第一巻:捜神記を翻訳してみた

捜神記は四世紀ごろの中国晋時代の干宝によって書かれた怪奇小説です。様々な伝承を集めた話でもあります。第一巻は三国志時代の話が多いですが、晋は三国時代のすぐ後の時代ですのでこの頃の話が多く残っていたためであると思われます。この干宝の捜神記を翻訳してみました。いきなり書かれても分からないかもしれないので、出来るだけ注釈を入れています。

  • 神農鞭百草

神農は赤色の鞭を使って各種の草木を刈り、全ての種の無毒、有毒、寒熱、温涼の性質を知り、酸、塩辛さ、甘、苦、辛の五味が効果をもたらす疾病を理解し、その経験に基づき各種の穀物の種を撒き、これにより天下の百姓は神農と呼んだ。

神農氏は農業の神様です。古い偉大な帝や神様を集めたいわゆる三皇五帝の内、三皇に数えられることが多いです。農業の神以外にも初めて市を開いたことから商売の神や薬を作り医療に貢献したことから中医学の神としても祀られています。




神農氏に関しては以下をご覧ください!

炎帝神農氏:フーテンの寅さんと中国の妖怪退治で有名な茅山道士には意外な接点があったことが判明

  • 雨師赤松子

赤松子は神農氏の時代の雨を司る神であった。赤松子は氷玉散(不老長寿の薬)を服用し、神農氏にも服用を教えた。赤松子は火の中に飛び込んでも焼死しなかった。常に崑崙山の西王母の石室中に住み、風雨を上に下に吹かせることが出来た。炎帝の娘もこれに習い神仙となり共に昇天した。高辛氏の時代に赤松子は再び雨師を担当し、人の間を漫遊した。赤松子は現在の雨師たちの祖師である。

雨師は雨を司る神様です。神話上では涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)に蚩尤側として参戦し、風伯と共にその強大な術で黄帝を苦しめたとも言われています。

雨師に関しては以下をご覧ください!

黄帝を苦しめた中国最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師

  • 赤将子輿

赤将子輿は黄帝の時代の人であった。五穀を食べず、様々な草木の花を食べていた。唐堯の時代になると、彼は木工を始めた。風雨でも行き来した。彼は常に人々が集まる市の門で繳(矢を結ぶ糸)を売っていた。このため人々は彼を繳父と呼んでいた。

黄帝は中国神話でも偉大な帝としてその名が残されています。司馬遷の史記、五帝本紀の最初の記載はこの黄帝です。司馬遷的には中国の歴史はこの黄帝から始まったとしています。もちろん実在は怪しいのですが、その後に夏王朝を建国した禹はもしかしたら実在した可能性もあり得ます。夏王朝の次は商王朝(殷)です。殷は実在していたことが分かっています。堯は黄帝の子孫で帝として即位しました。黄帝から500年後位後ですが、徳が高く儒教では帝舜と共にお手本となる人物とされています。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

堯に関しては以下をご覧ください!

堯:お酒や囲碁を発明したという聖人で五帝の一

  • 偓佺が薬草を採集する

偓佺は槐山上で薬草を採っている老父であった。松の種子を食べることを好んだ。彼の身体には長い毛があり、長さは七寸ほどあった。両眼は常に別々の方向を見続けていた。天上に居り飛ぶことが出来、空を駆けている馬を追いかけることが出来た。彼は松の種を唐堯へと贈り、唐堯は食べる時間がなかった。その松の木は簡松であり、当時は人が食べると三百歳まで生きることが出来たという。

唐堯は帝堯の事です。

  • 彭祖七百歳

彭祖は殷の時代の医者であり、姓を籛、名を鏗と言った。帝顓頊の孫と言われており、陸終氏の次男であった。彼は夏王朝を経て商王朝の末期まで生きており、七百歳生きていると言われていた。彼は常に桂花と霊芝草を食べていた。安徽歴陽山には彭祖の仙室があった。前代の人は皆、「あの仙室中で風雨を祈願し、すぐに降らないことはなかった。その祠堂の傍には更に常に二頭の虎がいた。今日ではすでにその祠堂はないが、しかし地上にはまだ虎の足跡が残っている。」と言った。

帝顓頊(せんぎょく)は黄帝の孫です。

顓頊に関しては以下をご覧ください!

顓頊:黄帝の孫で中国古代の国家である華夏王朝の始祖。

  • 師門が火を使う

師門は嘯父の弟子であった。彼らは柴を積み上げた火で自らを焚き仙となった。桃の花を食べた。夏帝孔甲の御龍師を担当した。孔甲は師門が自分の心意に従うことのできないために彼を殺し荒郊の野外に埋めた。ある日、風雨が迎えに来て彼を天に連れて行った。山上の草木は皆盛んに燃えだした。孔甲は師門のために神祠を建立し祷告したが、宮殿に戻る前に死んでしまった。

夏王朝時代の話です。

  • 葛由木羊に乗る

周の時代、葛由は当時の蜀国の羌族であった。周成王の時、彼は木材を彫刻し羊を作って売りさばくことを好んだ。ある日、葛由は木羊に乗って蜀国の中へ入っていくと蜀国内の王侯貴族は皆葛由を追い、共に綏山へ登った。綏山の上には桃木が多くあり、峨眉山の西南に位置しており、果てしない高さであった。葛由について行った人たちは二度と戻ってこなかったが、皆仙道を得ていた。このため、郷の間のことわざでは、「綏山上の蟠桃を一つ得ても仙には成れず、また足を使うと豪傑になれる。」とあり、山下の数十の地方は皆葛由のために祠廟を建てた。

蟠桃は食べると寿命が延びると言われている桃です。崑崙山にもなっており西王母が好んで食べたと言います。西王母は数千年に一度、蟠桃が実る頃に蟠桃会(ばんとうえ)を開催したと言います。西遊記で孫悟空達が悪さをして罰を受けたのがこの蟠桃会でした。

  • 崔文子が仙を学ぶ

崔文子は泰山の人であった。彼は王子喬について仙道を学んだ。王子喬は白霓(虹の外環)に変化し、崔文子に渡そうと仙薬を持って来たが、崔文子は奇怪に感じたので白霓に向かって矛を投げつけると、それに命中し持っていた薬は下に落ちた。崔文子は身を起こして行って見るとそれは王子喬の草鞋であった。崔文子は草鞋を部屋の中に置き、破れた箱で蓋をした。暫くすると、草鞋は大鳥に変化した。崔文子は箱を開けてみると、大鳥は飛び去った。

  • 琴高龍子を取る

琴高は戦国時代の趙国人であった。よく琴を弾いた。かつて宋康王の舎人を担当した。彼は涓子、彭祖の仙術を修練して、冀州涿郡一帯を二百年以上漫遊した。その後、世を避け水に潜り、龍子を取った。彼とその弟子達は、「明日あなたたちは皆身を清め、粗食をし水辺で待ち、神祠を設置しよう。」と約束した。次の日、琴高は果たして紅鯉に乗って水の上に出てきて神祠の中に座った。そして、一万人以上が訪れ琴高を拝んだという。琴高が座ってから一か月後に再び水に潜って行ってしまった。

  • 陶安公赤龍に乗る

陶安公は六安県の金属冶金師であった。常に火を用いており、ある日火焔が突然天へと発散していった。紫色の火光は天空へと放射した。陶安公はこれに恐れをなし炉の下に跪き天に向かって赦しを乞った。しばらくすると一羽の朱雀が冶金炉の上にとまり、陶安公に向かって言った。「安公、安公、あなたの冶金炉と天が通じてしまいました。七月七日に赤龍があなたを迎えに来ます。」その日が来ると、安公は紅色の龍に乗り、東南方から離れて去った。城内の数万人の人は安公を路神として祭祀し送り安公と別れた。

  • 淮南八公歌

淮南王劉安は道術を好んだ。料理を作り宴会を開き客をもてなした。正月上辛のある日、八人の老公が門に現れ謁見を求めた。門吏は淮南王に知らせ、淮南王は門吏に彼らを思うままに困らせるように言った。門吏は、「私達の大王は長生不老を好む。あなた方には見たところ老いを止める法術はないようだ。なので大王に取り次ぐことはしない。」八人の老公は淮南王が自分たちに会いたくないと言うことを理解し、身体を揺すり八人の童子に変化した。顔の色は桃の花のようであった。すると淮南王は彼らに面会し、礼節と歌舞を以て八公を重々しく歓待した。淮南王は琴を弾き、曲を奏で、「上天には無限の光明があり、陽光は大地を照らした。私は道術を好み、八公は天から降臨した。八公は私に福寿を賜り、翅が生えて仙人となった。雲を突き抜けて青天へと昇り、梁夫山林を漫遊し、日月星光を見る。空には偶然にも北斗七星を見た。清風彩雲に乗り、玉女が私に同行した。」と歌った。この歌は今でいう「淮南操」である。

淮南王劉安は漢の劉邦の血筋の王族で多数の食客を抱えていたことでも有名です。食客たちと共に淮南子を書き記しました。

淮南子に関しては以下をご覧ください!

淮南子:不思議な生き物についても書かれている西漢時代の思想書

  • 劉根が鬼を召す

劉根は字を君安と言った。京兆長安の人であった。漢成帝の時代に、彼は嵩山へ至り道術を学んだ。一人の神異な人に偶然出会い仙になる秘訣を劉根に教えると、劉根は仙道に到った。鬼を召還することが出来るようになった。潁川太守史祈はこれは妖怪の祟りであると言い、劉根を捕らえて殺してしまおうと思った。龍根が太守府へ至ると、史祈は、「お前は人に鬼を見せることが出来ると言うが、必ず人に鬼の形状を見せろ。さもなければお前を殺す。」と言った。劉根は、「容易なことです。あなたの前にある墨と筆をお貸しいただき、私に符箓を書かせてください。」と言った。劉根は書いた後、符箓を一度机にたたきつけた。すると、忽然と五、六匹の鬼が二人の囚人を巻き付けて史祈の前に現れた。史祈はすぐに状況を把握した。それは彼の父母であったからだ。史祈の父母は劉根に向かって頭を地面にこすりつけて、「私の息子の無礼は万死に値します。」と言った。また、史祈を叱責して、「お前たちはの子孫は繁栄できないのに、なぜさらに神仙を処罰しようとするのだ。お前の父母にもこのような仕打ちを受けさせているにもかかわらずだ。」史祈はその状況に恐ろしくなって悲しみで泣き、劉根に向かって頭を地面にこすりつけて赦しを乞うた。劉根の一声も声を発さずに忽然と姿を消し、どこへ行ったのかわからなかった。

  • 王喬舄(靴)を飛ばす

漢明帝の時代に、尚書郎は河東の人の王喬を鄴の県令に任じた。王喬は神仙の術に通じており、毎月の初めに県内から朝廷へと行った。漢明帝は馬にも乗らずに何度もやってくる王喬を奇怪に思い、太史に命じて密かに王喬の監視をさせた。太史は、王喬がやってきたときに、一対の野鴨が東南方向から飛んできたと報告した。すると明帝は人を派遣して埋伏させ、その一対の野鴨がやってきたときに網で捕らえさせると、それは一組の靴であった。尚書に識別させ、明帝永平四年の時に尚書官用の靴を賜った。

  • 薊子訓遁れて去る

薊子訓はどこから来たのか誰も知らなかった。東漢時代に薊子訓は洛陽にやってきて数十人の大官に拝謁した。拝謁するときには毎回一杯の酒と一片の干し肉を以って彼らをもてなして言った。「私は遠方から来ましたが、何も持っていません。ただこれで心ばかりの気持ちを示します。」宴席の数百人の人々は食べて飲んで一日中終わらなかった。帰った後、白雲が立ち込めるのが見え、早朝から晩まで変わらなかった。当時の百歳であった老人は、「私が幼い頃、薊子訓が会稽の市場で薬を売っているのを見たが、顔つきは現在のようであった。」と言った。薊子訓は洛陽に住むのが好きではなく、忽然といなくなった。年始の間、ある人物が長安東面の覇城にいる時に薊子訓と一人の老人が一緒に銅像をさすっているのを見た。そして老人に、「当時、この銅像を鋳造するのをみた。現在に到るまですでに五百年だ。」と言った。これを見た人は薊子訓に向かって、「薊先生、ちょっと待ってください。」と大声で言った。彼は走りながら応じ、ゆっくりと歩いているように見えた。しかし、走る馬でも追い付けなかった。

  • 漢の陰生が市を乞う

漢代の陰生は長安渭橋の下で托鉢をしていた。彼はよく集市に行き物乞いをしたので集市の人は皆彼を嫌い、糞尿を陰生の体に浴びせた。しばらくすると、陰生はまた集市で物乞いをし、衣服には糞尿の後は見えなかった。それは最初に来た時と同じ様子であった。県吏が知ると、陰生を牢獄へと閉じ込め手かせと足かせをはめた。しかし、陰生は瞬く間に集市へと戻り物乞いをした。県吏は再び陰生を捕らえ撃ち殺そうとしたため陰生は逃走した。糞尿をかけた人は家が倒壊してしまい十人以上が圧死した。長安の都では、一首の歌が流行した。すなわち、「乞食を見た。美酒をあげたら家屋倒壊の禍から免れた。」というものであった。

  • 左慈神通を使う

左慈は字を元放と言い廬江の人であった。少年時代に神術を学んだ。かつて曹操に客として招かれた際に、曹操は笑いながら衆客に、「今日貴い友たちが集い、準備した山海の珍味は全て差異はないが、ただ呉淞江の鱸だけは違っている。」と言った。元放は、「よろしい。」と言うと、水がなみなみと注がれた銅の盆に、竹竿に餌をつけて投げ込むと、しばらくして盆の中から一匹の鱸を釣り上げた。曹操は拍手喝采し、賓客たちもその奇妙な光景に驚きを隠せなかった。曹操はさらに、「一匹だけでは賓客をもてなすには足りないので、二匹必要だ。」というと、元放は再び竹竿に餌をつけて投げ込むと、しばらくしてさらに一匹釣り上げた。二匹とも三尺以上もあり、新鮮で生きていた。




曹操は自ら料理するために準備し、賓客にふるまった。曹操は、「今鱸はあるが、残念なことに薬味に使う蜀の地の生姜がない。」と言うと、元放は、「いい方法があります。」と言った。曹操は元放が生姜を近くに行って買ってくるのではないかと恐れて、「私はすでに蜀の地で彩錦を買うように人を派遣ているので、お前は我が使臣に錦を四丈買うように言ってこい。」と言うと、元放は去った。しばらくして元放は生姜を持って帰ってきた。さらに曹操に、「蜀の錦市場であなたの使臣を見つけて、彼に四丈の彩錦を買うように言いました。」と言った。

一年後、使臣が戻ってくると、きちんと四丈買っていた。曹操は使臣に聞くと、使臣は、「去年の某月某日、私は市場で人に会いました。その人物があなたの命令を私に伝えたのです。」と言った。その後、曹操は近くに遊覧に行くと、百人以上引き連れており、元放は一瓶の酒、一片の干し肉を持ち、自ら官員達のために酒を運び百人以上が皆酒に酔って肉で満腹になっていた。曹操は奇怪に思い、人を派遣して原因を調査した。一件の酒屋に行くと昨晩にこの酒屋の酒と肉がすべてなくなっていたことが分かった。曹操は怒り、元放を殺そうと思いました。元放が宴会中に曹操は元放を捕らえようとすると、元放は壁の中へ隠れてしまい忽然と姿を消してしまった。これにより曹操は懸賞金をかけて探し、元放を見つけると彼を捕らえた。すると、街の人は皆元放と同じ見た目になり、誰が彼だか分からなくなった。

その後、ある人が陽城山の頂で元放を見たというと、曹操は再び人を派遣して捕えようとしたが、元放は羊の群れに混じってしまった。曹操は元放を捕らえることは容易ではないことを知り、人に羊の群れに向かって、「曹操はあなたを決して殺そうしているわけではなく、ただあなたの神術に興味があったのです。今となってはあなたが正しいことが分かっていますので、どうか出てきてください。」と言わせた。すると一頭の年老いた羊が忽然と現れ、二本の前足を曲げて人と同じように立ち上がり言った。「我々が慌てふためいている様子を見てください。」 するとある人はすぐに「この羊が元放です。」と言うと、人々はこの羊に向かって次々に飛び掛かった。すると百頭の羊は全て年老いた羊に変わってしまい、前足を曲げて人と同じように立ち上がり、「我々が慌てふためいている様子を見てください。」と言った。遂には元放を捕らえる術はなかった。老子は、「私の所に憂いがあるのは私に実態があるからだ。もしも私が無形だったら私に何の憂いがあろうか。」と言った。老子のような人は無形になることが出来るという。敬わないのは難しいがこれを遠ざけるのか?

左慈は難病の患者をも救ってしまう名医ですが、三国志では曹操の逆鱗に触れて処刑されてしまいました。その後曹操は頭痛に悩まされるようになったとも言います。

  • 于吉が雨を請う

呉国の孫策は魏国の首都である許昌を攻めるために長江を渡ることを思案している時に、琅琊人の道士である于吉と共に歩いていた。当時の天気は干ばつが続いていた。彼らは灼熱の地方に住んでおり、孫策は官兵全体に催促して兵をすぐに船を曳かせて渡河の準備をさせた。孫策はまた自ら一足先に出発して監督に向かったが、この時将官たちが于吉の所に集まっているのを見た。これに孫策は激怒し、「私の行いは于吉に及ばないと思っているのか?お前たちは于吉に会うために先に行ったのか。」と言った。言い終わると人を遣わして于吉を捕らえ、孫策は于吉に、「天気は干ばつで雨が降っておらず、水により行軍を阻止されている。いつ船で河を渡れるかわからなかったので私は早めに兵を動員したのだ。しかし、あなたは私と困難を共にせず船中で座っているだけの神を装い弄ぶ鬼だ。そして私の部隊を損なおうとしているのだ。今日、あなたを斬る。」と言い、部下に于吉を地面に押さえつけさせて太陽に晒させ、雨を求めるように命じた。




もし、于吉が天を動かし、正午に雨を降らせた場合は于吉を放免し、そうでなければ死刑にするつもりであった。しばらくして、雲気が沸き立つように昇り合わさり、やがて厚い雲となった。正午になると盆を返したような大雨が降り、河川は水で溢れた。官兵は喜び于吉はきっと寛大な処置が下されると思い一緒に慶賀慰門へと行った。しかし、孫策はあの時于吉を殺してしまっており、官兵たちは悲痛な叫びと共に遺体を抱きかかえた。その夜、忽然と烏雲は立ち込め、于吉の遺体を覆った。二日目には走り去ってしまい、于吉の遺体がどこへ去ったのか誰もわからなかった。

孫策は于吉を殺してからいつも一人で座っているときに、于吉が傍にいるように思った。孫策の心中は于吉への嫌悪感で満たされ、精神は徐々に正常さを失っていった。その後、孫策の傷口は治療により治癒したが、鏡で自分を見るたびに鏡の中に于吉が見えたため、顔を背けて鏡を見なかった。このような事が幾度か起こり、孫策は突然鏡に飛び掛かり倒して大騒ぎし、傷口が再び裂けてしばらくすると死んでしまった。

于吉も三国志に出てきますが、曹操の左慈同様に呉の孫策が于吉を殺してしまいます。その後小覇王とも言われた勇猛な孫策は若くして亡くなっています。

  • 介琰が隠形に変化する

介琰はどこの人は分からなかった。建安方山の中に住んでおり、その師である白羊公杜について玄一無を学び道術と為した。体を変化させ身を隠すことが出来たという。よく東海へ行き、暫く秣陵に住み、呉王の孫権との交流を持った。孫権は介琰を留め住まわせるために、宮殿を修築して一日の内に何度も人を派遣して介琰の食べ物などの世話をした。介琰はある時には子供に変化し、有る時には老人に変化し、食べず飲まずに贈り物の財物を受け取らなかった。孫権は介琰の法術を学びたいと思っていたが、介琰は孫権の妃が多くいる事を知っていたので、数か月何も教えなかった。孫権は怒って介琰を縛るように命じ、兵士に弓で射るように命じた。矢が一斉に放たれると、介琰に巻かれていた縄はまだあったが、しかし介琰がどこへ去ったのか誰もわからなかった。

孫権は三国時代の呉の初代皇帝です。孫策の弟です。

  • 徐光が復讐をする

呉国に徐光という人物がおり、かつて街中で法術を実演していた。徐光の術は瓜を売る人に瓜を食べさせるという内容であったが、その売っている瓜自体を食べさせるのではなく、その売っている瓜を使用するものだと言った。その後、杖を地上に打ちつけ小さな穴を作り、その中にその瓜の種を入れた。すると、瓜の種は発芽して見る見るうちに蔓が伸びて花が咲き実を結んだ。すると、実を摘み取り、周りの人に配り食べさせた。瓜売りが振り向き自分の売っている瓜を見ると全て無くなっていた。徐光は水害旱害について話したが、全て霊験であった。

ある時、徐光は大将軍孫綝の門を過ぎると、衣服を掴み上げてなりふり構わずに急いで走り去った。ある人がこの原因を聞くと、徐光は、「あそこの流血の生臭い臭いに耐えがたかったのだ。」と言った。孫綝はその話を聞くと怒り心頭になり、徐光を殺してしまった。徐光の頭を切り落とすと血は出なかった。後に孫綝は幼帝孫亮の廃位をし、孫休を景帝と為した。皇陵に拝謁するために景帝を登らせ、車に乗っていると忽然と大風が孫綝の車を揺らし、倒されてしまった。孫綝は徐光が松の木の上から指をさして笑っているのを見た。孫綝は随行している者に見えるかと問うと徐光は見えないと言った。その後すぐに景帝は孫綝を殺してしまった。

孫綝は三国時代の呉の孫権の遠戚です。

  • 葛玄が法術を使う

葛玄は字を孝先と言い、左慈について《九丹液仙経》を勉強した。彼と客人が食事をしているときに、法術変化の事についての話になった。客人は、「食事の後、法術を実際に見せてください。」と言った。葛玄は、「あなたは虚構の物を見たいのですか?」と言うと、口から吐き出した米粒が全て数百もの蜜蜂に変わり、客人の元へと飛んで行ったが刺すことはなかった。しばらくして、葛玄は口を大きく開けると蜜蜂たちは口の中へと戻って行った。葛玄はその蜂を噛むとそれはただの飯粒であった。葛玄はガマガエルと各種の爬虫類、燕雀などを操り舞を舞わせ、それは皆人が踊っているようであった。葛玄は冬に客人のために新鮮な瓜や棗を用意し、夏には客人のために雪や氷を送った。また、数十の銅銭を井戸に投げさせ、葛玄が盆を井戸の上で持ち、口内で呪文を唱えると銅銭は井戸の中から飛んで出てきて盆の上に落ちた。葛玄は客人のために酒を並べ、人がいない端にある盃も自動的に客の面前まで運ばれた。もし客が盃の酒を飲み干さなければ、盃は自らその客人の元を離れることはなかった。

葛玄はかつて呉王と楼上に座り、百姓が雨を祈る泥人形を作っているのを見た。呉王は、「百姓は雨が降るのを望んでいるが、雨を降らすのは難しいのか?」葛玄は、「容易です。」と答えると、葛玄は符を画き神廟の中に置いた。しばらくして、天は暗くなり傾盆の大雨が降り雨水は四方へとあふれていた。呉王は、「水の中に魚はいるか?」と聞くと、葛玄はまた符を画き水中へと投げ入れると、しばらくして水の中から数百もの大きな魚が現れた。葛玄は人に捕まえさせに行かせた。

  • 呉猛風を止める

呉猛は濮陽の人であった。東呉で西安県令に任じられ、このため分寧に住むようになった。天性は非常に孝順であった。呉猛は偶然に神人丁義に会うと、丁義は呉猛に仙人になう秘訣を教えた。その後、さらに秘術神符を得て、道術は非常に高明であった。ある時、大風に会うと、呉猛は符を画き、屋根の上に投げると一羽の青鳥が銜えて去った。大風は即座に止んだ。人が原因は何なのか聞いた。すると呉猛は、「南湖には一艘の舟があり、大風に会い、乗っていた道士が私に助けを求めていたのだ。」と言った。状況を確かめに行くと、その通りであった。当時の西安県令であった于慶はすでに死後三日が経過していた。呉猛は、「于慶の気はまだ尽きてはいないので天に訴えるべきだ。」と言った。そして呉猛は死体の傍で寝て、数日が過ぎると呉猛と県令は共に起きた。その後、呉猛は弟子を連れて豫章へ帰る時、江水が荒れており、人は渡れなかった。呉猛は手中の白羽扇で扇ぐと、江水は流れを変えて道が現れた。彼らはゆっくりと渡り、渡り終えると江水は再び元に戻った。その光景を見た人々は感動し、非常に驚いた。呉猛は常に浔陽を守り、暴風雨が吹けば符を画き屋根の上に投げるとしばらくして風は止んだ。

  • 董永と績女

漢朝の董永は千乗県の人であった。小さい頃母親が死んだため父親と一緒に生活し、田に種を撒くために小さな車に乗せられて父親について行った。父親が死ぬと埋葬するお金がなかったので董永自身を奴隷として売り、そのお金で葬式を済ませようとした。買い主は董永が賢く孝順であることを知り、董永に一万銭を渡し家に帰らせて喪に服させた。董永は三年の孝を終え、買い主の元に労役をするために戻ろうとしていた。その道中で女性とぶつかり、董永に、「私はあなたの妻になりたいです。」と言った。そして董永と共に買い主の家に行った。主人は董永に、「私はすでにお金を渡した。」と言った。董永は、「あなたの恩徳は決して忘れません、私の父親が死に葬式は済ませました。私は今はちっぽけな人間となりましたがあなたの大恩には必ず報います。」と言った。主人は、「その女性は何ができる?」と言うと、董永は、「紡績が出来ます。」と言った。主人は、「それでは絹の織物を百匹ほど欲しい。」と言った。董永の妻は主人のために紡績をして十日で完成した。この女性が門を出ると、董永に対して、「私は天上の績女です。あなたの賞賛すべき孝順に天帝は私に命じあなたを助けて責務を全うするように遣わしたのです。」と言い終わると空へ飛びあがり去っていき、どこへ行ったのかわからなかった。

  • 鈎弋夫人の死

当初、鈎弋夫人は罪を犯し、死罪となってしまった。刑が執行された葬式の後、遺体には腐臭はしなかった。それだけではなく香気が十数里先にまで漂っていた。そのため、雲陵の葬られ、漢の武帝は彼女を哀悼した。また彼女が普通の人か疑いが出たので、墓を掘り棺を取り出して見ると、棺の中は空で遺体はなくただ両方の靴があった。別の説では、漢の昭帝が即位した後、もう一度鈎弋夫人の葬儀を行ったが、棺の中は空であり遺体はなく、ただ両方の絹の靴が残っているだけであった。

  • 杜蘭香と張伝

漢代に杜蘭香という女性がおり、南康人氏を自称していた。建業四年春、杜蘭香はたびたび張伝と探していた。張伝は当時十七歳で、彼女の車が門外に停車しているのを見ていた。彼女の侍女が彼女の話を伝えに来て、「私の母が私を生んだのであなたの嫁がせに来させました。よろしいでしょうか?」言った。張伝はすこし前に張碩と改名しており、張碩はその女の前に走ってきてしげしげと見た。歳は大体十六、七歳で彼女の話は全て非常に昔のことであった。侍女は二人居り、年上を萱支と、年下を松支と言った。装飾の施された車は青牛に引かせており、車上の食べ物、飲み物が完備されていた。彼女は詩を作り、「私の母は神山の上に住んでおり、常に九重天を遊覧している。羽毛は威厳があり侍女が持ち、宮殿の外には出ず。ひらひらと車で私を送りにきて、再びこの世で辱めを受け生きるのは辛い。私の幸福に頼り身を寄せず、私の前にある禍を嫌う。」と書いた。

その年の八月一日に彼女は再びやってきて詩を作り、「天河の間を自由に行き来し、九嶷山の発散を吸い込む。あなたを責めて歩みをやめさせず、辺境の地でも行ったことのないところはどこ?」と書いた。彼女は鶏の卵のような山薬果を三つ取り出して張碩に、「これを食べてください。するとあなたは風浪を恐れなくなり、寒暖の影響を受けなくなります。」と言った。張碩は二つ食べると、残りの一つは残そうとした。しかし、彼女はそれを許さず張碩に全部食べさせた。彼女はまた張碩に、「私は本来はあなたに嫁ぎ妻となる必要があるのですが、心の準備がまだできていません。まだ年齢が若く協調が足りないないところがあります。太歳が東方卯次に来る単閼の年まで待ってくださるとあなたに嫁ぎます。」と言った。杜蘭香が降臨しているときに張碩に尋ねた。「祈祷祭祀はどのようにすればよいのですか?」杜蘭香は、「消魔は本来疾病を治す効果がありますので、祭祀の必要がありません。」と言った。杜蘭香はその薬を消魔と呼んだ。

杜蘭香(とらんか・du4lan2xiang1・ドゥーランシアン)は仙女として有名です。

  • 弦超と神女

三国時代の曹魏の時、済北郡の従事に弦超という人物がおり、字を義起と言った。魏斉王の嘉平年間のある夜、弦超が寝ているときに夢を見て、その夢の中で神女が弦超を迎えに来た。神女は自分を天上玉女と言い、元々は東郡の人で姓を成公、字を知琼と言い、幼い頃両親が死に天帝が孤独を憐れんで彼女を男の元へ嫁がせるためにやって来たのだ、と言った。弦超が夢を見ているときに気分は爽快で感覚が研ぎ澄まされており、知琼の美貌を称賛した。それはおよそこの世のものと思えない美しさであった。目が覚めた後にはしきりに思い出そうとしたが、知琼の容貌ははっきりとはしなかった。このようなことが三、四日続いた。ある日、知琼が実際にやってきた。知琼は華貴な小車に乗っており、八人の下女を連れて錦で美しく着飾り容姿は夢で見たままであった。知琼は自分の歳は七十歳だと言ったが、見た目は十五、六歳に見えた。車上には壷、酒樽、青白色の瑠璃の器具などあり飲食の用意がなされていた。知琼は美酒でもてなし、弦超と一緒に飲んだ。知琼は弦超に、「私は天上の玉女で、あなたに嫁ぎに来ました。あなたに徳行があることは望みませんが、前世の縁ですので私たちは夫婦になりましょう。良い所があるとは言えませんが、悪い所があるとも言えません。私たちはいつも行き来し車に乗ることが出来、大きな馬に乗れ、山海の珍味を食べ、不完全な絹の着物を着ます。ただし私は神人ですので、あなたの子供を産むことはできませんが嫉妬もありませんので、あなたがよそで結婚しようとしても構いません。」と言い、二人は夫婦になった。

知琼は弦超に詩を送りその詩には、「私は蓬莱仙境を遊覧し、雲板石磬で楽声を発する。霊芝は雨水を用いずとも潤い、徳行に到り機会を待つ。神仙はいわれもなく感応はせず、転移に沿ってあなたを助けに来た。私を受け入れると五族は繁栄し、受け入れないと災いを招く。」と書いていあった。彼らは夫婦となって七、八年たち、弦超は妻を娶って以降、知琼と弦超は一日おきに一緒に過ごし、一日おきに共に就寝し、知琼は夜にやってきて朝には去ったがその様子は飛んでいるようであった。知琼は弦超のみ見ることが出来、他の人には見えなかった。居間にいて声は聞こえてその影は見えるが実体は見えなかった。このような様子であったので奇怪に思った人は弦超に問い、弦超は秘密を洩らした。玉女は去ることを求めて、「私は神人ですので、あなたと一緒に住むことは人には知られたくありません。そしてあなたのいい加減さにより私の秘密を暴露してしまいましたのであなたとはもう会うことはできません、長年一緒に過ごし、情義は残っています。分かれることに傷つかないはずはありません。しかし状況が状況ですのであなたとは離れないことはできません。」と言うと、知琼は下女に酒の用意をさせ、箱を開けて二着の彩絹金縷の服を取り出して弦超に渡した。また、詩を一首送り、弦超と握手すると悲痛な面持ちで涙を流すと振り返らずに車に乗り込み飛ぶように去って行った。弦超は何日も悲しみ消沈してしまった。知琼が去ってから五年後、弦超は州郡の使者として洛陽へ行った。その途中で済北魚山の下の小道に到った。

西へ行くと遠くが望め曲がった道の終わりに馬車が一台あり知琼のように見えた。弦超は急いで馬を駆けて行って見ると、それは知琼であった。帷幕をあげて二人は再開し共に会えない日々を哀しみ、そして会えたことを喜んだ。二人は共に馬車に乗り洛陽へ行った。そして結婚し夫婦となり、仲直りした。晋武帝太康年間に到っても、両者は共に生活していた。ただし、毎日という訳ではなく、毎年三月三日、五月五日、七月七日、九月九日と毎月の一日、十五日に知琼は降臨し、翌朝には帰って行った。張茂先は彼女のために《神女賦》を画いた。

出典:古詩文網

中国の古い不思議な話を集めた干宝先生の捜神記です。天女や法術などが現れますが、それと同時に歴史上の実在した人物の名前も見られますので幻想と現実が合わさっていて読んでいると不思議な感覚になります。三国志の話が多いです。三国時代は漢代の後で西暦180年前後です。

干宝自体は不思議な話を集めることで、神異な現象の実在を描き出そうとしていたようで結構真面目に書かれています。

話自体はどれも短く単純ですが、なんとなく情景が浮かんできそうで昔の中国が垣間見れて面白いです。

最初の話が神農氏の神農鞭百草で、非常に有名な話です。嘗百草と言い、草を嘗めて薬草を探し出したと言います。しかし、中には毒草もあり、一日に七十回も中毒を起こしたと言われています。このことから神農氏は薬の神様としても祀られています。(元々は名前の通り農業の神です。)

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