夏桀:夏王朝の最後の帝で中国史上有名な暴君

夏桀(かけつ xia2jie2 シアジエ)

夏桀は夏王朝の最後の君主で、紀元前1652年に生まれ、1600年に死亡したとされています。夏桀は中国史上でも有名な暴君でもありました。

桀の姓は姒であり、夏后氏の一族で名を癸と、または履癸と言い、諡(おくりな)は桀と言いました。歴史上では夏桀と称されています。父親は帝發で夏朝最後の君主です。この頃の夏王朝の都は斟鄩、今の南洛陽にあったと言われています。

桀は文武両道でしたが淫らで暴虐無道でした。このため商湯が名相である伊尹と謀り兵を起こして桀を討伐しました。湯はまずは桀の仲間の豕韋、顧国を攻め滅ぼし、昆吾国を撃破しました。その後、鳴条で最後の大戦を行い桀を敗北させ、遂には湯に捕らえられました。その後は南巢に追放されて、ここに夏王朝は滅亡しました。桀はその数年後に南巢で死去したと伝えられています。

この時の様子は山海経に記されており、大荒西経には、”大荒の中に常陽山があり、太陽と月が沈む場所であった。…以前に成湯が章山で夏桀を討伐し、夏耕屍を夏桀の前で斬り殺した。夏耕屍は起き上がり、頭部がないことに気が付き、その罪下から逃れるために闇雲に逃げて巫山へ去った。”とあります。

山海経大荒西経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,16 大荒経大荒西経編

  • 桀の政治

桀の在位に各国の諸侯はすでに朝賀に来なくなっていました。夏王室の内政は立ち直ることが出来ずに、外患も絶えることはありませんでした。民も困窮し至る所に危険がありました。このような状況でも夏桀は顧みず豪奢な生活を送っていたと言います。

《竹書紀年》には、”夏桀は傾宮を築き、瑶台を飾り、琼室を作り、玉門を立てた。”と記載されています。さらに各地の美女を探し、后宮に入れ日夜妺喜と宮女と共に酒を飲み音楽を楽しんでいました。伝説によれば、酒池は船を浮かべられるほど大きく、酔って溺死するということも起こっていたと言います。妺喜は殷の紂王の妲己と酷似しており、国を亡ぼす一因となった美女です。

太史令終古はこの夏桀の荒廃を見て自ら宮殿に赴き涙ながらにこう訴えました。”古くから帝王は人民に惜しみなく尽くし、そのために人民から愛されるのです。このような人民の血と汗を浪費するような生活は国を滅ぼしますぞ。” 夏桀はこれに憤慨して終古を政治から排し、この仕打ちに終古はもはや夏桀を救う手立てはないと考え、商湯の下へと亡命しました。

更に大臣関龍逢も何度か夏桀を諫めました。しかし夏桀は耳を貸さなかったため関龍逢は言いました。”天子は信義を追求し、賢臣を重用して天下は安定し、王朝は穏やかになりますが、現在の陛下の行いは度を越しており、民たちはもはや王朝の滅亡を望んでいます。陛下はすでに人心を失っておりますので、早急に改心して人心の挽回に精進してください。” しかし、これに夏桀は激怒し、関龍逢を殺してしまいました。

さらに、夜宮と言う池を作らせ男女を連れてその池に入り一ヵ月政務を行わなかったと言います。このようにして夏王朝は荒廃し、人心は離れ反乱がおこるようになりました。

  • 成湯伐桀

このような惨状であったため、昆吾氏が反乱を起こしました。この時湯は諸侯を統率し、伊尹は死ぬまで付き従うという誓いを立てていました。湯は昆吾氏を打ち破り、その勢いのまま夏桀を討伐してしまいました。そして民に尽くすと諸侯たちと約束した《湯誓》を記しました。また、湯はその武勇より武王と称されました。

夏桀は有娀の地で敗北し、鳴条(現在の河南省封丘東)へと敗走しました。しかし、夏軍は徹底的に攻撃され壊滅し、夏桀は捕らえられて南巢へと追放されました。そして亭山でその一生を終えたと伝えられています。

湯は三夔国を攻めその地の宝玉を得ると、湯の臣下の義伯、仲伯が《典宝》を書きました。湯は夏桀に勝利した後に、夏の神社に移りたかったと言いますが叶わず、《夏社》を書きました。そして伊尹は仁政を施し諸侯は商湯に帰属し、湯は天子となり全国を平定しました。

  • 当時の社会制度

夏桀の時代の中国では大きく三階級存在しました。すなわち、奴隷と平民、そして奴隷を使う支配階級です。支配階級は父系氏族社会の末期の貴族や首領たちです。

支配階級は交易で多大なる富を築き、戦争を通して権力を拡大させました。この階級が古代の文献に見られる奴隷主を指しています。

奴隷は部落間の略奪や戦争の際の捕虜に由来します。夏代には、奴隷名は様々で農業生産に従事する者は民、黎民、衆民、衆などと、牧畜は牧竪、隷圉と称されました。そして、奴隷の仕える主家内では男の奴隷は臣と、女は妾と呼ばれました。

奴隷は奴隷主の命令で農業や牧畜など様々な重労働を課せられ、奴隷主は奴隷を監獄に入れたり処刑したりするのは自由でした。

  • 古籍中に見られる夏桀

《墨子》中では、”暴王桀、紂、幽、歴は天下の百姓を害し、多くの人々を傷つけた。そのため天がこれを罰し、その国家を失った。”とあります。

司馬遷の史記では、”桀は徳が無く百姓を虐げた。”や、”夏桀は淫らで驕っており、このため鳴条で追放された。”とあります。

その他にも様々な書物に似たような内容が書かれています。

出典:baidu

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