顓頊 (せんぎょく 颛顼 zhuan1xu1 ジュエンシュー)
- 顓頊の時代と神話について
中国神話の系譜は女娲や伏羲から始まり炎帝神農氏を経て黄帝軒轅に至ります。軒轅が生きたのは4500年くらい前の大昔です。そして黄帝以降はその孫の顓頊、そして舜や堯と言った伝説的な帝を経て禹による夏王朝の成立に至ります。顓頊は黄帝から禹による夏王朝成立までの間に中原一帯を治めそして大いに発展させた偉大なる帝として語り継がれています。
夏王朝は神話として語り継がれているだけで実在の証拠はまだありません。もちろん、それらしき根拠も発掘されつつありますが夏王朝の存在の確定には至っていません。黄帝時代に文字が発明されたとされていますが、信頼できる発掘結果は華夏を滅ぼして成立した殷王朝の遺跡である殷墟から出土した甲骨文字です。殷の時代は紀元前17世紀ごろから始まったとされています。従って、殷以前の出来事は記録が残っていないので現在では神話で語り継がれている範囲になっています。
漢の時代に史記を編纂した有名な司馬遷がいますが、司馬遷は現実主義者でしたので黄帝など実在したはずがない、と切り捨てました。一方で黄帝ゆかりの地には共通した風習が多くみられたために、黄帝はいなかったにせよ神話の土台となった出来事が実際に起こったのであろうと推測したため、史記・五帝本紀を記しています。
以上より、神話は昔から語り継がれてきた内容であり、内容を検証しようにも文献が十分に残っておらず検証ができないので黄帝や顓頊などがいたかどうか今となっては不明です。しかし、黄帝や顓頊のモデルとなった人物や出来事は起こっており、それが神話として脚色されて語り継がれていると推測されます。
- 顓頊の概要
顓頊は中国古代の部落連盟の首領で、五帝の一柱です。高陽氏と号し、黄帝の孫で、昌意の子でした。顓頊の子窮蝉は虞舜の高祖です。その後の夏王朝では、顓頊の子孫は楚の王族となったと言われています。
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顓頊がこの世を去ると、黄帝の曾孫、玄嚻の孫の高辛(帝嚳)が帝位を継承しました。顓頊は黄帝から帝嚳の系列におり、中国の人文の祖の一柱となっています。神話伝説中では、顓頊は北方を管理する天帝とされました。司馬遷の《史記・五帝本紀》には、顓頊について、”静淵を以て謀有り、疎通して事を知る。”とあります。
- 顓頊の出生
黄帝の長子は昌意と言いましたが、才徳が低く帝位を継承するには力量不足で、後継者には指名されずに若水の諸侯に降格されました。昌意が若水に奉じられた後、地元の蜀山氏の女、昌仆を娶り、若水の野で顓頊が生まれました。
《大戴礼・帝系》と《帝王世紀》には、”昌意の正妃昌仆はまたの名を女枢と言い、ある晩天空に”瑶光星(破軍星とも。北斗七星の第七星)が虹の如く月を貫く現象”を見ました。この時、自分が身ごもっていることを悟り、その後顓頊を生みました。
しかし、《山海経・海内経》には、顓頊の自出に関して別の内容が記されています。それは、顓頊は黄帝の曾孫で、昌意の孫であり、父親は韓流であったというものです。
- 帝位への道のり
顓頊は若水で生まれましたが、生活の大半は窮桑で過ごしました。少昊を補佐した際に功があったため、高陽に封じられました。少昊の死後、共工氏と顓頊は帝位を争い、顓頊が共工を打ち破って少昊の後を継ぎ、高陽氏と称しました。
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共工:治水で民に尽くしそして山をも真っ二つに割ってしまう狂戦士
後世の戦国時代に五徳始終説ができ、いわゆる、”居る所は玄宮は北方の宮を成し、北方黒色、五行で水に属し、これに因み顓頊は水徳を以て帝と成す、または玄帝と称された。”です。陰陽五行学説では、方角ごとに色や季節、そして守護する神獣が決まっています。北方だと黒、冬、水、神獣は玄武です。玄は黒色を指しますので、玄武には黒という意味があります。ちなみに南方は朱雀で、赤、夏、火を表しています。
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玄武:亀甲占いから生まれ玄冥となりさらに発展し真武大帝となった四象
顓頊が天下の共主となった後、窮桑に都を建設し、その後商丘に遷都しました。今の河南商丘です。住居を帝丘、今の河南濮陽にしました。そして、句芒を木正と、祝融を火正、句龍を土正と成しました。即位後は黄帝軒轅の政策を厳格に順守し、社会の安定と太平に努めました。
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- 制暦法
漢初期の暦は秦以来の顓頊暦です。顓頊暦は古い四分暦で、365日と4分の1日を12に分けそれぞれ29日と950分の499日を朔望月の19年7閏月です。顓頊暦は秦献公十九年(紀元前366年)に完成しました。
- 創制九州
《乾隆御批綱鑑》には、中国の九州は顓頊により分けられ旨が書かれています。黄帝時代中原地帯を統一しましたが、蚩尤部族と長期にわたって対立していました。顓頊に至ると、各民族の真正の統一を形成しました。この基礎の上に、中国の中原一帯を兖、冀、青、徐、豫、荊、揚、雍、梁という名称の九つの州に分けました。
《史記》では、顓頊の統べていた領域は、幽陵(河北、遼寧一帯)、南は交趾(広東、広西、ベトナム一帯),西は流沙(甘粛一帯)、東は蹯木(東海)に渡ったと書かれています。極めて広い範囲です。
- 顓頊の作曲
《呂氏春秋・古楽》には、”帝顓頊は若水で生まれ、大半を空桑で過ごし、帝と成す。これ天の合、正風乃ち行き、その音は熙熙凄凄锵锵(音を表現しており、ローマ字で書けばxixiqiqiqiangqiang)のようであった。帝顓頊その音を好み、乃ち飛龍に作らせ、八風の音の効果で、名を承雲と言い、以て上帝を祭る。鱓(うつぼ)に音頭を取らせ、鱓は乃ち横になり、その尾を以て腹を叩き、その音英英(yingying)。
- 逝世
顓頊は在位七十八年で、九十八歳でこの世を去りました。東郡濮陽頓丘の城門の外の広陽に葬られました。
- 共工氏との争位
水神共工は炎帝の後裔で、黄帝軒轅の後裔が帝位を継ぐことを苦々しく思っていました。顓頊が帝位に就くと、共工は顓頊に不満を持つ天神達を集め、反旗を翻しました。反乱軍は共工を盟主として軍隊を組織しました。
顓頊がこれを聞き、七十二の烽火台に点火し、四方の諸侯たちに支援を求めました。集まった諸侯たちの軍を合わせて共工を迎撃しました。戦闘が開始されると熾烈を極め、一進一退で両者譲りませんでしたが、次第に顓頊の軍勢が優勢となりました。人の形で虎の尾を持つ泰逢が万道祥光を引き和山から駆けつけ、竜頭人身の計蒙は疾風驟雨の如く戦い光山から駆けつけ、二つのハチの巣から驕虫が毒蜂毒蠍を率いて平逢山から駆けつけました。
共工の部隊は段々と少なくなり、自軍の将である柜比の首が薄皮一枚残して斬られ、頭髪は乱れ、斬られた腕はどこに行ったか分からないありさまでした。王子夜も両手両足、頭胸腹、歯に至るまで切られており、無残な状態でした。共工は西北の不周山へたどり着いたときには身辺には十三騎しか残っていませんでした。不周山は切り立った岩が天までそびえ立っており、行く手を阻んでいました。この山は天を支える巨大な柱でした。共工は絶望の中で怒りが沸き起こり、不周山へ命を捨ててぶつかりました。すると、あまりの激しさで不周山の巨大な柱は折れてしまいました。
天の柱が折れてしまったことで、宇宙は大変動を起こしました。西北の天穹は支えを失い傾いてしまい、太陽や月や星々はその位置を保てなくなってしまい、今我々が見ている位置に滑って移動してしまいました。
東南の大地は陥没し低くなってしまいました。これが現在西北の標高が高くて東南が低い理由です。このため河も西から東の海へ注いでいます。有名な中国神話の共工怒触不周山です。この神話も何パターンかあり、共工と戦ったのは顓頊ではなく祝融や高辛などであったとも言われています。壊れた天地は女娲により修復されたと言われています。
共工氏は最終的には最終的には人々の尊敬を集めました。共工の死後、人々は水師(水の利を司る神)として奉りました。共工の子供である后土も人々により社神(土地の神)として奉られました。後世では、人々が誓いを立てるとき”蒼天后土が上に居る。”と后土を指して言いました。このことからも人々の信仰が厚かったことが判ります。
- 顓頊の晩年
伝説では軒轅黄帝の晩年には、九黎は巫術を信奉し、鬼神を尊び世間のことは放棄し、一切を占いにより決定しました。百姓たちは皆、巫史の占いを信じ、天を敬わなくなり、農業生産の事も心配しなくなりました。顓頊はこの問題を解決するために、宗教改革を行いました。心を改め天地祖宗を敬い祭り、人々の手本となるように振舞いました。また、南正重を任命して祭天を負うことで以て神霊と和合し、北正黎を任命して民政を負うことで以て万民を慰め、百姓たちが仕事をしやすい環境を作り農業生産性を上げると共に人々を励まして田畑の開墾を行いました。また、人々が卜占を以て神と通じる活動を禁止して社会の秩序回復に努めました。
顓頊の子は窮蝉と言い、舜の高祖です。顓頊の在位は78年で98歳で逝去したと言います。死後は濮陽に葬られ、春秋戦国時代の楚王はその後裔を自称し、屈原は《離騒》の中で自分は顓頊の子孫であり、それは自分と楚王が同族であることを根拠にしています。
顓頊は聡明で智謀があり民衆の支持は非常に高かったと思われます。それは顓頊が統治したと言われる領土が北は黒竜江、南は岭南、東は東海一帯と広範囲に渡っていたと伝わっていることから推測されます。古代の書物に残されている描写中では、顓頊が視察に訪れた場所ではどこでも民衆から熱烈な歓迎を受けています。
- 神人としての顓頊
顓頊は超人的な能力を持っているとされており、その権力はこの上ないものでした。伝説中によると、内黄西南一帯に黄水怪がおりました。常に口から黄水を吐き田畑を水浸しにし、家屋を破壊したと言います。これを顓頊が聞くとすぐにこの妖怪を鎮圧しようと決意しました。黄水怪の神通力は強大で、二人の激闘は何日も続きました。力が拮抗していたため勝敗はつかず、顓頊は天に行き女娲に助力を求めました。この顓頊の頼みに女娲は天王宝剣を借りてきて顓頊に渡し使い方を教えました。顓頊はこの天王宝剣を使って黄水怪を倒しました。
人々に幸福をもたらすために顓頊はこの天王剣を使って大沙崗を山に変えて禺山と名付け、さらに天王剣で山の傍らに河を作り、硝河と名付けました。この水の豊富な山には林が生い茂り食料も豊富にあったため大いに人々の役に立ちました。
顓頊は当時民から慕われており、”高王爷”と称され称えられていました。伝説では顓頊は生前には黄水怪を懲らしめ、死後には水を退かせて民を救ったと言います。ある日高王爷が長い白髪を湛えた老人になり、高王廟の台の上に座り目を閉じていました。その時大雨が降り注いでいました。そして洪水が起こり田畑は水没してしまいました。洪水は白髪の老人の面前まで来ましたが、手前で止まってしまいました。すると水中から二匹の人でも獣でのない怪獣が現れました。老人が手を振ると怪物は水中にもぐり去っていきました。その後、洪水は次第に引いていき、高王廟の一帯は水害から守られました。
- 顓頊の地位
顓頊は古代の三皇五帝中の第二位と第三位の帝王とされています。顓頊の前には炎帝と黄帝がいます。その後には啓堯舜がいます。華夏繁栄の基礎を作ったで華夏民族の人文の始祖とされています。
顓頊には子供が二十四人おり、決してできた子供ばかりではありませんでした。子供の中には恐ろしい四凶の一柱となる梼杌(とうこつ)などがいます。
四凶に関しては以下をご覧ください!
四凶(饕餮、窮奇、梼杌、混沌):中国神話中で暴虐の限りを尽くした凶悪な四凶神
出典:baidu
今回は黄帝の孫である顓頊をご紹介しました。顓頊は古代中国の王の中でも功績が大きく、三皇五帝の常連であり、黄帝同様神格化されています。
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