捜神後記佚文:捜神後記を翻訳してみた

捜神後記は続捜神記とも言い、干宝の捜神記の続編です。捜神後記と捜神記は大体似ていますが、捜神後記は魏晋南北朝時代に書かれた奇怪書の中でも非常に特色があります。それは、妖怪に変化した話や、神仙の話が多く、断片的な話が少なくなり、後の世で故事となっている話が多いです。

話の内容は、神仙のいる洞窟の話、例えば桃花源や韶舞のように修練し仙道を求めること、貞女峡や舒姑泉のように山川の風物、世間の人情のような当時の風俗的な故事、白水素女や徐玄方女のような人神や人鬼の愛情の話、そして鬼を恐れない故事の4つに分類されます。

  • 鈎鵅

鈎鵅は譙国郡の王無忌の息子の嫁の屋上で鳴いており、謝允は符を一枚書き鈎鵅が鳴いているところに貼り付けた。

  • 王蒙

司徒の蔡謨の親友の一人に王蒙と言う人物がおり、独り身であったためによく蔡謨から同情されていた。蔡謨の身長は三尺で気骨はなく、人に抱きかかえさせて床へ入った。蔡謨はかつて昼間に魚を取りに行かせると、その人物は車輪のような大きな亀を捕まえた。蔡謨はその亀を厨房へ渡すと、配下の兵士が亀を逆さにして屋内の壁に掛けてしまった。

王蒙はその夜、眠り着くとすぐに目を覚まし、それ以降は眠りたくなくなった。このようなことを数日にわたり繰り返していた。蔡謨がこれを聞き、王蒙に「なぜ眠りたくないのだ?」と聞いた。王蒙は「眠ってしまうと、夢の中で人に逆さに掛けられるのだ。」と答えた。蔡謨はもしかするとあの亀と関係があるのではないかと思い、あの亀がどこにいるか調べさせた。果たしてその亀は家の中で逆さにして掛けられていたのだ。蔡謨は感嘆して、「案の定そうであったか。」と言った。そして、亀を地上へと下ろすと、王蒙は直ぐに安眠できるようになり、亀もどこへとなく去って行った。

  • 宗淵

宗淵は字を叔林と言い、南洋郡の人であった。東晋太元年間に、宗淵が尋陽郡の太守となった。宗淵は十匹の亀を厨房へと渡すと、翌朝に二匹を使って肉羹を作り、残りは米のとぎ汁を使い、亀の中に入れて活かした。

宗淵はその夜に夢を見ると、十人の男の子を見た。みんな黒いズボンをはいており、手を後ろで縛り宗淵に向かって叩頭して哀願しているようであった。翌日の朝、厨師は予定通り二匹の亀を殺すと、宗淵がその夜の夢の男の子の数は八人となっていて昨日同様に哀願していた。宗淵は悟り、厨師に亀を殺さないように言った。その夜の夢の中に八人が出てきて、宗淵に感謝をした。宗淵は目を覚ますと、自ら亀を持って廬山へ赴き、放すと、それ以降は亀を食べることは無かった。

  • 熊無穴

熊は洞穴の巣が無かったので、大木の洞の中に住んでいた。東土一体の人はその熊を子路と呼んだ。手に持っている物で木の幹を叩きながら、「子路よ、現れろ。」と言うと、その熊は木の下へと降りてきた。しかし、呼ばなければ熊は動かなかった。

  • 黄赭

鄱陽県に黄赭と言う人物がおり、山へ入り荊楊の種を採取していた時に方向を見失い迷ってしまった。数日が過ぎ、空腹が収まらないとき、忽然と一匹の大亀を見た。黄赭はその亀に誓い、「あなたは神霊の動物です。私は道に迷い、どうやって家に帰ればいいかわかりません。あなたの背に乗りますので家に連れて帰ってください。」と言った。

その亀は右へと向きを変えので、黄赭は亀の背に乗って行った。十里ほど進むと渓谷へと出て、客を乗せた船を見た。黄赭はその船へと行き、食べ物を乞い、船に乗っている人へ、「先ほど渓谷で大きな亀をみました。非常に大きかったので一緒に捕まえてください。」と言った。言い終わるとすぐに黄赭の顔に痘痕ができた。亀を探しに行ったが、亀を見つけることは出来なかった。黄赭が家に戻ると痘痕が悪化して数日後に死んでしまった。

出典:古詩文網




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