誇父:弱きを助け悪を挫く太陽に立ち向かった伝説の巨人

  • 誇父の概要

誇父(こほ 夸父 kua1fu4 クアフ)

誇父とは中国神話上の伝説的な人物で、中国神話及び東方神話の父と言われる袁珂の著した《中国神話伝説》中で特に精彩を放っています。誇父は人名と同時に誇父族という部落名をも意味しています。

能力値:刑天と似たような能力です。巨人族だけあって戦闘は非常に高いです。太陽を追いかけただの、能力を過信していたなどという記述もありましたので知力は低くなります。部族の長なので政治や統率は高めで、もともと巨人であったのが術によりさらに巨大化したということですので、術も高めです。鍛冶職人などに信仰されていますので、それなりに信仰されています。

古代神話の最大の出来事は黄帝と蚩尤が戦った涿鹿(たくろく)の戦いです。この戦いに誇父も蚩尤側の主力として参戦しました。この時、黄帝側の女神、旱魃と壮絶な戦いを経て戦死したという話しもありますが、最もよく聞く話は喉の渇きで死んでしまったという逸話です。誇父には様々な説がありますが、蚩尤側につき黄帝に敵対したために魔神のイメージが強くなりました。

蚩尤に関しては以下をご覧ください!

蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神

また、蚩尤は楓の木と関わり合いが深いですが、この誇父は桃の木と関わり合いが深いです。桃木は魔を退ける聖なる力があると古くから信じられてきており、このため誇父も神秘的な力を持っていると関連付けられる場合もあります。

5882b2b7d0a20cf45a7dcd4476094b36adaf99bf

黄帝時代に、北方の大荒に成都と呼ばれる天にも届く大きな山がありそこに大神后土の子孫が住んでおり、誇父族と称しました。誇父族は人々に善く尽くし、走ることが得意な上、体が非常に大きかったため力も強く故に巨人族と称されました。これらの特徴のため、人々の感じている不平不満を正すことを良しとし、弱い立場の人たちに変わって悪を挫きました。

黄帝に関しては以下をご覧ください!

黄帝:中国の始祖であり古代神話中最大の功労者

誇父族は蚩尤の部落連盟に加わったので、蚩尤の敵であった黄帝と対峙しました。両雄はやがて涿鹿の戦いで雌雄を決します。この戦いには人間のみではなく様々な神獣や神たちが参戦しており、様々な術が飛び交う凄まじい戦いでした。

涿鹿の戦いに関しては以下をご覧ください!

神獣を巻き込んだ古代中国最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末

  • 書籍中に見られる誇父

古い書物の中に誇父の記載があります。大抵は悪神として描かれていますが、これは蚩尤サイドにいたたため悪として書かれました。蚩尤は黄帝と戦い破れました。その後黄帝は中原を統一して、中国の文明の礎を築いたため、中国の始祖とされています。このため、黄帝に敵対した蚩尤は悪として描かれるようになりました。面白いのが、悪評を広めたのが孔子の儒教でした。儒教の考え方では王は正義と考えるため正義と悪がはっきりと分かれ、そして正義が悪を倒す構図が作られることになります。




《山海経・海外北経》には誇父についてこのように記されています。”日が落ちると渇き飲むことを欲した。河と渭を飲み干しそれでも足りず、北の大澤に飲みに行く途中に渇死した。打ち捨てられた杖は鄧林になった。”とあります。この意味は、誇父が太陽と競争をし、太陽が落ちる場所まで走っていきました。すると喉が渇き水が飲みたくなったので黄河と渭水の水を全て飲みました。しかしそれでも足りなかったので、北方の大澤湖に水を飲みに行きました。しかし、大澤湖に行く途中に喉の渇きで死んでしまいました。彼の持っていた杖は桃の林に変わりました。鄧と桃は古くは同じ発音でした。

Kua-fu

《山海経・大荒東経》には、”大荒東北隅中に凶犁土丘という名の山があった。応龍は南極に住み、蚩尤と誇父を殺し、戻れなかった。旱は数年に及び、干ばつと応龍の状況を見て天に祈り大雨が降った。”とあります。この意味は、大荒東北の角に凶犁土丘山という名の山がありました。応龍はこの山の最南端に住んでいました。黄帝と共に兵神蚩尤と巨人誇父を涿鹿の戦いで破りました。しかし力を使い果たしたため再び天に戻ることが出来なくなりました。天界に雲を作り雨を降らすことのできる応龍が居なくなってしまったため、地上はひどい干ばつに見舞われました。下界の人々は干ばつと応龍の様子を見て雨を祈ると大雨が降りました。

応龍に関しては以下をご覧ください!

応龍(應龍):不死身の帝王である兵神蚩尤を討ち取った中国最強の龍

《山海経・大荒北経》には、”大荒に成都戴天という名の山があった。ある人は耳に二匹の黄蛇を付け、二匹の黄蛇を握っていた。名を誇父といった。后土は信を生み、信は誇父を生んだ。誇父は驕り日影を追うことを欲し、禺谷までこれを追った。黄河に行き水を飲んだが渇きをいやせず、大澤に走っていった。行く途中で渇死した。応龍がすでに蚩尤を殺し、また誇父を殺し、南方に住んだ。故に南方は多雨である。”とあります。《列子・湯問》にも似たような記述があります。

この意味は、北方の大荒という地方に成都戴天という名の山がありました。山の上には両耳に黄蛇のピアスを付けていて、手には二匹の黄蛇を握っている誇父という名の人物がいました。后土という人が信という子供を生み、信は誇父を生みました。誇父は自分の力量を過信しており、太陽の影を追いかけたいと思い、禺谷まで影を追いかけました。

すると、喉が渇き黄河に行き水を飲みましたが渇きをいやせずついには黄河の水を全て飲み干してしまいました。それでも足りずに大澤という湖に行きその水を飲もうとして走って向かいました。しかし、大澤に行く途中にあまりの喉の渇きに死んでしまいました。応龍が涿鹿の戦いで蚩尤を殺しました。そして誇父を殺した後に南方へ行きそこに住みました。雨を降らす能力を持った応龍が南方へ移り住んだので南方にはよく雨が降るようになりました。この話は誇父が太陽を追いかけた話と涿鹿の戦いが混在しています。




《山海経・中山経》には、”西に九十里、誇父の山と曰く、その木は椶楠、竹箭が多く生えており、牛、羊、鷩が多くいた。その陽には玉が多く、陰には鉄が多かった。北には林があり、桃林と曰く、その周囲は三百里で中には馬が多くいた。湖水は湧き出し、北を流れ河に注ぐ、その中には珚玉が多くあった。”とあります。

この意味は、常烝山から西に九十里行ったところに誇父山という山がありました。その山にはシュロの大木が沢山あり楠と小さな竹の藪がありました。山中に住む動物は、牛や羊、雉などです。山の南麓には沢山の玉石(ヒスイ)があり、北側には鉄鉱石が豊富に埋蔵されていました。山の北には気の林があり、桃林と呼ばれていました。周囲三百里あり、山中には沢山の馬が住んでいました。湖水が山中から湧き出し、山の北を流れて黄河へと注ぎました。その川の中には沢山の珚玉(玉の一種)がありました。

  • 誇父の伝説その1 誇父追日

黄帝の時代、北方の大荒に一つの大きな山がありました。その頂は天まで届いていたので成都戴天と呼ばれました。この山の削られた絶壁の中腹に雲霧繚繞、松柏挺立の雄大で壮麗な景色が広がっていました。仙人が住むような山の上に后土の子孫たちが住んでおり、誇父族と言いました。彼らは皆体が大きく、力も強く、弱い人々に代わって不平を正すことを好みました。南方の蚩尤が黄帝に打ち破られると誇父族に救援を求める使者がやってきました。誇父族の多くは弱きものを助けることを良しとしたため、蚩尤に味方し黄帝と対決するために出陣しました。

蚩尤族は誇父族の助けを得て、虎に翼が生えたように再度黄帝軍とたたかい遂には打ち負かしました。黄帝軍は泰山まで退却し、泰山の上で各地の神仙に援軍を求めました。すると、玄女と称する女性が黄帝に謁見し、兵法を教授しました。またある人は宝剣を鋳造するために黄帝に昆吾山の紅銅を送りました。その宝剣は金を断ち玉をも切り、鉄を泥のように削りました。つまり、新石器時代に金属の製錬と精製技術である冶金技術がもたらされたわけです。これにより黄帝軍は布陣を敷き、涿鹿の戦いでついには蚩尤を殺し、誇父族は成都戴天へ戻りました。

14ce36d3d539b600d3da500ce150352ac65cb771

程なくして、地上には激しい干ばつが起こりました。太陽は大きな火球のようになり、大地は焼けて裂け、江湖は干からび大地は荒涼としました。誇父族は総出で干ばつ対策のために水を捜しました。しかし、河も湖もすべて涸れてしまっていたので水を探せど見当たりません。誇父族の首領はイライラして怒り、太陽を引きずり降ろそうと誓いました。太陽は誇父が本当に発火しているのを見て狼狽し、慌てて西へ逃げました。

誇父の首領は太陽を追いかけました。しかし、太陽はさらに速く逃げるとともに、誇父を止めようと誇父に向かって熱を放出しました。誇父の全身からは汗がいつ尽きることもなく雨のように流れ落ちましたが、走るのをやめませんでした。太陽を追いかけて万里を走り、太陽が落ちる地方である禺谷にまで追い詰めました。”さあどこへ逃げる!”と誇父は意気揚々と言いました。




太陽は逃げ場がないことを見て取り、冷笑し反撃に転じました。そして持てる熱量の全てを誇父めがけて放出したのです。誇父は一陣の目眩に襲われ眼前には金星がほとばしり、口は渇き舌は焼け両腕はだらりと垂れ下がりました。”倒すことはできんぞ!”誇父は自分を励ますように叫び、喉の渇きを潤した後再度太陽をとらえようと思い黄河へ行き水を飲みました。誇父は黄河を飲み干して次に渭水をも飲み干しました。

しかし、口の渇きは耐え難く、今度は大澤の水を飲みに行く決心をしました。屈強な誇父は大澤の水を飲んだ後、なんと再度太陽と対決するつもりでした。大澤は又は瀚海とも呼ばれ、鳥雀たちが雛を孵し羽毛が抜けかわる場所でした。誇父は大澤の付近まで来ると一陣の目眩に見舞われました。そして一声発すると大きな山のように倒れ込んでしまいました。

誇父は西に沈みゆく太陽に対して無念に思い、叫び声をあげた後、手に持っていた杖を太陽めがけて力いっぱい投げつけ、瞳を閉じて死んでしまいました。次の日早朝、太陽は東から昇りました。そして大きな山になった誇父を見て誇父の勇気に感服し、誇父の周囲を照らしました。すると誇父の杖が一片の桃林に変わり、木々いっぱいに桃の果実を実らせました。

  • 誇父の伝説その2

遥か昔、中国の北部に雄大な成都載天山があり、山には誇父族という巨人族が住んでいました。体が大きく力も強く、さらには意志も強かったため非凡で大変な気概を持っていました。ある時、世界中が荒廃し、毒蛇や猛獣が横行したため、人々の生活は非常に苦しくなりました。誇父は下界の民たちを助けるために、部落の民と洪水を引き連れて毎日猛獣と戦いました。また、誇父は捕らえた凶悪な黄蛇を両耳に飾り、それを以て光栄としました。

ある一年は大干ばつに見舞われました。火のような太陽が大地を焼き作物は枯れて河川は涸れました。人々は成すすべもなく生活どころではありませんでした。誇父はこの光景を見て雄心壮志を持ち、太陽をとらえることを誓い、太陽に人々の苦難を聞かせて人々のために尽くすようにさせようとしました。

ある日、太陽は会場から昇り、誇父は東海辺りから太陽の追跡を始めました。太陽は上空を高速で飛びました。誇父は地上で疾風のように追いかけました。誇父は休まず追いかけ、お腹がすくと野にある果実などを食べて飢えを満たし、喉が渇くと川の水を飲みました。疲れるとうたたねをしました。彼の心中は自分を励まし、早く太陽を捕まえて人々を幸福にしたいという一心でした。

誇父は九天九夜追いかけ、太陽に徐々に近づきました。真っ赤に燃える太陽がまさに頭上にありました。誇父は山々を越え河を渡り遂に禺谷までやってきました。この時誇父は大変興奮していました。

そして太陽ととらえようと手を伸ばした瞬間突然激しい振動に見舞われ心身は憔悴し意識を失ってしまいました。刑天が目覚めたとき太陽はすでに去っていました。しかし、誇父の気力は衰えておらず、足をたたいて全身の気力を奮い起こし準備して再び出発しました。

再度太陽に近づくにつれ光はだんだんと強烈になっていきました。誇父は耐え難い焦燥に駆られ全身の水分が蒸発していると感じました。急いで大量の水を飲む必要がありました。誇父は東南の方角にある黄河の岸辺にやってきて身を伏せて黄河の水を猛烈な勢いで飲みだすと、黄河の水は誇父に飲み干されてしまいました。

誇父は今度は渭水に行き河の水を飲みました。渭水の水を飲みほしてもなお誇父の喉の渇きは癒されませんでしたので、北へ向かい大澤の水を飲みに行きました。しかし、疲れと喉の渇きがひどく、歩いている途中に身体を支えることが出来なくなりゆっくりと地面に崩れ落ちて死んでしまいました。

出典:baidu

誇父は伝説の巨人もしくは巨人族です。もともと正義感の強い性格の持ち主で弱いものを助けることを良しとしていました。それが仇を成し、蚩尤に味方して破滅の道へ向かってしまったとも考えられます。黄帝と戦った涿鹿の戦いでは、蚩尤軍の一翼として戦っています。しかし、日照りの女神である旱魃に全身を焼かれて戦線離脱してしまい、この時戦死したとも戦後大澤に水を飲みに行く途中に渇死したとも言われています。

また、涿鹿の戦いに参加しない説の場合は太陽を追いかけたため、太陽に焼かれてしまいます。太陽と戦ったのは中国神話中に二人おり、一人がこの誇父です。もう一人が羿(げい)です。誇父は敗れてしまいましたが羿は何と太陽を弓で射落としています。

いずれにせよ、中国神話中で一際異彩を放っているのがこの誇父なのです。

下のリンクをクリックすると中国の神獣や妖怪をまとめたページへ移動します。

中国の神獣妖怪のまとめページ




スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク