第十二巻:捜神記を翻訳してみた

捜神記中には漢代に王位を簒奪した王莽(おうもう)がよく出てきますが、毎度いい話は皆無で今回も同様にろくな死に方をしなかったことが書かれています。当時はよほど評判が悪かったのでしょう。どれだけ不敬であったのかがよくわかりますね(;´∀`) 王莽の頭部は何と劉邦が蛇を斬った剣と孔子の靴と共に宝物となっていましたが、晋の武帝の時代にこれら三つの宝は火災で焼けてしまったとのことです。

個人的に目を引いたのは最後の蠱の話です。蠱は物が変化し人に害をなすもので蠱毒とも言います。蠱毒と言えば日本では毒を持った生き物を一つの壷に入れて互いに食べさせ合い、最後に残った生き物を呪術に用いるという内容ですが、中国の蠱毒は幅広く壷に入れて作る蠱毒は一形態にすぎません。中国には蛇で作る蠱もあれば犬の蠱毒もあります。要はある動物が変化して人に害をなすようになったものを蠱と言うのです。蠱毒は特に湖南省近辺に住む苗族で伝承されてきました。

蠱毒に関しては以下をご覧ください!

蠱毒(こどく)で本当に人を呪えるのか?そもそも中国の蠱毒とは?

  • 五気変化論

天には金、木、水、火、土の五行の気があり、万物はこれにより変化し生まれる。純粋な木気は仁を生み、純粋な火気は礼節を生み、純粋な金気は正義を生み、純粋な水気は聡明を生み、純粋な土気は誠実を生む。五気は皆純粋であると、聖人の品徳が備わるのである。濁った木気は虚弱を生み。濁った火気は淫穢を生み、濁った金気は暴虐を生み、濁った水気は貪婪を生み、濁った土気は頑固を生む。五気が皆濁っていると下流の人となる。

中原には聖人が多く、これは中和の気が相互に融合しているからである。辺境の地に怪物が多いのは怪異の気が生み出されているからなのだ。もし、ある種の気に乗れば、必ずある形体を成す。ある形体を成せば、必ずある種の性質を生み出す。このため、穀物を食べると聡明で文に明るく、草類を食べると力が強く愚昧で、桑の葉を食べると絹糸を吐き蛾虫へと変わり、肉類を食べると勇猛で強悍となり、泥土を食べると心は無く休まず、気を食べると聖明で長寿であり、物を食べないと不死となり神仙となる。

亀鼍類の動物には雄性はなく、蜂類の動物には雌性はない。雄性がないとその他の動物とは交配し、雌性が無いとその他の動物を育成する。蚕類の虫は先に産卵し後で交配し、香髦類の野獣は自身に両性の器官を持っている。高い木に寄生し頼って生き、女は茯苓に夢でその身を託し、樹木は土の中で成長し、浮草は水中で生き、鳥の羽は空を凌ぎ飛翔でき、獣足の厚さは走り続けることが出来、虫は泥の中に潜伏し冬眠し、魚は深淵中に身を隠し生きる。天が天上に付き従うことに由来し、地が地下に付き従うことに由来し、季節がその頼る物に付き従うことに由来する。これはそれぞれの種類によるものである。例えば、千年生きた雉は海の中に入り蜃となり、百年生きた雀は海の中で蛤になり、千年生きたスッポンは人と話すことが出来、千年生きた狐狸は美女に変わることが出来、千年生きた蛇はその身を斬られてもまた繋がり、百年生きたネズミは吉凶を占うことが出来る。これは気数がすでに到達しているからである。

春分の時期には鷹は鳩になり、周文の時期には鳩は鷹に変わる。これは季節の変化である。このため腐った草は蛍に変わり、朽ち果てた葦はコオロギに変わり、稲は黒虫に変わり、麦は蝶に変わり、羽毛翅膀が生え出て、目が育ち、心霊の存在があり、これは無知覚から知覚のある物に変わるという気の変化であった。

鶴は獐に変わり、蛇は鼈に変わり、蟋蟀は虾に変わり、その血気を失わないことはなく、形体と性質の変化であった。この事物のように説は尽きない。変化と行動に基づくと、これは自然の規律に順応である。もしその規律に背くと即ち妖禍になる。これにより、身体の下部が上部に生え、上部が下部に生えるのだが、これは気の逆反である。人が獣を生み、獣が人を生む、これは気の紊乱である。男が女に変わり、女が男に変わる、これは気の変易である。

魯人牛哀が病気になり、七日後に虎に変わり身体に変化が生じ、虎の爪と虎の牙が生えてきた。彼らの兄が門を開けて入ると、虎に殺され食べられてしまった。牛哀が人であった頃、虎に変わるなど知らなかった。牛哀が虎であった頃、かつて人であったことを知らなかった。

晋の武帝の太康年間には、陳留人である阮士瑀が虺虫(古代の水中にいた毒蛇の一種)に咬まれ毒に侵され、何度も毒瘡の匂いを嗅ぐとその後二匹の虺虫が鼻の中で育った。

晋の恵帝の元康年間には、歴陽人の紀元載は道を得た神亀を食べると瘕病になり医者は薬で治療すると、数匹の子亀を排出した。一匹の大きさは銅銭ほどで、頭、脚、甲羅は全て揃っており甲羅には模様があった。しかし、薬で既に死んでいた。

夫婦が育まない気は、鼻は胎孕の場所にはなく、祭神の物は一般人が食べる物ではない。これを見るにより、万物の生死とその変化で、神の思いに通じず即ちそれ自身から推し量って深く考えさせるが、どこから来たのか知ることはできないのである。然れども朽ち果てた草は蛍に変わることは、草が腐ったことによる。麦が胡蝶に変わることは、土地の潮湿による。そのような万物の変化は全てこれが原因である。農夫が麦の変化を止めるには灰でこれを浸し、聖人が万物の変化を治めるには、道を用いてそれを援助するのである。恐らくこのようでありそうでないことがあろうか。

  • 井を穿ち羊を得る

季桓子が井戸を掘っていると瓦のような物が出てきて、その中にはは羊がいた。季桓子は人を遣わして孔子に、「私は井戸を掘り一匹の犬を得ましたが、これはなぜでしょうか。」と問うた。孔子は、「私の見識によれば、これは羊に違いない。私は、樹木、石の中の精怪は夔(龍に似た怪物)、魍魎であり、水中の精怪は龍、罔象(水怪)であり、泥土の中の精怪は賁羊(土怪)と言うと聞いたことがある。」と言った。《夏鼎志》には、”罔象は三才の子供のようであり、紅の目、黒い顔、大きな耳、長い腕、紅の足爪がある。縄でそれを縛ると食べることが出来る。”とある。王子は、「木精は游光であり、金精は清明である。」と言った。

  • 地を掘り犬を得る

晋の恵帝元康年間に、呉郡婁県人の懐瑶の家で忽然と地下から犬の鳴き声が聞こえた。鳴き声が聞こえる場所へ行って見ると、地上に小さな穴が一つあいており、ミミズが作った穴位の大きさであった。懐瑶は棍棒でその穴をつついてみると、数尺ほど刺さり何か物がある感触があった。掘ってみると、雄と雌一匹ずつの子犬がいた。目はまだ開いておらず、大きさは子犬としては大きいくらいであった。食べ物を与えると食べ、近所の人たちは皆身に来た。地方の長老は、「この犬は犀犬と言い、得るとその家は裕福になり栄えるというので、飼うと言いであろう。」と言った。子犬の目がまだ開いていなかったので懐瑶はその犬を洞穴の中に入れて石で蓋をした。一日が過ぎ、石をどかしてみると二匹とも穴にはおらずどこへ行ったかは分からなかった。以降、懐瑶家には長きにわたって何の禍福もなかった。

東晋元年太興年間に、呉郡太守の張懋が書斎の床下から犬の鳴き声を聞き探したが見つからなかった。地面を掘ってみると二匹の子犬が出てきた。取り出して飼うと、どちらも死んでしまった。以降、張懋は呉興に反乱を起こされ殺された。《屍子》には、「地下にいる犬は名を地狼と言い、地下にいる人は名を無傷と言う。」とある。《夏鼎志》には、「地面を掘って得た犬は名を賈と言い、地面を掘って得た豚は名を邪と言い、地面を掘って得た人は名を聚という。聚はすなわち無傷である。」とある。これは自然に存在する物であり、鬼神や奇怪とは言わない。しかし、賈と地狼は名は違えども同じものを指している。《淮南畢万》には、「千ねんの羊肝は地神になり、蟾蜍が菇菌を得ると最終的には鶉に変わる。」とある。これは全て気が相互に感応することによって生成されたのだ。

  • 池陽の小人の景

王莽建国四年に、池陽宮に小人の影が出現し、その長さは一尺ほどであり、ある者は車に乗り、ある者は歩いており各種の物を持っていた。物の大きさと小人は似ており、三日後に消えた。王莽はこの件を嫌悪した。その後、盗賊が日ごとに勢力を増し、王莽はこともあろうに盗賊たちに殺された。《管子》には、「水澤枯渇して数百年経つと、山谷は歩けず水は分断できずに、慶忌を生む。慶忌は人のようであり身長は四寸で黄色の衣をまとい黄色の帽子をかぶり黄色の頭蓋を頂き、子馬に乗り疾走することを好んだ。その名でそれを呼ぶと、馬を使って千里の外へ行かせることが出来、一日で戻ってきて状況を報告した。」とある。池陽宮の影とは慶忌の事かもしれない。《管子》にはまた、「干涸した小さな水沢には精霊がおり、蚳を生成する。蚳は一つの頭に二つの体がありその様子は蛇のようで長さは八尺ある。その名でそれを呼ぶと水中へ行き魚やスッポンなどを捕まえさせることが出来る。」とある。

  • 落頭民

秦朝の頃、南方に落頭民がおりその頭部を飛ばすことが出来た。この人々の部落には祭祀があり虫落と呼ばれておりこのことから名づけられた。三国東呉時代に、将軍の朱桓が婢女を得たが、毎晩寝た後に彼女の頭部が飛んだという。ある時は犬くぐりから、ある時は天窓から入ってきて、耳が羽となり空が明るむと戻ってきた。いつもこのようであったという。

周囲の人々は奇怪に思い夜に灯りを照らしてみると、婢女の身体には頭が無く体温は少し下がっており辛うじて呼吸をしていた。このために彼らは婢女を布団で覆ってみた。空が明るむと頭が戻ってきたが布団に阻まれて胴体とくっつくことが出来ず、ニ三度地面に落ちると呼吸が荒くなり、身体の呼吸も苦しそうになっており、死んでしまうように見えたという。人々が布団をはぎ取ると婢女の頭部はまた飛び首と繋がった。しばらくすると呼吸は安定しだした。朱桓は大変奇妙に思い、恐ろしくも感じたのでその婢女を手元に置こうと思わなくなり彼女に暇を与えた。その後仔細を知り、それが彼女の天性であった。

当時に南方へ征伐へ行った将軍はよくこの種の人々に会ったという。また、かつてある人物が頭部が飛んで行った後の胴体を銅の板で覆うと頭部は身体にくっつく音が出来ずに死んでしまったという。

落頭民に関しては以下をご覧ください!

飛頭蛮:夜な夜な頭が胴体から離れて飛び回る妖怪

  • 人が虎に化ける

長江漢水流域に人の一種がいた。彼らの祖先は禀君巴務相でその子孫であった。彼らは虎に変化することが出来た。長沙郡に属する蛮県高口の住民はかつて木籠を作り虎を捕まえた。木籠の蓋が閉まったので、次の日に一同で虎を打ちのめしに行ったが思いがけず亭長を見た。亭長は紅の頭巾を巻き大きな帽子をかぶり木籠の中に座っていた。一同は亭長に、「なぜ木籠の中にいるのです?」と聞くと、亭長は怒って、「機能突然に県里に召喚されたが夜に雨に遭いこの中に走り込んだのだ。早く解放しろ!」と言った。一同は、「召喚されたのなら文章を持っているはずですがその文章はどこにあるのです?」というと、亭長は懐から召喚された文章を取り出した。これにより亭長は解放された。しばらくして再び亭長を見ると虎に変わっており山へと走って行った。ある人物は、「虎が人に変わると紫の葛衣を好み、その足にはかかとがないという。真ん中に五つの足指があるのは皆虎である。」と言った。

  • 越地の冶鳥

越地の山奥に一種の鳥がおり、鳩くらいの大きさで青い羽毛を持っており冶鳥と言った。冶鳥は大木に穴を開けて巣としており内部は五、六升の器程の大きさがあったが出口は数寸ほどであった。周囲を白で塗っており、紅白の両色が同じ間隔で配置されまるで矢の的のようであった。木こりがこの樹を見ると冶鳥を避けて去った。

日暮れになると人が冶鳥を見ることが出来なくなり、冶鳥も人が自分に気が付かないことを知っており、「おいおい、上へあがってこい。」と叫んだ。すると次の日には上へあがり木を伐らなければならなかった。また、冶鳥が、「おいおい、下へ降りろ。」というと次の日には下へ木を伐りに行かなければならなかった。もしも冶鳥が叫ばずただ笑い続けていると、人はその場で止まり木を伐った。また、人が汚れていると叫び人を止めて木を伐らせている時には虎に夜通し見張らせ、人は離れられず、その虎はその人物を襲った。

この鳥は昼間にはその形状を見ることが出来、鳥の形状であった。夜にその声を聞くとこれもまた鳥の鳴き声であった。しかし、賑やかなことを見るのが好きであり、冶鳥は人に変わり三尺ほどで、水に潜り蟹を捕まえて火の上で焼き、人々は冶鳥を侵犯することはできなかった。越地の人々はこの種の鳥は越地巫祝の祖先であると言った。

  • 南海鮫人

南海郡の外の大海に鮫人がおり水中で生活し、魚のようであった。しかし、織布績麻を手放すことはなかった。彼らが涙を流すと世にも珍しい珠になるという。

鮫人に関しては以下をご覧ください!

鮫人:東洋の人魚の始まりであり落とした涙は真珠に変わると言う伝説の生き物

  • 大青小青

盧江郡の睆県、陽県の両県の境内に大青、小青がおり山野の中に住んでいた。ある時にその哭き声を聞くと、哭き声が多い時には数十人程で、男女おり、大人も子供もいたが死んだばかりのように見えた。付近の住人は恐れ慌ててその地へと走って行き確認したが既にいなくなっていた。しかし、哭き声のした場所には必ず死体があったという。恐らく哭き声が多ければそれは大所帯の人が死に、少なければ小世帯の人が死んだということであろう。

  • 廖姓の蛇蠱

荥陽郡に廖という姓の一家がおり、数代に渡って皆蠱物を養いこれにより富を為した。後に嫁を貰ったが、嫁にはこのことを黙っていた。ある時、たまたま家の者が皆出払って嫁ただ一人になった。この時嫁は屋根裏に大きな入れ物があるのに気が付き、好奇心から開けてしまうと入れ物の中には大きな蛇がいた。彼女は急いでお湯を沸かし、蛇を煮殺してしまった。他の家族が家に戻ると、嫁は皆にこの件を話した。すると家族たちは非常に驚き惜しんだ。しばらくするとこの一家は疫病に遭い皆死んでしまった。

出典:古詩文網

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