三足鳥:太陽の中に住んで大空を自由に飛び回った神鳥

三足鳥(さんそくちょう san1zu2niao3 サンズーニャオ)

三足鳥は三足烏(さんぞくう)とも呼ばれておりますので非常にややこしいですが、これは三足鳥の別名である金烏とごちゃ混ぜになってしまったためであると思われます。三足鳥は別名三足金烏などとも呼ばれていますので、実に様々な呼び名を持っている神鳥です。

中国神話伝説中では、太陽の中には三本足の黄金の鳥がおり、古代の人々は”金烏”を太陽の別称として用いていました。その他にも、”赤烏”、”三足鳥”などとも呼ばれました。唐の韓愈はその詩の一節に、”金烏海底初飛来”(太陽が先ほど海底から出てきた。)や、白居易の詩には”白兎赤烏相趁走”(月と太陽が互いに追いかけ合っている)とあります。さらに、古代には”烏飛兎走”と日数が瞬く間に過ぎていくことを例えました。つまり太陽は鳥に月は兎に例えられていたのです。

現在でも月と言えば兎がイメージされますが、太陽と言っても鳥はイメージされませんので、十五夜などで月のウサギのイメージは残りましたが、太陽の鳥のイメージはいつしか忘れ去られていったのだと推測されます。




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金烏:太陽の正体は何と鴉だった!中国神話の中で太陽の中にいるとされている三本足の鴉

  • 三足鳥と后羿の伝説:后羿射日

中国伝説中の堯の時代に十羽の三足鳥がいました。この三足鳥たちは帝俊(しゅん)の子供達でした。毎日天に上り遊び、三足鳥が放つ光芒を人々は太陽だと思っていました。以降、十羽の三足鳥は上帝の指示を聞かなくなり天に上ったままであったので、天空中には同時に十個の太陽が出てしまいました。大地の草木は枯れ土は焦げ、炎熱無比でした。人々はただ日中は山の洞穴の中に身を寄せて夜になると外に出て食べ物を探しました。猛獣毒虫たちはこの絶好の機会に乗じて人間たちを食べ始め、人類は滅亡の危機に瀕しました。

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堯:お酒や囲碁を発明したという聖人で五帝の一

この危機に帝堯(ぎょう)は天帝に謁見し、救援を求めました。そして天帝は羿(げい)を堯の元へ遣わしました。羿はまたの名を后羿とも言い、弓術に関してはひときわ高い能力を持った神人でした。后羿が天帝に出発の挨拶をする際に、天帝は羿に一張りの紅色の弓と矢が詰まった矢筒を下賜しました。

后羿は妻の姮娥を連れて人間の元へやってきました。姮娥は嫦娥とも言い、非常に美しい女性でした。帝堯一同は熱烈に歓迎し、その神力に期待しました。后羿は帝堯の礼を尽くした口上に非常に満足し、天帝から下賜された弓に矢をつがえて十個の太陽の内の一つを射ました。すると少しの時間の後に激しい爆発音がしました。

爆発とともに空から紅色の羽毛などが降ってました。そして大きな塊も落ちてきて、人々が目を凝らすとそれは三本足の黄金の鳥でした。空を見上げると太陽は一つ減り九つになっていました。これを見て人々は拍手喝采し、羿を称えました。

后羿はさらに得意になって、二本、三本と矢を放ち、そのたびに太陽の数は減り、そのたびに大地を揺るがすような歓声が全土から沸き上がりました。

帝堯もこの結果に大満足でしたが、空を見上げると太陽は残り一つになっていました。羿が最後の太陽を射ようとしたときに、暗黒の世界になる前に急いで羿を止めました。

三足鳥は死に、灼熱の地獄から解放され、人々は清涼感に浸りました。その歓声は天上にまで届き、三足鳥の父親である帝俊は九人の子供が死んでしまったことに気が付き、后羿が天庭に戻れなくしてしまいました。これと同時に残された一羽の三足鳥に不休で大地を照らさせました。




大地は灼熱から脱し、草木は再び芽吹き、百姓たちは農業を始めました。人々は后羿の射日の偉業を記念して、矢を放った山を箭過頂と呼ぶようになりました。

この故事は淮南王劉安の《淮南子・本経訓》に見られます。

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淮南子:不思議な生き物についても書かれている西漢時代の思想書

  • 文献に記載されている三足鳥

《山海経》などの古籍中には、中国の古代伝説中の十個の太陽は帝俊と羲和の子であると書かれています。この太陽たちは人の特徴と神の特徴があり、また金烏の化身であります。即ち三足の踆烏で、飛翔できる太陽の神鳥とされています。

《山海経・大荒南経》中には、”羲和は帝俊の妻で、十個の太陽を生んだ。”とあります。《淮南子・精神篇》には、”日の中には踆烏がいた。”とあり、郭璞は注釈で、”中には三足烏がいた。”と解説しており、太陽が金烏の化身であると言う説明と解釈がなされています。

古代中国伝説中の十個の太陽は、毎日早朝に東方の扶桑神樹から昇り金烏或いは太陽神鳥に変わり空を東から西へと飛翔し、夕方になると西方の若木神樹上に落ちたと言います。これは、実際の太陽の動きに基づいて神話が作られたことを示しています。

漢代頃に書かれた《山海経》の中には三青鳥と五彩鳥の記述がありますが、こちらも奇妙な神鳥として描かれています。《西山経》には、”三危の山、三青鳥の居である。”とあり、《大荒西経》には、”大荒の中に西王母山があり、三羽の青色の大鳥がおり、紅の頭部で黒々とした目があり、一羽を大鵹と言い、一羽を少鵹と言い、一羽を青鳥と言った。別の言い方をすると、三種の五彩鳥がおり、一種と皇鳥、一種を鸞鳥、一種を鳳鳥と言った。”とあります。

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鳳凰:朱雀のモデルとなり火の中から甦るおめでたい神鳥

《海内北経》には、”その南に三青鳥がおり、西王母のために食べ物をとっていた。”という記述がみられます。この西王母のために食べ物を探していた三青鳥は後世になると、”三足烏”として読み替えられるようになり、西王母のために食べ物を探していたのは三足鳥である、という記述が様々な書物で見られています。

出典:baidu

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