【中国】キョンシー(殭屍)は実在するのか?:1872年清朝広西キョンシー襲来怪奇事件

1872年の清朝時代に広西でキョンシーが現れて人を襲ったといわれている事件です。果たして真偽のほどはどうなのでしょうか?

このころの中国は清朝の末期で、1840年にイギリスとのアヘン戦争に負けて以来、坂道を転げ落ちるように弱体化していきました。

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1872年の清朝時代、中国で奇怪な事件が起こりました。いわゆる1872年の広西キョンシー襲来事件です。この事件では村人が20人以上死傷したと言われています。この事件に関してネット上には様々な話が見て取れますが、一貫した説明がなくどの説も行っていることはバラバラでしたので、その中から有用な情報を集めて整理してみました。事件の真相に一歩でも近づけることを期待しています。




1872年、清政府がロシアとの間に清に不利益となる通商条約を結びましたが、この件を発端にこの奇怪な広西キョンシー事件は起こりました。同治十年(1871年)ロシアが新疆ウイグル自治区北部の伊犁を占領した後、Kaulbarsを特使として喀什に派遣しました。同治十一年(1872年)五月三日、ヤクブ・ベクの提言した通商条約に調印、ヤクブが“哲德沙尔”の王になることが承認されました。清政府が弱体化し人心も政府から離れていっており、孫文などが革命を起こす土壌が出来つつあった時期です。

1872年のロシアの状況はというと、1872年はロシア最後の皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナ6月6日に生まれています。皇后が生まれたことにより、このような恐怖の事件が起こるとは、当時誰も知る由もありませんでした。この話は阿牛という荷物運搬人がキョンシーとなってしまった経緯についてです。この阿牛が事件の発端なのではないかというのが主に語られている事件の経緯です。

南疆の国境や広西の港にはいち早くロシアの低関税の商品が送られました。ロシアとの交易が盛んになった結果です。ロシアへの輸出する品物の中には、フョードロヴナ生誕の祝い品も多く含まれていました。




広西では阿牛と呼ばれた荷物運搬人がロシア向けの荷物をロシア人の馬車上に運んでいました。阿牛は前日の晩から何も食べていないのと、不注意とで黒褐色の箱を落として壊してしまいました。箱は地面に落ち壊れ、箱の中からは形のよい金属容器が出てきました。

阿牛は容器の破損部分を注意深く塞ぎながら、壊れてしまったものは仕方ない、どうせならこれを今晩の酒代に変えてしまおう、と密かに思っていました。しかし、阿牛が容器に触れ、阿牛の体温が容器に伝わると、容器の中から液体が出てきて阿牛の身体に静かに溶け込み、一体化してしまったことに阿牛は気づいていませんでした。家に帰る途中に体中に激痛が走り、耐え難い苦痛により阿牛は農村で医療補佐をしている馬懐のところに駆け込み、苦痛を治めてくれるように懇願しました。

馬懐は阿牛の胸にある容器の印を見て戦慄しました。なぜなら、この印は古い書物にある天人五器の一つに刻まれているもので、この奇怪な符号が阿牛の身体に現れていたからです。この太古の呪の言葉の意味は:合我者,生而不死,为至大罗地狱而起妖念(我とあるものは、生あるものは死なず、大羅地獄に落ち妖念となる。)

馬懐は大いに動揺し、説明しました。「これはあなたの命運です。今日月が昇ったときあなたは人間ではなくなります。これははるか北方の太古の呪詛です。私にはどうすることも出来ません。そして…。」と話が終わらないうちに馬懐は彼の混沌とした目のうちに飢えや渇きを見て取り、予言はすでに始まっていることを悟りました。

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その後、キョンシーが広西のとある村を襲ったという事件が発生しました。以下がその事件の顛末です。

○ 事件の概要

散在する資料を集めて推測を交えて考察すると、1872年にフョードロヴナが生まれ、中国南部のある地域に特殊な貨物が送られましたが、これが紛失しました。この貨物がなくなったその日に、とある村で村人が完全な形の死体が一体も残らず惨殺されると言う恐ろしい事件が起こりました。




○ 主要人物

1872年、清朝暦同治十一年、この一年の間に厳樹森(?-1876)が広西の按察使(管轄する省の司法・治安・監察を司る職)として赴任しました。この厳樹森が日記中で当時起こったとされるキョンシー事件の詳細について記しています。

○ 発生地

この事件が広西で起きたことはみんな知っていますが、広西と言っても非常に大きいのでその中のどこでしょうか?それは広西の交通の要衝である凭祥県です。当時は凭祥土州と言って、広西太平府に属しており、多くの民族が住む地区です。この地区はベトナムとの国境よりも広西の首府の南宁に近いです。この付近の山岳には、多くの小説中で語られている“十万大山”中の一区域でもあります。

○ 事件の経緯

1872年七月上旬、凭祥土州の彝族の集落で原因不明の三人の死体が見つかりました。彼らは近くの壮族の仕業と推測し、襲撃、紛争に発展しました。この紛争で数十人のけが人が出ました。数日後、太平府が参事と捕頭を派遣して調査しました。参事は各部族からの事情聴取、捕頭は真相究明が任務でした。

彼らが現地へ到着した当日の夜、さらに傣族から死者が一人出ました。捕頭は前の死者が火葬されたため調査困難であったために、この知らせに内心喜びました。しかし、この死体調査の報告は関係者を驚かせるのに十分でした。なぜなら、その報告は人の仕業ではない、と言うものだったからです。

政府の組織の下、各部族の巫師と神官たちは集まって対策を話し合いましたが、結論が出ないまま七月十五日を迎えました。七月十五日の星明りのまばらな夜に、捕頭と数名の巫師がある村を巡回していたところ、突然キョンシーの群が村の中に出現し、鶏、鴨、豚、羊などには目もくれず、目に付いた人間に見境無く襲い掛かりました。

連夜村人達は逃げ出しましたが、出現から二日目には、18人の死体が見つかりました。犠牲者はどれも走れない老人や子供達でした。

○ 事件の結末

事件はこの付近にいた広西按察使の厳樹森の耳に入り、彼はすぐさま現地へ駆けつけました。厳樹森は道光皇帝の時代に科挙に合格し、最終的には広西の地方長官にまで上り詰めた人物で鬼神をも恐れない不撓不屈、気宇壮大な人物でした。厳樹森はまず、山を封鎖し、村の周囲三十里を立ち入り禁止にした後、山を焼き払いました。その大火は七日七晩燃え続け、全てを灰にしました。これ以降キョンシーの出現は無くなり、広西のキョンシー襲来事件は収束しました。

○ 事件のその後

広西按察使の厳樹森はしばらくして事件を朝廷に上奏しました。概要は:ベトナムとの国境でイギリス人とわが国の奸族とが結託して、放火殺人略奪を行った、と言うものでした。

この上奏文の中にはキョンシーに関する記述はありませんでした。あったのは、イギリス人の仕業ということだけでした。

出典:kejixun

19世紀後半の広西で起こったとされるキョンシー事件です。何かの事件があったのは実話のようですが、公的にはイギリス人の略奪であったと結論付けられています。

伝承によると阿牛がキョンシーとなったことがこの事件の発端である言い伝えられています。阿牛は太古の呪いでキョンシーになっていますが、伝承から推察するにかなり強力な呪いのようです。阿牛がなってしまったキョンシーは階級的には第三級の緑僵と言ったところでしょうか。また二十人以上の被害者が出ているので10体くらいの集団で村を襲ったと思われます。




中国は1840年に起こったアヘン戦争で負けて以来、イギリスの傀儡色が強くなりました。当時は中国本土に住んでいるイギリス人も多数いたことから、イギリス人が関わっていたと言われても違和感はありません。イギリス人にとってはアヘン戦争で勝利した国なので、気が大きくなって略奪など犯罪行為をしていても不思議ではありません。

キョンシーが起こした事件として語り継がれていますが、公的には賊の仕業だということで片づけられています。一体どちらが本当なのでしょうか?長官の厳樹森は日記で記録していたとのことですので、ネット上で厳樹森の日記の内容を探してみましたが、見つけることはできませんでした…。また、キョンシー事件として扱われるのなら何かしら怪奇的な要素があったのだと思いますが、このことを含めてキョンシーが現れたという根拠となる資料は見つかりませんでした;; しかし、これにめげずまだまだキョンシー調査はあきらめません;;

キョンシー調査のまとめに関しては以下をご覧ください!

キョンシーを徹底解説!中国のキョンシー実在調査のまとめ




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