帝摯:名君ぞろいの黄帝の系譜の中で凡庸さが際立つ帝王

帝摯(ていし di4zhi4 ディジィ)

帝摯は紀元前2450年に生まれて紀元前2326年に亡くなったとされています。青陽氏と号し、帝嚳の長子でした。生母は常儀でした。中国古代の部落連盟の首領であり後世には帝として敬われました。

帝嚳の死後摯は帝嚳の長子として帝位を禅譲されました。在位後、摯は政治を顧みずに世は荒廃してしまいました。

帝嚳の次子で帝摯の弟に堯がいました。堯は名を放勲と言い徳が高く名君として現代でも偉大なる帝として奉られています。帝摯が即位した時に十五歳の放勲は兄の補佐をしました。その後、放勲堯は唐に封じられ唐堯と称しました。九年後には世を憂いた諸侯たちは堯を天子に推尊しました。堯が帝位について以降は摯は高辛(商丘の高辛鎮)に封じられました。他方、帝摯が死去したので堯が即位したという説もあります。

帝堯に関しては以下をご覧ください!

堯:お酒や囲碁を発明したという聖人で五帝の一

帝摯の経歴に関しては様々な説があります。司馬遷の史記には、”帝嚳が崩御し摯が次に即位した。しかし不善であったため帝放勲が即して帝堯となった。”とあります。

皇甫謐の《帝王世紀》には、”帝摯の母の地位は帝嚳の四人の妻の中で最も低いが、摯は兄弟の中で最年長であったので帝位に就くことができ、異母弟の放勲を唐侯とした。在位九年、凡庸で国家を治める能力に欠けていた。唐侯堯は仁慈愛民で人の心を察することができ、理を以って治めその徳は天下に轟いた。摯は堯の聖明には遠く及ばないことを自覚し群臣を率いて唐侯を訪れ禅譲の意思を伝えた。唐侯は天命と受け止め帝位を受け、摯は高辛に封じられた。”とあります。

出典:baidu

今回は帝摯のお話でした。帝摯は父親を帝嚳に持ち、弟に堯がおり、前任と後任が共に五帝に数えられることもある名君です。黄帝の系譜は名君が多いので、その凡庸さで逆に目立ってしまっていると言う少々悲しい存在でもあります。

しかし、帝王世紀の記述によれば、自身の能力不足を素直に認め堯に禅譲を行っているのでこの点を信じるのであれば物事の本質をある程度見ることができる人であったとも思えますが、帝が自らの過ちを認めて帝位を交代するということは非常にまれであり、大抵陰謀や武力を背景にして無理やり実施させられます。そもそも禅譲した後は殺される、もしくは蟄居させられる可能性が非常に高いですし自分の子ならまだしも異母弟には怖くて譲れないですよね(;´∀`)

なので堯の場合も武力を背景にし禅譲後にはその身の安全と高辛に封じると言う約束の元で禅譲を迫った可能性の方がしっくりきます。堯は徳の高い帝ですので歴史書などにはそのような徳の低い行いの記録は残るはずもなく、帝摯自ら頭を下げて禅譲のお願いをした、と疑問の残る記述になったのだとなんとなく感じました。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク