幕末から明治にかけて存在した剣術の流派で、2018年2月現在まで残っている道場をまとめてみました。果たして最強の剣術流派はどれだったのでしょうか?現在は剣道が主流なのですが、実践に基づき発展してきた昔の剣術にも根強い人気があります。道場の中にはもともと東京にありましたが地方へと移動して現存しているケースも見られます。意外と多くの流派が残っていますね。
せっかくの機会でしたので、さらに幕末から明治にかけての各流派の剣豪もまとめてみましたのでこちらもご覧ください。幕末の剣豪と言えば新撰組など小説やドラマなどで人気を博している方々が有名ですが、その他にも強かったと言われている方々は各流派に大勢います。
新撰組や各藩の剣豪達はその剣術の力量を時代を変えるためや、また守るべきものを護るためなどその時代の流れに翻弄されながらも自分の信じた道のために使用していたので有名になりました。つまりスポットライトの当たる歴史の舞台で剣をふるっていたからです。しかし、スポットライトは当たりにくいですが、純粋な剣術の腕前で歴史に名を残している使い手はその他にも大勢いました。
古来より接近戦では刀による戦いが行われてきました。それに伴い、剣術が発展し各種の剣の流派が生まれました。戦国時代では陰流の始祖、愛洲久忠、鹿島新当流を開いた塚原卜伝やその直弟子で剣豪将軍として名高い足利義輝、陰流より新陰流を興した上泉信綱、その弟子の吉岡流の吉岡直賢、柳生新陰流の柳生宗厳(柳生石舟斎)一刀流の始祖である伊東一刀斎、二天一流の宮本武蔵とその父、十手術の新免無二、愛刀千鳥(雷切り)で雷神を斬ったとされる立花道雪などなど列挙には困りません。歴代の剣豪がひしめく戦国時代から平和な江戸時代を経て、動乱の幕末へと時代は流れ、剣術も受け継がれて進化していきました。
幕末にも多くの剣豪がいました。かの有名な坂本竜馬は北辰一刀流の目録、近藤勇や沖田総司など新撰組の多摩地方出身者の面々は天然理心流の同門です。薩摩には代々伝わる一撃必殺の示現流などなど幕末に盛んだったこれらの剣術が、明治新政府の帯刀禁止や身分撤廃という時代のうねりを受けてどうなったのでしょうか?
幕末の江戸には現代で幕末江戸三大道場として知られている、鏡新明智流の士学館、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館が有名でした。明治維新の志士たちの多くがこれらの道場に通って剣術修行に精を出していました。その他の流派も多種多様にありましたが、有名な流派は主に念流(一刀流)、神道流(示現流・天然理心流)、陰流(柳生新陰流・直心陰流・神道無念流)という3つの流れを汲んでいます。その他にも様々な流派をミックスした流派も多くあり、鏡新明智流は一刀流や柳生流など様々な流派を取り入れて成立しました。
幕末の有名な剣豪達が習得した流派は明治から昭和を経て失伝したものもありますが、多くは脈々と現代まで受け継がれています。そんな幕末にあった流派が現在ではどのような形で残っているのでしょうか。下の表をご覧いただけるとわかるように、面白いことに江戸で盛んだった北辰一刀流が今では水戸で教えられていたり、直心陰流が福岡で教えられていたりと、東京で教えられているというわけではありません。これは当時の江戸に剣術修行に来た各地方の藩士達が、故郷に剣術を持ち帰って地元で道場を開いたり時代の流れで拠点を移したりと様々な理由があります。ほとんどの流派は現代でも学ぶことが出来ますが、道場が近所にないと厳しいです。
幕末から脈々と受け継がれている剣術流派の一覧
流派 | 開祖 | 成立 | 現在残っている道場 |
鏡新明智流剣術 | 桃井直由 | 安永年間(1772年 – 1780年) | 現在、鏡新明智流は失伝したが、末流である鏡心流に抜刀形が10本と、警視流木太刀形、警視流立居合に1本ずつ残っている。 |
神道無念流 | 福井兵右衛門嘉平 | 江戸時代中期 | 東京都清瀬市の有信館道場 |
北辰一刀流 | 千葉周作 | 江戸時代後期 | 茨城県水戸市の水戸東武館 |
中西派一刀流 | 中西子定 | 江戸時代後期 | 鎌倉市の道場「修道学院」 |
忠也派一刀流 | 伊藤忠也 | 江戸時代初期 | 不明 |
小野派一刀流 | 小野忠常 | 江戸時代初期 | 東京都世田谷区の禮樂堂道場(警視庁の剣術指導も行っている) |
一刀正伝無刀流 | 山岡鉄舟 | 明治時代 | 東京都港区「スパ白金」内、ウェルネス倶楽部・無刀流クラス |
唯心一刀流 | 古藤田俊直 | 江戸時代初期 | 失伝 |
天然理心流 | 近藤内蔵之助 | 江戸時代後期 | 東京都三鷹市の三鷹本部道場 |
薬丸自顕流 | 薬丸兼陳 | 江戸時代初期 | 鹿児島県鹿児島市の四方学舎道場 |
示現流 | 東郷重位 | 戦国時代もしくは 江戸時代初期 |
鹿児島県鹿児島市の示現流東郷財団内 |
直心影流 | 杉本備前守紀政元もしくは山田光徳 | 戦国時代 | 福岡県嘉穂郡の秋吉道場 |
加藤田神陰流 | 加藤田新作 | 江戸時代中期 | 開祖の息子の大介氏が大正期まで久留米で活動していたようだがその後は不明 |
大石神影流 | 大石種次 | 江戸時代後期 | 広島県廿日市市の廿日市市立七尾中学校柔剣道場 |
心形刀流 | 伊庭秀明 | 江戸時代初期 | 三重県亀山市の亀山演武場 |
柳剛流 | 岡田寄良 | 江戸時代後期 | 山梨県富士吉田市の 国際水月塾武術協会本部 |
荒木流拳法 | 荒木夢仁斎源秀縄 | 安土桃山時代 | 群馬県伊勢崎市の清心館道場及び敬心館道場 |
不知火流 | 我流の説あり | 不明 | 失伝 |
田宮流 | 田宮重正 | 戦国時代 | 神奈川県藤沢市の元和会総本部事務局 |
田宮神剣流 | 西条藩に田宮流が伝えられ独自に発展し田宮神剣流として大成された。 | 江戸時代初期 | 神奈川県藤沢市の元和会総本部事務局 |
立身流 | 立身三京 | 室町時代 | 千葉県佐倉市の立身流兵法本部道場 |
西岡是心流 | 西岡是心 | 江戸時代中期 | 失伝 |
雲弘流 | 井鳥巨雲 | 江戸時代初期 | 熊本県熊本市の天真道場 |
それぞれの流派で有名な剣豪達は以下の通りです。
鏡新明智流剣術 | |
秋山多吉郎 | 明治初期、士学館四代目の桃井直正が大阪で再興した士学館の師範代兼塾頭。 |
坂部大作 | 警視庁撃剣世話掛。大日本武徳会から第1回の範士号を授与。 |
桃井直正 | 江戸三大道場の一つ、士学館の四代目。品格随一で「技の千葉(玄武館)、力の斎藤(練兵館)、位の桃井(士学館)」と言われた。 |
上田馬之助 | 1867年、新両替町で天童藩槍術師範中川俊造、同剣術師範伊藤慎蔵と喧嘩になり、2人を斬った。2人ともほぼ即死であった。 |
神道無念流 | |
大川平兵衛 | 神道無念流の達人・秋山要助の道場に入門し、20歳にして免許皆伝を受けた。 |
桂小五郎 | 維新三傑と称される明治維新の立役者。幼少期は柳生新陰流を学ぶ。 |
斎藤歓之助 | 幕末江戸三大道場の一つ練兵館主・斎藤弥九郎の三男。 |
斎藤新太郎 | 幕末江戸三大道場の一つ練兵館主・斎藤弥九郎の長男。神道無念流を長州藩に指導。 |
佐々木只三郎 | 京都見廻組隊士。坂本竜馬が暗殺された近江屋事件の実行犯の一人といわれている。 |
柴江運八郎 | 1903年(明治36年)、第1回の剣道範士号を授与される。 |
根岸信五郎 | 真貝忠篤、得能関四郎と共に「東都剣道界の三元老」と称され、明治剣道界の大御所的存在であった |
仏生寺弥助 | 神道無念流の剣術道場・練兵館の風呂焚きの仕事をしている間に練習風景を見て剣術を覚えてしまったという人。練兵館最後の塾頭・原保太郎は、「日本武道史」の著者・横山健堂に、「弥助こそ当時の日本一」と語った。芹沢鴨と親しくなって新撰組に入ろうとしたが、余りの強さに逆に恐れられ謀殺された。 |
渡辺昇 | 神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊大日本武徳会から最初の剣道範士号を授与された。 |
永倉新八 | 新撰組二番隊組長及び撃剣師範を務めた。 |
北辰一刀流 | |
井上八郎 | 1851年に飛騨へ行き、幼少の山岡鉄舟に剣術を教えた。 |
柏尾馬之助 | 新徴組剣術教授方で二番隊肝煎役。北辰一刀流剣術大目録皆伝。1864年に新徴組を脱隊。 勝海舟や千葉道場同期同門の坂本龍馬と仲がよかったために次第に維新志士となっていった。 |
勝俣乙吉郎 | 大阪で鏡新明智流の坂部大作やフランス人の銃剣術教官と試合をして勝利。 |
小林定之 | 大日本武徳会剣道範士。警視庁撃剣世話掛。 |
坂本龍馬 | 北辰一刀流長刀兵法目録。幕末の有名人だが、明治維新に具体的にどんな貢献をしたのかいまいち不明でよく議論の対象になる人。 |
下江秀太郎 | 1866年19歳で玄武館塾頭となる。これに喜んだ宇都宮藩主から朱鞘の大小を与えられ、朱鞘の秀の異名をとる。 |
千葉周作 | 「技の千葉(玄武館)、力の斎藤(練兵館)、位の桃井(士学館)」でお馴染みの幕末江戸三大道場の一つ、北辰一刀流の玄武館の創設者。周作の門下から幕末の重要人物が多数排出されている。 |
千葉栄次郎 | 北辰一刀流の創始者、千葉周作の次男。早熟、夭折の天才肌。千葉の小天狗と言われた。 |
千葉定吉 | 桶町千葉道場の創設者で千葉周作の弟。 |
千葉さな子 | 千葉定吉の次女。美人だと伝えられるが「千葉の鬼小町」の異名をもつ剣術の腕前だった。龍馬の許婚で有名だが、細かい内容は良くわかっていない。 |
千葉重太郎 | 千葉定吉の長男で後継者。坂本竜馬と一緒に勝海舟を暗殺しようとした。 |
森要蔵 | 1841年、上総飯野藩に剣術指南役として登用され、「保科に過ぎたるもの」と呼ばれた。孫に講談社創業者の野間清治がいる。野間清治も剣術愛好家として有名で野間道場を設立している。 |
吉村貫一郎 | 子母澤寛の小説や最近の映画やドラマ、壬生義士伝で有名になった人。実際の剣の腕前は不明。 |
伊東甲子太郎 | 1867年に新選組を離脱し、御陵衛士を結成。近江屋事件の3日後に新選組隊士の大石鍬次郎らにより暗殺された(油小路事件)。 |
一刀流中西派 | |
浅利義明 | 江戸城無血開城の立役者、山岡鉄舟の師。鉄心が立会いを望み、いざ立ち会ってみると鉄心は気迫に負けて道場の外まで押し出されてしまった。その後鉄舟は義明に弟子入り。1880年に鉄舟と再度立ち会ったが、相対すると剣を納めて負けを認め、中西一刀流の印可を授与。 |
遠藤五平太 | 1881年、浅利義明より中西一刀流の印可を授かった山岡鉄舟が五平太と立ち会うが、しばらくにらみ合っただけで鉄舟が参りましたと一礼して負けを認めた。 |
岡田以蔵 | 土佐藩士で勤皇党員。幕末の四大人斬りで人斬り以蔵の名で知られている。1865年に打ち首。 |
武市半平太 | 土佐藩士。土佐勤王党の盟主。1856年、岡田以蔵らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館に入門し、館長の桃井は武市に皆伝を授け、塾頭とした。 |
忠也派一刀流 | |
石山孫六 | 土佐藩士の招きで、1851年土佐で剣術の試合を行い、藩主山内容堂の上覧を受ける。武市半平太の道場にも招かれたという。1854年土佐藩江戸藩邸で剣術を指南する。1895年、大日本武徳会主催の第1回武徳祭大演武会に出場し、精錬証を授与され、1903年には同会から第1回の範士号を授与された。 |
小野派一刀流 | |
梶川義正 | 幕末に小野派一刀流剣術を修める。明治12年(1879年)に警視庁に撃剣世話掛に登用され小野派一刀流を教える。この流れで、現在も警視庁の武道専科生は剣道のみならず小野派一刀流も学んでいる。 |
一刀正伝無刀流 | |
籠手田安定 | 心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた。強い剣客を配下に従えたびたび道場破りを行った傍迷惑だが中二心をくすぐる人。 |
山岡鉄舟 | 江戸城無血開城の立役者で、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。 |
唯心一刀流 | |
山本鉄之丞 | 1841年、水戸藩で藩校・弘道館が開設されると、近くの笠間藩から鉄之丞が招かれて試合を行った。結果は鉄之丞が水戸藩側の剣士全員に勝ったため、水戸藩主・徳川斉昭から「鬼鉄」の名を与えられたという。 |
天然理心流 | |
近藤周助 | 天然理心流剣術3代目宗家。新選組局長近藤勇の養父。 |
近藤勇 | 浪士組を経て新撰組局長。天然理心流剣術4代目宗家。 |
土方歳三 | 浪士組を経て新撰組副局長 |
沖田総司 | 新撰組一番隊組長及び撃剣師範。 |
薬丸自顕流 | |
大山綱良 | 薩摩藩中随一の使い手といわれ、立会いでは防具をつけずに立ち会った。西郷隆盛とともに藤田東湖に会ったときのこと。西郷は大山を剣の達人であると紹介した。 |
奈良原喜左衛門 | 生麦事件で、行列を横切ったイギリス人チャールズ・レノックス・リチャードソンに斬りつけたとされる。 |
薬丸兼義 | 下級武士を中心に多くの弟子を育てた。弟子の中から維新の元勲が数多く出たため、「明治維新は薬丸流がたたきあげた」と言われた。 |
示現流 | |
桐野利秋 | 初め中村 半次郎と称した。幕末の四大人斬りの一人。公武合体派の軍学者・赤松小三郎を白昼暗殺した。明らかとなっている暗殺はこの1件だけである。 |
村上亘 | 山本鉄之丞(唯心一刀流)と共に笠間の剣術の双璧として並び称された。 |
直心影流 | |
阿部守衛 | 後楽園能楽堂で催された旧藩主池田章政との親睦会の席上で同じ岡山藩で直心陰流の同門、奥村左近太と対戦し、引き分けた。 |
今井信郎 | 京都見廻組に所属。戊辰戦争では箱館戦争まで戦ったが、明治3年(1870年)に箱館で降伏して捕虜となる。このとき近江屋事件の取調べを受け坂本龍馬暗殺に関わったと自供。その後の裁判では有罪となる。明治5年(1872年)に特赦により釈放された。 |
奥村左近太 | 二刀流の剣士。1863年、阿部右源次から直心影流の免許皆伝を受け、奥村二刀流を開いた。 |
男谷信友 | 島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」と言われている。立会いを申し込まれると必ず立会い、ことごとく打ち破っていった。しかも、三本勝負では相手に一本取らせてあげるというおまけつき。 |
柿本清吉 | 北辰一刀流の千葉栄次郎と立ち合った時に、柿本は三本先取したが、再度立ち会うと同じ技を三本返されたという。 |
榊原鍵吉 | 講武所剣術師範役、遊撃隊頭取を務める。明治維新後は撃剣興行を主宰して困窮した士族を救済したことや、天覧兜割りの成功などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。 |
島田虎之助 | 男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれた。 |
高山峰三郎 | 籠手田一味の一人。籠手田安定に同行し警視庁に試合を挑み、警視庁の撃剣世話掛36名を連破した記録で有名。 |
玉城織衛 | 新徴組の剣術教授方の一人で、剣の腕では新徴組随一と謳われた。 |
得能関四郎 | 明治時代に警察ができてから警視庁に出仕し警護掛、撃剣世話掛を務めた。大日本武徳会から第1回精錬証及び範士の称号を授与された。 |
藤川整斎 | 整剣は心胆を練って有時に備えるのが目的であり、試合の勝ち負けに意味は無いという考えを持っていた。 |
加藤田神陰流 | |
梅崎弥一郎 | 1871年、加藤田より神陰流奥免許を授けられる。 |
加藤田平八郎 | 加藤田神陰流第9代。江戸で男谷信友(直心影流)と十本勝負で全勝、島田虎之助(直心影流)と八本勝負で全勝、小川八郎(小倉流)に判定勝ち。千葉周作(北辰一刀流)には敗れた。 |
松崎浪四郎 | 1855年に岡藩江戸藩邸で試合を行い桃井春蔵と斎藤新太郎に勝ち、上田馬之助に引き分け、千葉栄次郎には敗北。 |
大石神影流 | |
大石種次 | 大石神影流の創始者で、男谷信友、島田虎之助と並ぶ「天保の三剣豪」の一人。1832年、藩から聞次役を命じられ、暮れに江戸へ出府。種次は3ヶ月間、江戸府内の名門道場に次々と挑み、連戦連勝で、千葉周作がかろうじて引き分けた。ただひとり白井亨(天真一刀流)が種次を破ったという。翌年、当時随一の実力といわれた男谷信友と試合するが、初日は男谷に敗北。翌日の再戦では勝利し、その後は連勝。 |
心形刀流 | |
伊庭八郎 | 明治新政府軍が江戸城に向けて進軍した際に、幕府側として明治新政府軍と戦う。小田原藩と箱根山崎で戦った際、小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に左手首の皮一枚を残して斬られた。以降は隻腕の剣客として知られるようになった。 |
中條金之助 | 浪士組取締役、新徴組支配を歴任。山岡鉄舟、勝海舟の提言もあって、明治新政府の外貨獲得のために牧之原開墾の指導にあたり茶園を成功に導き静岡のお茶の礎を築いた人。 |
柳剛流 | |
岡田寄良(岡田惣右衛門) | 北辰一刀流の玄武館同様、神田お玉ヶ池界隈に柳剛流の道場を構えていた。1860年の『武術英名録』によれば柳剛流の門人数は北辰一刀流を超えていたという。 |
橘内蔵介(橘正以) | 水野家の江戸屋敷で、内蔵介の門人と紀州藩の剣術師範家4流(田宮流・西脇流・金田流・浅山一伝流)の門人との試合を行った結果、柳剛流の実力が認められた。このことが紀州藩の藩校で柳剛流が採用される切っ掛けとなった。 |
荒木流拳法 | |
岡田定五郎 | 竹刀で厚い板を突き貫き、「鬼岡田」と呼ばれた。 |
不知火流 | |
河上彦斎 | 幕末の四大人斬りの一人とされるが、彦斎が斬った人物で確実なのは佐久間象山だけ。不知火流は我流とも言われている。 |
田宮流 | |
窪田清音 | 徳川幕府が設置した講武所の頭取・兵学師範役を務めた。 |
真貝忠篤 | 明治後期の剣道家の間で大御所的存在であった。小手斬りが得意であったので「小手斬り真貝」異名で呼ばれた。 |
田宮神剣流 | |
窪田清音 | 徳川幕府が設置した講武所の頭取・兵学師範役を務めた。 |
真貝忠篤 | 明治後期の剣道家の間で大御所的存在であった。小手斬りが得意であったので「小手斬り真貝」異名で呼ばれた。 |
立身流 | |
逸見宗助 | 1879年(明治12年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると登用され、警察官となる。1884年(明治17年)12月、籠手田安定一派の襲来の際、滋賀県警察部の高山峰三郎(直心影流)に撃剣世話掛30余名が連破され、総崩れ寸前となったが、最後に受けて立った逸見が勝ち、警視庁の面目を保った。 |
西岡是心流 | |
渡辺篤 | 京都見廻組で佐々木只三郎・今井信郎らと共に坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に加担したとされる。 |
雲弘流 | |
井上平太 | 鳥羽・伏見の戦いでは熊本藩士として新撰組隊員を数名斬っている。戊辰戦争では東北戦争に従軍。明治になると警察官になり、犯人逮捕はせずに説教だけで見逃すという、人情の人。 |
新撰組や維新志士などの知名度の高い人が強いイメージを持たれがちですが、その他にも知名度が低くても強い人は沢山いました。単純に強さを比較するのは難しいですが、それにもかかわらず最強の剣豪は誰だ?ということに興味を惹かれます。また、新撰組の斉藤一など剣豪と伝えられているが、流派が不明な人もいます。
江戸時代までは木刀など危険な道具を使用していたため、剣術修行は型の稽古が盛んでしたが、幕末になりより安全性の高い竹刀と防具が発展したため、思いっきり打ち合うようになりました。これにより流派同士の対外試合が盛んに行われるようになり、幕末の剣聖として名高い直心陰流の男谷信友などは売られた勝負は片っ端から受けて、向かってくる相手を片っ端からなぎ倒していったといいます。
明治維新後に帯刀禁止令が出て剣術は庶民の間からは徐々に廃れて生きますが、維新後に警察が出来ると警察官の鍛錬のために剣術修行が行われていました。 明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると桃井直正が撃剣世話掛の選考役の一人となり、上田馬之助、阪部大作、久保田晋蔵、兼松直廉と、いわゆる幕末期の「桃井の四天王」が揃い、警視庁では鏡新明智流が主流となりました。そのため、鏡新明智流が廃れた現代でも、警視庁には鏡新明智流の型が残されています。
明治28年には大日本武徳会ができ、各流派を超えて現代の剣道の礎を築きました。大日本武徳会が授与する範士は武道における最高位の称号です。授与されただけで凄腕の剣士だといえます。大日本武徳会は第二次大戦後にGHQによって解散させられますが、剣術は剣道として現代にも残っています。また、上記のとおり幕末の剣術の各流派は当時のまま日本各地で教えられています。
吉岡仁斎藤五郎範善はいないか>?