夏后啓(かこうけい xia4hou4qi3 シアホウチィ)
啓は姒啓や夏啓、帝啓、夏后啓、夏王啓などと呼ばれており、禹の息子で夏王朝の二代目の王です。在位は紀元前1978年から1963年と言われています。母は涂山氏族の娘で、啓の子供は少なくとも五人いたとされ、子供の中には太康と中康がいました。
屈原の《天問》中には、禹は洪水を治め、四方を遍く歩いていた時に偶然に涂山氏と台桑で出会い、その時涂山氏の娘は妊娠し、啓を産んだと言われています。啓はそれまでの帝位を禅譲制から世襲制へと変えた初めての人物としても有名です。
禹の死後に啓は武力で伯益を征伐し、その後帝位を継承し中国史上初となる世襲制による帝位の禅譲を行いました。夏啓は陽翟から西の大夏に遷都し、安邑(現在の山西省県西)の都を作りました。この後、甘の戦いで大勢力を誇った有扈氏を撃破し、華夏族内の反抗勢力を取り除きました。在位晩年には武観の乱が発生し、政局は混乱しました。夏啓は一生に四度戦い、最後は病死し、安邑付近に葬られました。
伝えられることろによると、禹は元々は皋陶に禅譲しようとしていましたが、皋陶が早くに亡くなったため、その子である伯益に禅譲しようとしました。史書には、”禹の子の啓は賢く、天下はこれに属そうとした。禹が崩御すると益に授けようとしたが、益は禹の補佐をして日が浅く、天下の同意は得られなかった。故に諸侯皆益を去り、啓へと向かった。啓は、私は帝禹の子である。というと啓は天師の位に就き、夏后帝啓と為した。”とあります。
禹の死後に啓は堯から舜、舜から禹の禅譲の慣例を避け、伯益を君主とさせました。その結果、諸侯は伯益の根拠を疑い啓の根拠に従うようになりました。臣と人民は皆啓を支持し、啓は即位できたと言います。この後、世襲制が禅譲制に取って代わるようになり、公天下であった世は家天下となりました。武則天が国号を周としたときに、啓は斉聖皇帝と追尊されました。
西南海より外の赤水の南岸、流沙の西面に耳に二条の青蛇をかけており二条の龍に乗っている人がおり、名を夏后啓と言った。夏后啓はかつて三度天帝の客となり、天帝の楽曲である《九辯》と《九歌》を得て、人間の元へと降った。ここが天穆野で、高さ二千仞で夏后啓が《九招》を演奏し始めた地であった。
大楽野は夏后啓が《九代》の舞を見た地で、二条の龍に乗り三重の雲霧の上に飛んでいった。啓は左手に花蓋を握り、右手には玉環を握り、腰には玉璜を下げていた。大楽野は大運山の北面にある。別の言い方をすると、夏后啓は《九代》の舞を大遺野で見た。
- 王位の争い
禹以前は帝位は徳のある人物に禅譲されましたが、夏王朝となり禹の死後にこの価値観の転換が行われました。益や啓の時代、伝統習俗はすでに新しい価値観に取って代わられており、禹の死後には啓がその後継であると主張し、帝位に就こうとしました。この闘争の過程は、”益は禹に代わって帝位に就き、啓を捕らえ監禁した。啓は反乱を起こし益を殺し、禹の後継となった。”とあります。
激しい闘争の末に帝位を奪い取り帝位に就いたことを伺わせます。
- 甘の戦い
啓は首領の地位を奪い、現在の河南省禹県で盟会を挙行し、内外の各部落の首領から支持者を集めることで統治体制を確立させました。これが文献に記載されている夏啓鈞台の享です。ただし、夏啓は伝統の風習を破壊してしまい、各部落の反感を買い有扈氏などの大勢力の部落が反乱を起こし、これが姒啓が有扈氏を討伐した甘の戦いを引き起こしました。
有扈氏は当時強大な部族の長でした。伝説では、禹の時代にも有扈氏を攻めたことがあるとされ、行いを以てそれを教えた、とあります。この伝説中では三陣でも降伏せず、禹は一年かけて教えを説き有扈氏は降伏した、とあります。この戦いは夏王朝の建国により政治体制が変化し、その中で行われた権力闘争であったと思われています。啓の有扈氏討伐は、禹の時代の争いの延長であると考えられます。
この甘の戦いの様子は、《尚書・甘誓》に書かれており、”甘での大戦の前に六卿(六軍の将)を召した。王は、六事の人よ私は汝らに誓って言う。有扈氏は五行を威侮し、三正を怠棄したので天はその命を絶つ。今私は天の罰を恭しく実行しているのだ。左は左を攻めないなら、あなたは命令を守っていないのだ。右は右を攻めないなら、あなたは命令を守っていないのだ。その馬が正しく行動しないならば、それはあなたが命令を守ていないのだ。命令を忠実に実行するにであれば祖廟の前で褒賞で報い、命令に従わないのであれば社壇の前で処刑する。”とあります。相手の非をあげ連ね、軍紀を正している様子が伝わります。さらに信賞必罰の断固とした態度で臨んでいます。
伝えられるところによると啓は始めは、”有扈氏と甘澤で戦ったが勝てず。”とあり、その原因を、”私の地は浅くなく、私の民は少なくなく、戦っても勝てないのは私の徳が薄く教えが不十分であるからだ。”と分析しています。その後、努力を重ね、”賢人を尊びその能力を使用し、一年かけて有扈氏を屈服させた。”とあり、啓が甘の戦いに勝利した様子が書かれています。
- 武観の乱
生産性が上がり富を蓄え権力が強化されると、それまでの氏族制度は次第に衰えてより中央集権的な共同体である国家が形成されていきました。それが夏王朝ですが、姒啓は暴力を用いて禅譲制を終わらせましたが、皮肉なことに啓の息子達の間に王位継承の骨肉の争いが始まってしまいました。これが武観の乱です。
周代の文献中に、”夏に観、扈があった。”という一文があります。その中の扈とは有扈氏であり、観とは即ち武観、或いは五観のことです。この武観と堯の子である丹朱、舜の子である商均、湯の子である太甲、文王の子である管蔡は比較されており、”五王は皆元徳があったが、奸の子でもあった。”と評されています。つまり姒武観は姒啓の”奸子”とされているわけです。
武観の乱の経過に関しては資料に乏しくよくわかっていませんが、《竹書紀年》には、”啓十一年、王の子武観を西河へ追放した。十五年に、武観は西河より反旗を翻し、彭伯寿が西河を征し、武観は帰順した。”とあります。啓が直接戦ったという記載ではなく、彭伯寿が軍を率いていたと読み取れます。
出典:baidu
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