マナティーの味を調べ、ダーウィンをガラパゴスへと導き、世界中の不思議を探検して科学の発展に貢献した海賊 ウィリアム・ダンピア

Pirate

海賊は古くから世界中で出現し、古くは北欧のヴァイキングや北アフリカ海岸で活動していたイスラム系のバルバリア海賊、アラブ海賊等がいます。一番有名なのは映画パイレーツオブカリビアンでも有名なカリブの海賊でしょう。カリブの海賊は特にバッカニアと呼ばれ、独特の帽子を被り、ラム酒を片手に陽気で残忍なイメージがあります。近年でも、インドネシアのマラッカ海峡やアデン湾、ソマリア近海等に海賊が出没し、よくニュースになっています。

海賊旗として有名な旗は髑髏の下に交差した骨であるクロスボーンをあしらえたジョリーロジャーと呼ばれる旗です。

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バッカニア、賊、略奪者、そして乱暴者。何世紀を通してテレビや小説を通して彼らに貼られ続けてきたレッテルです。しかし、このようなイメージからかけ離れているが、余り光が当たっていない海賊がいます。それは私掠船(しりゃくせん)の海賊達です。私掠船とは、政府から敵国の商船、領土の掠奪を許可されていた公認の海賊船のことでした。敵国の貿易を邪魔して国力を低下させる狙いがありました。

彼らは権力や自国にしがみ付かずに、どこへでも自由に船出し、何をするにも自由、世界中を旅して多くの出来事に関する資料を残しています。また、海賊が残した資料には、彼らが海流や風の乗り方、帆の操作法等、当時の代表的な航海術であった英国軍方式の操船法を取り入れているものが多く見られています。その他にも、海賊の組織や色や作法や食に関する記録も多く残っています。研究者や海の男達に崇められるように、海賊は誰の指図も受けずに気ままに生きるという、歴史上のアウトローの始まりなのです。

比較的海の知識を持っていたことと、様々な未開の地に踏み込んで様々な記録を残していたことから”素人科学者”としても有名であった海賊ですが、その中で特に有名だったのがウィリアム・ダンピアです。

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彼は一般的な海賊と区別するために、海賊ではなく私掠船の船長や水路測量士として言及されます。ダンピアは多くを成し遂げました。彼は海路での世界一周を三回も成し遂げ、オーストラリア大陸を最初に探検したときの船の乗組員の一人でした。彼の手記には、ガラパゴス諸島からインドにかけての様々な場所の動物、植物について書かれており、その冒険は“A New Voyage Round the World”という名前で出版されています。この手記中の有名な内容として、マナティーについての記述があります。マナティーに関して外見や学問的なこと、肉の味についてまでも細かく書かれていました。

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“この生き物は馬ほど大きく、体長10から12フィートくらいだった。口は牛のようで分厚い唇を持っていた。目はひえんどう豆ほどの大きさで、耳は頭の両側にただ小さな穴が開いているだけであった。首は太く短く頭よりも大きく、身体でもっとも太い部分は、二つの大きなヒレがついている肩であった。メスのこれらのヒレの下で子供を抱き授乳した。肩から尻尾にかけての胴体は同じ太さでるが、尻尾に近づくとだんだん細くなっていく。尻尾は平らで幅14インチ、長さ20インチ、厚さ4から5インチであった。しかし、尻尾の先端部分は2インチ以下の厚さであった。肩の二つのヒレを除くと頭から尻尾にかけて丸く滑らかであった。

体重は聞くところによると1200ポンド(約500kg)ほどであるが、これまでに見たどの動物よりも大きい。マナティーは淡水よりも海水を好み、入り江や河口部に生息している。南の海ではあまり見かけず、これは南の海の海岸は一般的に砂浜であることに起因していると推測している。パナマの海岸を除いては、南方の海は波が高く水深も深く海岸付近の土地も高いためマナティーは生息していないと考える。ところが、東インドでは、小さな入り江が多く、大半が低い土地で海岸が豊富にあり、マナティーのエサとなる海草も多くマナティーの生息に適していると思われるが、実際には生息していない。マナティーは海水域と淡水域の両方で見かけるが、遠洋で見ることは決してない。さらに、簡単に出入りできる入り江や川がない場所でもマナティーを見かけることはない。彼らは海中で良く見かける7から8インチで細長い海草の上に住んでおり、この海草が潮や潮流が緩やかである入り江や大きな川の河口部でよく育つのである。

彼らは決して岸に上がってこない上に、浅すぎて泳げないような場所には決して近づかない。彼らの肉は白く、脂肪と赤身が両方あり、どの部位も非常に甘みが強い。(Chapter 3, A Voyage Round the World)”

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ダンピアの手記

彼の手記の記述全て、見たものについて正確に説明されていました。有名な話ですが、かの進化論を執筆したチャールズダーウィンもダンピアの本のガラパゴス諸島に関する内容を読み感銘を受けています。その後、ダーウィンは実際にガラパゴスへ向けて出航しました。ダーウィンのみならず、当時のその他の学者達も多くが影響を受けました。

貿易商人と水夫両方とも、ウィリアム・ダンピアに影響を受けました。その他、アシカをコインの柄として鋳造したり、アボカドやマリファナの効果を文書で最初に報告したのも彼でした。彼の航海記録は後のベンジャミン・フランクリンによるメキシコ湾流の発見につながります。ダンピアは東アジアに関して広範囲に記録した最初のイギリス人でもあります。彼の記録は彼の死後に大変重要視されました。

彼の冒険を通して、ダンピアはそれまでに比べてかなり正確な世界地図を作成しました。地図を作成するときには、地図職人に自分が行った場所の海岸線などについて詳細な指示を与え、客観的な科学者のように、適切なデータがない場合には空白地を無理やり埋めるようなことはしませんでした。

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ダンピアの世界地図

ダニエル・デュフォーのような有名な作家やジョナサン・スウィフトなどもダンピアの地図からヒントを得て、ガリヴァー旅行記などを書きました。デュフォーは著書ロビンソンクルーソーで、登場人物の冒険をダンピアの地図に沿って書きました。

ダンピアは素人科学者を体現した人で、多くの科学と航海術の発展に寄与しました。彼の手記の大体20%が無法者、いわゆる海賊に関して、残りの80%が動物や植物に関して書かれています。

今日抱かれている海賊のイメージ、映画、パイレーツオブカリビアンに出てくる、ブラックパール号の船長、ジャックスパローのような海賊の観念はどこから来ているのでしょうか?

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海賊行為は職業選択の一つでもありました。誰かが掠奪したものを他の人がお金を払ってでも欲しがることによりビジネスとして成立します。この行為を多くの人が受け入れていた時代は、海賊の黄金時代として知られています。しかし、時がたつにつれて、この常識と化した違法行為は次第に社会の規律の中に埋没して行きました。

1950年のロバート・ニュートンの主演した宝島などにより、現在もたれている海賊の習慣、考え方、ファッション等のイメージが定着しました。暴力的な傾向はあったにせよ、今日人々の海賊に関する認識は少々偏っていると思われます。実際の彼らの多くは、冒険者であり歴史家であり、科学者としての側面もあったのです。



出典:deepseanews.com

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