嫦娥:中国神話中の月を生んだ母常羲から生まれ、月の女神になった后羿の妻

嫦娥(じょうが chang2e2 チャンオー)

嫦娥は中国神話中の三皇五帝の一人、帝嚳(帝俊)と常羲(じょうき)の娘で、神話中の大英雄の后羿(こうげい、大羿とも)の妻でした。嫦娥は月の女神でもあり、道教では太陰星君と呼ばれ祀られています。特に中秋節には嫦娥と玉兎を祭り月を見る風習もあります。

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帝俊:天帝でもともとは夔と言う神様な上、太陽と月の父親でもあった帝

紀元前2400年ごろに生まれたとされており、月の象徴でその容貌は大変美しかったと言われています。山海経の大荒経大荒西経には、”女性がおりまさに月を洗っていた。帝俊の妻常羲は十二個の月を生んだので、月を洗い始めた。”と帝嚳と常羲が月を生んだと言う記述があり嫦娥との関連が想像されます。

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山海経を読もう!No,16 大荒経大荒西経編

元々は姮娥(こうが)と呼ばれていましたが、西漢の文帝劉恒の名の漢字が似ていたため忌諱のために嫦娥と改名しました。その後、嫦娥は常娥とも書くようになりましたので、多くの名前が見られています。

言い伝えによると、嫦娥と后羿が一夫一妻制の先駆けであると言われており、後世の人々は彼らを記念して嫦娥奔月の故事を演じるなど民間中で様々な詩歌が流伝しました。神話中では嫦娥が夫である后羿が西王母から頂いた不死の薬を無断で服用し月に行き仙人になり、月にある広寒宮の中に住んでいるといいます。

東漢の前には嫦娥と羿が夫婦の関係であったことを示す文献は見られず、高誘が《淮南子》の注解をした際に嫦娥は后羿の妻であると指摘していることが現在残っている文献で最初に見られる嫦娥と后羿が夫婦関係であったことを示す記述です。




その後、道教の神話中で嫦娥と月神太陰星君が合わさり一人の人物となりました。道教は月を陰の精と為し、月宮黄華素曜元精聖后太陰元君と尊称しています。もしくは、月宮太陰皇君孝道明王と称し、女神像を作っています。このため道教では嫦娥の事を月神や太陰星君とも読んでいます。

史料によれば、常羲は夫の帝嚳との間に男女二人の子供をもうけました。男の子は不善の君となった帝摯で女の子が帝女嫦娥でした。嫦娥の伝説は淮南子に多く書かれており、《淮南子・外八編》には、”羿が西王母に不死の薬を乞い姮娥に託した。逢蒙がこれを盗むために行ったが盗めず、姮娥に危害をくわえようとした。なすすべのない姮娥は不死薬を飲み昇天した。嫦娥は羿にはすでに愛想が尽きてたので離れ離れになることに対しては未練はなくそのまま月宮に留まったが、広寒宮は余りにも閑散としてたためいること出来ず、呉剛に桂(月にある桂で月桂樹をイメージしますが、月桂樹は西洋産で中国の桂とは別種です。)を伐採させ、玉兎に薬を搗かせ(兎は餅ではなく元々は薬を搗いていました。)飛昇の薬を得んことを欲し人間界へと戻った。”とあります。

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玉兔搗薬:中国神話では月にいる兎はもともとは薬を搗いていたというお話。

《淮南子・外八編》には別の話もあり、”昔、羿が山中で狩りをしていると月桂樹の下で姮娥に会い、遂に月桂を以って証を為し合縁奇縁と成った。”と言う話や、”羿は娥が月へ行ったことを聞き生きる希望を失った。月母はその誠意に感心し、満月の日に羿と娥を月桂の下で会わせた。”とあり、人々の間では密会する意として用いられてきました。《淮南子・覧冥訓》には、”羿は不死の薬を西王母に欲し、姮娥がこれを盗み月へ行ったが月に失望した為に居続けることが出来なかった。”とありますが、高誘この一文に対して”羿は不死の薬を西王母に請い、姮娥はこれを盗み食べ仙を得て月へ行き月精を為した。”と注解しています。

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淮南子:不思議な生き物についても書かれている西漢時代の思想書

嫦娥の様々な伝説

嫦娥の嫦娥奔月伝説には様々な異なるストーリーがありその内容は様々です。

  • 切羽詰まって不死薬を服用した

后羿が九個の太陽を射落とした後、百姓たちの尊敬を集め、多くの志士たちが弟子入りを希望しました。この中には邪な心を持った逢蒙もいました。后羿は西王母から不死薬を与えられ、嫦娥に保管させていました。逢蒙は后羿が外出しているときに嫦娥へ詰め寄り不死薬を出すよう脅しましたが、嫦娥はこれを飲んでしまいました。するとすぐに体は浮き上がり月へ飛んでいき仙になりました。

后羿が家に帰り妻がいないことを尋ね、先ほど起こった出来事の詳細を知ると天を仰いで何度も嫦娥の名を叫びました。その叫び声は天を震わせ、静かだった月の上に嫦娥の影が現れました。后羿は急いで彼女が好きだった密や果物を香案に載せて月宮の嫦娥に捧げました。

百姓たちもこのことを聞き、月が出ると香案を設置して嫦娥を祀るようになりました。その後、月母は羿の真心に心を動かされ満月の日にのみ月桂樹の下で嫦娥と会うことを許したと言います。中秋節で月にお供えをする風習はこの故事に由来していると言われています。

  • 夫との確執から自分から不死薬を飲んだ

后羿は太陽を射て様々な悪獣達を退治した後に英雄となりました。しかし、慢心してしまったため嫦娥の心は羿から離れてしまいました。嫦娥は羿は西王母から不死の薬をもらったことを知り、仙になりたいと切望しました。ある日、羿の隙を見て不死薬を盗み飲んだ後に月宮へ飛んでいきました。

  • 困っている民を救うため

后羿は古代の窮国の国王で並ぶものないほどの力を誇り、武勇に優れていましたが性格は暴力的で民衆に苛政を強いていました。后羿は不老長寿を望み仙になると言う霊薬を得ようと王母娘娘(西王母の別名)の所へ行きました。美しく善良な妻の嫦娥がこのことを知り百姓が后羿の暴政にあえぐ期間が長くなることを憂い仙薬を盗み自ら飲んで仙女になり月宮へ向かい月神になりました。

  • 后羿の不忠による

屈原は《天問》中で、”后羿が太陽を射落として英雄となった後、嫦娥に対して不忠となる河伯の妻との不貞行為を行った。嫦娥は激怒して后羿と別れた後に天上へと去った。”と書いています。この説は西遊記で採用されており、作品中で天蓬元帥(猪八戒)と嫦娥の関係が描かれています。

  • 嫦娥伝説に出てくるヒキガエル

漢代には人々は月に玉兎とヒキガエルがいること考えていましたが、どこから来たのかわかりませんでした。そこで嫦娥がヒキガエルに変わってしまったのだと考えるようになりました。嫦娥が不死薬を飲んだと言う故事は戦国晩期の卜占書である《帰蔵》中に見られ、漢代になると民間に流布されました。西漢の淮南王劉安の淮南子及び東漢天文家の張衝の《霊憲》中では嫦娥奔月の故事はすでに起承転結のある内容で書かれていました。

後世に創作された嫦娥の伝説

  • 伏牛山伝説

この伝説では、嫦娥が月に行く前にある神人が嫦娥が飼っていた黒牛を連れて天宮へ行くと、王母娘娘は耕すために桃園に行かせました。ある時、嫦娥が天宮へ行き土地を耕すために黒牛を借りようとすると王母娘娘は拒否しました。そこで黒牛はひっそりと嫦娥について月宮へ行きました。王母娘娘はこれを知ると激怒して黒牛を東海へ落とし罰を受けさせました。善良な嫦娥はヒキガエルを遣わして黒牛を海から救い出そうとしました。王母娘娘は黒牛を捕らえるために天将を派遣しましたが、黒牛は地の穴に落とされ凶悪な天将により穴の中で封死させられました。すると黒牛は巨大な神牛に変わりました。しかし、穴の中から出ようとしても大地を隆起させるだけで出れませんでした。これより八百里に渡り大地が隆起し伏牛山となったと言います。

  • 五易九馬図

灕江(りこう)の近くにある九馬画山は本来九峰山と言い、上面にある九馬図は当地の伝説では嫦娥が画いたものであると言います。

伝説では木龍が斬られた後、灕江は以前のような平穏な気候で無くなり行きかう船は困難を極めていました。灕江を風の日も雨の日も終日通り過ぎる船を見て嫦娥は同情を禁じ得ませんでした。




船で生計を立てる人々を喜ばせるために、船頭の頼みに応じて嫦娥は九峰山を半分に切り、一方を灕江に留め、もう一方を巨霊神に背負ってもらい桂林の東へと移動させました。また、嫦娥は一群の白鳥を招来し、最も大きい白鳥が嫦娥を背負い牡丹聖手を画き、その他の白鳥は様々な色をくわえて画師に従い上下左右に飛び回りました。完成した後、船工達はその画を見て上手いが精彩を欠いていると感じました。嫦娥は広袖を一振りし、画に手をくわえに行きました。幾度にも渡る改修でも船工達は満足しませんでした。

嫦娥はどうすればよいか途方に暮れていた時に弼馬温に任官されていた孫大聖がこのことを知りすぐに九匹の天馬と共に嫦娥の元へ駆けつけました。嫦娥は非常に心強く思い七彩を使い筆を縦横無尽に走らせ《九馬図》を画き上げました。船工達がこの絵を見るとその出来栄えを拍手喝采して称えました。この出来事以降、九峰山は当地の人々から九馬画山と呼ばれるようになりました。

弼馬温とは避馬瘟の諧音、つまり同じ発音の漢字に置き換えた名称で中国語では弼馬温も避馬瘟同じ読み方(bi4ma3wen1)です。弼馬温とは馬小屋に馬の疫病を避ける目的で飼っていた猿の事であり、時代とともに官職名ともなりました。孫大聖とは西遊記の孫悟空の事で、孫悟空は天界で天馬の番をする弼馬温という官職についていました。斉天大聖と言われた孫悟空にとっては馬を疫病から守る猿扱いにされたので屈辱的な出来事です。

  • 桂林と離江

伝説では嫦娥はこっそり下界を見た時、水もなくその枯れ果てた荒野で百姓たちが苦しんでいる姿を目にし同情を禁じ得ませんでした。嫦娥は月宮から桂花樹を取ってきて仙袖を一振りして植えると桂花がみるみる育ち桂の林が出来たと言います。このことから”桂林”の地名が生まれたと言います。

嫦娥は五彩祥雲に乗り北方の山々へ行きました。そして群山に向かって仙気を吹きかけると山が見る見るうちに変形して壮健な駿馬に変わり嫦娥と共に南方へと去りました。嫦娥はこの馬を石山に変えその石馬も嫦娥の心意を汲み高くて壮大な青山へと変わりました。しかしその山には水が無く、生き物も少なく嫦娥は観音に水を求めました。観音は嫦娥に山中に一条の河道を作らせ浄瓶に入った水を注ぐ様に言いました。そして菩薩は嫦娥に五更(古い時間の尺度)の内に浄瓶を返さなければ蛙宮に閉じ込められるであろうと言いました。

嫦娥は月宮へ戻り花鋤を取って予定に沿って鋤で山を切り開きました。山の反対側まで到ると眼前の光景を目の当たりにして悩みました。もしここで河を作るのをやめると南面の土地は永遠に干上がったままになることに気が付いたのです。天鶏が鳴き嫦娥の堂々巡りになってしまっていた考えを止めると、嫦娥は観音菩薩の懲罰の危険を冒しても今でいう梧州の方まで切り開きました。

嫦娥は河道を作っている時に、太陽はすでに東山に上っており嫦娥は慌てて浄瓶水を河道へと注ぎました。清流はゆっくりと南方へと流れていきました。しかし、観音の浄瓶はこの時刻で法力が切れてしまい、興安から流れ出た水は闘鶏潭まで到った後、動かなくなってしまいました。これより浄瓶は石山となりこの山が現在の浄瓶山です。

観音菩薩はこのことに激怒して嫦娥を天に戻しました。当地の百姓と嫦娥が別れる時、その泣き声は百里に渡り涙は江河を満たしたと言います。この時の別れを忘れないためにもこの河は離江と名付けられました。後世の人々は水の意味を持たせるために漢字にさんずいを付け加えて”灕江”としたと言います。

  • 嫦娥と明珠

春秋戦国時代の越の国に西施と言う美女がいました。越王の勾践が呉の弱体化を狙って呉王夫差の元に送り込んだのが西施でした。その後、夫差は政治を顧みなくなり呉は弱体化しやがて越により滅ぼされました。伝説ではこの西施はもともとは嫦娥が手に持っている明珠であり、嫦娥が玉帝の命を受け長期間の戦乱にあえぐ呉越の民を苦しみから救うために明珠から西施へと変わったといいます。

嫦娥は光輝く大きな美しい明珠を持っておりよく手に握っていました。普段は盗難や紛失を恐れて五彩の金鶏に命じて守らせていました。しかし、金鶏はその明珠に触れてみたいという欲望を持っており、嫦娥の隙を見て明珠を口の中にくわえて月宮の裏に隠れて明珠を上に下に投げて遊びました。しかし、不注意で明珠は月宮から人間の元へ落ちてしまいました。金鶏は青ざめ罰を受けることから逃れるために明珠を追いかけて人間界へと飛んで行きました。

嫦娥はこのことを知り玉兎に命じて金鶏を追いかけさせました。玉兎は九天雲彩を身にまとい浦陽江付近へと降りていきました。その日、山下に施と言う聖の農家の妻が浦陽江で洗濯をしていました。すると水中に光彩を放つ明珠を見つけ手を伸ばして触れようとすると明珠は飛びあがりそのまま彼女の口の中へと入っていきました。これ以降、施妻は身ごもってしまいました。

十六か月が過ぎて、施妻は腹痛が耐え難く分娩が出来ませんでした。夫は地に跪き天に祈りました。するとある日五彩の金鶏が天から舞い降りてきて屋根の上に止まると屋内は珠光で満たされました。この時、赤ちゃんの泣き声が屋内から聞こえ、施妻は一人の美しい女の子を生み名を西施としました。

西施が成長し呉越の争いが終わった後に明珠に戻りましたがそのまま人間界へと留まり続け民百姓の健康長寿を見守ったと言います。

出典:baidu

今回は嫦娥のお話でした。日本人にとっては月と言えば兎ですが、中国では兎よりも嫦娥が主に語られており、様々な話のバリエーションが生み出されています。中秋節の月見と言えば嫦娥なのです。嫦娥は基本的に善として描かれており、弱者を助ける存在です。人々が月に願ってきた思いが嫦娥の物語を通して形となったのだと思います。

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