古代中国十大神剣:中国の伝説の聖剣、名剣を集めてみた

古代中国十大神剣

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中国には神話時代から様々な名剣、神剣が生み出されてきました。そんな数ある剣たちの中でとりわけ有名な聖剣を集めてみましたのでご紹介します。どの剣も伝説で言い伝えられている名剣ばかりです。

1、軒轅剣 (けんえんけん 轩辕剑 xuan1yuan2jian4 シュエンユエンジエン)

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軒轅夏禹剣は天界の神々が黄帝軒轅に下賜した剣だと言われています。黄帝が蚩尤を打ち破った剣で、その中には無尽蔵の力が込められており斬妖除魔の神剣です。多くの神々によって集められた首山の銅を使って黄帝のために鋳造されました。その後は大禹に受け継がれました。剣身には一面は日月星辰が、反対の一面には山川草木が刻まれており、剣の柄には一面に農耕や牧畜の術が、もう一面には四海統一の策が刻まれているといいます。

黄帝は古代神話中の中原を統一した偉大な帝です。このことから中国人文の祖とも言われています。この黄帝が刑天と一対一で戦った際には宝剣を用い刑天の首を落とした上に巨大な山を真っ二つにしてしまったので、その威力には凄まじいものがあります。その伝説の宝剣とはこの軒轅剣を指していると思われます。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

刑天に関しては以下をご覧ください!

戦神刑天:首を刎ねられてもなおも戦いをやめない不屈の戦士

大禹に関しては以下をご覧ください!

禹:黄河の治水を成功させた大英雄で夏王朝の建立者

2、湛慮剣 (たんりょけん 湛卢剑 zhan4lu2jian2 ジャンルージエン)

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湛慮剣には一つの目があり、黒色をしています。この黒色の高い技術を持って作られた名剣が人を感動せしめるのは、その鋭利さではなく、その慈愛にあふれた寛大さにあります。湛慮剣は青い一つの眼奥深く光っており、明察できめ細かい黒色の眼は君王や諸侯の一挙一動を注視しています。

紀元前496年、越王允常は天下一と名高い名工の欧冶子に自分の剣を鋳造してもらいました。欧冶子は拝命後、妻子の朱氏と娘の莫邪を連れて閩侯を出発し、閩江を遡上して海抜1230メートルの湛慮山に到着しました。そこで、探していた神鉄(鉄母)と聖水(氷冷の泉水)欧冶子はそこに住み、炉を設置し三年かけて錬成しました。欧冶子がこの剣を作った時、自分の人生をかけた夢がついにかなったことに涙を禁じ得ませんでした。出来上がった剣はいかなる困難にも打ち勝つが殺気を微塵も持っていない慈愛にあふれた剣でした。《越絶書》には、”仁者無敵、湛慮剣は一振りの仁道の剣也。”と書かれています。

越王允常の後継者が呉とたびたび争いを起こした勾践です。臥薪嘗胆の胆を嘗めた方の人です。ちなみに薪の上に臥した人は呉王の夫差です。どちらも恨みを忘れないために行ったと言われています。

3、赤霄剣 (せきしょうけん 赤霄剑 chi4xiao1jian4 チーシヤオジエン)

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秦朝の頃、見込みのない欠点だらけの青年がいました。彼は怠惰で家の農作業をしませんでした。酒を好みよく泥酔し、色を好み綺麗な女性には目がありませんでした。礼儀もなく官に民に見境なくわめき続けていました。最も毛嫌いされたことはよく嘘をつき大口をたたく点でした。

彼はよく人に左足の七十二個の黒い痣を見せて、この痣を皮膚病とは言わずに天相図だと言いました。常に咸陽に思いをはせ、頭を振り、ああ、いい大人がこのざまなのか!とため息をつきました。その嘘は次第に常軌を逸しました。彼はどこから来たのか知らない鉄棍を、故郷の人に南山の仙人から得た宝剣で赤霄というと言いました。




その奉っている宝である”剣”を常に肌身離さずにいました。彼は自分が人ではなく天上の一条の赤龍だとも言いました。法螺はさらに大きくなります。自分は小さいころに始皇帝を知っていて始皇帝は白龍であり、始皇帝は自分のようではない、なぜなら自分は法力がさらに高い赤龍だからで、いずれ皇帝にとってかわるだろう、とも言いました。

さらに続けて、始皇帝は白蛇になって最近豊西沢付近を移動しているのでこの白蛇を斬りに行く必要がある、と言い鉄棍を手に持ち斬るしぐさをしました。人々は皆彼の話を笑い信じる者はいませんでした。しかしある晩、一切が変わりました。

この日の夜、郷里の数十名を伴った学徒の集団が町に仕事に行くため豊西沢を通っていました。その青年もその集団にいました。しかし、その青年は仕事のためではなく、遊ぶために町まで行く途中でした。彼は少し歩くと酒を取り出し飲みました。

辺りには霧が立ち込めていました。豊西沢に至るとしばし足を止め、当時囁かれていた豊西沢で起こると言われている噂話を口にし始めました。それは、町に仕事に行く学徒たちの中の数名がこの豊西沢付近で行方不明になっていたというものです。そのため、そこで念のため、身軽な青年を先頭に立たせ、用心深く進んでいきました。すると先頭を歩いていた青年が顔面蒼白になり戻ってきたのです。

青年の顔からは血の気が引いており、息を切らせながら言葉を絞り出してこう言いました。”歩いていると、前方から何やら奇妙な鼻を衝く匂いがした。そこで道の脇にあった大きな木に登り道を見てみると、少し先に巨大で凶悪な白蛇が未知の中間おり、待ち構えていた。”

人々は言葉を飲み、先へ進もうと言う人はいませんでした。すると、件の青年が衆人をかき分け前に進み、あの白蛇は自分を待ち構えているので、斬る必要がある、と言いながら鉄棍を取り出し、よろけながら歩きだしました。彼は歩きながら酒を飲んでいたので、すでに酔っていました。

人々は彼が霧の中の影が薄く霞むのを見ながら、心の中ではこの青年もまた帰ってこず、あの蛇に食べられたのだろうと思いました。霧が晴れ人々は前に進むことを決めました。少し歩くと、一条の白い大蛇が真っ二つに斬られて道の上に転がっているのを見ました。さらに数里歩くと、あの青年が道の脇に寝そべって眠っているのを見ました。彼の体は雲気で覆われており、雲中から赤龍が出てきて飛び去りました。

その手には鉄棍は見当たらず、代わりに持っていたのが九華玉で七彩珠の装飾が施され、刃は霜雪の如き冷たい光を放つ宝剣でした。剣には篆書で赤霄の二文字がはっきりと刻まれていました。この一件から人々はこの青年が言っていたことは真実であったと信じるようになりました。この青年は赤龍王劉邦で、この後秦王朝を倒し、漢王朝を打ち建てました。

4、太阿剣 (たいあけん 太阿剑 tai4a1jian4 タイアージエン)

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太阿剣は泰阿剣とも言います。

楚の国の城を晋の国の軍隊が三年に渡り包囲しました。晋の国は楚討伐のために出陣し、得ようとしたのがこの楚国の鎮国の宝である太阿剣でした。世の人々は皆、太阿剣は名工欧冶子と干将の両名により作られたと言いました。

しかし、実際に二人の名工に太阿剣について尋ねると、両者は口をそろえて太阿剣はずっと前から存在していたと言い、無形で無跡だが剣気は以前から天地の間に存在しており、時期が来るのをただ待つのみで、天の時、地の利、人の和の三道が一つになり剣と成したということを言いました。

晋国は当時強大な国家で、晋王は当然自分がこの宝剣を持つにふさわしいと思っていました。晋王は楚王に圧力をかけ、この太阿剣を差し出すように言いました。楚王は太阿剣と言って晋王に剣を差し出します。しかし、事は思ったようには運ばず、この剣は弱小の楚国で作られたもので、剣を取り出したときに剣身に太阿の二文字が刻まれておりました。案の定、欧冶と干将の言うような無形無跡の剣ではありませんでした。

晋王は当然激怒し、楚王に剣を差し出すように言いました。しかし、楚王は拒絶し、このため晋王は楚討伐のために出兵したのでした。圧倒的な兵力差で楚国の大部分の城は即座に陥落し、残る城は三年に渡り包囲されました。場内の兵糧も尽いたある日、晋国の使者が最後通告を伝えました。もしも剣を差し出さなければ明日城に攻撃を仕掛け、全て焼いてしまう、と言いました。

楚王は屈せず、左右の家臣に明日自分自ら城壁に立ち敵を殺し、城が破れたらこの剣で自害するので、その後はこの剣を持って大湖に行き大湖の底に沈めてしまうことで太阿剣を永遠に楚国にとどめるように言いました。

次の日の暁が見えるころ。楚王は城壁に登り城周辺が晋の兵馬で埋め尽くされているのを見て自分の城が大海の一葉にすぎないことを悟りました。晋国は攻撃を開始しました。楚王は両手に剣を握り、太阿剣だ、今日この剣で血祭りにあげるのでかかってこい、と大きな声で叫びました。そして、鞘から剣を抜き出し剣で敵軍を指しました。

すると奇跡が起こり、剣から剣気が吹き出し城外へと出て天を遮り日を隠し、猛獣の咆哮のような音の中、晋国の兵馬は大いに乱れ、片刻の後には軍旗は倒れ流血は千里に渡り、全軍が消えていました。




後に楚王は国内の知者である風胡子に尋ねました。太阿剣はこのような威力があるのか?と。風胡子は、太阿剣は威道の剣で、内心の威は真威です。大王の逆境に屈しない不屈の精神が太阿剣の剣気を激しくし、さらに内心の威を剣気で表現したのです。という記載が《越絶書》に見られます。

《史記・李斯列伝》には、”今陛下に送った昆山の玉は、随和の宝で、明かりが垂れる月の珠、太阿の剣に服する。”これは、秦の始皇帝が得た昆山宝玉には瑞光があり、月よりも明るく太阿剣のようである、と言う意味です。秦始皇はかつて宝剣を配りました。死んだあとは大量に埋葬されました。沢山の宝貝も一緒に始皇の地宮に埋葬され、楚と漢が相争い、楚の覇王項羽が阿房宮を略奪すると多くの宝貝が発見されました。項羽は三十万人を使い三日がかりで阿房宮の宝を運び出したと言います。酈道元の《水経注》の渭水の段には、その後項羽は阿房宮を焼き払ったと書かれています。

5、七星龍淵剣 (しちせいりゅうえんけん 七星龙渊剑 qi1xing1long2yuan1jian4 チーシンロンユエンジエン)

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七星龍淵剣は伝説の名工、欧冶子と干将の作だと言われています。欧冶子と干将はこの剣を作るために、茨山を切り開き、山中の渓水を剣を鋳造する炉の脇の、北斗七星の配列を成した七個の池の中に引き込みました。このことから七星という名となりました。

剣が完成し、剣身を俯瞰してみると高い山に登り深淵を望むが如く、深く霞み巨龍が臥している様子を彷彿とさせたことから、龍淵という名となりました。この剣の鋳造技術はもとより深奥ですが、その真実の姿は本来なら知り得るはずもない普通の漁翁が知っていたのです。それは漁丈人の話として伝えられています。

楚の伍子胥(ごししょ)が奸臣を殺害し、亡命しました。楚国の兵馬に追跡されました。この日、荒れてた道を通り長江の水辺まで逃げてきてきました。しかし、行き止まりになり広大で高い波が押し寄せる江水をただ見るだけでした。行く手を長江に阻まれ、後方からは追手が迫り、段々と焦りが強くなったときに、伍子胥は小さな船が急いで近づいてくるのを見つけました。船上の漁翁は船に乗るように叫びました。伍子胥が船に乗ると、小舟は素早く葦の生い茂った水辺の中へ隠れ、見えなくなってしまいました。岸の上では追手の兵士があたりを捜索した後去っていきました。

漁翁は伍子胥を乗せた船を岸に着け、伍子胥のために酒と食料を取ってきて振舞いました。伍子胥はこの上ない恩義を感じ、漁翁の名を尋ねましたが漁翁は笑って、”風来の身ですので姓名はもはや意味を成しません。ただ漁丈人と申しておきます。”と言いました。

伍子胥はお礼を言い、数歩歩くと心にあるわだかまりのため身をひるがえして腰に差している先祖伝来の三世の宝剣の七星龍淵を漁丈人に贈りました。最大限の感謝を示すとともに、自分の失踪を漏らさないように口止めするためにも値千金の宝剣を贈ったのです。

漁丈人は七星龍淵剣に接して驚いて深いため息をつき、伍子胥に向かって言いました。”あなたを乗せ救ったのはただあなたが国家のために必要な人であるからで、見返りなど求めてはいません。そして今、あなたは私を貪利少信と疑いました。私はこの剣で自分の高潔を示します。”言い終わると、剣で自刎してしまいました。この時の伍子胥の悲しみと後悔は非常に大きなものでした。

この故事は《呉越春秋》に見られます。七星龍淵は誠信高潔の剣です。唐朝の時、この剣は高祖李淵の実名を口にすることを避けるために、龍泉と改名されました。

伍子胥(ごししょ)は屍に鞭うつや日暮れて途遠しなどで有名な呉の名宰相です。伍子胥は祖国を逃れた後、呉国に亡命します。呉国では、孫子の兵法書で有名な孫武らと共に呉を春秋時代の覇者に押し上げます。そして、恨みのある楚に復讐を遂げました。この時の呉の王は闔閭(こうろ)と言い、闔閭の後を継いだのが夫差(ふさ)でした。夫差と越王の勾践(こうせん)は臥薪嘗胆の故事で有名です。

呉には伍子胥や孫武などの功臣がいましたが、次第に夫差に疎んじられ、伍子胥は自害を命じられ孫武は命の危険を察し隠遁してしまったと言います。両雄亡き後の呉は破滅の途をたどります。

一方の越には范蠡(はんれい)という有能な宰相がいました。越が呉に勝利した後は越王勾践も夫差と同じように傲慢になりました。范蠡はその主君の本質を見抜き、いち早く主君の元を去り後難を逃れたと言います。

6、干将剣 (かんしょうけん 干将剑 gan1jiang1jian4 ガンジアンジエン)

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干将と莫邪は二本一対の剣です。誰も二本を引き離すことはできません。干将と莫邪は人名で夫婦です。剣と同様に誰もこの両名を分けることはできません。二本の剣は干将と莫邪が鋳造しました。干将は雄剣で莫邪は雌剣です。干将は働き者で莫邪温和な性格でした。干将が呉王のために剣を作っていた時、莫邪は干将のために扇子で扇いでいました。三か月が経つと、干将はため息をつき、莫邪も涙を流しました。

莫邪はなぜ干将がため息をついたのか察していました。炉の中の五山六合の金鉄が溶けて混ざり合っておらず、剣が作れなかったからです。干将も莫邪がなぜ涙を流したのかを理解していました。剣が作れなかったらすなわち呉王が干将を殺してしまうことを知っていたからです。

干将はため息をつき、ある日の晩に莫邪が突然笑い出しました。莫邪の笑う姿を見て干将は怖くなりました。干将は莫邪がなぜ笑うのかを知っていました。干将は莫邪に対してこう言いました。”莫邪、それをやる必要はない。”しかし、莫邪は何も答えずにただ笑っていました。干将が目覚めたときには莫邪の姿はありませんでした。干将は万箭が心に突き刺さるが如く、莫邪がどこにいるのか理解していました。




莫邪は製鉄用の炉の上に立っていたのです。裾はひらひらと風に揺れて天女のようでした。莫邪は干将の影が遠くから急いでやってくるのを感じました。莫邪は干将の叫びが聞こえましたが、まだ笑っていました。涙が同時に頬を伝って流れ落ちていました。干将も涙を流しましたが、時すでに遅く、涙で霞む目には莫邪が炉の中に落ちていく姿がぼやけて見えました。干将は莫邪の最後の声を聴きました。干将、私は死にません。まだ一緒にいられます、と。

莫邪が炉の中に身を投げた後、鉄は溶け混ざり合うようになり、伝説と呼ばれる二振りの名剣が誕生しました。

7、莫邪剣 (ばくじゃけん 莫邪剑 mo4xie2jian4 モーシエジエン)

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莫邪剣は干将剣と対を成す剣です。干将と莫邪の伝説と共に生まれた剣で、一雄一雌を成します。干将莫邪の内、干将剣を呉王に献上しました。しかし、干将が所有していた莫邪剣の存在はすぐに呉王の聞くところとなり、兵士が干将の住居を包囲しました。干将は柄を手でつかみ絶望しながら、莫邪、どうしたら一緒にいられるのか?とつぶやきました。すると剣の中から一条の美しい白龍が出てきて、飛び去りました。この時干将も消えてしまったと言います。

干将が消えたとき、同時に呉王の側にあった干将剣も突然消えてしまいました。そして、千里の外の荒涼とした貧城県に、延平津と呼ばれている大湖に突然若い白龍が出現しました。この白龍は美しく善良で、百姓のために雨風を起こし、荒涼とした貧城の周囲は緑にあふれるようになりました。五穀豊穣となり、人々は貧城という名前から豊城と呼ぶようになりました。

しかし、当地の人々はよくこの白龍が現れたときに、延平津の湖面で何かを待っているように見えました。さらに、眼から涙を流しているのを見た人もいました。六百年が過ぎ、偶然に豊城県令雷煥が城の修築をしているときに地下から一つの石櫃を見つけました。中には一振りの剣が入っており、干将の二文字が刻まれていました。雷煥はこれを喜び、この古い剣を見に携えるようになりました。

ある日、雷煥は延平津の付近を通っていた時、腰に下げていた剣が突然鞘から出て水の中に入っていきました。もちろん雷煥は驚き、水面を見つめると、突然黒と白の双龍が現れました。双龍は雷煥に向けて深々と感謝の意を表しました。その後、両龍は親しそうに首を巻き付け、水の底へと潜っていき再び現れることは有りませんでした。

豊城県で生活していた百姓たちは六百年に渡って平津湖で涙を浮かべていた白龍が突然消えてしまったことに気が付きました。二日目には県城に平凡な夫婦がやってきました。夫は良い腕を持つ鍛冶職人でした。しかし、いい農具を作ることに精魂を尽くし、千金の値打ちが付きそうな精緻な武器を作ることを頑なに拒否していました。

彼が仕事をしているときには、その妻は傍らで扇子を扇ぎ、汗を拭いていました。

この故事から、干将、莫邪は一対の摯情の剣と言われています。

8、魚腸剣 (ぎょちょうけん 鱼肠剑 yu2chang2jian4 ユィチャンジエン)

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黒鉄のような大鷹が大殿に向かって飛翔しているとき、専諸が正装し、マエツの梅花炙りを自らの手に持って宮殿に上がってきました。天空には太陽が燦燦と輝き、大殿には鎧をまとった兵士たちが整列し、専諸はゆっくりと進んでいきます。雲は鷹の気勢にあっけにとられて徐々にゆっくりと動くようになりました。呉王僚の処へ専諸の手にある菜香が漂い、前のめりとなり専諸を見ずただ料理だけを見ていました。

この料理は梅花鳳鱭炙といい、梅花は厳冬の寒梅のもので、マエツは太湖に酷暑の時に現れた鳳尾鱭魚で、寒梅の枝で盛夏のマエツを炙った食べ物でした。

鷹の眼に大殿の輪郭が映った時、天は突然暗くなりました。専諸はすでに王僚の目の前まで来ており、料理を置きました。空には雲が立ち込め、大鷹は羽を休めました。王僚は目の前の料理を見て唾を飲み込みました。専諸はゆっくりと魚に手を伸ばしました。大きな雷鳴を伴い鷹は大殿に向かって飛んできます。

王僚は突然魚の腹の中から一抹の殺気が出てくるのを感じ、あっけにとられました。魚の腹に隠されていた魚腸剣はすでに腹とい鞘から抜かれ、専諸の手中にありました。前に向かって疾走しましたが、行く手に鉄の矛が交差して前進を遮られましたが魚腸剣を持って走り続けました。

前面には三層の狻猊(さんげい)の鎧甲がありました。第一層を突破し、第二層を突破し、第三層を突破した時には魚腸剣は自身がすでに変化して断剣になったことがわかりました。剣は断たれましたが、殺気は断たれず。魚腸剣は依然として前を向いていました。鷹が大殿に激突した時、魚腸剣も王僚の心臓にまっすぐに突き刺さっていました。

狻猊に関しては以下をご覧ください!

龍生九子:龍と動物から生まれた様々な神獣たち

鷹は傷つき墜落した時、満足の一声を上げました。折れて半分になった魚腸剣は王僚のだんだんと弱りつつある心臓を感じ取り無声の歌のようにゆっくりと脈打っていました。剣の雨に打たれ倒れた専諸は最後の力を振り絞り、顔の真下の地面に向けて寂しく微笑しました。

夫専諸王僚を刺し、飛ぶ鷹、殿に撃突する。この話は司馬遷の《史記・刺客列伝》に見られます。この話から魚腸剣は勇絶の剣と呼ばれるようになりました。こちらも呉の話です。王僚を暗殺を命令したのは太子光で、この後に呉王闔閭(こうりょ)となります。ちなみに狻猊とはは龍の子供で、龍が様々な動物との間に子供をもうけた話、いわゆる龍生九子の一柱です。

9、純鈞剣 (じゅんきんけん chun2jun1jian4 纯钧剑 チュンジュンジエン)

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春秋時代、心地の良い日差しの午後、臥薪嘗胆を経てついに呉国を打ち破った越王勾践(こうせん)がうたた寝から目覚めたとき、非常に幸福な気分でした。上等な新茶を飲んだ後、勾践は一人の人物を探すために部下を派遣しました。その人物とは薛燭でした。

薛燭は秦国人で、この時越国へ遊歴中でした。薛燭はこの時まだ若かったですが、すでに天下一の相剣大師と呼ばれていました。相剣大師とは剣の目利きをする人です。しばらくすると眉目秀麗な若者が勾践の元へやってきました。客人と挨拶を交わした後、共に室外の広々とした露台の上に進みました。越王勾践は剣には目がなく、この露台は高さ数丈で壮麗な造りをしており、台の上には光が満ち溢れ、もっぱら剣を賞味することに使用していました。

座に就くと、勾践は傍の薛燭を見て、このような若者が果たして天下にその名を轟かせるような剣の鑑定ができるのであろうか、と訝しみましたが、どうしても自分の所蔵の剣を鑑定して欲しかったので、侍従に自慢の二振りの剣を持ってくるように命じました。その剣は毫曹と巨闕と言いました。




薛燭はその剣をまじまじと見て、こう言いました。”これらの剣には欠点があります。毫曹は光沢は散ってしまっており淡く、巨闕の素材が粗くなっていますので、とても宝剣とは言えません。”言い終わると、暖かい日差しを浴びて無精なあくびをしました。

面子をつぶされた勾践は考え、側の侍従の耳元で何事かを囁いた後、しばらくすると侍従が数百の鎧をまとった兵士たちを引き連れて一振りの宝剣を持って台の下へやってきました。薛燭は笑いながら聞きました。”大王、このような大勢を引き連れて一体どんな剣を持ってこられたのですか?”と。勾践は薛燭の態度に不快感を覚えながら、吐き捨てるように”純鈞”の二文字を口に出しました。

すると大きな音を立てて薛燭が座から仰向けに倒れてしまいました。髪留めが外れ髪は乱れながらもあっけにとられていました。すると突然目を覚ましたように、剣の元へ駆けつけ、深々と礼をした後に自分の身なりを整えて、侍従からその剣を受け取り恐る恐る確認した後、ゆっくりと鞘から抜き出しました。

すると光が花のように放出され、水が湧き出るが如く優雅でありそれで静かであり、剣柄の彫刻は星座のようで、深い光芒を醸し出していました。剣身は陽光と一体となり清水が池を流れるが如く穏やかで緩やかで、剣刃は千丈の断崖のように崇高で急峻でした。

長い時が経ち、薛燭は震える声でこう尋ねました。”これは純鈞ですか?”勾践はうなずき、”そうだ。”と答えました。勾践は得意になり続けました。”もし千頭の駿馬と三処の領地、二つの城と交換してほしいと言われたらこの条件はこの剣と釣り合っていると思うか?”と。薛燭は”もちろん交換には値しません。”と言いました。

勾践は眉をひそめて、”何故だ?理由を申せ。”と言いました。薛燭は興奮した大きな声で、”この剣は天人達が鋳造した二つとない剣です。この剣を鋳造するために千年かけて赤菫山を掘削し錫を取り出す必要と、若耶江の江水を千回涸らして銅を取り出す必要があります。また、剣を鋳造している最中には雷公が鉄を打ち、雨娘が水を滴らせ、蛟龍が炉をかき混ぜ、天帝が炭を足しています。鋳剣大師欧冶子が天から命を受け心血を注ぎ、多くの神や神獣が鋳磨して完成しました。この剣が完成すると、衆神は天に帰り、赤菫山は閉ざされ掘削する前のようになり、若耶江も再び流れを取り戻しました。欧冶子は力尽き神々も疲れ切り力を失いました。このような剣に対して土地や駿馬や城などとどうして比べられましょう。”

勾践は満足してうなずき、”なるほど、比べるものがない無二の宝と言う訳だな。それでは永遠に所蔵しておこう。”と言いました。

この故事は《越絶書》に見られます。純鈞は一振りの尊貴無双の剣で、また刺殺の剣でもあります。

10, 承影 (しょういん cheng2ying3 チョンイン)

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遥か昔の黎明期に、天に黒と白が混じった一瞬に両腕がだんだんと持ち上がりました。合わせた両手には剣の柄が握られていました。柄のみで剣身がありませんでしたが、北面の壁の上から剣影が下に落ちてくるのがわかりました。

剣影は片時しか存在せず、昼間に出てきて消えてしまうとすぐに黄昏となり、天は段々と暗くなり、白昼と黒夜が交錯するその刹那にその剣影が再び忽然と姿を現しました。

持ち上げた両手には一条の弧線が現れ、辺りのまっすぐ立っている古い松に向かい、耳の中には軽い摩擦音が聞こえました。木がわずかに震え、翠に茂る松の細い葉に一陣の温和な南風が掠める中で古松はゆっくりと倒れて、あらわになった丸々とした年輪が月日の流れを示していました。天が暗くなり、長剣は再び無形に帰し、遥か昔の暮色無声が合わさり天地の間の一片の穆静を作り出していました。

この影だけの無形の長剣は《列子・湯問》に記載されている、列子に賞賛された商朝に鋳造された剣であり、その後は春秋時の衛国人の孔周に所蔵された承影のことを指しています。

出典:baidu

伝説の名工、欧冶子とその娘婿の干将にまつわる剣と呉と越にまつわる剣が多いですね( ´∀`)

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