帝俊:天帝でもともとは夔と言う神様な上、太陽と月の父親でもあった帝

帝俊(ていしゅん di4qun ディチュン)

帝俊は帝夋とも書き、中国古代神話中の帝王です。恐らく数いる帝王の中で最も複雑な事情を持っている帝ではないかと思います。帝俊は特に山海経の中で多くの記述がみられます。俊は夋の通假字(通仮字)であるため、俊(jun)とは読まずにqunとなります。

帝俊は帝嚳(こく)とも言い、帝嚳は顓頊の息子で顓頊の後を継いで王位を継承しています。つまり、帝俊は黄帝の曾孫にあたりますが、一方で山海経には帝俊の系譜は黄帝の系譜とは別に並列して書かれているので帝俊は黄帝の系譜ではなく別の部落であった可能性もありはっきりとはわかっていません。神話上の帝俊は東方の天にいる天帝であり、羲和、常羲、娥皇の三人の妻がいたとされています。また、皇甫謐の《帝王世紀》には、”帝俊の息子である帝摯の母の地位は帝嚳の四人の妻の中で最も低い”と言う記述があり四人の妻がいたとも言われております。

山海経の大荒南経には、”大荒中に不庭山があり、栄水は最終的にはこの山に流れ到る。そこには三つの胴体を持つ人がいた。帝俊の妻は娥皇と言い、この三身国の人は帝俊と娥皇の子孫であった。三身国の人は姓を姚と言い、黄米を食べ四種の野獣を飼いならしていた。この場所には四角形の淵潭があり、四隅には全て他の河川と繋がっており、北辺は黒水と連なり、南辺と大荒はつながっていた。北側の淵は少和淵、南側の淵は従淵と言い、帝舜が体を洗った場所であった。”と言う記述に加え、”東海の外、甘水の間に羲和国があった。ここには羲和という名の女性がおり、今まさに甘淵中で太陽を洗っていた。羲和は帝俊の妻で十個の太陽を生んだ。”という記述がみられます。




山海経・大荒東経には、”大荒の中に合虚山という名の山があり、太陽と月が初めて昇る地方である。中容国という国があり、帝俊は中容を生んだ。中容国の人々は野獣の肉、樹木の果実を食べ、老虎、豹、熊、羆という四種類の野獣を飼いならして駆使していた。司幽国という国家が有り、帝俊が晏龍を生み、晏龍は司幽を生み、司幽は思土を生み、そして思土は妻を娶らなかった。司幽はさらに思女を生み、思女は嫁がなかった。白民国という国家が有った。帝俊が帝鴻を生み、帝鴻の子孫が白民となったため白民国の姓は銷であり、黄米を食物とし、老虎、豹、熊、羆の四種の野獣を飼いならして駆使していた。”とあります。

山海経大荒東経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,14 大荒経大荒東経編

山海経・大荒西経には、”女性がおりまさに月を洗っていた。帝俊の妻常羲は十二個の月を生んだので、月を洗い始めた。”とあります。

山海経・大荒西経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,16 大荒経大荒西経編

山海経・海内経には黄帝から大禹にかけての系譜が以下のように詳細に書かれています。”黄帝は駱明を生み、駱明は白馬を生み、この白馬が鯀であった。帝俊は禺号を生み、禺号は淫梁を生み、淫梁は番禺を生み、この番禺が最初に舟を発明した。番禺は奚仲を生み、奚仲は吉光を生んだ。この吉光が最初に木を使って車を作り出した。少皞は般を生み。般が最初に弓と矢を発明した。帝俊は后羿に紅色の弓と白色の矢筒を下賜し、その弓術で下界の各国を助けるために后羿を下界に遣わした。后羿は多くの人々を苦しみから救済した。帝俊は晏龍を生み、この晏龍が最初に琴と瑟(しつ)の二種類の楽器を発明した。帝俊には八人の子がおり、彼らは歌曲と舞踏を創作し始めた。帝俊は三身を生み、三身は義均を生んだ。この義均がいわゆる巧倕(巧匠で名を倕というというので巧倕であるという説があります。)で、ここから様々な工芸技術の発明が始まった。”とあります。

山海経・海内経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,18 大荒経海内経編

  • 帝俊の部落

地球の気温が低下に伴い海水面が低下したことで帝俊の部落は南方から海を渡り中原へ入り、山東省付近に定住したとされます。部落たちは互いに争い、最終的には黄帝の部落が青帝、蚩尤の九黎族などを駆逐して中原一帯を支配しました。そして羲和の部落は放逐され、黄帝の下で常羲の部落と娥皇の部落が版図をのばし現在考えられている夏王朝の版図が出来上がったと考えられています。この各部落の勢力争いが神話中で帝俊とその妻たちの関係に置き換えて語られている可能性が高いのです。

  • 帝俊の子孫の国

帝俊は東方部落の古い始祖であると考えられ、後代の子孫たちは東西南北に散らばりそれぞれ国家を打ち建てたと言い、子孫たちが打ち建てた国家には中容之国、白民之国、司幽之国、黒歯之国、三身之国、季厘之国、西周、儋耳之国、牛黎之国、殷商の十国があると考えられています。

  • 帝嚳と帝舜との関係

帝嚳の名が初めて見られるのは春秋時代の資料中です。《礼記・祭法》には、”殷人褅嚳”とあり、《国語・魯語》には、”商人褅舜”とあります。三国時代の韋昭は舜は嚳の誤りであると考えていました。しかし、殷墟の甲骨卜辞には商人高祖夔とあり、夔は帝嚳の名であり、文字の形状が変わり”夋”となったのではないかと考えられました。

夔神が分かれ嚳と夋の二神になったことは山海経の神話中にも見て取ることができます。すなわち、ただ夋と書いている場合と帝俊と書いている場合があることです。帝俊は山海経の中で最も主要な上帝神です。山海経では帝嚳も二、三回出てきており、帝舜の表記も見られます。晋の郭璞から近代の学者まで、舜は夋の音が変化して現れたのだと考えてます。これより嚳と俊、舜はもともとは夔という神から分かれて生み出された可能性が高いといえます。




嚳は東方の鳥夷商の遠祖の地位を保持しています。よく言われるのが嚳と簡狄が玄鳥が原因で鳥夷商の祖である契を生んだことに由来していると言います。

一方で同じ俊から分かれたとされる舜は《国語》では商族始祖神の地位を保持していますが、これ以外では商祖の地位を失っています。しかし、堯と共に名前が挙がっており、堯舜という形で並び称され、”三王”(禹とその子孫)の前の”二帝”と呼ばれています。このように舜は俊と別の帝として描かれるようになっており、もともと同一人物であったのが俊と舜の二系統に分かれた上にそれぞれの子孫が国を作ったとされているために関係が非常に複雑になっています。

《大戴礼記・帝系篇》に見られるように後に夏禹や后稷などに諸民族が統一され華夏族を成したことに因んで帝嚳は黄帝系列に編入され、顓頊の二つの主要な系譜の重要な一系譜を為すようになりました。さらに、堯、摯、契、稷の父となったため、嚳はそれぞれの子孫の一族である堯族、商族、周族の祖となりました。これにより、元々一人の帝が俊、舜、嚳に別れた挙句にそれぞれ子孫が国を作りその祖となっているのです。

周代には系譜が編集され周稷が長子となったので商契は次子となりました。このことが東西に分かれた嚳の子孫一族のどちらが兄でどちらが弟なのかという関係がこじれた主因となってしまいました。このことから帝嚳は後世の諸民族の序列に非常に重要な影響を及ぼしていることが判ります。

このように帝俊は夔と言う神様が帝俊と帝夋、帝嚳、帝舜に分かれた内の一人と考えられています。

出典:baidu

今回は帝俊のお話でした。中国神話では多くの帝たちが出てきて混乱してしまいますね。黄帝以降の帝たちは皆黄帝の子孫でありますが、その成立には様々な過程を経ていると考えられます。今回の帝俊はまさにその代表で、かなり複雑であるとともに中国神話の後半部分の主役を為していると言っても過言ではありません。

女媧や伏羲の創世神話を前半と考え、神農氏や黄帝、蚩尤などを中盤と考えると帝俊は後半に出てきます。さらに帝俊の分身に帝舜もいます。帝舜は神話上最も徳の高い帝と言われ堯と共に徳を以て政を行った聖君として並び称されています。

帝俊、もしくはこの場合帝嚳と言った方がしっくりきますが、帝嚳の息子が帝堯ですので、帝嚳から即位した順番に帝嚳ー帝摯ー帝堯ー帝舜と帝俊の関係者が帝の系譜にずらりと並ぶことになります。帝舜の後継者は大禹と言い中国初の国家と言われている夏王朝の初代の王となります。夏王朝以降は商(殷)王朝、周王朝、春秋戦国時代と実際に記録が残っている時代へと変わっていきます。

春秋戦国時代には中原に様々な国家がありました。それぞれの国家には祖がいて、例えば楚の王は祝融の子孫とされており、このようにして神話は人々の間で脈々と受け継がれ現実と混ざり合っていったのです。

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