彭祖は中国の伝説的な仙人として伝わっており、800歳まで生きたと言われています。長寿でありながらその外見は老いず、若々しいままであったと言います。また、帝堯に雉で作った汁を献上したことから料理人としての側面も持っている少し変わった仙人でもあります。
彭祖(ほうそ peng2zu3 ポンズゥ)
彭祖は先秦時代の道家の先駆者の一人で、姓は籛で名を鏗と言いました。彭鏗とも言い、陸終の第三子でした。彭祖は彭を建国し、子孫はその国名の彭を氏とし、さらに彭を姓にもしました。
中国の姓とはどの部族出身かを表しており、氏とはその部族内の氏族を表しています。
大彭国の始祖は彭祖籛鏗と言い、堯舜時代の人でした。神農氏時代の神巫である巫咸、黄帝時代の神医である巫彭、夏彭伯寿、商彭伯考、商賢大夫彭咸、周時代の老子と混同されたために800年生きたという伝説が作り上げられました。
現在の徐州境内には彭祖廟、彭祖祠、彭祖楼、彭祖井、彭祖墓などの遺跡があります。
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彭祖氏は堯帝の時代に興り、夏朝、商朝と続きました。商朝では守藏史となり、賢大夫を拝命し、周朝時代には柱下史となりました。史記・楚世家には、「彭祖氏は殷の時代に侯伯となり、殷の末期に彭祖氏は滅びた。」とあります。氏は古代より宗族の称号を表しています。このため、彭祖氏とは一族を表していると考えるのが妥当であると言えます。
清時代の孔広森は列子・力命篇の「彭祖の智は堯舜時代に不出で寿命は800年であった。」と言う一文に、「彭祖と言う者は彭姓の祖である。彭姓諸国とは、大彭、豕書、諸稽である。大彭は虞夏に現れ、商では伯となり、武丁(殷の22代目の王)の時代に滅しました。故に彭祖800歳と言い、彭国は800年で滅亡したと言うが、実際は籛は死ななかった。」と注釈しています。これらのことを考慮すると、彭祖は800年生きたとは実際は大彭氏国が存在した年を指していると言えます。
漢代の史家である家書昭は。国語・鄭語の注釈で、「彭祖、大彭なり。」と書いてあります。これは、彭祖は800歳まで生きたということは、大彭氏の国が800年存在したともとることができ、竹書紀年では、「武丁43年、王師は大彭を滅した。」とあります。
司馬遷の五帝本紀には以下の記述があります。
舜は大きな山の麓へ入り、烈風雷雨でも迷わなかった。堯はすなわち舜は天かを授けるに足ると知った。堯は老い、舜に天子の政、巡狩を行わせた。舜が推挙されて二十年、堯は摂政させた。摂政して八年で堯は崩御した。三年の喪が明けると、丹朱に譲った。しかし天下は舜の下に帰ってきた。禹、皋陶、契、后稷、伯夷、夔、龍、倕、益、彭祖は堯の時に皆推挙されたがまだ職はなかった。ここにおいて舜は文祖に到り、四嶽に謀り、四門を開き四方の耳目に明通した。帝の徳を論じ、厚い徳を行い、佞人を遠ざけ、即ち蛮夷を兵を率いて屈服させるように十二牧に命じた。
五帝本紀に関して詳しくは以下の記事をご覧ください!
彭祖と共に後の夏王朝の祖となる禹や周王朝の祖で穀物の神ともなった后稷などと同列で書かれていて、堯の時代に出現しています。五帝本紀にはその後、以下のように舜が官位を与える記述があります。
舜は四嶽に言った。「功を明らかにし堯の業績を美しくする者がいたら官に居り事を相させよう。」四嶽は皆言った。「伯禹が司空と為り帝の功績を美しくするでしょう。」舜は言った。「そうだ。禹よお前は水土を平らにしなさい。そしてこれに励むように。」禹は稽首の礼をとり、稷、契と皋陶に譲った。舜は言った。「それでは行きなさい。」
この後、延々と部下に使命を与える記述が続きますが、彭祖の名前は出てこず、彭祖がどのような仕事をしたかは不明ですが、「この二十二人は功績があった。」と言う一文から、彭祖もこの二十二人の中に数えられ、何かしら功績があったと考えられます。
楚世家に記載されている彭祖は次の通りです。
「楚の先祖の出自は帝敞顓高陽である。高陽は黄帝の孫で昌意の子である。高陽は称を生み、称は巻章を生み、巻章は重黎を生んだ。重黎は帝嘗高辛となり、火正の地位に就いた。甚だ功があり、天下に光を与えた。帝嚳は祝融を祀った。共工が反乱を起こすと、帝嘗は重黎に誅するように命じるも失敗した。帝は庚寅日に重黎を処刑させ、その弟である呉回を重黎の後任とし、火正に任じ祝融となした。呉回は陸終を生み、陸終は六人の子を産んだ。年長が昆吾、次男が参胡、三男が彭祖、四男が会人、ご難が曹姓、六男が季連であった。」
この中では彭祖は陸終の三男として名前が出ています。
王逸は五帝本紀の注釈中で、老彭は堯臣で、商武丁43年已亥(紀元前1282年)に大彭国は滅亡した、と書いています。
捜神記にも彭祖の記述があります。捜神記の第一巻には、彭祖七百歳と言う題名があり、以下の内容が書かれています。
彭祖は殷の時代の医者であり、姓を籛、名を鏗と言った。帝顓頊の孫と言われており、陸終氏の次男であった。彼は夏王朝を経て商王朝の末期まで生きており、七百歳生きていると言われていた。彼は常に桂花と霊芝草を食べていた。安徽歴陽山には彭祖の仙室があった。前代の人は皆、「あの仙室中で風雨を祈願し、すぐに降らないことはなかった。その祠堂の傍には更に常に二頭の虎がいた。今日ではすでにその祠堂はないが、しかし地上にはまだ虎の足跡が残っている。」と言った。
この他にも琴高と言う仙人は彭祖の仙術を修練をしたと書かれています。
これらからわかるように、彭祖とは長寿であったという言い伝えから、やがて仙人として書かれるようになっています。
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彭祖の伝説
三皇五帝の内の堯帝の時代、中原には洪水が多発していました。孟子·滕文公上では、堯の時代、天下は定まらず、洪水が多発し天下を混乱させた、とあります。史記・夏本紀でも、帝堯の時代、洪水は天まで届き、山を飲み込み、民を困らせた、とあります。
この状況に帝堯は治水の指揮を執りましたが、疲労により床に臥せてしまいました。数日間良くならず、命の危険が迫っていました。この窮地に彭祖は自身を養っている方法に基づき、すぐさま野鷄汁を作りました。汁がまだ帝堯の元へと届いていないにもかかわらず、帝堯はその香りをかぐと身を起こし、すべて飲み干すと、次の日に容体は良くなりました。この後、帝堯は毎日必ず鷄汁を食べたために、以降は病気に罹らず健康に生きたと言います。
彭祖養道では、「帝は天の木の実を食べた。」と書かれています。つまり、鳥汁だけではなく栄養分や薬効成分が豊富な小さな木の実も食べていました。彭祖はこの木の実が健康に良いことを知っていたと言えます。
帝堯は彭祖を彭城に封じたので、これにより彭祖と呼ばれるようになりました。帝堯は長生きをし、在位70年、118歳で亡くなりました。
帝堯の帝位は虞舜が継ぎ、帝舜として即位しました。この時代には彭祖は尹寿子に師事し、その後武夷山に隠遁しました。
商代の末にはすでに767歳となっていたにもかかわらず、老いによる衰えは見られませんでした。恬静を好み名誉には興味を示さず、世の出来事を顧みず、自身を着飾ることには無頓着でした。商王は彭祖を大夫として召し抱えようとしましたが、彭祖は理由を付けて断ってしまいました。彭祖は補導の術にも精通しており、水桂、雲母粉、麋角散を常に服用していたと言います。
厨行祖師としての彭祖
彭祖は帝堯を感動させ、健康にした雉羹を作ったために帝堯により大彭に封じられました。楚の屈原は楚辞・天問中で、「彭祖は雉鶏の羹を調理したが、なぜ帝堯は試食するのを喜んだのか?」及び「長寿で長生きしたというが、なぜそのように長く生きれたのか?」と書いてあるように、屈原も彭祖に対して疑問と興味を持っていたことが分かります。
他にも漢代の王逸は、楚辞の注釈として、「彭鏗は彭祖である。滋味を好み、雉羹によく手心を加え、帝堯に献上すると帝堯は喜び饗食した。」とあります。宋代の洪興祖も注釈として、「彭祖の姓は銭、名は鏗で、帝顓頊の玄孫であり、よく気を養い、調理を行い、雉羹を帝堯に献上し、彭城に封じられた。」とあります。
彭祖が鳥汁を作った意外に何かを調理したという記述は見つかりませんが、中国の古典中で最も古い調理の記述であるために、彭祖はその長寿と共に厨師として崇められています。
彭祖の死因説
彭祖が長寿であり、800歳くらいまで生きた伝説があることはご説明しましたが、では一体どのような理由で亡くなったのでしょうか。幾つかある死因説をご紹介いたします。
死因その一
昔の人々は長寿を望みましたが自然には抗えず、この願望が彭祖の神話を作り出していったと考えられます。山西省の長治市の黎城の西井鎮のある村には彭祖の住居が伝わっています。他にも彭祖廟もあり、彭庄という名で呼ばれるようになりました。
彭祖は生きている間ずっと若々しく、800年生きた中で妻を100人以上娶ったと言います。最後の妻は彭祖の若さの原因を知りたいと思い、彭祖に何故か聞きました。すると、彭祖は閻王が自分の名前を生死簿に書き間違えているために死ぬ予定の人物として自分の名前が見つからないのだ、と答えました。
この告白に閻王が気づき、二匹の鬼を彭祖の村に派遣して河で炭を洗わせました。そこには彭祖の妻が選択をしており、二人が口々に、「黒い炭を洗って白くして売る。」と言っていました。彭祖の妻は、「うちの旦那は808歳だけど、炭を洗って白くなったとは聞いたことが無い。」と言いました。二匹の鬼は信じなかったので、妻は彭祖の秘密を鬼に言うと、鬼は直ぐに閻王に報告し、閻王は生死簿を確認して彭祖の元に勾魂鬼を派遣しました。
死因その二
彭祖と陳摶の両名は、天宮で玉皇大帝に仕えていました。一人は諸神の生死簿を、もう一人は功徳簿を管理していました。ある日、陳摶は彭祖に対して、「非常に疲れたのでちょっと寝る。もし何かあれば起こしてくれ。」と言いました。彭祖は、「分かった。安心しろ。」と言いました。彭祖は陳摶が眠りに行ったのを見ると、彭祖は陳摶が生死簿を置いて行ったことに気が付きました。そして、彭祖は生死簿を見てみると、そこには自分の名前が書かれていました。彭祖は下界へ生まれ変わること悟りましたが、下界へ行っても玉帝に見つかるとすぐに連れ戻されると思い、名前の部分を破り丸めてしおりにしてしまいました。これにより、生死簿上では彭祖の名前は見つからなくなり、安心して下界へと生まれ変わりました。彭祖は人間として生き、商朝の士大夫となりました。49人の妻を娶り、54人の子供をもうけましたが、皆彭祖よりも先に死んでしまいました。この間、彭祖は若いままでした。
彭祖が50人目の妻を娶った後、官位を辞し、遊山へと行きました。若かった50人目の妻が老婆になったころ、宜君県の山村に定住をしました。この時彭祖は800歳でした。ある晩、夫婦が床に就いて話をしていると、妻は彭祖に、「私はもうすぐ死んでしまいます。私が死んだあと、あなたはまた妻を娶るのですか?」と言いました。彭祖は少しも意に介さずに、「当然娶る。そうでなければ誰が俺と一緒にいるのだ?」と言いました。妻は再び、「あなたは老いないに違いのですか?もしかして生死簿に名前がないの?」と問いました。彭祖は大笑いして、「俺は永遠に死なないのだ。生死簿には確かに俺の名前はあるが、誰も見つけられないのだ。」と言いました。妻は続けて、「名前はどこにあるのですか?」と聞くと、彭祖は得意になって真実を話してしまったので、妻は真実を知ることになりました。
妻が亡くなると、魂が天宮へと至り、玉皇大帝にこのことを伝えました。すると玉帝は理解して、すぐさま二人の神を下界に遣わして彭祖を探させました。しかし、神たちは探せど彭祖を見つけることは出来ず、手掛かりすら何も得られませんでした。このままでは天宮に帰るわけにはいかず、あてどもなく歩き回り聞いて回りました。
ある日、両神は宜君県の彭村へと至ると、大工のテーブルに乗ると鋸を盗み、麦場へ行くと力を込めて石臼を鋸でひき出した。すると、多くの人々が集まりその奇妙な様子を見ていた。この時、彭祖もやってきて人々があれやこれやと言い合っているのを横目に、「私、彭祖は八百歳だが石臼を鋸でひく人は見たことが無い。」と言ったとたん、神々は鋸を捨てて彭祖を捕らえてしまった。この日の夜、彭祖はこの世を去った。享年は八百余歳でした。
死因その三
ある日、彭祖は森の中で一羽の五彩の雉を見つけました。彼は野外での生活が長かったが、このような美しい雉は見たことがありませんでした。「あの雉はきっと美味しいに違いない。」と思い、その雉を捕まえて鍋にしてしまいました。雉が煮えて食べようとした際に、彭祖は天帝に献上しようと思いました。天帝は雉鍋を食べると非常に嬉しく思いました。なぜなら、このような雉鍋はこれまで食べたことが無いことに加えて、彭祖が自分のことを気にかけてくれたからでした。そして天帝は、「彭祖よ、その雉の羽の数を数えてくれまいか。その羽の数だけ寿命を延ばそう。」と彭祖に言いました。彭祖は喜んで数を数えると八百本あったので、彭祖は800歳まで生きることになりました。
彭祖が767歳の時、すでに殷朝の末期でありましたが、彭祖の血色はよく髪の毛も黒々としていて、少しの老いも見られませんでした。それに反して、これまで娶ってきた妻や生まれた子供の多くはこの世を去っていました。陰間の冥王は彭祖の49人の妻と54人の子供に会ったが、まだ彭祖には会っていませんでした。仙人の名簿を探しても彭祖の名前は見つかりませんでした。それで冥王は天帝に教えを求めました。天帝は笑いながら、「彭祖は仙人ではなく、一杯の雉鍋のために生きており、800歳になるとお主を探しに来るであろう。」と言いました。
彭祖は衣食に心配をしていなかったが、悩みが無かったわけではありませんでした。平民百姓から王公大、果ては王に至るまで皆、彭祖の長寿の秘密を知りたがっていたからです。彭祖は仕方なくその地を離れ、流沙国の西へと逃げ、隠居してから数十年後に死にました。臨終の時、彭祖はまだ800年近く前に雉を洗った際に河に流されて数えられなかった羽のことを悔やんでいたと言います。
彭祖の墓
彭祖が埋葬されたと伝わっている地は沢山あります。江蘇徐州、古い言い方では彭城、浙江臨安、河南鄢陵、四川彭山彭祖墓などです。陝西宜君彭祖墓は商の武丁が大彭を滅ぼした後、子孫が西遷した際に停留した地です。この中で、徐州彭祖墓は彭祖の遺体を埋葬した本物の墓で、その他は彭祖の衣服や冠を埋葬した墓、もしくは子孫の墓だと言われています。
出典:baidu
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