天皇・地皇・人皇:中国で最も尊いと言われている三皇たち

天皇氏(てんおうし)

天皇氏は天地開闢後の第一位の君主とされており、中国古代伝説中の人物です。兄弟は十二人とも十三人いたとも言われており、百越で生まれました。古越族であり姓は望で名は獲、字は文生で別号は天霊、防五、天霧などがあります。また、この十二人の兄弟の顔は全く同じで区別が出来なかったと言います。

彼らは木徳を以って天下に王たり、百越良渚古城中の莫角山台址上を治め、在位は千八百年であったとされます。伝説では天皇氏は三皇の前に現れ、同様に伝説中では天皇氏は地皇氏の父親で人皇氏の祖父であり、五龍の首とされています。

宋の羅泌の《路史・前紀二・天皇紀》には、”粤(えつ)に天皇がおり、天霊、望獲と言い強く尊かった。”とあります。天皇氏は後世に道教に取り込まれており、道教中の三皇の天宝君、即ち元始天尊として祀られています。統治期間は三十六万にも及び、その統治後には白日に昇仙し、三玄空宮中へと飛んで行ったとされています。元始天尊は天皇の他にも盤古由来と言う説もあります。

盤古に関しては以下をご覧ください!

盤古:天地開闢をした創造神。全てはここから始まった。

  • 天皇の由来

唐代の杜佑の《通典》、清代の方浚師の《蕉軒随録》には、”天皇氏は三皇の前に出現した帝王である。”とあります。盤古開天の後、古越族が崑崙山に出現し、西域の崑崙山で部落の首領となり盤古は隠れていなくなってしまいました。

古越族は百越と呼ばれていた地域に古くから住んでいた民族であり、古越語を話しました。百越とは古代中国南方の沿海一帯の古越人が住んでいた地域の事を指します。《漢書・地理誌》に記載されている百越の分布は、”交趾から会稽へ至る七、八百里で、百越は雑居しており各々が階級制度を持っていた。”とあります。昔の一里は現在の四百メートルほどです。

古越族の首領は天皇氏と呼ばれていました。古代には”天”は限りない高さを指し、”皇”は太陽と同じような光輝絢爛の意味となります。氏とは帝王貴族などの呼称として用いられました。つまり、”天皇氏”の意味は、太陽のような光輝絢爛の限りなく高い首領となります。

  • 暦の制定

天皇氏は暦を制定したと言われており、《盤古王表》には、”天皇は干支の名で歳の所在を定めることを始めた。十干は、閼逢、旃蒙、柔兆、強圉、著雍、屠維、上章、重光、玄(黒戈)、昭陽であり、十二支は、困頓、赤奮若、摄提格、単閼、執徐、大荒落、敦胖、協协洽、涒灘、作噩、閹茂、大洲献であった。”とあります。

干支とは十干と十二支を組み合わせたものです。天干地支とも言います。十干とは甲乙丙…で十二支は子丑寅卯…でおなじみです。この十干と十二支の全部で120通りあるのですが、ぐるりと円状に配置して組み合わせると60通りの組み合わせが出来ます。この十干と十二支を円状に組み合わせたものを干支と呼び60年で一周し、一周することを還暦と言います。

細かい話で恐縮ですが、よく今年の干支は?という言い方をしますがこの干支の正式な言い方は辛亥や甲子など十干と十二支を組み合わせて言う必要がありますので、午や酉だけを言う言い方は間違いとなります。干支は歴史上の出来事によく使われたりしますのでよくよく見てみると様々なところでその名前が使われています。例えば辛亥革命や甲子園などです。

天皇氏は四季の移り変わりを見て万物の変化は自然の摂理であると考えました。人々の生活は季節と共にあり、次の季節が来るまでにどれくらいの時間がかかるかなど分からない状態でした。盤古開天より以降、歴法が無かったのです。

天皇氏の十二人の兄弟達は相談して天干地支の歴法を制定し、季節や時期を定めることに用いました。そして先に”十天干”を制定して年を記録することに使用しました。十天干とは、関逢(甲)、旅蒙(乙)、柔兆(丙)、強圉(丁)、著雍(戊)、屠維(己)、上章(庚)、重光(辛)、玄黙(壬)、昭陽(癸)です。

更に、”十二地支”を時を記録することに使用しました。即ち、困敦(子)、赤奮若(丑)、摄提格(寅)、单閼(卯)、執徐(辰)、大荒落(巳)、敦牂(午)、協洽(未)、涒灘(申)、作噩(酉)、閹茂(戌)、大淵献(亥)です。

十天干と十二地支はお互いに組み合わせられ、六十の組み合わせ(六十甲子)が作られました。そしてこの組み合わせは年などに使用されてきました。

天皇氏は自然気候が変化することを陰陽五運の輪轉運動と捉え、循環している結果であるとしました。天皇氏は木徳の運を尊重しました。天皇氏が天干地支を創造して以降、人々は土運、金運、水運、木運、火運の五運を用い始め、五行の気が天地間で規則的に運動し変化するととらえて陰陽の観念に通じました。

  • 道教中の伝説

南北朝時代の《元始上真衆仙記》によると、”開天辟地の盤古真人は天地の精華であり元始天王と自ら号した。天地構成の後、忽然と石澗積血の中で太元玉女を生み出した。太元玉女は生まれたときに話すことが出来、常に大地の上で遊び、仰いで元気を吸い、太元聖母と号した。元始天王と太元聖母は気を通じ精を結び、そして扶桑大帝東王公と西王母を生み、さらに天皇兄弟十二人を生み、天皇は地皇を生み、地皇は人皇を生み、伏羲、神農などの五帝はその後裔である。”とあります。

道教では太上老君は唯一の存在で、幾世も帝王であった老子のことであり、《太上混元聖紀》では元肇始記から始まっています。この中では、一元肇始には天地の初めに神人がおり天皇氏と称し木徳王であり、寅年から天下の統治を開始し天皇氏兄弟十二人がそれぞれ一万八千年生きた、とあります。天皇氏に統治期間に太上老君が降臨し、天皇氏の師傅となり通玄天師や玄中大法師と号しました。また、この時天天皇に《天皇内経》十四篇を授与し、天皇氏の統治三十六万年以後、白日昇仙し、三玄空天宮中に到ったと言います。

出典:baidu

地皇氏(ちこうし di4huang2shi4 ディホアンシ)

地皇氏は地皇と略されることが多く、中国古代神話中の人物で兄弟は十一人とも十二人いたとも言われています。伝説によると岳姓で名は鑑、字は子元、号は文悦と言います。この十一人兄弟は皆女性の見た目で、額が高くて大きく、馬の脚掌で蛇の体をしていたと言います。彼らは火徳を以って天下に王となし、天皇氏の跡を継いで部落の首領となりました。治めていた場所は龍門山、熊耳山一帯で在位は千八百年に渡りました。また、地皇氏は三皇の前に存在していたという伝説もあれば、天皇氏の子で人皇氏の父であり、五龍の一人であるという伝説もあります。

地皇氏は中国の同郷でも神仙として信奉されています。伝説中での天皇氏の白日昇仙の後、地皇氏は天下を統治し、太上老君はまた流網山上に降り、地皇氏に《地皇内経》十四篇を授けました。地皇氏がこの経を得て、三万六千年の治世の後、白日登仙し太極虚皇天中へと登っていきました。神農氏など三皇五帝はその後裔であると伝わっています。

《帝王世紀》には、天地開闢し天皇氏、地皇氏、人皇氏があった、とあり、《秦本紀》は、帝王世紀のこの文を引用して地皇氏は天地開闢以降の最も早い三位の帝王の一人としています。地皇氏と地皇という言葉は実は意味が異なっています。地皇氏は一位の帝王を指していますが、地皇と言う言葉は二重の意味があります。一つ目は三才の一つです。三才とは三在であり、在とは客観の存在を指しており、三在とは即ち天、地、人の事です。この世は太極から始まり、次に天地が生まれ、天地の交わりと人の世界が形成されていきました。古代人はこの生成の順序を、天一、地二、人三としました。この世界は次第に皇化と称すようになり地二は皇化世界形成の第二の順序となりました。これにより地皇は世界三大組分の一つを指し、世界生成の第二の順序を指すようにもなりました。つまり、座位を指しており帝王たちが代わる代わるその位に座りました。《尚書大伝》には、神農氏を地皇の座位に据えており、《三墳》は黄帝を地皇の座位に据えているなどです。

  • 五龍の一

《春秋命歴序》には、”五龍”は天皇父子五人(一父四子)を指し、地皇を天皇太子を”五龍”の一としています

  • 神農氏との関係

三皇と言えば天皇、地皇、人皇ともう一方で伏羲、女媧、神農氏が挙げられます。この二つの説の中で地皇氏は神農氏と重ね合わせられることがあります。

神農氏は古代中国伝説中では農業と医薬の発明者として知られています。古代人が狩猟採集生活をしているときに、神農氏は鍬や鋤などの農機具を発明し、民衆に農業を教えることで生産性拡大に貢献しました。その他にも嘗百草を行うことで薬を作り出し、人々を病気から救いました。

神農氏と地皇氏との関連性は不明ですが、恐らく異なる二系統の神話が混同していると思われます。

出典:baidu

人皇氏(じんこうし ren2huan2gshi4 レンフアンシ)

人皇氏は単に人皇とも呼ばれている中国古代神話中の人物です。天皇、地皇と並んで三皇とも称されています。《帝王世紀》には、”天地が開闢し、天皇氏、地皇氏、人皇氏があった。”とあります。人皇氏と人皇は厳密には意味が異なっており、人皇氏は帝王をさしますが人皇自体には複数の意味があります。一つには三才の一つです。三才とは三在であり、天、地、人を指しています。この世界が太極から生まれ、そして天と地が形成された後に人間の世界ができました。この形成の順序は天一、地二、人三とされてきました。この世界の変化は皇化とも呼ばれ、人三はこの皇化の第三番目の形体です。これにより、人皇はこの世界の第三番目の形体を指している場合もあり、さらに帝王の座位をも指しています。例えば、《尚書大伝》には伏羲氏を人皇の位に据え、《三墳》では神農氏を人皇に据えています。道教の文献には則ち燧人氏を人皇に据えているなど様々です。

一方、人皇が人物を指す場合には様々な説があり、最も一般的な人物としては地皇氏の子であり提挺氏の父で、姓を愷、名を胡洮、字を文生と言い、居方氏とも号した人物です。兄弟は九人おり分かれて九州を統治しました。百五十世を経て在位し統治期間は一万五千六百年であったと言います。治めた場所は現在の山東日照両城鎮遺跡であると言われています。

その他にも《捨遺記》の一巻に、”昔の者、人皇は蛇身で九首で自ら世界を開きこれにより日月は重なり回り、山は明るく海は静かであった。”とあります。

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泰皇(たいこう tai4huang2 タイフアン)

泰皇は三皇の一人に数えられることもあり、このため三皇には諸説があります。一般的には三皇は天皇、地皇、人皇ですが、人皇の代りに泰皇が挙げられる場合があります。その他にも伏羲、女媧、神農説もありますがここでは割愛します。

泰皇は《史記・秦始皇本紀》では紀元前221年(秦始皇26年)に、李斯が古代の三皇について言及した時、その中でも泰皇が最も尊いと述べたことが書かれています。李斯は楚国出身であり、楚国貴族が崇拝する神を皇太一(もしくは泰一)と言い、泰皇と称したと言われています。

三皇は様々な説がありますので、様々な地域の神様などが合わさって作り出されたと考えられます。

出典:baidu

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