任ぜられ、有熊氏(黄帝の氏族)の͡故墟(今の河南新鄭一代)に封じられ、今の衝陽市南岳区にある祝融峰に葬られました。祝融は火を以って教えを施し、民のために福を造ったと言います。帝嚳は、”祝融、後世を尊び火神と成す。”と言ったと伝えられています。もちろんこの他の説もありますので、現在でもどの説が正しいのか議論が尽きていません。




一方で、《山海経・海外南経》には、”南方祝融、獣身人面、二条の龍に乗る。”とあり、完全な人ではありません。この一文に対して郭璞は”火神也”と注釈しています。つまり、祝融には官職とともに火神の側面があることになります。

  • 火神としての祝融

《左伝・昭公二十九年》には、”火正は祝融と言う。”とあります。火正は火を司る官員で神話中の火神祝融を指しており、火神であった祝融が春秋戦国時代には火を司る官職名に変わっています。また、四罪の一柱である共工との戦いでは、祝融は火神として描かれており、火を使って共工軍を攻撃し、共工を追い詰めました。神話伝説中では祝融はよく火神として描かれています。

一説によると、祝融は帝嚳の時の火官で、その業績を称えて火神と成し、祝融と命名されたというものです。《国語・鄭語》には、”夫黎は高辛氏の火正と成し、公正であり誠実で、天明地徳、光照四海、故に祝融と言う。その功大である。”とあります。《呂氏春秋・孟夏》には、”その神祝融。”とあり、高誘は、”祝融、顓頊氏の後裔で老童の子、呉回也。高辛氏を火正と成し、死を火官の神と成す。”とあります。また、祝融は火神として火を司ることから火或いは火災の代称とされます。




漢の王符は《潜夫論・五徳志》で、”世には三皇五帝が伝わっているが、多くは伏羲、神農を二皇に、残り一皇を燧人或いは祝融、或いは女媧として未だ知るべからざるなり。”とあります。ここから、祝融は伏羲や神農氏と並ぶ古代の帝であった可能性も考えられます。三皇は一般的には伏羲、女媧、神農ですが、書物によっては女媧の代りに祝融や黄帝が数えられる場合がありはっきりしません。

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三皇五帝の内の三皇は五帝よりも数百年前に生きたとされている帝たちで、神としての意味合いが強いです。天地は女娲により作られ人間や動物などは女媧により創造されました。このことから女娲は創造神とされています。女娲は兄である伏羲と結婚し、神話時代を形作ります。そして神農氏が農業を興し、その農業基盤を黄帝が受け継ぎ発展させます。黄帝以降は顓頊、高辛、堯、舜、禹など黄帝系譜の帝達が中原を支配します。特に禹は中国初の王朝とも言われている夏王朝を建国したと言われています。夏の次が殷即ち商王朝です。

黄帝は黄河中流域の中原に点在する部落を統一したと言われており、その後の中国発展の礎を築いたとされています。黄帝が生きた時代は今から4500年くらい前と言われ、黄帝の時代は新石器時代の終焉を浮き彫りにします。黄帝やその家臣たちの発明は文字や音楽、車や陣形、絹など多岐に渡り、中国の人文の祖とも言われています。この黄帝前後で中国は原始的な社会から文明的な社会へと変わっていきます。

  • 火打石から火を熾す方法の発明

火神祝融の伝説は多分に神話の色彩を帯びていますが、これは人類と火の使用や火災との戦いなど人生活が結びついたこともあり、火神に幸福をもたらし、悪を退け、災いを消しさることを望むようになったことも一因として考えられます。

伝説によると、燧人(すいじん)氏が穴を開けた木を使って火を起こす方法を発明してから黄帝時代になると人類は火を使って食物を料理することを始めました。また、火を暖を取ることや、害虫駆除、戦争など様々な用途に利用するようになり、人々の暮らしに欠かせないものになりました。

しかし、人々は火の利用方法を知りましたが、火の保存はできず、遊牧民などにとっては不便でした。彼らは毎回火種を持ち歩かなくてはならず、移動ごとに火種から火を起こしご飯を作るという重労働を行い、再び火種を取り出して保存しました。

ある年、黄帝は夏部落の住民たちを引き連れて南から北に向かって移動しました。その途中に忽然と暴雨が降り、山から水があふれて辺りは水浸しになり、大人から子供まで水を被ってしまいました。祝融は火種の管理を行っていましたが、運んでいた火種も暴雨により水を被り消えてしまいました。

人々は飢えと寒さで子供は泣きましたが、移動は止まりませんでした。黄帝は皆に大きな石の洞窟で一休みするように命じ、晴れるのを待って出発しようとしました。しかし、人々の意を介さないように大雨は止むことなく数日間降り続きました。

この暴雨で火種が消えてしまったため、人々は洞窟の中で飢えと寒さに耐えなければなりませんでした。しかし、飢えは耐え難く、大人は生肉を食べ始め、老人と子供は冷水でキノコをひたして食べました。

この状況に祝融は新たに火を熾そうとしましたが、持っていた木は全て湿っていたため、必死に火を熾していましたが未だに火は熾りませんでした。夜になり、祝融は疲れで額に大汗をかいていましたが火が付く気配は一向になく、とうとう鉆を持っていなくなってしまいました。

祝融は怒って鉆を石にたたきつけました。すると、鉆は激しく当たった石から火花が飛び散るのを見ました。これを見て祝融は不安は喜びに変わり、疲労を忘れてよい岩を探し、お互いをたたきつけて火花を出しました。しかし、難題が一つあり、果たしてこの火花からどのようにして火を熾せばいいかがわかりませんでした。

黄帝は祝融の所へ来て、”急ぐことはない。石から火花を出せたのできっと大成功する。少し休んで多くの人と相談してはどうだ。”という黄帝の心遣いに祝融は元気づけられました。祝融は常先、大鴻、力牧、嫘祖達と共に考えました。みな口々に方法について述べ、議論は止まりませんでした。すると、常先は声を低くして、”いい方法がある。”と言い、自分の腰に巻いていた腰巻を解き破って、容器から綿を取り出して祝融こう言いました。”この綿を石の下において火をとしだしましょう。”

祝融は常先のこの考えに従い、綿の上で石をたたくと火花の位置る量は次第に大きくなり、綿から音と煙が出るようになりました。そこで祝融は綿を手に持ち吹くことで火をつけることに成功しました。火がついたことで洞窟内は一気に活気づきました。黄帝は祝融のために慶功会を行い、その大功により”火正”という官職に任命しました。

祝融が発明した”撃石取火”により、人々は火種を保存する必要がなくなりました。これにより人々の生活は大変便利になりました。火又はその紅色に因んで後世の人は祝融を”赤帝”と称しました。

  • 祝融と共工との戦いについて

祝融は共工と戦いを起こしており、中国神話中で非常に有名な戦いとして語られています。共工と戦った相手は諸説あり、祝融や顓頊、高辛などの名前が見られます。今回は祝融との戦いについて書きます。

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火神である祝融が人類に火の使用方法を教えたため、人々は祝融を非常に崇拝しました。しかし、それに異を唱える神がいました。それが水神である共工でした。共工は水は万物から切り離すことが出来ず最も大切であるにも拘わらず、人々が祝融のみを崇拝し自分を崇拝しないことに納得がいかず、怒りは時と共に増していきました。

怒りが頂点に達すると、共工は四湖五海の水を崑崙山に向かって一気に流し、崑崙山の上の聖火を消してしまいました。聖火が消えるや否や全世界は暗黒に包まれて、これを知った祝融は激怒し火龍に乗り共工と大戦争を起こしました。水は終始高いところから低いところへと流れたため、洪水は崑崙山の下方に落ちていきました。祝融はこの機に乗じて侵攻を開始し、共工の額を焼きました。




祝融の攻勢に共工軍は押されて不周山まで敗退し、敗北による怒りで不周山に頭突きしました。不周山は誰もが知っている天の柱でしたが、あまりの衝撃で天柱が折れてしまいました。すると、天は傾き猛獣が跋扈する恐ろしい世界となってしまいました。中国の有名な神話である、共工怒触不周山です。その後、滅茶苦茶になった世界は女媧により修復されます。

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  • 祝融と燭龍(しょくりゅう)の関係

《山海経・大荒北経》には、”西北海の外、赤水の北に章尾山がある。神がいて人面蛇身で赤く、目は横ではなく縦に垂直に方向に並んでおり、目を瞑ると即ち暗く、眼を開けると即ち明るく、不食不寝不息で風雨は訪れる。これは燭九陰で燭龍という。”と燭龍の記述があります。屈原の《天問》中には、この燭龍が祝融であるとしており、その根拠は祝融氏が家の中で火を使いだし、室内が夜でも明るくなった事を繁栄しているのではないかということです。また、燭と祝の発音は同じで、龍と融の発音も似ていることから燭龍と祝融が混同されてしまった可能性も指摘しています。

即ち、燭龍の形状は真っ暗な夜に輝く室内の明かりの事を表していると考えることができます。古代には人口が少なく人々は分散して住んでいました。夜の帳が下りて真っ暗になった周囲にポツリポツリと点在する明かりに、道行く人々は凝視されているように感じたことでしょう。真っ暗闇を龍の胴体に、室内の明かりを目に見立てて、”目を瞑ると暗く、目を開けると明るい。”という燭龍となった可能性が考えられます。

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出典:baidu

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