東王公:西王母と対を為す男仙を司る神

東王公(とうおうこう dong1wang2gong1 ドンワンゴン)

東王公は木公や東皇公、東華帝君、東皇、青童君、扶桑大帝などとも称され、その誕生日は農歴の二月六日と伝えられています。

東王公は漢代の書物に記述が見られ、漢代の陰陽観念に関連があり、陽を代表する男神です。一方で東王公と対を為す陰を代表する女神は西王母です。東王公は道教に取り入れられたのちに発展を遂げました。

西王母に関しては以下をご覧ください!

西王母(王母娘娘):崑崙山に君臨する不老長寿の薬を司る女神

  • 道教中の東王公

東王公は道教中ではよく丁卯日に台に登り、四方を観察する仙人として認識されています。そのため、道を得て仙に入る人は皆先に東王公に会い、その後に西王母に謁見し、その後に九天へ飛昇して入り三清境で元始天尊、霊宝天尊と道徳天尊に拝謁すると言います。




東王公は漢代には一般的であり、漢代の書物に多くの記載が見られる上に墓室の壁画などに描かれており、西王母と対を為す存在でした。

漢代の末期に初期の銅鏡が興り、王公や王母は道教に吸収されました。道教の葛洪は東王公は盤古であるとし、母親は太元聖母としました。その他には、東王公は天東華の気の化身であるとみなされている場合もあります。

盤古に関しては以下をご覧ください!

盤古:天地開闢をした創造神。全てはここから始まった。

道教中では西王母と対を為し、陽を代表し、同時に秦漢の登仙思想では西王母と共に死後の仙人世界の主神とされています。東王公が道教に吸収された後でもこの漢代の観念は継承しており、後世でも東王公は仙になろうとする男性を主管し、仙籍を掌管しています。

  • 東王公の由来

東王公は漢代にはすでに原型は形成されており祀られていました。漢代以前では東皇や東君から発展したと言われています。それぞれの説は以下の通りです。

1, 東皇説

東皇は先秦時代の楚国の祖先神です。楚の屈原の《九歌》の中には、”東皇太一。”とありあります。この東皇太一と言う名は屈原の書いた文中にしか見られません。このため、東皇とは楚国の祖先神であり、もともと太一とは別の神でした。しかし、屈原により二神がくっつけられて至高の神が誕生したと言う訳です。




屈原は中国戦国時代の政治家であり詩人でもあった人物です。

東皇の概念は太陽に由来していると考えられています。太陽は東から昇るので東皇は太陽に関連しています。東王公はこの楚の国の東皇に由来しているという説があります。

2, 東君説

東君は先秦時代の晋の神です。同時に先秦文学の《九歌》に記載されており、現在では東君は太陽神であるとされています。

東王公の別称は東君とも言い、漢代には東王公は陽を代表する男神です。また、後期の道教では東王公は太陽神の性質を持っていたとしています。

  • 古籍に記載されている東王公

東王公は古くは漢代に書かれた神異経に記載が見られています。

神異経の東荒経には、”東荒山中には大石室があり、東王公が住んでいた。身長は一丈で頭髪は真っ白で、人の体をしていたが東部は鳥で虎の尾を持っていた。黒熊を載せ左右を顧み望み、常に玉女と投壺遊びをしていた。一投ごとに千二百矯で、入ったが出ない者を天は嘆き、矯が出たが外して入らない者を天は笑った。”とあります。

さらに神異経の中荒経には、”崑崙の山に銅の柱があった。その高さは天に届き、いわゆる天柱であった。周囲は三千里で削ってできたようであった。下には家屋があり、周囲は百丈で仙人九府がこれを治めていた。上には大鳥がおり、名を希有と言った。南を向いていた。伸ばした左の翼は東王公を覆い、右の翼は西王母を覆っていた。背の上には所々羽が無く一万九千里あった。西王母は羽の上に登り東王公に会った。故に《柱銘》には、”銅柱その高さは天に届き、周囲は削ったようで見た目は美しかった。”とあった。《鳥銘》には、”稀有と言う鳥がおり、煌々としていた。鳴かず食わず、東は東王公を覆い、西は西王母を覆っていた。王母が東に行きたいときには、登って背を通り行った。”とあった。”とあります。

神異経に関しては以下をご覧ください!

神異経を読もう!神異経を翻訳してみた。

東漢の《呉越春秋》には、”東に立ち太陽を祀り、名を東皇公と言った。西に立ち月を祀り、名を西王母と言った。”とあります。

東王公は他にも様々な書物に記載されており、その重要性が示されています。

出典:baidu

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