第七巻:捜神記を翻訳してみた

捜神記翻訳シリーズ第七巻です。今回もその時代に起こった特異な出来事を強引に事件と結び付けている感が否めません。いや、関係ないでしょって思わず突っ込んでしまいそうになります(;´∀`) よく根拠として引用されている京房さんは易経の権威で預言者でもありました。

  • 西晋服妖

晋武帝の泰始元年に上半身の衣服は簡素だが、下の衣服は洗練されている衣服を着ている人物は皆腰に上着を巻き付けてズボンの中へと入れていた。これは君主が衰弱して臣下が放縦している象徴となっていた。元康末年には、婦人の衣服は二つのズボンが出ており、襟の上部に付けられて、内側から外側へと飛び出していた。車両を製作する人は粗雑な造りを以って貴きと為し、何度も車の形状を変え、竹ひごを最も良い材料としていた。これが古代の葬式用の車の様子であった。これらが晋朝の災禍の兆しであった。

  • 翟器翟食

胡床、貊槃は翟族の道具であった。羌煮、貊炙は翟族の食べ物であった。晋武帝の太始年間以来、中原地区ではこれらの物が流行した。貴族富人の家には必ずこれらの道具があった。貴賓を商大した宴席では、最初に備えられてた。これは西戎と北翟が中原へ侵攻してくる兆候であった。

  • 蟛蚑が鼠に化ける

晋太康四年、会稽郡の蟛蚑と螃蟹はどちらも鼠に変化した。これらの鼠は野に満遍なくおり、勝手気ままに稲や穀物を齧り災害をもたらしていた。彼らが鼠に変わった時、毛も肉もあったが骨が無く田の畦を越えることが出来なかった。何日か後に、皆母鼠になっていた。

  • 太康の二龍

晋の太康五年の正月に二条の龍が武器庫の中に現れた。武器庫は皇帝の様々な珍しい防衛機器を貯蔵していた場所であった。その部屋は暗く恐ろしく、とても龍が住むような場所ではなかった。七年後には諸侯は互いに殺し合った。二十八年後には二人の胡人が帝位を計画して略取し、彼らの名はどちらも龍の字があった。

  • 死んだ牛の頭が話す

太康九年に幽州の外の長城の北部に死んだ牛の頭が話したという出来事があった。当時の皇帝はよく病気になり自分の死後を非常に懸念していた。しかし、皇帝は大公無私の心で後のことを大臣に託すことが出来なかった。これは思想上、精神上の錯乱の反応であった。

  • 男女の履

初め、木靴が作られたときには婦女用は先端が丸く、男用は四角く男女の区別がなされた。晋太康年間になると婦女は四角い木靴を履くようになり男女の区別は無くなった。これは賈皇后の専制を妬む征兆であった。

  • 擷子髻

晋朝の頃、婦女は髪を束ね、束ねた後に絹の紐できつく頭に巻き付けており擷子髻と呼ばれた。この髪結いは宮廷から始まり、全国へと伝わり流行した。晋朝の末年、最終的には晋懐帝、晋恵帝が殺されるという事件が起こった。

  • 婦人が兵を飾る

晋恵帝の元康年間に、婦女の服飾には五件の兵器があった。また、金、銀、象、角、玳瑁などの材料で斧、鉞、戈、戟などの装飾物を作り身に着け、それらで髪留めを作った。男女は区別されており国家の重要な礼節には服飾や飲食等も別であった。今の婦女が兵器で服飾を作るのは不吉な出来事を大変恐れたからであった。それは賈后の事件が起こったからである。

  • 六鍾が涕を出す

晋恵帝元康三年閏二月、太極殿の前の六つの鍾が皆泪を流し、流し始めて五刻で止まった。前年に賈皇后は金墉城で楊太后を殺害し、なおかつ賈皇后は悪事を働き後悔はしておらずに、このため鍾が泪を流し、まるで哀しんでいるようであった。

  • 烏杖柱掖

晋恵帝元康年中に、天下は互いに真似をして烏頭杖を作り始め、腕を支えるために使用した。以降、次第に杖の末端に平らな底の金属の覆いを取り付けるようになり、道を歩いているときに停止する時に手に持った杖で身体を支えた。晋の懐帝、慰帝の時代に到ると、王室に災難が多く、京城は衰退していった。晋元帝は藩臣をもって東方に徳行を樹立し、全国を維持した。これは周囲から腕を支えるということが事実となったのだ。

  • 貴遊裸身

晋恵帝元康年間に、貴族の子弟が頭髪を乱し裸で集まり一緒に酒を飲んでいたが互いに下女と妾と遊んでいた。この様にしないと気まずくなり、批判すると嘲笑され、世俗の人は参加しないと恥とするようになった。これは胡人、狄人が中原に侵攻する兆しであり、この出来事以降遂にニ胡の乱が起こった。

  • 賎人が禁庭に入る

晋恵帝太安元年四月、ある人物が雲龍門から宮殿の前に入ってきて北へ向かって頭で地面を叩き礼をし、「私は中書監を担当しています。」と言った。宮廷の禁軍は直ちに逮捕しその男を殺した。皇宮は重要な機密がある場所なので、そのような卑賎の人物が入ってきたが門衛が気付かなかったということは皇宮が空虚であることを示しており、地位の低い人物が地位な高貴な人物を超える妖兆である。この後、皇帝は長安に遷都し、この宮廷は空虚になった。

  • 牛能言

晋恵帝太安年間に、江夏郡の功曹である張騁が乗っていた牛が突然口を開き、「天下に大乱があり、私は非常にくたびれてしまいました。私に乗ってどこへ行くのですか?」と言った。張騁とお供の数人はこれに驚き恐れたので、牛を騙し、「お前を帰そうと思っているのでもう話さないように。」と言い、道半ばで家に引き返した。家に戻ってもまだ車から降りず、牛は再び口を開き、「なぜ戻るのがこんなに早いのです?」と言った。張騁は更に恐ろしくなり、この牛を秘匿し、外に出さなかった。安陸県に卜占に長じている人物がいたので、張騁は彼を探し出し占ってもらった。卜占を行った人物は、「大凶の征兆です。一家一戸の災禍ではなく、全国に戦争が起こり郡内の家々は破壊され人々は殺害されてしまうでしょう。」と言った。張騁は家に戻ると、あの牛が人と同じように立ち上がり行き来しており、人々は取り囲んで見ていた。

その年の秋に、張昌の賊軍が蜂起した。彼らはまず江夏を占領し、欺瞞で迷わされている百姓たちが言うには漢王朝の復興であり、鳳凰が降臨するという吉兆があったのでどこかで聖人が出生した、というものであった。造反に参加した人々は皆紅色を額に塗り、火徳の吉祥を表した。百姓たちの人心は揺れ動き、積極的に造反に参加した。張騁兄弟の数名は皆将軍都尉に任命されたが、それほど長くない間に皆失敗した。このため、その郡は破壊されてしまい、百姓たちの死傷者は半数を超えたといい、張騁の家も滅亡した。京房の《易妖》には、「牛が言葉をしゃべることは、その言った内容自体が吉凶を占っているということなのである。」とある。

  • 敗履聚道

晋の恵帝の元康、太安年間に長江淮河流域で破れた草鞋が自ら道路の上に集まっており、多い時には四、五十双になった。人々がある時草鞋を集めて整理し、叢の中に放り投げた。翌日見てみると放り投げる前と同じように見えた。ある人が言うには野良猫が草鞋を加えて集めていると言うのだ。世の中にある伝説には、「草鞋は身分の低い者が履き、働かさせられ辱められ平民百姓の象徴である。破れることは疲労困乏の象徴である。道は大地の模様で四方の交通に使い、皇上の命令は道路を通って伝達される。今の如く破れた草鞋が道の上に集まることは平民百姓の拾うと苦痛を象徴しており、集まって造反し四方の交通が断絶しさらに皇上の命令の伝達を妨げるのである。」とあった。

  • 狗が人の言を作る

永嘉五年、呉郡嘉興県人の張林家で一匹の犬が忽然と人の言葉を話すようになり、「天下の人は皆餓死するだろう。」と言った。この一年に果たして二胡の乱が起こり、全国は飢え荒廃した。

  • 蝘鼠が延陵に出る

永嘉五年の十一月、鼹鼠(もぐら)が延陵に現れた。郭璞が卦を占うと、遇臨の益と出て、「この郡の東辺の一つの県に妖人が皇帝の権力を行使しようとしたが、程なくしてその人物は自ら死亡した。」と言った。

  • 茱萸が相樛し生える

永嘉六年正月に、無錫県に忽然と四本の茱萸樹が互いに巻き付きながら成長し、連理の枝のようになった。この前に郭璞が延陵の鼹鼠を占い、臨と出た卦を益の卦に変えてしまった。そして、「以後再び妖樹が成長し、瑞祥のように見えるが実際は辛辣で毒のある樹木である。もしこのような木があればこの木から数百里の地方に必ず乱を起こす人物がいる。」と言った。この樹木が成長した後、呉興郡功の曹徐馥が乱を起こし、呉興太守の袁琇を殺した。

  • 生笺単衣

永嘉年間に、士大夫達は争って生絹製の単衣を着た。見識のある人物はこれを奇怪に思い、「これは古代で喪服として用いられた布であり、諸侯が天子の喪に服するときに着るものだ。現在それを着る理由はどこにもなく、不祥の予兆があるのではないかと恐ろしい。」と言った。その後、晋の懐帝、晋の愍帝が崩御した。

  • 無顔帢

魏の武帝曹操が軍中で何の理由もなく白い帽子を縫った。これは白色の喪服であり凶兆の象徴であった。当初、帽子の前面横に一切れの布を縫い付けており、後面と区別した為に”顔帢”と称され民間に伝わった。永嘉年間になると次第に前面の布が取り払われ”無顔帢”と言われてるようになった。婦女が頭髪を束ねると次第に緩くなり、結った髪髻は立たなくなってしまい、頭髪は額の上で散らばりただ眼だけが見えた。無顔の者は慚愧と呼ばれた。髪は額を多い、慚愧の容貌であった。束ねた頭髪をさらに緩めた者は、天下の人々は礼と義が無いと言った。放縦性情は極地に到り、最大の恥辱となった。其の二年後に永嘉の乱が起こり、国家は分裂し百姓の苦痛を受け悲しみ傷つき無顔となり生きた。

  • 任喬の女嬰の体が連なる

晋愍帝の建興四年に、西京長安が陥落し晋元帝が晋の皇帝として即位し、全国の人心は安定した。この一年の十月二十二日に、新蔡県官吏の任喬の妻の故氏二十五歳が二人の女の子を生み、腹心部がつながっており顔は相対し、腰より上からへそ以下は分かれていた。これは恐らく天下にまだ妖がいる征兆であった。当時の内史の呂会は上奏し、「《瑞応図》によれば、木の枝は根とは異なるが繋がって一体化し連理となします。苗と茎は同じで多い穂は豊作をもたらす、とあります。草木の類もこのようであり、なおかつ瑞祥と認め、現在二人の体は同心でこれは天から降りる霊験も象征です。それで《周易》には、二人同心だと、鋭利さは硬い金属を断つ程である、とあります。天の美しい景色は陳東の境内を表し、全国の同心の吉兆です。臣は非常に嬉しくて画を描いたので献上します。」当時の知識人たちは彼を笑った。

君子は、「知識を得ることは難しい。臧文仲のような才能があっても、一人爰居(海鳥の一種)を祭祀する。典籍上に記載されれば、千年も忘れられることはない。このため人々は学問をせずにはいられないのだ。古人は、「樹木に枝幹が無いと内傷病と称し、人が学ばなければ盲目と称す。」と言った。自分自身が知らないことに対してむやみに見当違いな評価を生べきではない。努力すべきではないのか?」と言った。

  • 地震涌水

晋の元帝太興元年四月、西平で地震が発生し水が地面から湧き出した。十二月に、廬陵、豫章、武昌、西陵で地震が発生し水が地面から湧き出し山が崩れた。これは王敦が皇の上に立つ事の兆応であった。

  • 武昌の火災

晋の元帝太興年間に、王敦が武昌を鎮守し、武昌に火災があった。火災が発生してから大勢消火にあたったが消火したと思うと別の場所から出火し、東西南北四方の隣接した数十の建物が一緒に焼け、数日間火は消えることがなかった。このことは以前より言われている、「手のつけようのない災難は胡の乱が起こり、この動乱で多くの人を救うことが出来ない。」という意味があった。また、臣下が君上の権力を行使し、盛んな陽気を制御できないのである。当時の王敦は皇上の上に立ち、君の心は無く故にこの火災が起こったのだ。

  • 絳襄縛紒

晋元帝の太興年間に、兵士が紅色の袋で髪髻を留めていた。見識のある人物は、「髪髻が頭の上にあり乾に属している。これは君の道を表示している。袋は坤に属しており、これは臣の道を表示している。今のような紅色の袋で髪髻を縛ることは、臣道が君道を犯す象徴である、衣服を着る時は上面の袋は短く腋に到るほどに結ぶ。帽子をかぶる時にはまた帯を首の上で留める。下面は上面を引っ張り、上面の帽子と頭部の隙間を無くすのである。套褲は長方形の布を用い、裾を作り収束させずに下面が大きい象徴とする。」と言った。程なくして王敦が謀反を起こし二度に渡り京城を攻撃した。

  • 羽扇を改制する

以前作られた羽扇の扇柄は木の彫刻が施されており、鳥の骨と形状が似ており十本の羽が並べられており、全てを取った。最初、王敦が南征し、扇の柄を長く改造し始め、下面には握りが取り付けられなおかつ羽の数が減り八本になった。見識のある人はこの件を非難し、「羽扇は鳥翼の名称である。長柄扇は扇の柄を握らなければならず、鳥の羽翼を制限するものである。羽の数を八本にしたことは未だ奪取の準備が整っていないことに用いる。これは恐らく王敦が政権を奪い、朝廷の権力を制限してしまい、徳行のある人材を任用せず、帝位を奪取しようとたくらんでいることなのだ。」と言った。

  • 大蛇が神祠の木の洞に住む

晋の明帝太寧初年、武昌に大蛇がおりかつて旧神廟の樹木の洞の中に住み常に頭を出しており。祭祀を行う人から食べ物をもらっていた。京房の易伝には、「蛇が城内に出現し、三年現れないと大きな戦乱が起こり国家には大きな憂患が起こる。」とある。程なくして王敦が叛逆した。

出典:古詩文網

今回も全国で起こった様々な自然現象などを宮廷の出来事と結びつけて凶兆などと言っています。関連性は不明、というかこじつけな気がするうえに、いちゃもんレベルの事を言い連ねています。

相変わらず晋の恵帝は不吉なことばかり書かれています。現代でも恵帝の良くない話は伝わっていますが、当時の人々の記憶にも強烈なインパクトを残していたのでしょう(;´∀`)

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