益と朱虎、熊羆:帝舜を支えた名臣たち

益(えき yi4 イィ)

益は夏王朝時代の人物で治水に功績を残しています。皋陶の死後には益は夏王初代帝王である禹の帝位継承人となりましたが、禹が崩御した後に禹の息子である啓と帝位を争い敗れたと伝わっています。その後啓が帝位を継承し、益は帝啓の六年に亡くなりました。

それまでは帝位は徳のある人物に禅譲されていましたが、禹の後継の啓から世襲されるようになりました。これは神話を通して初の出来事であり、その後の中国では世襲が主流となりました。




孟子によると、益は堯舜時代に仕官した善良で正直な大臣で、国の牧畜業を統括していました。この功績は大禹と遜色無かったと言います。禹により夏王朝が建国されると皋陶が禹の後継者となりましたが、皋陶が亡くなってしまったため禹は益を後継者としました。

  • 王位継承の争い

禹の死後に、益は王位を継承するはずでしたが実際は禹の息子である益に継承されました。この時の話は二通りが伝わっています。

説①孟子・書経:禹の死後に益は即位しましたが、自分の功績が啓に及ばないことを悟り、また天下の人民の多くが啓に帰順しており命令を聞かなかったため益は啓に王位を譲ったという説です。

説②竹書紀年:啓が益を殺したと言う説です。これは盗掘された墓の中の竹簡上に、啓殺益という文があったということを根拠としています。一方で益は啓の即位後も生きていたとされていますので、はっきりとしないのが現状です。

司馬遷の史記・夏本紀には、”帝禹が東巡狩し、会稽で崩御した。これにより益が帝位に就いた。三年の喪が明け、益は帝禹の子である啓を箕山の南面に住まわせた。禹の子である啓は賢く、天下の意は啓に集まっていた。益は禹の補佐をしていたが日が浅かったので、天下は治まらなかった。故に諸侯は皆益を去り啓のもとへと行き言った。「私は帝禹の息子である。」これ以降、啓は天子の位に就き、夏后帝啓と為した。”とあり、司馬遷も説①を採用しています。(微妙にこれは世襲ではなく禅譲の気がしますが…。)




出典:baidu

朱虎、熊羆(しゅこ、ゆうひ zhu1hu3 xiong2pi2 ジュフゥ、シオンピィ)

朱虎、熊羆共に司馬遷の史記、五帝本紀にその名前の記載が見られている帝舜の臣です。五帝本紀内では以下のように書かれています。

”舜は言った。「誰か原野から湿地までの草木鳥獣を管理するのに適している人物はいないか。」皆言った。「益がいいでしょう。」それで益を朕虞に任命した。益は稽首の礼をとり諸臣、朱虎、熊羆に譲った。舜は言った。「行くがよい。そして調和させなさい。」遂に朱虎と熊羆を補佐とした。”とあります。朱虎、熊羆共に帝舜の重臣として描かれています。

この五帝本紀の中では朱虎、熊羆は共に一人の人間を表していますが、《尚書・舜典》には、兄弟を合わせて書かれており、合計四人であることが分かります。即ち、”舜は言った。「誰か原野から湿地までの草木鳥獣を管理するのに適している人物はいないか。」皆言った。「益がいいでしょう。」それで益を朕虞に任命した。益は稽首の礼をとり、朱、虎、熊、羆に譲った。”とあり、それぞれ別人として書かれています。

帝舜に関しては以下をご覧ください!

舜:五帝に数えられる古代中国の名君で意地悪な親にも忠孝を尽くした帝

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