九尾狐(きゅうびこ jiu3wei3hu2 ジウウェイフー)
九尾狐は日本でもおなじみの尻尾が九つある狐の妖怪です。九尾狐はもともとは中国の伝説中に存在しており、古くから描かれています。この九尾狐が日本に伝えられて日本でも有名な存在になりました。
漢代の《山海経・大荒東経》にその記述がみられており、”青丘の山に怪獣がいた。その形状は狐で九尾であった。”と書かれています。郭璞はこの注釈として、”平和な時に出てきて瑞を成す。”と書いているので、おめでたい生き物であるとしています。
山海経・大荒東経に関しては以下をご覧ください!
一方、《山海経・南山経》には、”また東へ三百里、青丘の山があり、その南面には玉が多く北面には青雘(せいわく:青色の鉱物顔料で藍銅鉱などと推測されます。)という鉱物顔料が多く産出された。山中には獣がおり、その形状は狐で九本の尻尾があった。咆哮は赤子の鳴き声に似ており、人を食べる。しかし、その肉を食べた者は妖邪毒気を受け付けなくなる。”とあり、大荒東経と同様の九尾狐の記述がみられますが、内容は人を食べたりその肉を食べると神霊の力が備わるなどよりファンタジーの色合いを帯びています。同じ山海経でも記述が異なるのは山海経が一人の手により書かれた書物ではなく長い年月をかけて何人もの手で書かれたためであると推測されます。
南山経に関しては以下をご覧ください!
《瑞応図譜》には、”王者は色には傾かず、即ち九尾狐に至るなり。”とあります。《宋書・符瑞志》には、”白狐、王者仁智すなわち至る。”とあり、《孝経》には、”徳に至る鳥獣は即ち九尾狐である。”と書かれています。九尾狐は徳の象徴とも言うべき神獣でした。
九尾狐は良く描かれる場合と悪く描かれる場合があることも特徴です。元々は九本の尻尾がある狐で人を食べるとされている上に、後世には封神演義の妲己として登場するなど悪のキャラクター描かれると共に高い霊力を持つイメージが定着していきました。北宋初期には妖怪とされてしまっており、悪いイメージが付きまとうようになりました。
- 九尾狐の歴史的な変遷・先秦時代
九尾狐は先秦時代に視覚化された瑞獣ですが、人を食べる凶悪な存在としても伝えられています。九尾狐と玄狐、白狐などは古い時代の図柄に多く見られます。
一方で、もともとは九尾狐はおめでたい意味を持っている霊獣であり、時間が経過してもこの九尾狐の祥瑞の性質は継承され続けました。
- 周、秦、漢時代の九尾狐
山海経には青丘の九尾狐の記載が見られます。また、西王母と共に出現する神獣で子孫繁栄の祥瑞の象徴でした。しかし、中国における狐文化において漢代に狐が不運の象徴とされるようになり、悪いイメージを帯びてきました。さらに”物老成怪”、つまり物が長い年月を経ると魑魅魍魎という妖怪に変わるという考えも加わり、ごく普通に見ることができる狐は龍や鳳凰や麒麟などに比べて神霊の地位を守ることは難しかったと推測されます。これにより、おめでたい瑞獣から次第に妖怪のイメージを帯びていきました。
魑魅魍魎に関しては以下をご覧ください!
- 元、明時代の九尾狐
この時代には武王は紂王を倒す話である封神演義が書かれました。封神演義中では、悪の枢軸である妲己は九尾狐の精であり、この話から高い霊力を持つ悪である妖狐のイメージが出来上がり、以降はこのイメージが定着します。
- 九尾狐の意味する兆
九尾狐は古くは二つの兆しであるとみなされていました。一つ目は、為王称帝、国家昌盛の兆しです。《呉越春秋》には、”大禹は歳三十で未だ娶らず、涂山で九尾の白狐を見て以って王の吉兆をなし、即ち涂山の女を娶った。”とあります。《文選・四子講徳論》には、”昔、文王九尾狐に応じそして東夷は周に帰した。”とあります。
大禹に関しては以下をご覧ください!
二つ目は婚姻愛情の兆しです。大禹が涂山氏の女を娶った故事注の九尾白狐は王の吉兆のみならず婚姻の吉兆の意味もあります。このことから、後の世では九尾狐が愛情の吉祥や子孫繁栄の意味を持つようになりました。
出典:baidu
今回は青丘の九尾狐のお話でした。
九尾狐は善い面と悪い面を併せ持っていますが、これは文化的な背景により形成されました。日本では、非常に高い妖力を持つ恐ろしい妖怪として描かれる場合が多くありますので、大昔に主に九尾狐の悪いイメージが日本に入ってきたためにそのイメージが定着してしまったのでしょう。
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とても役に立ちました。もし参考文献が分かればもっといいと思う。