天馬:古代の山中に住む怪物であり汗血馬の美称でもある天馬

天馬(てんま tianma ティエンマー)

中国の天馬とは一般的に駿馬の事を指しており、角はなく翼もありませんでした。そのため一般的に考えられている翼のある馬の天馬と言う名称と実像とは一致していません。これは、絵を描く際に馬は絵の下の方に雲などと一緒に描かれる場合が多く、天馬が雲の向こうへ跳んでいることを体現していることに由来しています。

しかし、駿馬の事だけを指すかと言うとそうでもなく、時代とともにその意味を変えて行っていることも特徴です。天馬自体は天の馬という単純な名称ですので様々な異なる語源があることも容易に想像できます。山海経中にも天馬の記載が見られており、こちらは怪物として描かれています。このため天馬は様々な名称に用いられており、以下のように五種の用法があります。




1. 駿馬の美称

《史記・大宛列伝》や《咏懐》などに記載されておりますが、駿馬の美称として天馬が用いられています。馬自体は北方産が有名で大宛汗血馬などが有名です。

2. 伝説中の獣名

山海経・北山経には、”さらに東北へ二百里に馬成山があり、山頂には文石が多くあり、山北陰面には金玉が多くあった。野獣がおりその形状は白犬で黒い頭部があり人を見ると飛んでいき、その名を天馬と言う。”とあります。名前に馬とありますが見た目は白犬と言う一風変わった野獣です。

3. 神馬

《雲笈七籤》巻八四には、”天馬が忽然と枕元へ迎えに来た。”とあり、神の使いの馬として書かれています。天から来た馬ですので神馬の意味として使用されています。

4. 星の名前

西方七星中の奎宿に属しています。《晋書・天文志上》には王良五星の中の一つを天馬と言うと記されています。

5. 蟷螂の別名

天馬は意外にも蟷螂則ちカマキリの別名としても用いられています。《呂氏春秋・仲夏》には、”仲夏の月に蟷蜋が生まれた。”とあり、漢代の高誘は、”蟷蜋は天馬とも言う。”と注釈をくわえています。その他の書物にもカマキリの首が長く素早い身のこなしで馬のようであるとも記載されており、カマキリが馬を連想させる内容が見られます。

  • 天馬の神話

馬成山の上に白い犬のような獣がおり、頭の上の毛は黒色で、背中には羽が生えていました、人を見ると天に飛び立ったので人々はその獣を天馬と呼びました。別の伝説によると、遥か西方の白民国にいると言う”乗黄”という動物の事を指しているのではないかとも言われています。

白民国と乗黄は山海経の海外西経に記載が見られ、”白民国は龍魚の北面にあり、そこに住む人々は皆白い皮膚で頭髪は乱れて垂れ下がっていた。乗黄と呼ばれる野獣がおり、その形状は一般的な狐のようで、背面には角があった。乗黄に乗る事が出来たら二千年の長寿が得られると言われていた。”とあります。この山海経に記載されている乗黄が後世に解釈を変えた結果、麒麟に似ているとも、馬に似ていてその背には龍のような一対の翼があると言われるようになりました。この姿から天馬が連想されます。

山海経・海外西経に関しては以下をご覧ください!

山海経を読もう!No,7 海外経海外西経編

天馬は人格化もしくは神格化された馬で、兵馬俑の馬俑(馬の土像)には眼を閉じていたり、ひそひそ話をしていたり、大笑いをしていたり、時には激怒してるなど様々な表情が見られています。実際の馬にはこのような表情は見られませんが、馬俑に見られるこの喜びなどの表情により、天馬は”大楽馬”とも言われています。

  • 歴史的に見る天馬

天馬の画は古くは漢代に見られ、この時代には一頭の虎が妖怪の脚に咬みついている画があります。妖怪は両腕を上げて恐怖に慌てふためいており、その傍らには一頭の羽の生えた天馬が走り回っています。




西漢時代には北方の遊牧民族であった匈奴との戦いのため漢朝は馬の訓練を重要視していました。加えて馬の飼育にも力を入れており、官はもちろん百姓たちも馬を馬を飼っていました。西漢景帝の時には都は甘粛にあり、陕西一帯には三十六の養馬場が設置され、三十万頭もの馬が飼育されていたと言います。漢の武帝は馬を非常に愛した皇帝として有名で武帝は西域烏孫国の良馬を得たときに非常に感激しこの馬に”天馬”の美称を与えたと言います。

  • 汗血馬について

昔の大宛国には汗血という馬がおり有名であった烏孫国の馬よりもさらに良質な馬だったと言います。一日に千里を駆け流す汗は紅色であったため汗血馬と呼ばれました。伝説ではこの汗血馬は昔は天馬であり後に人間界におりて駿馬になったと言います。

漢の武ては汗血馬を得るために惜しみなく金を使いました。武帝は金銀財宝を持たせて大宛国まで買いに行かせましたが大宛国王は馬を売ろうとしませんでした。さらにあり得ないことに漢の使者を殺して金銀財宝を奪い取ってしまったのです。

武帝はすぐさま行動を起こし、李広利を玉門関から進軍させました。李広利は山を越え広大な砂漠を越えて一万里を行軍し最終的には大宛国から三千以上の良馬を持ち帰りました。大宛国の馬は烏孫馬よりも大きくて壮健であったため武帝は烏孫馬よりもさらに各上の”西極”と名付け”天馬”の名を汗血馬に桂冠しました。並びに西極天馬歌の詩を読み西域から駿馬が到着したことを祝いました。この出来事により汗血馬は天馬と例えられるようになりました。

出典:baidu

汗血馬は三国志の呂布や関羽の愛馬であった赤兎馬がそうではなかったかと言われています。三国志は漢王朝が腐敗したために発生した戦乱の話です。漢の武帝の時代にはすでに汗血馬が三十万頭飼育されていたので、三国志の時代には汗血馬が一般的に用いられていたと思われます。




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