干宝さんの捜神記翻訳シリーズの第六巻です。この巻には漢から魏、晋の間に起こった不思議な事柄が当時の政変などに絡めて書かれています。梁冀の妻の化粧の話がありますが、梁冀の妻は当時の女性たちの間のファッションリーダーとして有名でした。いつの時代も行き過ぎたファッションは批判されるものなのですね(;´∀`)
この巻は三国志に関連する話も多く、三国演義などに食傷気味の方々にとっては新鮮な切り口となる話ではないでしょうか。三国志は人間関係や国家関係、戦争などにスポットが充てられていますが、この捜神記は不思議な出来事を通して三国時代を語っています。これらの話から当時の人々の考え方や物事の捉え方が垣間見える気がしますね。
- 妖怪を論ずる
妖怪とは、陰陽の元気が憑りついた物体である。元気は物体の内部で惑乱することで、物体の外形が変化し始める。形体と気質、つまり外表と内在の両要素が物体上で作用することで体現し、それらは金、木、水、火、土の五行を本源とし、容貌、言談、観察、聆聴、思考の五種の事柄と関連している。そしてそれらは消滅、増長、上昇、下降、様々な物に変化するが、それらは禍福の兆しを示し、皆一定の範囲内でその妖怪が行う行為が定まるのである。
- 山の徒を論ずる
夏桀の時代、歴山が消失した。秦始皇の時代に三座の仙山が消失した。周の显王の三十二年と時、宋国の大丘の神社が消失した。漢の昭帝末年には、陳留県、昌邑県の神社が消失した。京房の《易伝》には、”山は密かに自ら動き、その後には天下の大乱、国家の滅亡が起こった。”とある。以前に会稽山陰県の琅邪山中に奇妙な山があり、伝説ではもともとは琅邪郡東武県の海中にあった山だという。当時は天は黒く、風雨が吹き荒れていたあが、天に微かに明るくなったときに武山の内部が見えた。百姓たちは奇怪に思い、怪山と称した。当時東武県のこの山も、自ら動き一晩で消失した。その山の形状を覚えている人はその山がどこへ動いたのか知っていた。今の怪山のような山の脚下に東武里があり、この山の由来となり地名ともなった。その他、交州の山は青州へと移動していた。凡そ山の移動は皆極めて異常な怪異現象であった。これらの件に関しては起こった年代の詳細の記載はない。
《尚書・金騰篇》には、「山の遷移で国君は学問の徒を任用せず、賢人は推挙されなかった。或いは禄位は諸侯に帰し賞罰を国君は行わず、個人の門路は多くなり薬では救えず、改朝し代を換え、年号を変更した。」とある。また、「善く天道の事を言うと、必ず人事に関連している。人事の事を言うと必ず天道に基づいている。」とも言われている。このため天には春、夏、秋、冬の四季があり、日月は推移し、寒暑が入れ替わる。それらは循環しながら運行し、調和が雨を成し、狂怒が風を為し、分散は露を為し、混乱は霧を為し、凝聚は霜雪を為し、伸張は虹を為すがこれは天の正常な規律である。人には四肢五臓があり、眠りそして目覚め、呼吸で息を吸い込むと精気は循環し、流動は血気を為し、顯現は色を為し、発出は声音を為し、これらは人の正常な規律である。もし、天の四季が運行を止めると、寒暑は正常でなく、金、木、水、火、土の五星は消失し星座の運行は乱れ、日月には光が無くなり、彗星が出現し流れ飛ぶがこれは天地の危険の兆候である。寒暑が合わないとき、これは天地の気息が塞がれるのである。石は高くそびえ立ち、土地は踊り立ち、これは天地生出の瘤贅である。山は崩れ地は陥没し、これは天地の成長した時の腫瘍である。狂風暴雨は天著の精気の激しい流れである。雨露は降らず、河は干からびるが、これは天地の焦燥枯渇なのである。
- 玉が蜮(よく)に変わる
晋の献公二年に、周恵王が鄭に住んでおり鄭人が王府に侵入し、多くの玉を掴むと玉は蜮に変化してしまった。蜮とは人に砂を吹き付ける妖怪である。
蜮に関しては以下をご覧ください。
中国神話の奇妙な鬼を集めてみた。鬼特集1(黄父鬼、瘧鬼、蜮)
- 地長地陥
周の隠王二年の四月に、斉国の一地方が著しく育成し、一丈以上の長さで一尺五寸の高さまで成長した。京房の易妖には、「地の四季が猛々しいと、卜占は春夏の二つの季節には吉があり、秋冬の二つの季節には凶がある。」とあった。歴陽の郡城には、一晩で地面が陥没し池が出来、麻湖と呼ばれていた。いつ発生したかは誰も知らなかった。運斗枢には、「城の陥没した地面は陰が陽を飲み込んだのであって、天下の人が互いに殺し合った結果である。」と書かれている。
- 一婦四十子
周の哀王八年に鄭国に一人の婦女がおり四十人の子供を産んだ。その中の二十人が成人したが、二十人が死んだ。周哀王九年に晋国の豚が人の子を産んだ。呉国赤烏七年(西暦244年)に、ある婦女が一度に三人の子供を産んだ。
- 彭生が豚の禍を為す
魯庄公八年(西暦686年)、斉の襄公が貝丘で狩りをしていた時に、一頭の豚を見て供の者が、「これは公子彭生です。」と言った。斉の襄公は怒り矢をつがえて狙いを定めた。その豚は人のように立ち上がって嘶いた。襄公は恐れ、躓いて車上から落ちて足を怪我した上に靴を無くした。劉向はこれは豚の災禍に似ていると思った。
- 蛇が国門で争う
魯の庄公の時、鄭国に城内の蛇と城外の蛇が城の南門で争ったという出来事があった。城内の蛇は死んだ。劉向は蛇は罰当たりな行い中にあると思った。京房の易伝には、「後継者を立てる際に問題があると、その妖兆は蛇の国門中の争いとして現れる。」とある。
- 馬が人を生む
秦考公二十一年(紀元前341年)に、ある馬が人を生んだ。秦昭王二十年(紀元前287年)にある雄馬が仔馬を生んだために死んでしまった。劉向はこれは皆馬の災禍と思った。京房の易伝には、「諸侯が威勢を分かち合い、その怪異な出来事は雄馬が仔馬を生むことである。上には天子がおらず、諸侯は互いに征伐しあい、その怪異な出来事は馬が人を生むことである。」とあった。
- 犬と豚が交わる
漢景帝三年(紀元前154年)、邯鄲で犬と豚が交わるという出来事があった。この時趙王が惑乱して呉、楚などの六国ともに造反し、遠交近攻作戦として匈奴と結び後援とした。五行志には、「犬は軍事上で支援を失う征兆で、豚は北方匈奴の象徴である。耳障りな言葉は聞かず、同類でない異族の匈奴と結んだ為に災禍に見舞われた。」とあり、京房の易伝には、「男女の関係は不謹慎であり、この怪異な出来事は犬と豚が交わることである。これは道徳に違反しているので、国家に戦争が起こった。」とある。
- 白黒烏が戦う
漢の景帝三年十一月に、白頸の鴉と黒鴉が楚国の呂県で群で戦っていた。白頸の鴉は戦いに敗れ、泗水に落ちて数千羽が死んでしまった。劉向はこれは白黒の征兆であると思った。当時の楚王劉居戊は暴虐無道で、刑罰で申公を侮辱し、呉王と謀反を起こした。鴉の群闘は軍隊の作戦の象徴であった。白頸の鴉の体は小さく、小の失敗を表していた。水の中に墜落したことは水の有る地方で死ぬことの説明であった。楚王劉戊はこの道理が分からずに、兵を起こし呉王が呼応し漢王朝と戦ったが敗れ敗走し、丹徒県に到ると越人に殺された。これは鴉が泗水に落ちた象徴であった。京房の易伝には、”親戚に背くというその妖兆は白鴉と黒鴉が国中で争うことである。”と書かれていた。
燕王劉旦が謀反を起こしたとき、また一羽の鴉と一羽の喜鵲がおり、燕王宮中の池で争い、鴉が池に落ちて死んでしまった。五行志では、楚王と燕王はどちらも朝廷の骨肉、王室の諸侯であり、傲慢強欲で謀が常軌を逸し、どちらにも鴉と喜鵲の闘争があり死の象徴である、と書かれていた。彼らの行為は同じであり卜占とも相似であるので、これは天道の人事が表現されたものであった。燕国陰謀はいまだ起こらず、燕王は宮中で自殺し、一羽の水色の羽毛の鴉が死んだ。楚国は下民に対して恩恵を施さず乱を起こしたが、楚軍は野外で大敗したため、金色の羽毛の鴉が死んだ。これは天道精緻の作用である。京房の易伝には、「独断で戦争を起こし強奪し殺害するとき、その妖兆は烏鵲が互いに戦うことである。」とある。
- 牛の足が背から出る
漢の景帝十六年、梁孝王が北山で狩りをしていると、ある人物が背中から脚が一本上に向け長く生えている奇妙な牛を献上した。劉向はそれは牛の災禍に似ていると思った。内部の考慮すべき案件は曖昧で混沌としており、外部では土木工事が盛んに行われすでに規定を超過していたので牛の災禍が発生したのだ。脚が背中に生えているのは下級が上級を侵害する征兆であった。
- 犬冠が朝門を出る
漢の昭帝の時代、昌邑王劉賀が一匹の大きな白犬を見た。”方山冠”をかぶっていたが尻尾は無かった。漢の霊帝の熹平年間に到ると、宮内の人は犬に帽子を被らせ、印綬帯を結び面白半分に遊んでいた。京房の易伝には、「君上が不正ならば臣下は権力の簒奪したいと思い、その妖兆は犬が帽子を被り朝門を走って出ることである。」とある。
- 雌鶏が雄に化わる
漢の宣帝黄龍元年、未央宮の輅軨厩内の雌鶏が雄鶏に変わり、色も全て変わったが鳴かず争いもせず、蹴爪もなかった。漢の元帝初元元年に、丞相府史家の母鶏が卵を孵すと、だんだんと雄鶏に変わり、鶏冠と蹴爪が伸び、暁の頃に鳴き、争いを好んだ。永光年間に、ある人物が角が生えた雄鶏を献上した。《五行志》には、これは王莽が権力を簒奪する応験である、とあった。京房の《易伝》には、”賢能の人が暗黒の乱世に生きると、時代の潮流を知るのだが害され、動揺を招き衆人を昏迷させる人物達が職位を占める、この怪異な事情は鶏に角が生えることである。”とある。また、”婦女が政権を独り占めすると、国家は安寧を得られず、雌鶏は雄鶏のように鳴き、君主に栄光は訪れない。”とある。
- 天雨草
漢の元帝永光二年(紀元前42年)八月、天上から草が落ち、草は互いに絡み合って球くらいの大きさになっていた。平帝元始三年正月になると、天から再び草の雨が降りその様子は永光の時代が凋落していくようであった。京房の《易伝》には、”君主が俸禄をけちると信用が減退し、賢能の士が去る。この怪異の事情が天雨草である。”とある。
- 鼠が樹上に巣をかける
漢の成帝建始四年九月、長安城の南に鼠がおり、稲麦の茎と柏の葉を銜え、百姓墓地にある柏の木と楡の木に登り巣を作った。桐柏はその地方に多く生えていた。巣の中には赤ちゃん鼠は居らず、あるのは乾いた鼠のフンだけであった。当時の議論では大臣は水害が発生するという認識であった。鼠は小動物を盗み晩に出てきて昼間は隠れていた。今のように昼間に巣穴を離れて木に登ることは卑賎の人物が貴い地位を得る予兆である。桐柏は衛皇后の陵園にあった。それ以降、趙皇后は卑賎の地位から最も尊貴な地位まで上り詰め、衛皇后と同様の位となった。趙皇后は子女には恵まれず害された。二年目に鷹が巣で自ら焚き小鷹を殺したと言う征兆があった。京房の易伝には、「臣下が俸禄を自分のものにし、妾を占有する、その妖兆は鼠が木の上に巣を作ることである。」とあった。
- 木が人状に生える
漢の成帝永始元年二月に、河南郡の街道の脇の臭椿の枝が人頭のようであり、眉毛、目、髯まで揃っていたが髪だけなかった。漢の哀帝建平三年十月に汝南郡西平建遂陽郷の木が地面に倒れ、育った枝は人のような形状であり、身体は青黄色で顔は雪白で髭、頭髪は次第に伸びていき、共に六寸一分にまで長くなった。京房の易伝には、「君王の道徳が衰退し、下の人間が強くなると樹木が成長すると人のようになる。」とある。それ以降、王莽の簒権が起こった。
- 大厩馬に角が生える
漢の成帝綏和二年二月に天子の馬厩で飼っている一頭の馬に角が生え、左耳の前面にあり周囲と長さは共に二寸であった。この時期に王莽が大司馬に任ぜられ皇上を陥れ害する萌芽はここから始まった。
- 僵れた樹が自ら立つ
哀帝建平三年に零陵に地に倒れた木があり、周囲一丈六尺、長さ十丈七尺あった。百姓がその木の根を斬ると九尺以上の長さがあり皆枯れてしまった。三月に、この木がもともとあった場所で自ら立った。京房の《易伝》には、”正を捨て淫を作る、その妖兆は伐った木が自ら繋がることである。妃子皇后が権力を得、木が倒れまた立ち上がり、伐られた枯れ木が新しく重なり長く生きた。”とあり。
- 児が腹中で啼く
漢の哀帝建平四年四月に、山陽郡方与県の女である田無嗇が子供を産んだ。出産の二か月前にその子は母親の腹の中で啼哭し、生まれてきた後に田無嗇はその子を育てず道の脇に埋めてしまった。三日後にある人物がその場所を通り過ぎるとその子供の鳴き声を聞いた。このことがあって母親は子供を掘り起こし以降は育てたという。
- 西王母が書を伝える
漢の哀帝建平四年の夏、京城郡の百姓が郷里の街道上で集まり、帷帳、賭具を設置し歌舞の準備をしていた。西王母を祭祀するという。また文書が伝布しており、「西王母が百姓に告示し、この文章を身に帯びていると死なない。もし私の話を信じなければ門の回転軸の下に行けば白髪がある。」秋になるとこの活動は止まった。
- 長安の児は両頭で生まれる
漢の平帝元始元年六月に、長安のある女性が子供を産んだ。その子は二つの頭と二つの首、顔は互いに対になっており、四本の手足は共に胸にあり全て前を向いていた。臀部には目があり、長さは二寸ほどであった。京房は《易伝》で、「物事を為すときに隔たりや孤立を感じることは豚の背の上に泥を塗るようなもので、この異常な現象は双頭の子供が生まれることである。臣民が互いに善を排斥し、この異常な現象も同様である。人もまた同じであり、馬、牛、羊、鶏、犬、豚の六畜の頭と目が下面について生まれる。」とある。これは上面が無いと言え、政権の変動が起こることを予期しているものである。その異常な現象が出現し、君主に正道を喪失させるために糾弾し、これらの異常な現象もその類である。二つの首は臣下が不一致であり、手が多いことは任用された人物の邪悪を象徴しており、足が少ないことは臣下が官職の能力を身に付けられないこと、或いは君主が下面の人を任用しないことの象徴である。凡そ下部の器官が上部にあることは不敬の象徴で、上部の器官が下部にあることは人を尊重せずに放蕩である象徴である。同類とは異なる様相で生まれてきた者は乱?の象徴である。人が成長した状態で生まれて来ると、それは皇上が迅速に成功する象徴である。生まれてすぐに喋るとそれは皇上が虚言を好む象徴である。これらの異常な現象は君主の事情と重ね合わせて推論できるのである。もし、君主が誤りを正さないと災禍を醸し出されるであろう。
- 三足鳥
漢の章帝元和元年に、代郡高柳県に一羽の鴉が生んだ小鴉には足が三本あり鶏ほどの大きさで紅色、頭の上には角があり、角の長さは一寸ほどであった。
- 北地雨肉
漢の桓帝建和三年秋の七月に、北地郡廉県に肉の雨が降り、その肉は羊の肋骨の肉のようで手程の大きささであった。この時、梁太后が執政し、梁冀が権力を掌握し、太尉李固、杜喬を誅殺し、天下の人々は濡れ衣だと思った。それ以降、梁家は誅滅された。
- 梁冀の妻が怪粧する
漢の桓帝の元嘉年間に、京城の婦女に愁眉、啼粧、堕馬髻、折腰歩、齲歯笑が流行した。愁眉とは眉を画き細く湾曲させることである。啼粧は目の下面に薄く脂の粉末を塗り泣いている様に見せることである。堕馬髻は髻が馬から落ちているように一方に偏っている髪型である。折腰歩とは足で身体を支えずに腰を折ったように歩くことである。齲歯笑とは歯が痛んでいるように笑うことである。これらは大将軍梁冀の妻である孫寿より始まり京城へと広まり全国の皆が真似をした。上天は、「軍隊が前に来て逮捕したので、婦女は憂愁し、顔をしかめ啼哭した。官吏獄卒は押し引き足で蹴り、彼女らの腰の骨を折って髻を傾けさせた。無理矢理笑わせ、再びその様な感情を持たなかった。」とこの様に戒告した。延熹二年には、梁冀の一族は皆誅殺された。
- 牛が鶏を生む
漢の桓帝延熹五年に、臨沅で一頭の牛が一羽の鶏を生んだ。頭が二つあり脚は四本あった。
- 赤厄三七
漢の霊帝は何度も西園で遊び、后宮の宮女を宿の主人にし、霊帝は行商人の服装をして宿を訪れると、宮女は酒菜を並べて宮女と一緒に酒を飲み酒菜を食べることを遊びとした。これは天子が帝位を失うことで、小役人に身を落としたという流言があった。これ以降、天下に大乱があった。古代の書にこのような言葉がある。「赤色厄運三七」三七は二百十一年が経過したことを指し、外戚による簒位(王莽による)があり赤眉の災禍(樊崇の蜂起)があり、簒位の盗賊の福は短く三六の数に限る。飛龍の秀があり祖業がまた興る。また三七が過ぎると黄首の災禍があり、天下には大乱が起こった。
漢の高祖が帝業を成し遂げてから漢の平帝末年に到る二百十年で王莽の簒位があり、皇太后の親戚に因んでいる。十八年後に山東の盗賊の樊崇、刁子たちは人を待ち義を起こし、赤色で眉を染めたので天下は赤眉と称した。この時光武帝が帝位に返り咲き、名を劉秀といった。
漢の霊帝中平元年に、張角が義を起こし、三十六方を設え、信徒は数十万おり皆頭を黄巾で覆っていたので天下は黄巾族と称した。今の同郷の服装はこの時興った。初めは黄巾軍は鄴で蜂起し、真定で会合し百姓たちを欺いて、「蒼天既に死す、黄天まさに立つ。歳は甲子、天下大吉。」と言った。鄴での蜂起は天下の行事の開始であり、真定での聚集では百姓たちは皆張角を向いて跪いて拝み、従いついて行った。荊州、揚州で盛んであった。これにより財産を捨て道路の上から流れ落ち、使者は無数であった。張角は人を待ち二月に義を起こし、その冬の十二月に撃破された。光武帝の中興から黄巾の起義に到るまで二百十年未満であったが天下に大乱が起こった。漢朝の皇位は廃止され、まさに三十七の運数の通りになった。
- 夫婦が相食す
漢の霊帝建寧三年の春、河内地区に夫を食べた妻がおり、河南地区には妻を食べた夫がいた。夫婦は陰陽が交わり、深く厚い感情の人である。これを反するように互いを食べ、陰陽が相互に侵犯しているのでまさに日月の災禍である。
漢の霊帝の死後、天下は大乱し君上に乱があり臣下を殺すという暴虐があり、臣下が君上を殺すという反逆が起こった。武力により互いを殺し合い骨肉は仇敵となり、百姓の災禍は極点に達した。このため、人妖が出現した。遺憾なことは辛いことに会わなかったことで、そのような人物が来てあれこれ取沙汰し、その心情を慮ったのである。
- 寺壁黄人
漢の霊帝熹平二年六月に洛陽の百姓にあるうわさが流れた。それは、虎賁寺の東面の壁の中に黄人がおり、顔立ちや髯、眉毛など清楚であった、数万もの人が見に訪れ、皇宮内の人も皆行った。道路は塞がれ交通は中断した。霊帝中平元年二月に、張角兄弟が冀州で義を起こし、黄天を称した。三十六万を擁し、四面八方の人は呼応した。黄巾軍の将は多く、朝廷の官吏士卒も内応した。以降、彼らは疲れ飢餓に陥り、討伐軍により討伐された。
- 木不曲直
漢の霊帝熹平三年に、右校官署の敷地内に樗の木が二本あり、どちらも高さ四尺ほどであった。その中の一本は短時間内に突然高さ一丈、周の長さが一圍に育ち、胡人の模様となり、頭、目、小鬢、髯、頭髪全て備わっていた。熹平五年十月壬午に皇宮の正殿の側に槐の木があり、周囲は六、七圍あり自ら抜け出て地面の上に立ち、根は上に枝は下にあった。その他、霊帝中平年間に長安城西北六、七里の地方に空木の中に人の顔の模様があり、髪もあった。《洪范》の中に、これは皆木がその本性を失い、災害を為す現象である、とある。
- 洛陽で両頭の児が生まれる
漢の霊帝光和二年に、洛陽上西門の外で一人の女性が子供を産んだ。その子供には頭が二つでそれぞれに肩があり、胸もありお互いに向かい合っていた。母親は不吉だと思い生んですぐに捨ててしまった。これ以降、朝廷は昏乱し、政権は分断し、国君と臣下に区別はなく両頭の人のようであった。その後、董卓は太后を殺した。不孝の罪名被り、天子を放逐廃棄し、その後董卓は殺された。漢朝の建立以来、これを超える災禍は起こっていない。
- 草が人状を作る
漢の霊帝光和七年に、陳留郡の済陽県、長桓県、済陰郡東郡、冤句県、離狐県境内の道端に草が生え、皆人の姿になり、刀剣弓箭を持っていた。牛、馬、龍、蛇、鳥、獣の形状で白や黒など色があり、それらの動物と同じような色であった。羽毛、頭、目、脚、翅など全て備わっていたが相似ではなく、そっくりであった。古くは、「これは草が怪を作ったものである。」とあり、この一年に黄巾軍が義を起こし、漢朝は衰弱していった。
- 嘉会の挽歌
漢朝の頃、京城では宴や婚姻など慶喜事にはいつも魁櫑を用いた。酒を飲み終わった後、続いて挽歌を歌った。魁櫑とは、喪家の哀楽であり、挽歌は棺を引き埋葬した時に唱和する哀歌であった。上天はこの様に告誡して、「国家は瞬く間に困境に陥っており、このような時の歓楽は皆消亡する必要がある。」と言った。漢の霊帝が死亡して以降、京城は毀滅し、どの家にも屍があり、虫は互いに咬み食べ合っていた。魁櫑、挽歌、これはその応験ではないか。
- 京師謡言
漢の霊帝末年に、京城に歌謡が流行し、「侯は侯に非ず、王は王に非ず。千乗万騎北邙に上がる。」とあった。中平六年に到り、史侯劉辯は天子の位に登上し、当時漢の献帝はまだ封爵号は無かった。彼らは中常侍段珪に乗っ取られた。朝廷公卿百官は皆彼らの後面に付き従い、まっすぐに黄河の岸に到ると引き返してきた。
北邙山とは後漢以降の王や侯の墓地でした。
- 鷹が燕巣中に生まれる
魏の文帝黄初元年に、未央宮中に燕の巣の中で小鷹が生まれた。鷹嘴と脚爪は皆紅色であった。魏の明帝青龍年間に、明帝は凌霄閣を修建し、建造を開始した時に鵲が上部に営巣した。明帝はこの件を高堂隆に尋ねると、高堂隆は答えて、「《詩経》には、”鵲が上手く営巣し、斑鳩が往来する。”とあります。今建設中の宮室に鵲がやってきて営巣するということは、宮室未完成となりご自身は住めないことの象征です。」と言った。
- 河に妖馬が出る
魏の斉王嘉平初年に、白馬河に妖馬が出現し、晩に官府牧場の辺りを過ぎて嘶いた。牧場内の馬は皆これと一緒に嘶いた。次の日に妖馬の蹄の跡を見ると斛(古代の穀物を入れる器の名前。古代の体積の単位の意味も)ほどあり数里走って河の中へと戻っていっていた。
- 燕が巨鷇を生む
魏の明帝景初元年に、衛国県の李蓋家に一羽の燕がおり、大変大きな雛鳥を一羽生んだ。大きさは鷹ほどあり、嘴は燕と同じであった。高堂は、「これは魏国の大怪事で、朝廷内部で鷹揚の臣を防がなければならない。」と言った。その後司馬懿が事を起こし、曹爽を誅殺し魏国の政権を掌握した。
- 譙周が柱に書す
蜀后主景耀五年に、皇宮中にある一本の大木が何もしないのに自ら折れた。譙周はこのことに深く感じ憂慮したが、討論の機会が無かったので屋柱上に、「多く巨大であったが、一年で併呑された。具備そして授け、どのようにまた戻ってくるのか?」と書いた。この真意は、曹氏は多く、魏氏は巨大である。人も多く巨大であり天下は当いるされる必要がある。具備、つまり劉備は劉禅に授けたので、どのようにまた国君の人に立つことが出来るのか?蜀国は久しからず滅亡し、都は譙周の話の通りになった。
- 孫権死征
呉の孫権の太元元年八月朔日に大風が吹き江や海中の水が涌き上がりあふれ出した。平地は水で覆われ八尺もの深さがあった。大風は高陵の二千本の木を引っこ抜き、石碑も揺れ動いた。呉郡城の両扇大門は風に吹かれて落とされてしまった。翌年孫権は亡くなった。
- 孫亮草妖
呉の孫亮の五鳳元年六月、交址で稗草が稲に変わった。以前より三苗が滅亡間近に五穀が種に変わった。これは草が妖を為したのである。それ以降、孫亮は帝位を廃除された。
- 大石が自ら立つ
東呉の孫亮五鳳二年五月、陽羨県から離れた山中に大きな石があり、自ら立ち上がった。これは、孫皓が衰退した家業を継承し帝位を復権させた応験であった。
- 陳焦が死んで復活する
東呉の孫休永安四年、安呉県人の陳焦が死亡し、七日後に生き返り墓を出てきた。これは烏程侯孫皓が衰退した家業を継承し、帝位を得る吉兆であった。
- 孫休が服を制する
孫休以降、衣服の形は上衣が長く下衣が短くなった。同時に五、六着の上衣を着、下衣は一、二条同時に着用した。これは恐らく上面は裕福で豪華であり、下面は貧困で質素である。つまり、上面は財産が余っており、下面は財産が不足している征兆である。
出典:古詩文網
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